太田述正コラム#0620(2005.2.6)
<ブッシュの就任演説(つけたし)(その1)>
1 フランスの先例
フレンチ・インディアン戦争(7年戦争。1756??63年)における英国のフランスに対する勝利は、世界の近現代史の基調を決定した重要な出来事であったことはたびたび申し上げてきた(コラム#100、457、511)ところです。
この戦争の結果、米独立「革命」とフランス革命という二つの革命が生起することになったわけですが、そのどちらにおいても、フレンチ・インディアン戦争の覇者英国の中枢たるイギリスの文明、すなわちアングロサクソン文明、就中その自由主義、の世界への普及が唱えられたことは興味深いものがあります。
米独立革命は、英本国と英領北米植民地との間での、勝利の分け前とコストの分配をめぐっての争いから起こったのに対し、フランス革命は、敗戦のフラストレーションが引き起こしたものです。フランスのアンシャンレジームが敗戦のスケープゴートにされた、ということです。(第一次世界大戦での敗戦後のドイツで起こったことが思い起こされます。)
ところが、英本国とともにフレンチ・インディアン戦争の戦勝者となった英領北米植民地、すなわち後の米国は、独立「革命」後、アングロサクソン文明の世界への普及については、自分の力をわきまえ、基本的に慎重な姿勢で臨んだのに対して、敗れた側のフランスは、フランス革命後、周辺諸国からの革命干渉戦争に対する防衛戦争を始めるにあたって、「自由・平等・博愛」というアングロサクソン的価値を高々とかかげ、防衛戦争が全面的な欧州征服戦争へとなし崩し的に移行した後は、征服した欧州各地にフランス革命後自国に導入したばかりのアングロサクソン的制度を次々に「押しつけ」て行ったのです。
しかし当時のフランスは、フレンチ・インディアン戦争の敗戦国として、植民地を殆ど英国に簒奪された状態であり、人口こそ英国より多かったけれど、産業革命もまだ始まっておらず、経済的には英国と比較するのもおこがましい、一小後進国に過ぎませんでした。そのフランスが英国の敵意の下で、英国の意向に逆らって欧州全域を軍事力で征服し、アングロサクソン的制度を欧州全域に移植しようとしたのですから、そんなとんでもない試みが成功する可能性など、最初から皆無だったのです。
もっとも、その割にはフランスが健闘したことは認めなければなりません。特にナポレオンNapoleon Bonaparte。1869??1821年)がフランスの権力を掌握してからしばらくは、フランスの向かうところ敵なしという観がありました。
それは、ナポレオン時代のフランスには、その他の欧州諸国に比べて抜きん出て優位に立っていた点が二つあったからです。
一つは、フランス革命の結果、「旧」階級を縦断し、全国民を糾合した国民国家(nation state)が(、英国より数百年も遅れたとはいえ、)名実共にフランスに誕生したことです。これは、徴兵することにより、フランス陸軍が従前の感覚からすれば無尽蔵の兵士を確保することが可能になったことを意味しました。特段他の欧州諸国(や英国の)陸軍に比べて軍事技術面や軍事制度面で優れていたわけではなかったフランス陸軍は、天才的な軍事戦略家であり作戦巧者であったナポレオンがこの大兵力を率いることによって、恐るべき威力を発揮したのです。
フランスのもう一つの優位はアングロサクソン的制度を欧州で最初に導入した国として、啓蒙主義が浸透していた欧州諸国にあっては、その進歩的勢力にフランスが仰ぎ見られたことです。ですから、これら諸国をナポレオンが征服しても、反発は必ずしも大きくなかったのです。
1805年にトラファルガー沖海戦でフランス海軍は英国海軍に敗北を喫し、ナポレオンの英国征服の夢は絶たれますが、海軍力のみならず、上述したように経済力において英国にはるかに劣るフランスが英国征服などできるわけがなかったことを考えれば、この海戦での敗北はそれほど驚くべきことではありませんでした。
驚くべきは、その3年後の1808年にスペインで起こったことです。
スペインには啓蒙主義的基盤がなかったため、フランスによるスペインの征服は、単なる征服と受け止められ、血統的正統性に欠けるナポレオンの兄ジョセフ(Joseph Bonaparte。1768??1844年。スペイン王1808??1813年)のスペイン王への1808年6月の「任命」はスペインの人々の間で激しい怒りを呼び起こしたのです。ナポレオンにとっては予想外の成り行きだったに相違ありません。
