太田述正コラム#9827(2018.5.16)
<眞壁仁『徳川後期の学問と政治』を読む(その69)>(2018.8.30公開)

 「・・・謹堂は、安政2年12月、古賀家三代が57年間棲み家とした学問所の官舎を後にする。・・・
 そして、再び昌平坂の官舎に戻ることはなかった。<(注151)>・・・

 (注151)「以後4年間は失職し、不遇の内に過ごす。慶応2年(1866年)製鉄所奉行として復職。翌年には目付となり、筑後守に補任される。江華島を巡るフランスと李氏朝鮮の紛争の仲介任務を託されるが、幕末の混迷により未遂に終わった。・・・
 明治維新後は、新設した大学校(昌平黌、蕃書調所の後身)の教授として新政府から招聘されたが、幕臣としての節を守り、幕府を滅ぼした薩長主体の政府に仕えることを潔しとせず、徳川家の駿府転封に伴い、静岡へ移住した。・・・明治6年(1873年)、東京に戻る。・・・明治17年(1884年)・・・67歳で死去。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E8%B3%80%E8%AC%B9%E4%B8%80%E9%83%8E

⇒耳タコ的かもしれませんが、謹堂は、最初から、行政官としてのコースを歩み、途中、31歳の時から蕃書調所頭取に任ぜられるまでの10年強、昌平坂学問所に儒者として籍を置いたけれど、その間にも、2度にわたるプチャーチン率いるロシア使節との交渉を行うという、行政官としての業務を行っており、頭取馘首後、分限処分
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%86%E9%99%90%E5%87%A6%E5%88%86
としての停職期間・・私の解釈・・を経て、再び、復帰し、以後、専ら行政官としての業務に従事した(事実関係は上掲)、というだけのことでしょう。(太田)

 海防掛は、勘定系(勘定奉行)と目付系(大目付・目付)の二系統から構成され、閣老からの外政問題諮問に対して答申で応えた。
 しかし、ペリー来航後の諮問においては、所属系統ごとに海防掛の答申が上げられるようになり、以後「車の両輪の如」き二系統の外交政策対立が顕在化し始める。・・・

⇒これは、前に私が指摘したことの単なる論理的帰結であり、眞壁が以下示唆しているように2つの「系」の組織文化の違いがその背景にあった、とは考えにくいものがあります。
 なお、後述するように、私は、そもそも、2つの「系」と形容するほどの組織文化の違いなどなかった、と見ているところです。(太田)

 <幕臣は、>目付と勘定間を交互に経験した事例もあるが、多くは勘定系と目付系のそれぞれの専門的業務を重ねて昇進し、各分野で獲得した知識と経験を基に行政をおこなった。
 政治的登庸過程も異なり、勘定系には勘定所<(注152)>の実施する筆写と算術試験の筆算吟味<(注153)>が課せられたのに対し、目付系の場合は、昌平坂学問所が実施する学問吟味及第者・・・が少数だが含まれ、安政期以降には多くの及第者が登用されることになる。

 (注152)「勘定所<は、>・・・勘定奉行を長官として、勘定吟味役・勘定組頭・勘定・支配勘定などで構成されていた。役所は、城内の「御殿勘定所」と大手門内の「下勘定所」のふたつがあった。御殿勘定所には「御殿詰」・・各役所からの諸経費などの書類の決裁、米相場や分限帳の検査・・と「勝手方」・・金座・銀座・朱座の監督や御家人の給米・・とに分かれており、下勘定所には天保5年(1834年)時点では「取箇(とりか)方」・・天領における徴税など経済面の事務・・「道中方」・・五街道の管理業務・・「伺方」・・運上金・冥加金、山林管理などの雑務の監督・経理処理・・「帳面方」・・各役所や郡代・代官から提出される帳簿を検査し、勘定奉行の可判を受けた上で決算書類を作成・・があり、その下にはさらに幾つもの業務が細かく分課されていた。・・・
 <なお、>享保6年(1721年)に、「勝手方」(農政財政関係)と「公事方」(訴訟関係)というふたつの部門に分割された。 」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%98%E5%AE%9A%E6%89%80
 「<そして、その>翌年<、>勘定奉行,勘定吟味役も双方に分かれ2人ずつ1年交代で勤務した。公事方は役宅で,勝手方は御殿,下勘定所で執務した。」
https://kotobank.jp/word/%E5%85%AC%E4%BA%8B%E6%96%B9-483269
 勘定奉行以外の奉行(寺社奉行・[江戸の町奉行のほか、大坂町奉行等の]町奉行)も、更には目付も、その職権が定められた範囲において司法権を持つ役職であり、司法権は勘定奉行のみが有した権限ではない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%BA%E5%A5%89%E8%A1%8C
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%9D%82%E7%94%BA%E5%A5%89%E8%A1%8C (←大阪町奉行の例)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%AE%E4%BB%98 (←目付)
 「評定所<は、>・・・江戸城外の辰ノ口・・・にあり、幕政の重要事項や大名・旗本の訴訟、複数の奉行の管轄にまたがる問題の裁判を行なった機関で、<江戸>町奉行、寺社奉行、勘定奉行と老中1名で構成された。これに大目付、目付が審理に加わり、評定所留役が実務処理を行った。とくに寺社奉行・<江戸>町奉行・勘定奉行は三奉行と呼ばれ、評定所のもっとも中心になる構成員であり、寺社奉行4人、<江戸>町奉行2人、公事方の勘定奉行2人を「評定所一座」と称した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A9%95%E5%AE%9A%E6%89%80
 (注153)訴訟と財政を扱う勘定方はそろばんと字を書くのが不得意では仕事にならず、<最初から、>世襲ではなく試験・・筆算吟味・・が行われ<た>。・・・試験科目は筆跡(習字)とそろばんである。」
http://kenkaku.la.coocan.jp/zidai/hatamoto.htm
 「勘定所には「筆算吟味」と呼ばれる採用試験があ<っ>た。幕府の試験制度としては「学問吟味」もあ<っ>たが、こちらがたとえ優秀な成績をとっても役職への登用が約束されたものではなかったのに対して、筆算吟味は採用試験であり、合格すれば採用され・・・た」
http://blog.livedoor.jp/yamasitayu/archives/52207026.html

