太田述正コラム#0630(2005.2.16)
<日本の公立小学校の現状>
(コラム#627で、「台湾の英字紙、Taipei Times の無料電子版が大幅に簡素化されて弱っています」と記しましたが、昨日、元に戻りました。お騒がせしましたが、あれは一体何だったのでしょうか。)
今回は、昨日、小4の息子の授業参観に行ってきて感じたことをお話ししましょう。
息子が通っている公立小学校の4年生は三つのクラスに分かれており、それぞれ40名弱の生徒で構成されています。
飛び級について論じた時(コラム#501)にも申し上げたように、一クラス40名弱というのはまだまだ多すぎますし、能力別クラス編成になっていないのも問題があります。
そこで、息子の学校では、算数の時だけ、時々、この三つのクラスの生徒をガラポンして能力別に四クラスに分け、それぞれ30名弱で授業を行う、という一石二鳥の試みを行っています。
何時間目の授業でも自由に参観できるのですが、面白そうなので、昨日は算数の授業の時間に参観に行ってみることにしました。
ところで、前もって息子から聞いていた話では、この四つのクラスのどれができる子のクラスで、どれができない子のクラスか、担任の先生は教えてくれず、ただ、「・・君(さん)は・・クラスに行きなさい」、と言われるだけなのだそうです。しかし、普段算数が大変良くできる級友が自分と同じクラスに来ていることから、自分が(一番できる子のクラスかどうかまでの確信はないけれど)、比較的できる子のクラスに割り当てられたことは分かる、といいます。残りの三つのクラスにそれぞれ割り当てられた級友の話を総合すると、できない子のクラスになればなるほど、授業の進行が遅くなるようだ、とも言っていました。
いやはや、どうして学校当局は、こうも平等主義の外見にこだわるのでしょうか。
さて、実際に授業を参観してみて、私は吹き出すのをこらえるのに苦労しました。
(もともとは隣のクラスの担任である)先生が、「1メートルを三つに等分した答えはどうなりますか?」と設問を出します。
先生は、生徒が答えを自分のノートに書いているのをゆっくり見て歩いて教壇に戻ります。
そして、「(塾へ行っていて(?))答えを知っている人もいると思うけど」と言いながら、「答えたい人手を挙げてください」と言うと、約半分から手が挙がります。
最初に指名された生徒は、「33センチメートル余り1センチです」と答えます。
先生は、「これまで教わったやり方だとそう答えざるをえないよね」と言い、「ほかには」と促します。
今度は数名の生徒が手を挙げ、その中には初めて手を挙げた私の息子も入っていたのですが、彼がすぐ手をひっこめたので、先生が「太田、答えないの?」とダメ押しした後、別の生徒を指名し、その生徒が、「33.3333333センチです」と答えます。
先生は、「少数を使った答えだとそうなるけれど、どこまでも3333が続いてしまうね」と引き取ります。
そこでおもむろに先生は、「1/3メートルと書くのが正解です。これを分数と言います」としめくくります。
ここまでで、授業時間の三分の二以上が経過し、残りの時間は、その日「初めて」習った分数についての問題演習にあてられたので、私は教室を後にしました。
もうお分かりですね。
これは算数の授業ではなく、集団即興劇(の稽古?)以外のなにものでもありません。
先生も生徒(の大部分)も、その日の授業「劇」の筋をすばやく頭に描き、その筋に沿って演技をしているのです。
これも息子から聞いていた話では、塾に通っている生徒は約半分で、できる子とできない子とで、塾に通っている割合にそれほど大きな違いはないが、できる子の方が塾に通っている割合が高い、ということです。(息子も塾に通っています。)
そして、塾に通っている生徒は、それがどの塾であれ、分数は既に塾で教えられています。
他方、息子が割り当てられたクラスは、比較的算数のできる子が集まっているクラスですから、塾に通っている割合が多いはずであり、分数を既に知っている子が多数、分数を知らない子が小数いたはずです。
しかし、先生は、分数を知らない生徒を対象にした授業を行うこととされているのでしょう。
そうなると、その日の授業の三分の二の時間は、多数の生徒にとっては時間の空費だ、ということにならざるをえません。