翌7月、ジョセフはスペインにとっての初めての憲法案を提示します。
この憲法案には、独立した司法・新聞の自由・貴族と教会の封建的特権(注1)の廃止が盛り込まれていました。
(注1)カトリック教会は、スペイン全土で3148箇所の町村を保有しており、欧州中で最も虐げられた賃借人達がそこに居住していた。
しかし、この憲法によって「解放」されるはずであったスペイン民衆は、この憲法の即時実施を要求するどころか、スペインの神父らの教唆の下、ジョセフが導入しようとした「涜神的」改革を排斥する(世界初の)ゲリラ戦争を開始したのです。大部分が文盲であった当時のスペイン民衆は、その憲法案の最初の条項が、カトリック教会がスペイン唯一の公認教会であることを謳っていることなど、知る由もなかったのでした(注2)。
結局、ジョセフはこのゲリラ戦争に手を焼き続け、最終的には、ポルトガル経由でやってきたウェリントン率いる英国軍等に1813年に敗れ、スペインから敗走するのです。
そして後から振り返ってみれば、1808年に始まったスペインでの対仏ゲリラ戦争こそ、ナポレオンが没落に至る最初の大きな躓きだったのです。
(以上、ナポレオンについては、http://dspace.dial.pipex.com/town/terrace/adw03/c-eight/france/defeat.htm及びhttp://college.hmco.com/history/readerscomp/mil/html/ml_036400_napoleonbona.htm(どちらも2月6日アクセス)、スペイン王国・ナポリ王国におけるナポレオンへの抵抗については、http://www.nytimes.com/cfr/international/20050101faessay_v84n1_luttwak.html?pagewanted=print&position=(2月2日アクセス)、http://en.wikipedia.org/wiki/Joseph_Bonaparte及びhttp://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Vitoria(どちらも2月6日アクセス)による。)
(注2)フランスが占領したナポリ王国で、既に1799年に同じようなことが起こっていた。フランスがカトリック教会を否定しようとしている、という、大土地所有者たる協会関係者のデマゴギーにより、ナポリの進歩主義者達は、フランスによって「解放」されるはずであった小作人等の民兵によって虐殺された。
このフランスのスペインにおける失敗が物語っているのは、軍事占領によるアングロサクソン的制度の移植が成功するかどうかは、第一に移植先における民衆の民度や啓蒙思想の普及度、そして第二に軍事占領した国のパワー(軍事力や経済力)の軍事占領に反対する第三国のパワーに対する相対的強さ、いかんにかかっているということです。
ブッシュ米大統領は、建国以来の米国の比較的慎重な姿勢を一変させ、積極的にアングロサクソン的制度の世界の普及に乗り出すことを宣言したわけですが、果たしてそれがフランス革命後のフランスの二の舞にならない保証があるのでしょうか。
(続く)
<友人K>
太田さんのコラムは欠かさず拝読しています。ここで私の意見。
??アングロサクソン的制度の普及に乗り出したのはウィルソン以来のアメリカで、イギリスは世界的には華々しく見えたが当時の世界の中心たるヨーロッパ政治においては辺境だった。価値を外交にしてはいない。アングロサクソン的価値を打ち出したのはウィルソン以来のアメリカである。
??18世紀のフランスは(ドイツが分裂していたため)強すぎて、イギリスはむしろ反フランスに回って辺境たる海外でマージナルな勝ち方をしていた。ビスマルク以降はドイツが強すぎて反ドイツに回った。
??ビスマルク以降はドイツが圧倒的になりすぎ、イギリスもこれへの対応で大童だった。普遍的価値などかけらもない。
