太田述正コラム#9731(2018.3.29)
<岸・安倍家三代の凋落記(その2)>(2018.7.13公開)

3 安倍晋太郎の悲喜劇

 (1)安倍寛(1894~1946年)のこと

 今頃になって、「安倍晋三について」シリーズ(コラム#1416、1417、1423)を書いていることに気付いたところ、当時、安倍晋三の父方の祖父である、安倍寛についても触れているけれど、別の観点から、寛について、振り返っておきましょう。
 寛の「安倍家は江戸時代に・・・長門国大津郡日置村<で>・・・大庄屋を務め、酒と醤油の醸造を営む大地主であり、地元の名門として知られた豪家」です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%80%8D%E6%85%8E%E5%A4%AA%E9%83%8E
 そして、彼は、「金沢の旧制第四高等学校を経て、1921年(大正10年)に東京帝国大学法学部政治学科を卒業<し、>東京で自転車製造会社を経営していたが、1923年(大正12年)の関東大震災で工場が壊滅し、会社は倒産してしま<い、しばらく経って、>・・・結婚し長男晋太郎を儲けるが、直後に離婚し以降は独身で暮らした。その後、「金権腐敗打破」を叫んで1928年(昭和3年)の[普通選挙法による初の]総選挙に立憲政友会公認で立候補するも落選し<、>1933年(昭和8年)に日置村村長に就任し・・・その後、山口県議会議員兼務などを経て、1937年(昭和12年)の総選挙にて無所属で立候補し、衆議院議員に初当選した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%80%8D%E5%AF%9B ※
https://kotobank.jp/word/%E5%AE%89%E5%80%8D+%E5%AF%9B-1674926 ([]内)
という人物です。
 ここで押さえるべきは、寛の当時、合わせれば、旧制高校から全員入学できる枠があった帝大群中、相対的には最難関であった東大でさえ、法学部の場合、入試は英語だけであり、受験倍率は2倍に過ぎませんでした
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A7%E5%88%B6%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1
し、旧制高校に進学した者は、寛がそうであったように、裕福な家庭出身者が大部分であった(典拠省略)ことから、寛が東大法に進学したことは、・・当時は学生定員も少なかったでしょうが、進学適齢人口も少なかった上、非裕福家庭出身者達、更には女性達が競争相手から除かれていたことを想起しましょう・・大幅に割り引いて評価されなければならない、という点です。
 これに加え、寛が、(後に政治家を志すことを考えればなおさらですが、)官吏や法曹や財閥社員を目指すのが自然なのに、リスクの大きいベンチャー実業家・・現に震災によるとはいえ、倒産の憂き目に遭うことになります・・となり、しかも、当時においても、必ずしも最先端とは思えない自転車製造業に携わったことは、彼の法学部時代の成績が、落第スレスレの低空飛行であったことを推察させるものです。
 恐らくは、(四高ないし)東大法の同期生達の上澄み連中と寛クラスとでは、知的能力において、最近私が口を酸っぱくして繰り返しているところの、「コミュニケーション」がかろうじて成立しうるくらいの懸隔があった、と想像されます。(a)
 後に、寛が、政治家として掲げた政策・・金権腐敗打破や反戦(※参照)・・は、優等生選良達が牛耳る政官界に対する彼の近親憎悪的怨念の産物である可能性が高い、と私は・・穿ち過ぎていると叱られそうですが・・見ているのです。(b)
 (a)は、寛在籍当時とは、日本における同世代人口(ほぼ史上最大)も法学部学生定員(戦前よりも、また、現在よりも多かった)も異なる(このあたり、典拠省略)けれど、私自身の東大法在籍当時の体験を踏まえていますし、(b)は、私の役人時代の経験を踏まえています。
 後者については、他省庁の役人と、重大な省益を背負って交渉する等の際、(記憶力と計数感覚とディベート能力で負けて)論破された場合、たまに、そういう感情が沸き起こったことがありますが、私の場合、その他の知的諸能力・・それらが何であるかは想像してください・・では誰にも負けない、いう変な自信があったおかげで、その感情が怨念化するのを抑制することができたのですが・・。

(続く)