太田述正コラム#9797(2018.5.1)
<眞壁仁『徳川後期の学問と政治』を読む(その54)>(2018.8.15公開)

 「弘化3<(1846)>年には引き続き、6月にフランスのセシーユ<(注124)>率いるインドシナ艦隊軍艦クレオパトール号・ビクロリューズ号が長崎に寄港して、書面をもって薪水と漂民救助を要請し・・・<たが、この時も、◎渓は>意見提示を行<っている。>・・・

 (注124)Cécille, Jean Baptiste Thomas Médée(1787~1873年)。「東洋艦隊司令長官として,1846年軍艦3隻をひきいて琉球王国をおとずれ,通商条約締結を要求したが拒否される。同年(弘化3)長崎に来航,長崎奉行との間でも交渉するが失敗し,数日後出港。帰国後[、議会議員、駐英大使]。」
https://kotobank.jp/word/%E3%82%BB%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%A6-1085147
 1843年、フランスのベトナム侵略の始まりを担った人物。
https://en.wikipedia.org/wiki/Jean-Baptiste_C%C3%A9cille ([]内)

 嘉永元<(1848)>年3月以降、蝦夷地・陸奥沿岸(「松前・津軽・其外對馬・庄内等度々渡来之届」)に外国船が出没し始めると、5月4日に老中阿部正弘は再び「筒井紀伊守江可相尋趣」として国防に莫大な費用がかかりこれが「諸藩疲弊の基」になっている故、「実に復古致し、打拂いの儀候方しかるべく存じ候」という打払復古の諮問を出した。
 答申書・・・は、それに応え、打払復古を承認した・・・
 ただし・・・打払に転じればさらに入費がかさむという、経済効率を鑑みた海防掛の予測に基づく反対により、阿部・筒井の政策は実施されなかった。」(334~336)

⇒老中首座が、水野忠邦–(1843年)→土井利位(注125)–(1844年)→水野忠邦–(1845年)→阿部正弘、と目まぐるしく代わっており、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E9%87%8E%E5%BF%A0%E9%82%A6 前掲
たった一人開国派であったところの、水野、が完全に失脚してから若干時間も経ち、阿部が、ようやく、自分の信念である攘夷を実行しようとしたのが1848(嘉永元)年だった、ということなのでしょうが、◎渓は、言い含められたのか、忖度したのか、阿部が老中首座になってから、常に、阿部の心中を代弁した上書を、諮問の際に提示した、と私は見ています。

 (注125)1789~1848年。「下総古河藩の第4代藩主。土井家宗家11代。江戸幕府の老中首座。・・・日本で初めて雪の結晶を顕微鏡で観察した人物として知られている。蘭学者であった家老鷹見泉石の協力の下、20年にわたり雪の結晶を観察し、雪の結晶を『雪華』と命名して、観察結果を『雪華図説』『続雪華図説』にまとめ出版した。・・・
 大坂城代在任中に大坂町奉行組与力の大塩平八郎が武装蜂起し(大塩平八郎の乱)、その鎮圧を担当した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E4%BA%95%E5%88%A9%E4%BD%8D
 鷹見泉石(1785~1858年)。「渡辺崋山の描いた「鷹見泉石像・・・」は・・・泉石53歳のときの肖像<で、>・・・絵画の部門では最も時代が新しい国宝である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B9%E8%A6%8B%E6%B3%89%E7%9F%B3

 しかし、◎渓はもちろんですが、阿部自身も、さしたる定見も気概も持ち合わせていなかったことから、これまた、さしたる定見も気概も持ち合わせてはいなかったものの、海防の実務を担い、その結果の直接的責任を取ることとなる海防掛の職務回避に遭って、それ幸いと攘夷方針を引っ込めてしまった、といったところでしょうね。(太田)

(続く)