太田述正コラム#9819(2018.5.12)
<眞壁仁『徳川後期の学問と政治』を読む(その65)>(2018.8.26公開)

 「古賀謹堂の政治思想に父・・とは異なる西洋諸国へのある種の信頼があるとするならば、それは世代の相違や彼の個人的嗜好だけではなく、情報資源の側面では、漂流者との「邂逅」と聞き書き経験にも由来すると考えられる。・・・
 異国から帰還した漂流民は、一般に、送還地の各所から長崎、大阪、江戸に護送された。
 将軍の名の下に権限を行使した長崎奉行所・大阪町奉行所の白洲に召出された漂民は、漂流の次第について尋問を受け、その結果不審点が発見されなければ、漂流民在所支配の藩役人、もしくは幕領であれば代官手代に引き渡された。
 松前奉行などで処理されず、江戸に移送された場合は、江戸の蝦夷会所<(注141)>に留置され、町奉行・目付・勘定奉行、もしくは将軍以下の閣老の尋問を受けている。

 (注141)「1799年(寛政11)・・・東蝦夷地・箱館周辺の・・・幕府直轄<化>にともない・・・蝦夷地産物の集荷・販売機関として箱館・・・と江戸に会所を設け,全国枢要の地に御用取扱商人を置いた。1812年(文化9)場所請負制の復活にともない廃止したが,55年(安政2)幕府は蝦夷地を再直轄するや,57年蝦夷地産物の流通統制と開拓資金の捻出を目的として箱館に産物会所を設置し,江戸・大坂などに会所・用達商人を置いて蝦夷地産物の検査・取締りを行い,売買価格の100分の2を口銭として上納させた。」
https://kotobank.jp/word/%E7%AE%B1%E9%A4%A8%E4%BC%9A%E6%89%80-860590
 場所請負(ばしょうけおい)は、「江戸時代,松前藩・幕府が行った蝦夷地経営の方式。近世初頭,松前藩は直轄とした和人地(渡島(おしま)半島南部)以外の海岸部をアイヌの各部族の漁業権域に対応した〈場所〉という区域に分け,この場所におけるアイヌとの交易権を知行として家臣に与えた(商場)。元禄〜享保期(1688年~1736年)になると家臣は商人に場所の経営を請負わせ,自らは運上金を受け取るようになる。これが場所請負で,請負った商人は場所請負人とよばれた。場所請負商人は初め交易経営を行ったが,漁獲量増大のために漁場の直接経営に乗り出す。この過程で交易当事者であったアイヌは,商人の買い占め,生産手段の前貸しなどにより,漁場の労務者への変質を強いられた。松前藩の支配が及んだ南千島や樺太の一部にも〈場所〉が設定されたが,1789年国後(くなしり)・目梨(めなし)のアイヌは場所請負人の酷使に対して蜂起(国後・目梨の戦)。1799年東蝦夷地は幕府直轄となり,場所請負制は廃止される。しかし西蝦夷地では幕府直轄となった1807年以降も存続。場所請負人は初め近江商人,幕府領になってからは江戸商人の進出が著しい。1821年松前藩の蝦夷地支配復活後も場所請負制は継続したが,1869年明治新政府によって廃止された。」
https://kotobank.jp/word/%E5%A0%B4%E6%89%80%E8%AB%8B%E8%B2%A0-114282#E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.E3.83.9E.E3.82.A4.E3.83.9A.E3.83.87.E3.82.A3.E3.82.A2

 漂民のその後の処遇は、寛政期のラクスマンを介して帰還した大黒屋光太夫が江戸番町薬草園で生涯を終えた事例<(注142)>を例外として、他の場合はみな、外国事情を公言せぬように固く箝口令を申し渡された上で、在所への帰郷を許されている。

⇒「番町薬草園」は「小石川薬草園」の誤りですし、同薬草園で生涯を終えたのは光太夫だけというのも、彼と共に帰国した「磯吉」も同様だったので誤りです。
 また、「<薬草園>で光太夫は新たに妻も迎えている<し、>故郷から光太夫ら一行の親族も訪ねて来ており、・・・故郷の伊勢へも一度帰国を許されている・・・。寛政7年(1795年)には大槻玄沢が実施したオランダ正月を祝う会に招待されており、桂川甫周を始めとして多くの知識人たちとも交際を持っていた。光太夫の生涯を描いた小説『おろしや国酔夢譚』(井上靖、1968年)では帰国後の光太夫と磯吉は自宅に軟禁され、不自由な生活を送っていたように描かれているが、実際には以上のように比較的自由な生活を送っており、決して罪人のように扱われていたわけではなかったようである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%BB%92%E5%B1%8B%E5%85%89%E5%A4%AA%E5%A4%AB (「」内)
というのですから、眞壁の記述は舌足らずです。(太田)

