太田述正コラム#0635(2005.2.20)
<モンゴルの遺産(その4)>
チョイバルサンが1952年にソ連で病死すると、跡を襲ったツェデンバル(Yumjaagiyn Tsedenbal。1916??1991年)は1962年に、チョイバルサン時代の個人崇拝を批判します。そのツェデンバルは、1984年に失脚します。ベルリンの壁が崩壊した1989年に民主化運動が起こり、1990年に人民革命党は国家に対する指導性を放棄し、1992年には自由・民主主義を謳った憲法が制定され、国号が人民共和国から共和国(国家元首たる大統領と政府の長たる首相の二重権力性。その後の憲法改正で現在は議院内閣制に近い)に変更になります。
人民革命党は、1996年に総選挙で敗れ、政権の座を民主党(Democratic Party)に明け渡しますが、2000年には政権に復帰するという経過を辿った後、昨2004年には再び少数党に転落しため、民主連合(Motherland Democratic Coalition。民主党が中核)が人民革命党と連立政権を組み、現在に至っています。
民主連合(そして民主党)を率いる弱冠41歳のエルベグドルジ首相(Tsakhiagyin Elbegdorj。1963年??。1998年に一時首相)は、1989年にモンゴル初の政府から独立した新聞を発行し、民主化運動のリーダーになり、共産主義独裁体制の打倒に成功した人物です。
(以上、http://www.answers.com/topic/tsakhiagiyn-elbegdorj(2月20日アクセス)も参照した。)
大急ぎで20世紀に入ってからのモンゴル史をおさらいしてきましたが、現在のモンゴルで自由・民主主義が確立するまでのモンゴルの人々の不屈かつ高貴な戦いには心から敬意を表するほかありません(注6)。
(注6)日本の相撲が生き残るかどうかは、朝青龍を始めとするモンゴル出身力士の双肩にかかっている、と言っても過言ではない状況だが、彼らの母国について、われわれはもっと関心を持つべきではなかろうか。果たしてわれわれは、モンゴルの人々が外国(ソ連)の保護国的状況から自由になるために払った犠牲の百分の一でも、日本が外国(米国)の保護国的状況から自由になるために払ってきたかと思うと、改めて忸怩たる思いにかられる。
しかし、モンゴルと同じことが、どうしてロシア・中国・旧ソ連領中央アジアでは起こっていないのでしょうか。
この疑問を解明する鍵は、エルベグトルジ首相がチンギス・ハーンの復権運動を推進しているところにあります。
チンギス・ハーンこそ、モンゴルの自由・民主主義を育む土壌を象徴する人物であり、モンゴル人の誇りの拠り所でもあった、ということなのです。
(2)アフガニスタン
2002年10月に、「タリバン治下のアフガニスタンは、政教一致体制だったのであって、到底「近代」ないし「現代」全体主義独裁国家とは言えない代物でした。タリバン崩壊後、アフガニスタンは現在事実上米国等の軍事占領下にありますが、アフガニスタンには資源もなく、一足飛びに自由・民主化に成功するとは到底考えられません。」と述べ(コラム#65)、2004年12月に至ってもなお、「アフガニスタンもイラクも専制的統治の下にあったイスラム国ですが、イラクよりも、人的・産業的インフラが未整備で、より部族社会であり、自由・民主主義に係る経験にもより乏しいアフガニスタンで、自由・民主主義化の重要なステップとして<カルザイを正式に大統領に選出した>の選挙が成功裏に実施できた」と述べた(コラム#561)ところですが、英米での報道ぶりに引きずられたとはいえ、まことにもって見識不足でした。
アフガニスタンは、考えようによっては、イラクよりも自由・民主主義に係る経験を積んだ国だからです。
ポイントは、2002年7月に開かれ、カルザイをアフガニスタン暫定政府の大統領に選出したロヤ・ジルガ(loya jirga=大集会)をどう見るかです。
(続く)