太田述正コラム#9821(2018.5.13)
<眞壁仁『徳川後期の学問と政治』を読む(その66)>(2018.8.27公開)

 「安政2<(1858)>年8月に謹堂が頭取に任じられた洋学所・・・は、外交文書翻訳に直接的に関与した外国方<(注143)(コラム#9791)>(安政6年創設)に対して、洋学教育・出版およびその検閲などを行う機関であった。

 (注143)「1858年(安政5年)、海防掛であった井上清直と岩瀬忠震を全権として日米修好通商条約の交渉が行われた。条約締結の後海防掛は廃止しされ、代わって外交専門の機構として外国奉行が設置されることとなり、井上、岩瀬ら5人が任命された。主な仕事は、対外交渉などの実務。人数は不定で、一時期、神奈川奉行を兼任していた。上役は老中であったが、1867年にはこれを統括する外国惣奉行(若年寄格)が設置された。1868年廃止。
 役高は2000石、1年の給金は200両で、席次は遠国奉行の上であった。外国奉行の配下には支配組頭、支配調役、支配調役並、定役、同心といった役職があり、奉行とそれらの配下により「外国方」という部局を形成していた。また、「外国方」の優れた人物で形成される「御書翰掛」という重要機関があり、そこでは調役、通弁方、翻訳方、書物方といった役職が置かれ、外国からの文書の翻訳、外国との交渉案・外国へ送る文書の文章案の作成などに当たっていた。
 ただし、奉行のことを「方」と言い、外国奉行当人を指して「外国方」と呼ぶ場合もある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%96%E5%9B%BD%E5%A5%89%E8%A1%8C
 「遠国奉行(おんごくぶぎょう)は、江戸幕府の役職の一つ。江戸以外の幕府直轄領(御料(幕領・天領))のうち重要な場所に置かれ、その土地の政務をとりあつかった奉行。役方に分類される。遠国奉行首座は長崎奉行。
 幕末時点では京都町奉行・大坂町奉行・駿府町奉行の各町奉行と、長崎奉行・伏見奉行・山田奉行・日光奉行・奈良奉行・堺奉行・佐渡奉行・浦賀奉行・下田奉行・新潟奉行・箱館奉行・神奈川奉行・兵庫奉行の各奉行の総称である。伏見奉行は大名から、他は旗本から任ぜられた。
 老中の支配下で、芙蓉間詰諸大夫役。役高は1,000石から2,000石と任地により異なり、役料が支給されることもあった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A0%E5%9B%BD%E5%A5%89%E8%A1%8C
 井上清直(1809~68年)。「同じく旗本の川路聖謨は実兄。・・・天保13年(1842年)に寺社奉行吟味役、弘化4年(1847年)に勘定組頭格(この時点で御家人より旗本へ昇格)を歴任する。
 安政3年(1855年)、老中・阿部正弘の信任を得て下田奉行に就任。家禄二百俵高に家格上昇。翌年に<米>総領事・ハリスが下田に来航すると応接を担当し、ハリスの将軍・徳川家定への謁見や日米修好通商条約討議に奔走する。・・・外国奉行を兼任して<からは、露>・<仏>・<英>とも通商条約を締結した。安政6年(1859年)、将軍継嗣問題で一橋派に属していたため、南紀派の大老・井伊直弼によって一時小普請奉行に左遷されるも、間もなく軍艦奉行となり、海軍拡張に尽力した。
 文久3年(1862年)、南町奉行に就任するが、翌文久3年(1863年)に水野忠徳と共に小笠原長行の率兵上京に従ったために免職となる。元治元年(1864年)に3度目の外国奉行となり、勘定奉行公事方に転任。慶応2年(1866年)に関東郡代となり、同年に北町奉行に転任して混乱する江戸の収拾に努めるなどした。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%B8%8A%E6%B8%85%E7%9B%B4

⇒井上清直も、昌平坂学問所で学んだ形跡、従ってまた、学問吟味を通った形跡、がありませんね。なお、小笠原長行や彼の挙兵上京(京都)については、ここでは立ち入りません。(太田)