 勘定方の川路聖謨の場合、17歳のときに受験した文化14年の学問吟味には落第し、同年の筆算吟味に及第して支配勘定出役に採用されたことが、その後の彼の幕吏としての職務と政治意識形成を決定した。

⇒眞壁は、筆算吟味と学問吟味とを、あたかも並列的なものであるかのように紹介していますが、前者は、初級行政官試験、但し、採用試験であったのに対し、後者は(その後設けられた)中・高級行政官試験、但し、資格試験であって、両者は、レベルや性格が異なったものであった、と見るべきでしょう。(太田)

 嘉永年間に勘定方から昌平坂学問所への厳しい批判が上げられることも、このような登庸や政治的社会化過程とも無縁ではないであろう。
 幕領の租税徴収権を掌握し特定の既得権益を管理するがゆえに、財政的専門知識を要し技術志向の強い勘定方とは対照的に、目付系には、幕府職制の全般的な組織や業務についての知識と、他方で政務を客観的・中立的に分析判断する能力が求められる。
 目付系は、おのおの老中や若年寄に向かって申し上げる権をもついわゆる「言路の官」<(注153)>として、政務監察の職務権限を、大目付が諸大名を、小目付が幕臣を対象として分掌した。

 (注153)言路とは、「君主・上役などに対して意見を述べる方法・手段」
https://kotobank.jp/word/%E8%A8%80%E8%B7%AF-493330
だが、「言路の官」という言い回しがそもそも存在したのかどうか、疑問なしとしない。

 その目的は、充分な自己謙抑の上で、諸役に、より公正で、効率的かつ合理的な行政活動を実現させることであった。
 目付の人事が、幕府職制のなかでは例外的に多数決によって客観的に決定されたことも、彼らの業務内容の性質と併行して考えられなければならない。・・・
 嘉永6年のペリー来航以後、海防掛が所属系統ごとに答申を上呈し始める背景には、このような互いに牽制し合う職掌配分と政治意識形成過程の相違に由来する、外交政策の方向性の違いが、次第に顕著になってきた事情もあるに相違ない。
 「内事外政両輪」の勘定系と目付系のバランスは、海防掛の人事と同様に、・・・外交使節に応対して交渉を行う異国応接掛の人事構成にも反映されたと考えられる。」(436、439、444~445)

⇒「勘定奉行就任者213名のうち、目付から長崎奉行を経て勘定奉行になった・・・者が108名と過半数を占め、これは標準的な出世コースであった<ところ、>・・・勘定組頭→勘定吟味役→勘定奉行と叩き上げで奉行になった者は23名、全体の10%ちょっとにすぎませんが、これが勘定所の特異なところであり・・・町奉行において、与力や同心から町奉行に上り詰めたものは一人もい<ないけれど>、勘定所では末端職員からトップへの出世が可能でした」
http://blog.livedoor.jp/yamasitayu/archives/52207026.html
ということや、「目付<は、>・・・旗本、御家人の監視や、諸役人の勤怠などをはじめとする政務全般を監察した。一部の犯罪については裁判権も持っていた。有能な人物が任命され、後に遠国奉行・町奉行を経て勘定奉行などに昇進するものが多かった。町奉行に就任するためには、目付を経験していることが必須であった。老中が政策を実行する際も、目付の同意が無ければ実行不可能であり、将軍や老中に不同意の理由を述べる事ができた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%AE%E4%BB%98
ことからして、(明治維新以降の、大蔵省と内務省の競い合いのことが、彼の先入観になっているのかもしれませんが、)眞壁のように、(組織文化の違いを云々する以前に、)昇任経路を勘定系と目付系とに分けること自体に無理がある、と思います。
 (なお、大目付は、「江戸幕府では職制上は老中の下に属し、大名・高家及び朝廷を監視して、これらの謀反から幕府を守る監察官の役割を持った<が、>・・・江戸時代中期になると、従来の監察官としての色彩よりも伝令(幕府の命令を全国の大名に伝える役)や殿中(江戸城中)での儀礼官としての色彩が濃くなり、名誉職・閑職とみなされるようになっていった」ところです。)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%9B%AE%E4%BB%98 (「」内)(太田)

(続く)