太田述正コラム#9829(2018.5.17)
<眞壁仁『徳川後期の学問と政治』を読む(その70)>(2018.8.31公開)

 「嘉永6年6月のアメリカ使節ペリーの浦賀来航に続いて、同年7月18日に長崎に入港したのが、ロシア極東艦隊司令長官で遣日使節のプチャーチンが率いる四隻の艦隊であった。・・・
 <この>ロシア使節との長崎・下田での外交交渉については、応接掛のなかで交渉の中軸を担った<のが>勘定奉行川路聖謨<(注154)(コラム#4547、9655、9692、9779、9821、9827)だった。>・・・

 (注154)かわじとしあきら(1801~68年)。「豊後国日田(現・大分県日田市)に、日田代官所属吏・・・の長男として生まれた。・・・文化5年(1808年)、父・・・は江戸に出て御家人株を入手し、幕府徒歩組に編入された。文化9年(1812年)、<聖謨>は12歳で小普請組の川路<某>の養子となる。翌年・・・小普請組に入る。文化14年(1817年)、勘定奉行所の下級吏員資格試験である筆算吟味に及第。文政元年(1818年)に勘定奉行所支配勘定出役という下級幕吏に採用され、支配勘定を経て御勘定に昇進、旗本となる。その後、寺社奉行吟味物調役として寺社奉行所に出向。この時仙石騒動<(前出)>を裁断しており、この一件によって勘定吟味役に昇格、その後、佐渡奉行を経て、老中・水野忠邦時代の小普請奉行、普請奉行として改革に参与した・・・。・・・水野忠邦が天保の改革で挫折して失脚した後、奈良奉行に左遷されている。・・・
 その後、大坂東町奉行をへて、嘉永5年(1852年)、公事方勘定奉行に就任。・・・。翌嘉永6年(1853年)、阿部正弘に海岸防禦御用掛に任じられ、黒船来航に際し開国を唱える。また同年、長崎に来航したロシア使節・・・プチャーチンとの交渉を大目付格槍奉行の筒井政憲、勘定吟味役・村垣範正、下田奉行・伊沢政義、儒者・古賀謹一郎と共に担当し、安政元年(1854年)に下田で日露和親条約に調印。・・・
 安政5年(1858年)には堀田正睦に同行して上洛、朝廷に日米修好通商条約の承認を得ようとするが失敗、江戸へ戻った(条約は弟の井上清直<(前出)>と岩瀬忠震が朝廷の承認が無いままタウンゼント・ハリスと調印)。井伊直弼が大老に就任すると一橋派の排除に伴い西丸留守居役に左遷され、更に翌年の8月27日にはその役も罷免されて隠居差控を命じられる。文久3年(1863年)に勘定奉行格外国奉行に復帰するも、外国奉行とは名ばかりで一橋慶喜関係の御用聞きのような役回りに不満があったようで、病気を理由として僅か4ヶ月で役を辞する。・・・
 慶応4年(1868年)、割腹の上ピストルで喉を撃ち抜いて自殺した。・・・忌日・・・は新政府軍による江戸総攻撃の予定日であった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E8%B7%AF%E8%81%96%E8%AC%A8

⇒川路こそ、眞壁のイメージにおける、勘定系のたたき上げを代表する人物なのでしょう。
 この、いわばノンキャリの出世頭とも言うべき人物くらいしか、幕府の滅亡に殉じた者がいなかった、とは、幕府がいかに落ちぶれた存在に堕していたかを語って余りあるものがあります。
 なお、上掲のウィキペディアは、筆算吟味を「下級吏員資格試験である」と比較的正しく捉えていますね。(太田)

 従来の多くの研究のように、徳川齋昭の「ぶらかし策」<(注155)>を忠実に、しかも卓抜の外交手段をもって遂行した川路聖謨をこの談判の「主役」とするならば、交渉の「脇役」たちの経験や政策論争が後景に退き、あるいはまったく見えなくなってしまう・・・。・・・

 (注155)「ペリー来航後,阿部正弘は,斉昭を幕府の海防参与にしその声望を利用したが,斉昭は,交渉を引き伸ばして,その間,軍事力強化を図る「ぶらかし策」を主張。安政2(1855)年,幕府の軍制改革参与。開国の進展により最終的に鎖攘を望む斉昭は孤立し,同年の安政大地震で藤田東湖,戸田忠太夫が死亡すると,その意見は硬直化した。4年,堀田正睦政権が成立すると幕府の開国政策への批判を強め朝廷に入説して開国阻止に努力。5年7月,井伊直弼政権の日米修好通商条約無断違勅調印を聞いて不時登城し井伊を責めたが,逆に急度慎みの処分を受ける。翌8月に幕府の開国政策を否定する密勅(戊午の密勅)が降下し諸藩への廻達を企図したが幕府の圧力で断念。翌年8月,水戸永蟄居,廻達を叫ぶ激派に対し鎮静を命じた。松平慶永に「自分は従来の経緯があるから攘夷を主張するが,若い人は開国を主張せよ」といったという。」
https://kotobank.jp/word/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%96%89%E6%98%AD-19090
 急度(屹度。きっと)とは、「自身の事柄に関しては決意を、相手に対しては強い要望を表す。必ず。」の意。
https://kotobank.jp/word/%E5%B1%B9%E5%BA%A6%E3%83%BB%E6%80%A5%E5%BA%A6-241751

 <自分は、>日本側の交渉が共同作業であり、応接掛内部には複数の政策主張があったとする<説に与しているが、>先行研究のいま一つの問題点は、「開国か開戦か」の二者択一を克服する方法として徳川齋昭や川路聖謨らによって構想された明確な返答を避け曖昧に対応して「内戦外寛」し「ぶらかし」続けるという政策が、果たして「残された唯一の願望」であったのかどうか、その政策評価を欠いていることにある。・・・

⇒そもそも、当時、(大名レベル以上における、将軍後継を巡る一橋派と南紀派の抗争こそあったものの、)幕臣達の間で、支那や朝鮮における党争
https://kotobank.jp/word/%E5%85%9A%E4%BA%89-103816
的なものや下克上的な気運があった話など、ついぞ聞いた試しがありません。
 しかも、対露交渉に至っては、訓令に基づいて行われた実施業務であったわけですから、川路らに関しては、基本対処方針に関して裁量の余地など皆無であって、幕閣・・事実上は海防参与の齋昭の訓令であったところ・・・の「ぶらかし策」、に忠実に従ったに違いないのです。
 眞壁は、ここでも、無理筋の問題提起を行っています。(太田) 

 この「ぶらかし」政策が決して手を尽くした賢明な外交ではなく、むしろ徳川幕府の外交政策を誤らせたとする歴史認識は、幕府倒壊後の木村芥舟<(前出)>や田邊蓮舟<(太一)(前出)>にも共有されていた。」(449、459~461)

⇒幕府が滅びたのは、そういう次元の話によってではなく、さんざん予鈴があったにもかかわらず、欧米から学び、体制を刷新し、軍事力を強化する、という当然なすべきことを怠り続けたためであって、その拠って来る所以は、幕臣の公教育における、一貫した兵学軽視にあった、というのが私の見解であるわけです。(太田)

(続く)