 洋学所<(注144)(コラム#1618、9857、9815)>(後に蕃書調所・洋書調所・開成所)に関する研究によって洋学所の設立建白とされるものには、三つの建議がある。

 (注144)「幕末の幕府の研究所。蕃書調所の前身。安政2 (1855) 年天文方蛮書和解御用を独立させ,江戸九段下に建立。初代頭取は古賀謹一郎<(謹堂)>。 」
https://kotobank.jp/word/%E6%B4%8B%E5%AD%A6%E6%89%80-145575

 時系列に沿えば、その第一は、嘉永6<(1853)>年7月に上げられた勝海舟の「教練學校」と附属の兵学に関する翻訳書出版の建議である。
 軍事面から兵制改革に関心を寄せる海舟は、ここで、「教練學校」の「御文庫」に「和漢蘭之兵書・銃學書何に寄らす」募集し、「天文學・地理學・究理學・兵學・銃學・築城學・器械學なとの研究」を幕臣や陪臣から人選して行わせ、「天下之裨益」になる翻訳書を出版し、その「官板にて世上に布告」させるという提案を行う。」(425~426)

⇒勝海舟は、幕臣としては珍しく、兵学、しかも、山鹿流、を学んでいた(コラム#省略)わけですが、昌平坂学問所で学んでいないこともあり、「武」だけで、「文」・・人文社会科学・・への関心が皆無としか思えない建議内容であることが、大変気になります。
 これでは、この建議の7年半後に、清で始められ、失敗に終わることとなる、洋務運動(中体西用)(注145)と違って、「中」に相当するものについての自覚すらなさそうな、軍事オタクの趣味的建議である、と言われても仕方ありますまい。(太田)

 (注145)「1840年から1842年にかけてのアヘン戦争、1856年から1860年にかけてのアロー戦争(第二次アヘン戦争)によって、清朝は近代<欧米>の軍事的優位を痛感した。また、1851年より国内で起こっていた太平天国の乱でも、曽国藩・李鴻章らが組織した郷勇(湘軍・淮軍)や、列強に組織された「常勝軍」が、清朝正規軍である八旗に代わって鎮圧の主力となった。この時期、魏源は『海国図志』<(前出)>で・・・西洋人の進んだ技術を用いて西洋人を制する・・・と主張し、馮桂芬『校🔵<(分偏におおざと)>廬抗議』で・・・<支那>の倫理を基本として、諸国の富強の技術で補う)を主張した。・・・
 咸豊10年12月初一日(1861年1月11日)、恭親王・・・は、<他2名>と共に『通籌夷務全局酌擬章程六條』を上奏し、洋務運動の開始を宣言した。
 洋務運動のスローガンは「中体西用」。つまり、伝統<支那>の文化や制度を本体として、西洋の機械文明の利用を目指<した>。・・・なお、「洋務」という語は、この運動が元来は海防を任務とする外国人に対する事務であったことに由来している。・・・
 <その後に行われた>明治維新<とは違って>・・・洋務運動は清朝を頂点とした儒教に基づいた政治体制をそのまま維持しようとした。宮廷では洋務派は常に守旧派と衝突し、1880年代半ば以降は恭親王・・・らの勢力が守旧派に圧倒され改革の勢いは衰えた。1884年から1885年の清仏戦争での苦戦は清軍の旧態依然の体制が時代遅れとなっていることを示し、・・・日清戦争での敗戦を以って、30年余りの洋務運動の挫折は明らかとなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%8B%E5%8B%99%E9%81%8B%E5%8B%95
 恭親王(1833~98年)は、「咸豊11年(1861年)の兄の死後、西太后・東太后<等>・・・と結んでクーデターを起こし、・・・宮廷内の権力を握った(辛酉政変)。<そして、>・・・甥の同治帝の摂政として君臨した。また曽国藩・李鴻章などの漢民族官僚を起用して洋務運動を支え、同治中興と呼ばれる清朝の国勢の一時的復興を実現した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%9B%E6%96%B0%E8%A6%9A%E7%BE%85%E5%A5%95%E3%82%AD%E3%83%B3

(続く)