太田述正コラム#0628(2005.2.14)
<村上春樹(その1)>

1 始めに

 宮崎駿(コラム#419)が大衆文化(アニメ)に係る日本のソフトパワーの象徴だとすれば、村上春樹(http://books.guardian.co.uk/authors/author/0,5917,884144,00.html参照)は、ハイブラウな文化(文学)に係る日本のソフトパワーの象徴だと言えるでしょう。
 宮崎の方は、「千と千尋の神隠し」で昨年、ベルリン国際映画祭の金熊賞と米アカデミー長編アニメ賞を受け、今年のベネチア映画祭では栄誉金獅子賞を受賞することが決まりました(http://www.asahi.com/culture/update/0209/001.html。2月13日アクセス)。
村上の方は、中国でブームを呼び起こしている(コラム#557)ほか、ロシアでも大評判になっています(最近TVで知ったが典拠失念)。
面白いのは、村上は中国やロシアといった自由・民主主義ならざる社会で人気があるだけでなく、英国や米国という、自由・民主主義のご本家でも高い評価を得ていることです。
最近だけでも、「海辺のカフカ」について、ガーディアンが1月8日付(http://books.guardian.co.uk/reviews/generalfiction/0,6121,1385406,00.html。1月10日アクセス)で、そしてNYタイムスが2月6日付(http://www.nytimes.com/2005/02/06/books/review/06COVERMI.html?oref=login&pagewanted=print&position=。2月6日アクセス)で書評を掲載しています。

2 英米での二つの書評

前者は村上の作品について、「私の知人達はきれいに三つに分かれる。完全に入れ込んでしまう者(ある英国人の友人は、自分の新たに生まれた男の子に「ハルキ」という名前をつけたほどだ)、批判的崇拝者、そしてひどい発疹ができておさらばする者、だ。(this reviewer’s acquaintances neatly subdivided themselves into three groups: besotted devotees (one British friend went so far as to name his newborn son "Haruki"); critical admirers ; and people who came out in a nasty rash.)」、「最近英訳本が出ている村上龍・桐野夏生・(「リング」の著者の)鈴木光司のような「アジア過多」の日本人作家とは違って、<村上春樹は、>筋が要求した場合は抑制のきいた筆致で<アジア的>十八番を描くけれど、必然性があり自慰的には感じられない。("Asia Extreme" Japanese writers currently being translated into English, including Ryu (no relative) Murakami, Natsuo Kirino and Ring-master Koji Suzuki. Murakami writes Cert 18 scenes with aplomb when his plot demands it, but these never feel gratuitous or onanistic.)」とやや引いた感じの、しかし高い評価をしています。
後者は村上の作品について、「サスペンス的要素に乏しく、語り口もやや受け身だし、はでばでしい話が展開する割には筋が良く見えない。しかし、圧倒的な実在感があり、数百ページを読み終わった後、読者は、それが何だったか定かではないものの、何かものすごいものと出会ったという手応えを覚え、恍惚状態から目覚めたような気分になる。(lack the usual devices of suspense. His narrators tend to be a bit passive, and the stakes in many of his shaggy-dog plots remain obscure. Yet the undercurrent is nearly irresistible, and readers emerge several hundred pages later as if from a trance, convinced they’ve made contact with something significant, if not entirely sure what that something is.)」、「村上は、自分が何をやっているかを説明しながら手品をやって、なおかつ魔法を使ったんじゃないかと観衆に思わせる奇術師のようだ。(Murakami is like a magician who explains what he’s doing as he performs the trick and still makes you believe he has supernatural powers.)」、「<村上は>個々の作品において、断片化して横たわっている人に対しては、断片を集めて元の形に戻してやらなければならないし、立ち止まっている人に対しては、変化という、厳しいけれども必要不可欠なプロセスに向けて、後ろからどやしてでも再出発させなければならない、ということを<手を変え品を変えて>言っている。人をして、この必要不可欠性にあえて目覚めさせる、ということを物語は太古の昔からやってきた。夢もまたそうだ。しかし、誰でも夢に似た物語を作ることはできるけれども、村上のような類い希な芸術家的天分がないと、まるで自分自身が夢を見ているようだ、と読者に思わせることはできない。(In each, a self lies in pieces and must be put back together; a life that is stalled must be kick-started and relaunched into the bruising but necessary process of change. Reconciling us to that necessity is something stories have done for humanity since time immemorial. Dreams do it, too. But while anyone can tell a story that resembles a dream, it’s the rare artist, like this one, who can make us feel that we are dreaming it ourselves.)」と手放しに絶賛しています(注1)。

(注1)文学作品の書評だけに、文学的であり、訳すのに苦労した。誤りがあれば指摘してほしい。
    なお、村上の作品を読んだことのない方で、英語のできる方は、その雰囲気の一端を味わうために、村上の「海辺のカフカ」からの抜粋(英訳)(http://books.guardian.co.uk/extracts/story/0,6761,1398353,00.html)を読まれることをお勧めする。

(続く)