太田述正コラム#9795(2018.4.30)
<眞壁仁『徳川後期の学問と政治』を読む(その53)>(2018.8.14公開)
「弘化2<(1845)>年7月4日イギリス船サマラン号<(注121)>による長崎来航と測量と薪水・食糧補給要求を受けて、老中阿部正弘は、学問所御用就任直後の◎渓にまずオランダ国書和解及び老中返書と商館長への諭書の内容を示し、対外政策について諮問した。
(注121)「HMSサマラン(HMS Samarang}は、<英>海軍の28門搭載アソール級(Atholl class)木造(チーク材)フリゲートである。サマランは<英>東インド会社によって、1822年にインド・・・で進水した。・・・アヘン戦争にも参加した。1843年から1846年にかけてエドワード・ベルチャー(Edward Belcher)の指揮下でボルネオや東南アジアの調査を行なっている。この間の1843年には沖縄、1845年には長崎に来航し、天保の薪水給与令に従って薪水の補給を受けている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%9E%E3%83%A9%E3%83%B3_(%E5%B8%86%E8%B5%B0%E3%83%95%E3%83%AA%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%88)
この◎渓へのオランダ国書和解呈示は、前述の弘化3年2月に特別に閲覧し得た徳川齋昭よりも半年早く、また薩摩藩主・・齋興・齋彬・・父子への呈示より約2年も先行している。・・・
⇒これは、薩摩藩の支配下にあった琉球に、英仏船が累次来航していたから(下出)でしょうが、当時、薩摩藩が御三家に準じる存在であるとみなされていたことを示すものでもある、と言えるのかもしれません。
そうだとすれば、将軍家等の外戚として、「高輪下馬将軍<(注122)>と称された」齋興の祖父重豪
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E9%87%8D%E8%B1%AA
の「功績」と言えそうです。(太田)
(注122)「寛文6 (1666) 年大老となり,4代将軍徳川家綱を補佐し,政治の実権を握った・・・酒井忠清・・・は・・・将軍家綱は病弱,前代の遺老が相次いで死去あるいは老衰したので,・・・専権をふるいうる立場となった。彼の役宅が江戸城大手門下馬札前にあったところから〈下馬将軍〉との異名をうけるほど,忠清は権勢をほしいままにし<た。>」
https://kotobank.jp/word/%E4%B8%8B%E9%A6%AC%E5%B0%86%E8%BB%8D-59856
高輪には、薩摩藩の下屋敷があった。ちなみに、上屋敷が三田に、中屋敷が内幸町にああった。
http://sfurrow.warabimochi.net/gensan/hring_genba/satsuma/satsuma.html
弘化3年4月7日と5月11日にフランス船の琉球への再来<(注123)>の報を受けた幕閣は、閏5月22日に三奉行(寺社・町・勘定)・大小目付・林大学頭培齋<(▼宇)>そして筒井<◎渓>に諮問し<た。>・・・
(注123)琉球には、1797年以来、英船が6回来航していたが、1844年に仏船が初めて来航し、1846年には、英船来航に続き、仏船が再来航した。
http://rca.open.ed.jp/history/story/epoch4/syobun_2.html
⇒弘化2年の時の諮問が、▼宇一人にだけなされたことを振り返ってみれば、弘化3年になされた◎渓への諮問は、▼宇の部下たる、学問所御用としての◎渓ではなく、西丸留守居役としての◎渓に対してのものであったことが分かります。
(ちなみに、石高は、大学頭が3500石、西丸留守居が2000石です。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~kanri01/rounk/shyumi/kokudaka1000~5000.htm
◎渓が、学問所御用役分を加給されていたかどうかは知りませんが・・。
なお、加給されていたとしても、◎渓は、江戸町奉行当時は、石高が3000石だった(上掲)ので、一応左遷であった以上は、加給分は1000石未満だったのではないでしょうか。)
◎渓は・・・貿易によって「信睦」し、「闘争禍災」のない平和を志向するとされるキリスト教諸国の「其西洋に於ても、時々各國戦争有事」はどのように説明されるのか。
<と、このように、>「耶蘇教世之意」と現実世界の矛盾を突く彼は、まず「氣化之流行」から「同一氣」の人類も決して「盡く一種」ではないと主張する。・・・
⇒「漢訳聖書の最初の全訳はロバート・モリソンとウイリアム・ミルンによる1813年の『新遺詔書』と1823年の『旧遺詔書』そしてその合冊である『神天聖書』である。モリソンは漢文聖書を日本にも役立たせようと意識していた。1818年英国商船長ピーター・ゴードンに渡し、浦賀でひそかに船に来た2000人の漁民に配布した。」・・分厚かったはずの『神天聖書』そのものを2000部も配布したとは想像し難い(太田)・・
http://www.meijigakuin.ac.jp/mgda/bible/topics/use.html
というのですから、◎渓は、この漢訳聖書・・旧約には神のために戦う挿話が頻出する・・は読んでおれば、「耶蘇教」について、こんな寝ぼけたようなことを書くはずがありませんし、読んでいなかったとすれば、行政官としてもですが、一応学者の看板も掲げている以上はなおさら、怠慢ですし、読むことができなかったとすれば、「耶蘇教」について自分の知識は伝聞であることを断らなければなりませんでした。(太田)
他との異同を認めず、「強て大をして同じからんとする」ところに、「戦争」の原因がある<、と>。
相違するのは「人情」ばかりではなく、さらに「国法」も異なっている。
ある国においては臨機応変、「祖宗之法に不拘、時之時宜に従ふ國法」体系が採られているのであろう。
だが、徳川日本は、不断に変形と再適応を繰り返す法規範ではなく、過去に支配権力の命令によって生まれた成文の「触」や先例に拠りつつ決定を下す法体系を採る。・・・
⇒大事な国法ほど改正しない、というのは、明治以降の、憲法改正を行わないことを思い起こさせる真実です。(太田)
「東西域を異にし」た人情・国法の相違はまた、近年目立つようになった寄港する港湾内の測量行為の解釈にも現れているように◎渓には思われた。・・・
寄港先で勝手に測量を行うことは「以之外失禮之儀」に当たる。
「國地之信義」を貫けば、打払令復古は当然の行為である。・・・
だが、他方で国内信義ばかりでなく、「其國々へ信義」という国際信義にも配慮しなければならない。
既に天保13年に漂流船に対して薪水給与令を発しており、今に及んで改正することは「彼國々へ被対御信義」にもとることになる<、と>。」」(329~330、332~333、587)
⇒◎渓は行政官であって儒官ではない、というのが私見であるわけですが、どちらにせよ、彼は、責任回避のために、当たり障りのないことだけを書いているように思えます。(太田)
(続く)