太田述正コラム#9765(2018.4.15)
<眞壁仁『徳川後期の学問と政治』を読む(その38)>(2018.7.30公開)

 「●庵の時代には、・・・「陸王ノ學<(注80)>」は、学問所儒者となる佐藤一齋も私的に講じるところであったし、またその額と大鹽平八郎<(注81)>(中齋、1793~1837)を中心とする大鹽事件<(注82)>が、天保8(1837)年2月の浪華に起きている。・・・」(246)

 (注80)「南宋の陸九淵(象山(しょうざん))は「心即理」を説き、明代の王守仁(陽明)はこれを「心学」とよび、朱子の「理学」と対抗した。人間の本来の「心」を明らかにして聖人となろうとするので、朱子学に対して陸王学と称する。ただし陸象山は「心は理を備えている」と主張するのに対し、王陽明は「心が理をつくりだす」と主張している。この相違から、陽明は「致良知」という新しい思想を生み出した。」
https://kotobank.jp/word/%E9%99%B8%E7%8E%8B%E5%AD%A6-148490
 「王守仁(陽明)の良知心学は,いっさいの教学の枠をこえるから,師説の受容とて各自の良知の判断にゆだねられる。だから,もともと一定不可変の内容を共有するものとしての〈学派〉とはなじまない。」
https://kotobank.jp/word/%E8%89%AF%E7%9F%A5%E5%BF%83%E5%AD%A6-1437429
 (注81)「大塩家は代々、大坂東町奉行組与力<だったが、平八郎は>・・・陽明学をほぼ独学で学び、・・・隠居後は学業に専念し、与力在任時に自宅に開いていた私塾・洗心洞で子弟を指導した。江戸の陽明学者・佐藤一斎とは面会したことはないが、頻繁に書簡を交わした。・・・
 <彼の>著作<は、>・・・いずれも乱の直後に大坂町奉行所によって禁書とされ、売買を固く禁じられた<が、吉田松陰も西郷隆盛も、彼の代表作の『洗心洞箚記』を読んでいる。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%A1%A9%E5%B9%B3%E5%85%AB%E9%83%8E
 (注82)「前年の天保7年(1836年)までの天保の大飢饉により、各地で百姓一揆が多発していた。大坂でも米不足が起こり、・・・大塩平八郎(この頃は養子の格之助に家督を譲って隠居していた)は、奉行所に対して民衆の救援を提言したが拒否され、仕方なく自らの蔵書・・・を全て売却<、>・・・、得た資金を持って救済に当たっていた。・・・
 そのような世情であるにもかかわらず、大坂町奉行の跡部良弼(老中水野忠邦の実弟)は大坂の窮状を省みず、豪商の北風家から購入した米を新将軍徳川家慶就任の儀式のため江戸へ廻送していた。・・・
 <しかし、>決起直前になって内通離反者が出てしまい・・・大塩の挙兵は半日で鎮圧され失敗に終わった・・・<ものの、>大塩の発した檄文は幕府に反感を持つ庶民の手で、取締りをかいくぐって筆写により全国に伝えられ、越後国では国学者の生田万が、柏崎の代官所を襲撃する乱(生田万の乱)を起している。さらにその檄文は寺子屋の習字の手本にされたほどだった。・・・
 また、大坂が都に近いということで、2月25日に京都所司代松平信順から光格上皇および仁孝天皇に対して事件の報告が行われ、以後大塩の死亡までたびたび捜索の状況が幕府から朝廷に報告された。一方、朝廷からは諸社に対して豊作祈願の祈祷が命じられ、また朝廷の命により幕府がその費用を捻出している。尊号一件などで大政委任を盾に朝廷に対して強硬な姿勢を示していた幕府が朝廷の命令をそのまま認めたことに、幕末に向かい、幕府の権威が下がり、朝廷の権威が上昇していく兆しと見ることができる。・・・
 大塩が幕閣に送りつけた建議書の中には、文政12年(1829年)から翌年にかけて行われていた、与力弓削新左衛門らを仲介者とした武家無尽に関する告発が書かれていた。武家及びその家臣が無尽に関与することは禁じられていた・・・が、財政難で苦しむ諸藩は自領内や大都市で無尽を行って莫大な利益を得ていた。大塩は大坂で行われていた不法無尽を捜査した際にこの事実を告発したが、無尽を行っていた大名たちの中には幕閣の要人も多くおり、彼らはその証拠を隠蔽して捜査を中断させてしまった。大塩はその隠蔽の事実を追及したのである。大塩が告発した中には、水野忠邦や大久保忠真ら、事件当時の現職老中4名も含まれていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%A1%A9%E5%B9%B3%E5%85%AB%E9%83%8E%E3%81%AE%E4%B9%B1
 当時の無尽については、大塩が関わったものを含め、下掲の説明が詳しい。↓
https://ameblo.jp/yorkshare/entry-11990540079.html

⇒●庵はもちろん、大塩と文通していた佐藤一齋も、そして、松崎慊堂でさえ、それぞれの公表・非公表の著作群の中で、大塩事件について何らかの言及を行った形跡がなく、それどころか、そもそも、内政について論じた形跡すらない(それぞれのウィキペディア)のであって、●庵が、対外政策のような、幕閣にとって優先順位が低い事柄について論じたのは、要は、欲求不満の自慰的軽減を図っただけであったのでは、と冷笑されても致し方ないでしょうね。
 また、このような幕府の腐敗ぶりからして、ペリー来航がなくても、早晩、明治維新的なものが起こっても不思議はなかった、と思います。
 但し、腐敗ぶりが、諸外国の長期王朝や政権に比べれば軽度であったことを示唆しているのが、大塩にして、倒幕そのものを目指さず、騒擾を起こすことと、建議書を送りつけることによって、幕府が改革を行ってくれることに望みを託していた点です。
 なお、「註82」に登場する、光格天皇と老中松平定信との間の紛争であった尊号一件については、異学の禁がらみの紛争、との見方もできる
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8A%E5%8F%B7%E4%B8%80%E4%BB%B6
だけに、眞壁にも、この本のどこかで触れていて欲しかったところです。(太田)

(続く)