太田述正コラム#9739(2018.4.2)
<岸・安倍家三代の凋落記(その6)>(2018.7.17公開)
父母の愛情が欠乏した状態で育ち、社会に出てから間もなく天涯孤独となった晋太郎の心の闇の深さを示唆しているのが、彼の統一教会との関わりの濃密さです。↓
「義父・岸信介は「国際勝共連合」・「統一教会」(世界基督教統一神霊協会)<(注7)>と友好的な協力関係を持っていたが、晋太郎も同じく、関連が深いとの見方がたびたび取り沙汰されていた。
(注7)世界平和統一家庭連合。「文鮮明(1920年- 2012年)によって、1954年に韓国で創設された。旧名称は、世界基督教統一神霊協会・・・である。・・・
合同結婚式」(信者は「祝福」と呼ぶ)で家庭を持った日本人の信者数は、1万組をはるかに超えている。2000年代に入り国際結婚が急増しており、韓国人男性と結婚し韓国で暮らす日本人女性信者も7千人ほどいる。・・・
<また、>教団は共産主義革命の防止を主たる目的とし、1968年に韓国と日本で「国際勝共連合」(通称「勝共連合」)という政治団体を組織した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%B9%B3%E5%92%8C%E7%B5%B1%E4%B8%80%E5%AE%B6%E5%BA%AD%E9%80%A3%E5%90%88
「自民党内部の統一教会シンパとしてさかんに議員に統一教会員を秘書として紹介し、セミナーへの勧誘をしていた」と言われており、1999年には『週刊現代』が統一教会と国会議員の繋がりを暴いた記事で「安倍晋太郎氏がセミナー等への勧誘を行っていた[と鴻池祥肇参院議員が証言した]」と報じた(参考:スクープ! 公安の極秘資料入手現職国会議員128人の「勝共連合・統一教会」関係度リスト(週刊現代, 99年2月27日号) 阿修羅掲示板より記事原文画像)。事実、統一教会は晋太郎を総理大臣にするべく応援してきており、当時、竹下を後継指名した中曽根を強く非難していた。
2006年には、息子の晋三(当時は官房長官)が「統一教会」の関連団体天宙平和連合のイベントに祝電を寄せたことが報道され、岸信介、安倍晋太郎の代からの深い関係があるのではと見られ波紋を呼んだ。この件に関し晋三は、「秘書が行った行為で、誤解を招く行為であった」という旨のコメントをした。・・・
統一教会系集会に祝電<を打った>「担当者<を>注意<した、>」と安倍<晋三官房>長官<語る。>・・・
「統一教会」の教祖、文鮮明は「日本の今度の選挙だけでも、私たちが推してあげたのが百八議席当選した。」、「派閥で見れば、中曽根派は六十二議席にもなって、安倍派は八十三議席。私が全部そういうふうに作ってあげた。」と述べている(韓国の『統一教会』機関紙『統一世界』1990年4月号)」
http://www.asyura2.com/07/senkyo36/msg/411.html ([]内)と*
新興宗教では、教祖を含む幹部達が信徒達を多かれ少なかれマインドコントロールしており、彼らの指示通りに、特定の候補者に票を入れたり入れなかったすることが多いので、政治家は、諸新興宗教との関係には神経を使わざるを得ません。(私自身の参院選出馬時の経験による。)
岸の場合には、統一教会との関係は、まさに、そんなものだったと思われるのですが、晋太郎の場合は、完全に一線を超えてしまっており、信者になってしまっていた可能性が極めて大です。
「安倍晋太郎氏が・・・統一教会員を秘書として紹介し<たり(?)、教会系団体による>セミナー等への勧誘を行っていた[と鴻池祥肇参院議員が証言した]」のがその根拠です。
鴻池が議員になったのは、1986年であり・・衆院議員。1993年落選。1995年から参院議員
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B4%BB%E6%B1%A0%E7%A5%A5%E8%82%87
・・ですから、鴻池への働きかけがあったのは、晋太郎が外務大臣を務めあげた(1982~86年)後の「晩年」(1991年死去)(*)ということになり、晋太郎が反共カルトの外国の教団の指令の下で外相を務めていた可能性が極めて大である、ということには慄然たる思いを禁じ得ません。
なお、当時、既に、統一教会は、霊感商法の「最大手」として、社会問題化しつつあった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%8A%E6%84%9F%E5%95%86%E6%B3%95
ことを付け加えておきましょう。
幸い、晋三は、岸時代の統一教会との関係に戻しているようですが、想像するに、晋太郎の妻の洋子は、父親の岸(~1987年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%B8%E4%BF%A1%E4%BB%8B 前掲
の指導があったのか、信者にはならなかった上、息子の晋三にも(父と二人で)信者にならないよう厳命し、何とか説得できた、ということではないでしょうか。
(続く)