太田述正コラム#9801(2018.5.3)
<眞壁仁『徳川後期の学問と政治』を読む(その56)>(2018.8.17公開)

 「学問所関係者だけでなく、広く識者<・・>儒者・兵学者・及町儒者・町兵学者等迄<・・>の答申が上げられ、その数は50数通に及ぶとも云われる。・・・
 <最も優れていたらしい>謹堂の・・・が残らないのが惜しまれる。・・・
 当時の大学頭林▽<(人偏に間)>齋<(注129)>は弱冠20歳であった。・・・

 (注129)林壮軒(1828~53年)。「別号に▽斎。・・・弘化3年(1846)林家10代をつぎ大学頭となった。」
https://kotobank.jp/word/%E6%9E%97%E5%A3%AE%E8%BB%92-1102196

 父培齋<(▼宇)>の後を継いで大学頭を襲名した弘化3年当時、彼はまだ18歳<だった。>・・・
 <彼の>およそ具体的な情勢認識・分析・予測などを含まない政策は、政治的知性の未熟を現していよう。・・・
 「和議交易」・「打拂」あるいは「寛」・「猛」両説について、それぞれの政策選択をした場合の<予測>をたて、その目的と手段の関係を比較し考量するのが、筒井◎渓、林復齋<(前出)(注130)>と友野霞舟<(注131)>である。・・・

 (注130)「能吏として知られた。また併行して昌平黌の学問所御用も兼務、総教(塾頭)となっている。嘉永6年(1853)、甥で本家を継いでいた林<▽斎>が死去。急遽本家を継ぐことになる。小姓組番頭次席となり、大学頭と改名。54歳にして林家11代当主となった。」
http://kohkosai.com/syuuzouhin/kaisetu/jiku-japan/fukusai.htm
 (注131)1791~1849。「霞舟<(かしゅう)>は号。・・・漢詩人。・・・昌平坂学問所教授、甲府徽典館(きてんかん)学頭。」
https://kotobank.jp/word/%E5%8F%8B%E9%87%8E%E9%9C%9E%E8%88%9F-585066
 甲府徽典館について。「松平定信の寛政の改革により学問振興が行われ、こうした背景のもとで・・・幕府直轄領化され<ていた>・・・甲斐<の>・・・甲府城下においても本格的な教育機関として学問所の設立が実施された。・・・天保14年には幕府の地方官学統制のもと、駿府の明新館とともに江戸の昌平坂学問所の分校としての再編が行われ<た。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%BD%E5%85%B8%E9%A4%A8

 <この>ように両端を比較考量する◎渓・復齋・霞舟は、しかし、いずれも外政方針の決定を自ら判断することが出来ず、結局はその意思の調整や決定を執政に委譲する。
 既存の枠にとらわれない政策構想力の不足からか、新機軸を打ち出すことが出来ず、回答を引き延ばして態勢を整えるという提言に終始する。
 ▽齋<の、及び、>・・・これら・・・の<、>海防策と一線を画し、いわゆる夷狄禽獣観から排外政策を唱えるのが、・・・佐藤一齋の議論である。・・・
 一齋の武力衝突についての予測は、軍事技術力の彼我の懸隔には疎く、世界の現状認識を欠いている。
 たとえ戦争が勃発しても、「有名ノ師ハ勝ノ道理」である。
 彼は「北條氏ノ時蒙古の先蹤」を引いて云う。
 「一度手強キ目ニ合セ候ヘハ、懲氣附候テ永ク野心ハ挟ミ申マシク」。
 このような夷狄禽獣観からする排外思想はもちろん、「天府ノ國」「神国<(國ではないがママ(太田))>」という自国認識と表裏をなしている。
 同じ東アジアの国とは言え、清国とは人間気質も異なり、日本は天然資源も豊富である<が、このような>・・・豊かな「五穀財寶」に恵まれた日本では、「不足ノ品」など何ひとつない<のだから交易の必要はない>・・・。」(337~339、342~343)

⇒「兵学者・及町儒者・町兵学者」達の答申群は残っていなかったのかもしれませんが、眞壁に、一部なりとも紹介して欲しかったところです。
 さて、こんなご時世になっても、依然、昌平坂学問所の「長」に世襲の未成年を充てるなど、幕府はもはや命脈が尽きていた、と改めて思います。
 で、このくだりでは、儒官達・・この中には、行政官が本業の者もいますが・・の上書(答申)類が箸にも棒にもかからないものばかりであることを、眞壁自身が認めてしまっている・・但し、引用しなかったが、一齋の「豊かな「五穀財寶」」云々についてだけは、後に生じた開港後の経済の混乱を振り返り、その「先見の明」を褒めている(?!)・・わけであり、思わず笑ってしまいました。(太田)

(続く)