太田述正コラム#0629(2005.2.15)
<村上春樹(その2)>
3 ロシアと中国での人気
(1)ロシア
少し古いですが、次のような朝日新聞の2003年1月6日付の記事(http://www.asahi.com/culture/update/0106/002.html。一読者の提供による。心から感謝の意を表したい。)が、ロシアでの村上人気をビビッドに伝えています。
村上作品の翻訳書は、「ロシアでは98年に初出版された。その後、4年間で6作品が刊行された。出版元の3社でいずれもトップセラーになって」おり、「モスクワの目抜き通りにある大手書店「ドムクニーギ」・・だけで昨年、大評判のハリー・ポッター・シリーズの約半分にあたる2万冊を販売。売れる外国人作家の第4位にランクされた。」「村上作品の欧米風に自立した主人公・・は・・がんじがらめの旧ソ連の社会体制が崩れてから、「個人の孤立」に悩む人々の共感を集めているようだ。」、「作品の中には欧米の音楽や料理などの小道具がちりばめられている。米国文化を急速に受容したロシアの新しい世代には、そうした風俗が理解の共通媒体になった」。「<ロシアでは>、過去をすべて否定し過激なネオナチ運動に走ったり、サブカルチャーに埋没したりする若者が増えている。そんな風潮の中で、「より内面的な新しい価値観を求める人々が、登場人物の抱く内面的な孤立感に共鳴している」といった評論が少なくない。」
(2)中国
村上作品が海外で一番読まれているのは中国です。
以前(コラム#557で)、「1989年に村上作品として初めて翻訳出版された「ノルウェーの森」は100万部以上が売れ、そのほかにも26万部売れた「海辺のカフカ」等、計27作品が出版されています。10万部売れたら奇跡と言われる中国の出版界にあって、これは大変なことであり、村上作品は、中国の都市部の比較的豊かな青年層の必読書になったとまで言われているといいます。」と紹介したところです。
その魅力は、「簡潔で美しいユーモアあふれる文体はもちろん、孤独や空虚さ、退屈さを楽しむライフスタイルを読者に提供してくれる点にある」とされ、「世界や社会生活を認識する視点・方法を提供してくれ」る点や、「あふれるほどの清潔感と透明感・・国際化したところ」にあり、「孤独や寂寥(せきりょう)感」に「共鳴」を覚える、とする読者も少なくありません。
この「孤独や寂寥感への共鳴」については、「一人っ子政策」で育った若者に受け入れられる理由の一つであると考えられ、「作品の中に自分の姿を求める孤独な『一人っ子世代』の若者に受けるのだろう」という分析がなされています。
(以上、http://www.yomiuri.co.jp/culture/news/20041120i105.htm(2004年11月21日アクセス)による。)
4 コメント
(1)村上は欧米的か
村上は、「アジア過多」の日本人作家とは違う、という英国での評価をご紹介しました(コラム#628)。
またロシアでも、これまで日本人について、集団的で顔が見えず、神秘的で不可解との印象が抱かれていただけに、村上作品に描かれる、欧米風に自立し、自己主張のある個性的な人物像が驚きを持って受け止められている(朝日前掲)ということですし、中国でも、伝統的な日本文学に特有の悲壮感や圧迫感がないので、日本を意識せずに、読み手は主人公と距離感なく読み進めることができる(読売前掲)、とされています。
しかし、以上のような村上評は、日本文学史、ひいては日本への無知からくる誤解だと私は思っています。
万葉集に登場する歌人達、紫式部や清少納言、近松門左衛門の人形浄瑠璃や歌舞伎狂言の登場人物達は、皆「自立し、自己主張のある個性的な人物」であり、村上作品に登場する人物達は典型的な日本人に他ならないのです。
それでは村上自身も、「それまで日本の小説の使っている日本語には、ぼくはほんと、我慢ができなかったのです。我(エゴ)というものが相対化されないままに、ベタッと迫ってくる部分があって、とくにいわゆる純文学・私小説の世界というのは、ほんとうにまつわりついてくるような感じだった。」(「村上春樹、河合隼雄に会いにいく」新潮文庫1999年(原著は岩波書店1996年)49??50頁)と言っているところの、「それまでの日本の小説」の中に登場する日本人とは、一体何者なのでしょうか。
それは、日本が自らアングロサクソン文明の移植を図り、この文明と悪戦苦闘していたがゆえに、「悲壮感や圧迫感」に苛まれていた明治??大正期という過渡期、における日本人像にほかならないのです(注2)。
(注2)日本は、一旦外的要因によって、開国・戦争・外国文化の導入によって特徴付けられるところの時代(弥生モードの時代)になっても、いつしか、鎖国・平和・国風文化によって特徴付けられるところの、(一万年もの長期間にわたって続いた)原初の縄文時代のモードに回帰し始める、というサイクルを繰り返して現在に至っており、縄文・平安・江戸という三つの縄文モードの時代を経て、明治??昭和初期の弥生モードの時代からその後再び縄文モードに回帰し、現在その真っ只中にある、というのが私の持論(例えば、コラム#276参照)であることを思い出して欲しい。
ですから、村上は欧米的、あるいはアングロサクソン的なのではなく、日本的なのであり、日本的なるものが、近代を代表すると考えられているところの欧米的あるいはアングロサクソン的なるものと良く似ているがゆえに、村上の作品が近代的に写る、ということなのです。
(続く)
太田さんの縄文モードと弥生モードの話がとても気に入っています。
呑み会とかで友達に何度も紹介しています。
私は電機メーカー勤務のハード屋でありますが,漫画をはじめとする
ポップカルチャーに変わっていくのではないかという意見を持って
います。日本のポップカルチャーが世界に通用する理由を説明するのに,
縄文モードと弥生モードの話はフィットするようにと感じています。
私は縄文モードは「もののあはれ(エゴ)を前面に出した文化的側面を
もっている」と考えています。
日本の漫画にしろ,NHKかわいいTVに出ているような東京スタイルにしろ,
便器のウォシュレットにしろ,その側面を持っているように思います。
ただ,村上春樹の評価については,少しずれているように思います。
そういう意味で,是非是非「若い読者のための短編小説案内」の太田さんの
書評を読みたいなぁと思います。もちろん太田さんが若い読者と言っている
訳ではなく,この本には,村上春樹自身が小説家として,どういうことを
取り上げて行きたいのかを彼自身の図解入りで説明しているのです。本コラム
に「河合隼雄に会いにいく」の引用がありましたが,その線の延長でより
詳しく書かれた本と考えてよいかと思います。私の理解では,自分の内面
(エゴ)と自分が関わっていく社会との境界を描いていきたいとあります。
さらに,太宰・三島のようなエゴをさらけだすような文学は苦手だとあります。
太田さんの表現を借りると,縄文モードの側にたって,縄文モードと弥生
モードの境界を表現したいということになろうかと思います。
そして,太宰・三島は,弥生モードの日本の中で,縄文的表現を目指して
いたのではないかと思います。そがゆえに彼らは身を崩して行ったのでは
ないでしょうか。
稚拙な表現で,はなはだ恐縮ですが,いかがでしょうか。
すみません。修正です。
【日本の主要輸出製品は,】
漫画をはじめとするポップカルチャーに変わっていくのではないかという意見を持っています。