確かに、算数の授業としてはそうなのですが、集団即興劇としては決して時間の空費ではない、と先生も生徒(の多数)も考えているのでしょう。
先生は、筋が無茶苦茶にならないよう、あらかじめ、どんな答えを生徒が書いているかを確かめた上で指名し、「余り1センチ」と答えた生徒も、「33.33333」と答えた生徒も、ひょっとしたら分数を知っていて、あえて筋に沿った「誤った」答えを提示した可能性があると勘ぐりたくなり、そこまで「協力的」でない分数を知っている生徒は手を挙げないようにし、アホな息子は分数で答えようとして気付いて手を下ろし、上手の手から水がこぼれた先生が息子を指名しかけてしまった、というくらい、みんな真剣に演技をしたのですから。
(帰ってきた息子に確かめたら、「お父さんの解釈の通りだよ」、とにやにやしながら答えてくれました。)
これは「能力別」編成の授業の時の話ですから、普通の授業の時のことは推して知るべしです。
いささか極端に言えば、日本の、とりわけ大都会の小学校は、後半の三年間にもなると、勉強は塾に丸投げし、社会性を身につけさせる「だけ」の場になってしまっている、ということです。
問題は、塾に行く生徒と行かない(行けない)生徒の間で極端に学力の差が生じる一方で、生徒全員が過剰に社会性を身につけさせられている、という点です。
これでは、日本人全体の知的水準の低下と所得格差の拡大は避けられず、他方で「過剰に」「日本人としての」社会性を身につけていないところの外国人が日本で働くことを一層困難にし、このこともやはり日本の社会の活力の低下を招くことでしょう。
納税者たるわれわれはもっと危機感を持って、文部科学省による規制の緩和、ゆとり教育の見直し・能力別クラス編成・飛び級制度の導入・学校間格差の増大、等によって、日本の初等中等公教育の抜本的是正を図る必要があると思うのですが、皆さん、どうお考えですか。
<読者A>
太田さん、#630の記事は身につまされました。笑って笑えない話ですが、太田さんのご本を読むまでも無く、この手の実例は腐るほどありますね。「官僚機構が本来の成果を発揮」すればすべて、と言って良いほどカイゼンされるのですが、既に其の見込みもない霞ヶ関には嘆いても意味はなく、彼らを税金で食わして置くのさえバカらしくなります。確かに縁の下の力持ちのように黙々と任務をこなしている官僚もいますが、政治家、国民が次の要領で彼らをチェック出来るようにするのが具体的に彼らを管理する方法と思います。ここは「日本国の浮沈を賭けた」国民の総意を纏めたいですね。
特に緊急の問題点:
1)ヒトゲノム解読に日本は6%しか寄与していませんが研究者などの力はあったのに、結局省庁の壁でこうなったので内閣府がその理由を関係省庁に質し、公表する事。(成果のない省庁は当然然るべき罰則を与える)
2)これに関し今後は「ゲノムデータ利用の製品化」が世界規模で進められているが、これも文科省、厚生省、経産省、総務省とその監督庁で既に国益無視でナワバリ争いがされているので、プロジェクト毎に(当面は医薬分野、ナノテク分野)内閣府が統括し、少なくとも国家プロジェクト(例えば東京ゲノムベイプロジェクト)のトップには省庁の壁を破る権限を与え、自由に事業推進出来るよう省庁の監督をし、其の成果を一般にオープンする事。
3)その他ありますが、特に文科省については、「ゆとり教育」の破綻の責任部署を明確にし、担当官僚は教師として現場で教鞭を取らせる事。(教員資格と経験が無かったら、これを取らせるか、この担当から外すこと。)これも内閣府が統括して国民にオープンにすること。まだまだ沢山ありますが別の機会に・・・・・・。
<読者B>
太田述正様、いつもコラムを読ませてもらってます。
今回は少し気になったので返事を送らせてもらいます。
> 今回は、昨日、小4の息子の授業参観に行ってきて感じたことをお話ししましょう。
私は教員ではないものの教育実習まで経験があります(教員免許は持ってます)。
算数の集団即興劇と評されてましたが、既に劇にすらなっていないと思います。本来必要なのは分数の説明ですが、この授業(?)では、分数を知っているかどうかの説明と演習しか行われていま%