太田述正コラム#9751(2018.4.8)
<眞壁仁『徳川後期の学問と政治』を読む(その31)>(2018.7.23公開)

 「レザノフへの対応<(注65)>に至るまでの政策形成過程を、・・・辿ってみるならば、林家と昌平坂学問所の儒者たちが、(1)対処方針の提言から(2)対応策・(3)蝦夷地・ロシア間の交渉事例調査・(4)交渉方法案・返答素案作成にまで関与していたことが明らかとなる。

 (注65)「1792年に、日本人漂流民の大黒屋光太夫一行を返還する目的で・・・アダム・ラクスマン<が>・・・通商を求め<、>・・・日本の江戸幕府老中職の松平定信との間に国交樹立の約束が交わされていたが、レザノフはこの履行を求め・・・1804年(文化元年)9月に長崎の出島に来航する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%AC%E3%82%B6%E3%83%8E%E3%83%95

 とりわけ・・・最初期の上書<(注66)>と推定される林述齋と柴野栗山による(1)ロシア使節要求への対応方針の提言(文化元年10月)は、結果的に・・・幕府の意思決定の方向づけに影響力をもったと考えられる。・・・

 (注66)「元来は中国において、天子に文書をたてまつることを指し、臣下が政治・社会問題を提言するための書式として用いられた。・・・(なお、指揮系統に属さない者に対しては「申請」が使用される)。
 江戸時代の日本においては、主君・領主の諮問に応える形での上書が行われた(これに拠らない上書も行われたが、直訴と混同されるおそれがあった)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9B%B8

 <(1)を提出後、>述齋は、・・・「世上の取沙汰」を耳にし、先の上書ではラクスマン来航時の対応を「照合」もせずに提言したので、一貫性を欠くその時限りの政策をロシアに糺されては「國体を失」うという「不安」に駆られた。
 林家や学問所儒者には、この時点においても前回のラクスマンへの応対が如何なるものであったのか知らされていなかったようである。
 すなわち、「世上の取沙汰」ではロシアから「進上物」を「受領」し、さらに日本からも「御返物」を贈呈したということであるが、その「虚実之程も難斗」いと述齋は云う。
 それゆえ「内々ニ」学問所儒者の尾藤二洲と古賀精里とも協議したところ「右両人申候所尤之義二も有之」。栗山にも口頭で説明して「同意之旨申決」し、その結果を改めて上書するに至った。・・・

⇒幕閣から林述齋に諮問があったのは事実なのでしょうが、ラックスマンの時の対露対応に関する情報を何も与えずに諮問したということは、本来、諮問する相手ではないけれど、出身家格が高い述齋の顔を立てて、・・彼の部下達の儒者達を交渉に当たって礼式や漢語翻訳で使うこともあり、・・彼に諮問した形をとった、ということでしょう。
 この時点では、行政官僚たる述齋自身を交渉の日本側首席として使う、といったことは、幕閣は考えていなかったのでしょうね。
 ただ、それにしても、述齋が、最初の上書を、前回の対露対応に関する情報を確かめることなく作成、提出した無責任ぶりは、一体、どういうことなのでしょうか。
 万一、咎められた時のために、保険の意味で、柴野栗山を共同執筆者に加えておいた、という意地の悪い見方もできそうですが・・。(太田)
 
 前二つの上書と同じ10月に・・・<述齋は、>・・・柴野彦助<(注67)と>・・・ウルップ島の帰属をめぐる国境画定「御國界目之義」について交渉するかどうか「評議」を行うよう、連署で閣老に申し入れている。・・・

 (注67)柴野栗山の俗称。
http://tois.nichibun.ac.jp/hsis/heian-jinbutsushi/jinbutsu/5243/info.html

 しかし、この件は、おそらく評議の過程で却下され、じっさいの教諭書にも、次に述べる返答素案にも、その内容は盛られていない。」(160、163、165~155)

⇒最初の二つの上書のできが悪かったので、汚名を挽回すべく、「「紫野彦助」が、まとめた・・・蝦夷地とロシアとの間の交渉、特にウルップ島での紛争(注58)を中心とする事例を調査し、箇条書にした・・・「覚」・・・に基づいて」(165)取りまとめられた上書を、述齋は、追加的に急いで提出する気になったのでしょうが、もともと、形の上で諮問しただけのつもりだった幕閣は、当然、これも無視した、ということでしょうね。(太田)

 (注68)ウルップ島(得撫島)。「1766年 – ロシア人イワン・チョールヌイ・・・がカムチャツカ半島から南下し、毛皮目的のラッコの捕獲などを開始。以後、日露両国の活動が交錯する。1772年 – 千島アイヌとロシア人が衝突し、ロシア人が島から退去。しかし、その後もロシア人の活動は続く。1786年(天明6年) – 最上徳内が幕吏として初の本格的な調査を実施。1791年(寛政3年) – 最上徳内が択捉島と得撫島を探検。1801年(享和元年) – 富山元十郎・深山宇平太が日本領であることを示す「天長地久大日本属島」の柱を建てる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%97%E6%92%AB%E5%B3%B6

(続く)