 これらの過程で、後者の幕府役人による形式的な漂流の経過・事情についての口上書、所持品等の書付などの調書が作成された。
 しかし、これらの尋問記録の口述書とは異なり、幕命・藩命を受けて、あるいは自発的に知識人たちの編集した詳細な聞書きに基づく海外見聞録が、当時多く筆者され、現在多数の写本が残る。・・・
 古賀謹堂が「邂逅」したのは、天保9年11月に・・・遭難し、翌年4月にアメリカの捕鯨船に救助され、ハワイ・カムチャッカ・オホーツク・アラスカのシトカでの滞在を経て、ロシア船で天保14年5月に択捉島に送還された・・・越中富山の長者丸の「追廻」次郎吉<(注142)>という・・・漂流民であった。・・・

 (注142)米田屋次郎吉。遭難時26歳で、長者丸では、船頭、(船頭の次席で、舵取りの役をつとめる)親司(おやじ)x2名、(昼夜とも船首にいて、陸地の方角を見定め、船時計などを調べ、入港時には船の指図にあたる)表(おもて)、(荷物の出入りなどを調べ記帳し、船内の入費や飯米などの事務も行う)岡使(おかつかい)/知工(ちく)、(平生は船首で碇のあげおろしなどをする)片表(かたおもて)、(雑用一切をつとめる)追廻(おいまわし)x3名、(炊事係をつとめる)炊(かしき)x2名、という序列の下から2番目・・方表以下は、若衆などと呼ばれる・・だった。
http://www.tsm.toyama.toyama.jp/_ex/event/nendo2008/plane_haru_senin.htm

 <謹堂がが聴取した内容及びその感想は、次の通り。>
 全世界の帝国統一に野心的なイギリス人は、アメリカ人やロシア人から観ても脅威であり、それに対して他の列強諸国の国民性はイギリスとは異なる。・・・
 <そのイギリスは、>漸次日本への侵攻を謀っている・・・
 アメリカ人も、イギリス人も、ロシア人には及ばないが皆人間としては「順良」で語気も決して荒くなく、ともに知的に優れた資質を持っているように映った。・・・
 現在・・・日本に貿易を要求するのはアメリカ・イギリス・ロシアの三国以外には考えられないが、そのうち「温順」なアメリカ人とならば「貿易スルモ害ハ無ルベシ」・・・。・・・
 欧米列強が日本近海で敷く軍事的警戒体制は、日本の外交政策と日本人の夷狄禽獣観に起因する。・・・
 一漂流民の実経験(実地の見聞談)<は>万巻の書を読む学者の知識にも優る・・・。」(414~415、419~420、424)

⇒眞壁については、詳しい経歴が分からないのですが、恐らく、(大学という特殊なものではない、一般の)組織人経験はないであろうところ、私は、それが、この部分に限らず、謹堂等に対する、彼の人物評価等の歪み、皮相さ、をもたらしていると思っています。
 そして、この部分に関しては、眞壁に、(年単位の)海外滞在経験がなさそうであることが、この歪み、皮相さ、を増幅させているように思うのです。
 海外に何年滞在しても、識見のない者は、表面的ではない部分での、滞在地と日本との違いを感知できないものなのであり、大黒屋光太夫のように、商家出身で年季も入った船頭(彼のウィキペディア)に比べれば、出身までは分からないけれど、間違いなく若輩で雑用係でしかなかった米田屋次郎吉の話など、眉に唾を付けて聞くべきなのに、謹堂がそんな話を額面通り受け取っているらしい点だけで、そして、そんな謹堂を、眞壁がどうやら、この部分を含め、一貫して高く評価しているらしい点だけで、まことに失礼ながら、謹堂も眞壁も、典拠の信頼性を見極める能力という、研究者として求められる必要最低条件をクリアしていない、と言いたくなります。 
 太田コラムを読み込んでいる人々にとっては常識のはずですが、国際関係においては、国民の「順良/温順」度などというものは何の意味も持たないことはさておき、最重要であるところの、国としての侵略志向性、就中、日本に対する脅威度に関し、当時、露>米≒英、であったというのに、謹堂は、(そして、ひょっとしたら眞壁まで、)英>露>米、である(あった)と評価してしまっているのですから、呆れてしまうのは、私だけではありますまい。(太田)

(続く)