私にはアングロサクソン(イギリス)ではなくてアメリカだけが特別だとするキッシンジャー(『外交』)の方が説得力があります。なお、北方4島についても太田さんとは別の見解を持っていますが、これはお会いした時にお話できればと思います。
<太田>
>アングロサクソン的制度の普及に乗り出したのはウィルソン以来のアメリカで、イギリスは世界的には華々しく見えたが当時の世界の中心たるヨーロッパ政治においては辺境だった。価値を外交にしてはいない。アングロサクソン的価値を打ち出したのはウィルソン以来のアメリカである。
私の書き方がまずかったのでしょうか。誤読です。
私が米国とフランスが「アングロサクソン的価値の世界への普及を唱えた」と書いたのは、そんなけったいなことは英国はやろうとしなかった、という意味で皮肉を込めて書いたつもりですので誤解なきよう、お願いします。
また、「価値の普及」には「制度の移植(押しつけ)」も当然含まれるわけで、米国も建国以前からそれを一貫してやっってきました。例えば、「まつろわぬ」インディアンを討伐し、居留地に押し込めたり、プエルトリコやフィリピンをスペインから奪って植民地にして米国の制度を押しつけたりしてきました。
なお、ご指摘のウィルソンがやったのは「価値」の普及までで、世界に「制度」の移植のごり押しを行う前に、米国内から反対の声が起こり、果たせていません。
いずれにせよ、私としては、「米国はフランスほど身の丈知らずの乱暴なやり方をしてこなかったが、ブッシュはフランス流かも?」と言いたかったのですが、この部分のKさんの誤読は、私の書き込み不足のせいもあるのでしょうが、Kさんが本シリーズ半ばで先読みをされ過ぎたせいでもあろうかと思います。
>私にはアングロサクソン(イギリス)ではなくてアメリカだけが特別だとするキッシンジャー(『外交』)の方が説得力があります。
>18世紀のフランスは(ドイツが分裂していたため)強すぎて、イギリスはむしろ反フランスに回って辺境たる海外でマージナルな勝ち方をしていた。ビスマルク以降はドイツが強すぎて反ドイツに回った。ビスマルク以降はドイツが圧倒的になりすぎ、イギリスもこれへの対応で大童だった。普遍的価値などかけらもない。
最後の部分については、先ほど述べたことで尽きていますが、ここでKさんがおっしゃっている「英国欧州の国論」・「欧米中の米国特殊視論」・「英国欧州辺境・弱小国論」は、いずれもこれまでの日本での「常識」に近いことは認めます。他方、私はコラムを通じて、それが誤りであることを指摘し続けてきていることはご承知の通りです。
議論は大歓迎ですが、典拠を示して体系的にお願いしたいものです。
>北方4島についても太田さんとは別の見解を持っていますが、これはお会いした時にお話できればと思います。
そうおっしゃらずに、ぜひ早くうけたまわりたいものですね。
<読者>
先日フランス映画『Bon Voyage』
⇒ http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD6142/
を見たら、昔読みかけで投げ出したジャン・ラクーチュールの『ドゴール』が急に読みたくなって、少し読みました。書中将軍が少佐時代《1930年?》近東《カイロ、バグダッド、ダマスカス、アレブ、エルサレム》に六ヶ月の滞在の後に書いた手紙が引用されていました。
『わたしの印象といえば、われわれはほとんどこの土地の中にはいりこんではおらず、この地の人間はわれわれにとって…赤の他人なのだ、ということです。なるほど、われわれは住民に働きかけるためには、この地で最悪の方法を採用したのでした。つまり、この地の人間にみずから起ち上がるように励ましたのです。
—ところが、この地では、ナイルの運河も、パルミールの水道も、一本の立派な道路も、一つのオリーヴ園も、これまで強制なくしては、何一つ実現しなかった。私の意見では、われわれの運命は、何とかしてそこまで達するか、さもなくば此処から出てゆくかです… 』
その後80年後現地の人間性に変化があったのだろうか。フランスがアメリカの近東政策に対して批判的なのは、石油利権もあるだろうが、こうした歴史観の違いもあるのではないでしょうか。
こういった資料を、ブッシュ大統領はともかくライス長官は読んでいると思いますが『何とかしてそこまで達する』自信があるのでしょうか。