太田述正コラム#9803(2018.5.4)
<眞壁仁『徳川後期の学問と政治』を読む(その57)>(2018.8.18公開)
「嘉永2<(1849)>年5月以降引き続き行われた諸役への諮問は、新たに江戸湾防備を担当する奉行や諸藩<(注132)>にも及んだ・・・
(注132)奉行は浦賀奉行(前出)と下田奉行を、諸藩は、川越藩・彦根藩・会津藩・忍藩、の4藩を、指すと思われる。↓
「相模側の警備は、浦賀奉行を中心として、川越藩(非常時には小田原藩も)が援護することと<されていた。>・・・天保13年(1842年)~天保15年(1844年)及び嘉永7年(1854年)~万延元年(1860年)にかけては外国船の来航に備えて下田奉行も再置され、この期間には浦賀・下田の両奉行所が並存していた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A0%E5%9B%BD%E5%A5%89%E8%A1%8C#%E4%B8%8B%E7%94%B0%E5%A5%89%E8%A1%8C%E3%83%BB%E6%B5%A6%E8%B3%80%E5%A5%89%E8%A1%8C
「武蔵国最大の石高<の17万石>であった川越藩は文政3年(1820年)に武蔵1万5千石を相模1万5千石と替地され、・・・浦賀奉行の下で、会津藩に代わって川越藩が三浦郡の川越藩領に、三崎や大津、観音崎などの海防陣屋を設け、500人を超える藩兵・・<後には>数千人・・を置いて防衛に当たった。・・・
弘化4年(1847年)、幕府は「御固四家」体制を敷き、江戸湾防衛を川越藩<、>彦根藩<、そして、再び>会津藩<、及び>忍藩の有力4藩に負わせた。川越藩の分担区域は、浦郷から三崎に至る三浦半島一帯とその海上であった(彦根藩は鎌倉七里ヶ浜方面、会津藩は内房、忍藩は外房)。嘉永6年(1853年)のペリー来航の際には、鴨居から大津一帯に川越藩は藩兵を展開、ペリーの上陸した久里浜は川越藩兵500名や彦根藩兵が固めた。第5代藩主の典則はペリーに同行した。嘉永7年(1854年)、ペリーの2度目の来航には、幕府は品川台場を築造し、海防ラインを江戸湾内海に変更、川越藩はその防衛を会津藩・忍藩と共に担い(川越藩は第1台場を担当、会津藩は第2、忍藩は第3)、高輪にも陣屋を構えた。また、川越藩は藩の鋳物を請け負っていた小川五郎右衛門にカノン砲を鋳造させ設置した。・・・<その後、>三浦半島の防衛を引き継ぐ熊本藩の準備が遅れ<たため>、川越藩は三浦半島と品川の双方に延べ6万人もの藩兵を配置する負担も生じた。川越藩は児玉郡には藩の鉄砲射撃場も造営した。第5代藩主の直侯(徳川斉昭の八男。徳川慶喜は兄)はこうした出費に苦しんだ。
第7代藩主・直克は将軍徳川家茂の上洛の際に江戸警衛の任に当たり、・・・西洋砲術の高島流の採用・・・などの軍制改革<も>実施した。自身も上洛、孝明天皇より少将に任官された。しかし横浜鎖港問題が国内政局の焦点となっていた時に、直克は幕府の政治総裁職(大老格)という要職にあり、家茂の方針と合わず、また天狗党の乱の鎮圧方針で強硬派の水戸藩と激しく対立、結局川越藩は兵を動かさず、直克は政事総裁職を罷免された。さらに幕末の慶応2年(1866年)武州一揆が起こり、直克は藩米千俵を城下に放出するも川越藩領の諸村では恩恵に与れず打毀したため、直克は銃隊で鎮圧、一揆の城下への侵入を阻止した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E8%B6%8A%E8%97%A9
「忍藩(おしはん)<は、>・・・[武蔵国埼玉郡に存在した藩の一つ<で、>藩庁は忍城(現在の埼玉県行田市本丸)に置かれ<ており、1823年(文政6)から奥平松平家が統治していたところ、>所領10万石のうち5万石を上総・安房に移され、]<18>42年(天保13)以降房総沿岸の警備<を>命ぜられ富津と竹ヶ岡に陣屋を築き江戸湾防備にあたった。・・・
奥平松平家は<伊勢時代に>元禄期に起こした騒動で知行を減らされていたにもかかわらず、石高に較べて家臣団が多くいたため、藩財政は早くから逼迫していた・・・<ところ、伊勢国桑名から転じて忍に>入部した翌年の文政7年(1824年)には藩内に重い御用金を課している。・・・<そこへ、今度は江戸湾警備を命じられ、>これが原因でさらに財政は逼迫し、安政2年(1855年)の安政の大地震と安政6年(1859年)の大洪水で領内が大被害を受け、出費がさらに重なり、遂には家臣の俸禄を6分も減らさざるを得なくな<り、最終的には、>奧平松平家の借金は、76万両という途方もない<額になった>」
https://kotobank.jp/word/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E6%B9%BE%E9%98%B2%E5%82%99-1277719 (「」内)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%8D%E8%97%A9 ([]内)
⇒軍事は、本来、単一指揮官の下で、単純明快な指揮系統でもって集権的に処理されることが望ましいのですが、いくら「平時」であったとはいえ、海外からの「脅威」が高まりつつあった中で、「首都」の防衛について、このように複雑かつ分権的な体制を採った・・下田奉行もおり、浦賀奉行が統一指揮を執っていたとも思えない・・ことは、幕府が軍事音痴になってしまっていたことを示しています。
しかも、川越藩と忍藩に対し、(藩外で公共事業等を課したこれまでやり方を踏襲して、一切補助することなく、)幕府が過重な海防負担を課して財政破綻に追い込んでしまったことによって、幕府は、両藩自身の放漫財政もこれあり、幕府の統治基盤の中核である江戸の周辺地域の民心を離間させてしまった、と言っていいでしょう。
要するに、徳川幕府は、「武家」の「政権」であることを標榜していたにもかかわらず軍事音痴化してしまっていただけでなく、行財政についても、ついに、素人行財政に毛が生えた程度のレベルの域にとどまった、と言えそうです。
私の言う、縄文モード下においては、えてしてそういうことになりがちであるわけですが・・。(太田)
<結局、>幕閣は打払令復古に決し・・・た。・・・
その後12月25日、諸大名に防備強化が命じられた。
だが、じっさいに打払令は発令されること<はなかった。>・・・」(344~345)
⇒幕閣の優柔不断さ、より端的に言えば無能・退廃ぶり、がここでも露呈しています。(太田)
(続く)