太田述正コラム#10042(2018.9.1)
<皆さんとディスカッション(続x3817)/アジア主義の系譜(追補)/江戸時代の選良教育–その負の遺産(その1)>
<太田>(ツイッターより)
「EU欧州委員長–サマータイム廃止提案へ–8割超が望む…」
https://mainichi.jp/articles/20180901/k00/00m/030/030000c
スタンフォード大学留学中に、週末の寮食でのブランチを、タイム切り替えを忘れていて、都合2回食いそこねるという、惨めな目に遭った私の経験に照らしても、日本での、占領期(!)以来の夏時間再導入には反対だ。
82歳直前に亡くなった息子、ジョン・マケイン米上院議員の葬儀に106歳の母親が車椅子で列席。
マケインが生前自分の葬儀への出席を拒否していたトランプに代わってペンス副大統領夫妻が列席。
http://time.com/5383959/roberta-mccain-john-mother-funeral/、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%82%B1%E3%82%A4%E3%83%B3
私的ドラマと公的ドラマが交錯。米国自身の葬儀なのかも。
<太田>
それでは、その他の記事の紹介です。
「藤井聡太七段–第49期新人王戦で初の4強入り–準決勝相手は青嶋未来五段・・・」
https://news.infoseek.co.jp/article/sponichin_20180831_0130/
<解説は、また、アユム氏のがないので、これで代替。↓>
https://www.youtube.com/watch?v=XSJAywuxPRs
ロシア、ウクライナ、から、中東一帯、は、まだ近代世界じゃないね。
下手人がウクライナかロシアか、分からないってさ。↓
Ukraine crisis: Blast kills top Donetsk rebel Zakharchenko・・・
https://www.ft.com/content/0835615e-aaa5-11e8-8253-48106866cd8a
相変わらず、イギリス人に成りきったようなインド人がいて、彼が、英国のインド統治に係る2冊の本の寝惚けたような書評を書いている。↓
What did the British achieve in a century in India? ・・・
https://www.ft.com/content/0835615e-aaa5-11e8-8253-48106866cd8a
そりゃ、幻想とは言えないでしょ。↓
「韓国が「中国はG2」という幻想から覚める時・・・」
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2018/08/31/2018083101741.html
何が言いたいのかよく分からんぞ。↓
「「義和団」に等しい韓国の反中ムード・・・」
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2018/08/31/2018083101740.html
中共官民の日本礼賛(日本文明総体継受)記事群だ。↓
<人民網より。
ムヒ。↓>
「広西壮族自治区のハチミツが日本に26年ぶりの輸出再開・・・」
http://j.people.com.cn/n3/2018/0831/c94473-9496156.html
<日中交流人士モノに韓国を加えたモノ。↓>
「第10回中日韓文化大臣会合開かれる 黒竜江省ハルビン
http://j.people.com.cn/n3/2018/0831/c94473-9496058.html
<ムヒヒ。↓>
「日本で発見された蘇軾の作品が香港で公開 その価値およそ57億円・・・」
http://j.people.com.cn/n3/2018/0831/c94638-9496050.html
<ここからは、サーチナより。
定番。↓>
「日本を訪れる同胞を罵るのはやめよう! 日本には魅了される理由がある・・・中国メディアの快資訊・・・」
http://news.searchina.net/id/1666429?page=1
<こんなんがあるとは、知らなんだ。↓>
「中国メディア・東方網は・・・「日本のカプセルホテルがこんなにクールだとは思わなかった これを体験しない人生は残念だ」とする記事を掲載した。記事の作者が賞賛したのは、進化系のカプセルホテルだ。・・・」
http://news.searchina.net/id/1666435?page=1
<根源に、(元は同じ文明に属していたが故の)近親憎悪が双方あるのよ。↓>
「中国メディア・東方網は・・・「韓国人が日本人を嫌うのは分かるのだが、どうして日本人も韓国人のことを嫌うのだろうか」とする記事を掲載した。
記事は、このほど米国の質問掲示板サイト上で中国のユーザーが「韓国人が日本人を嫌うのは不思議ではないのだが、どうして日本人も韓国人を嫌悪するのか」との質問を書き込んだとしたうえで、これに対して日本人や韓国人と思しきネットユーザーが寄せた回答を紹介している。
まずは、日本人が韓国人を嫌う理由についての回答として「韓国人は手前味噌を並べるのが好きなほか、公共の場所で他人に対する配慮が足りない」というおそらく日本人から見た言い分と、「嫌悪するというより、見くびっているという表現の方が正確だろう。日本人は私たちを発展していない隣人だと見下している。文明的に開けていないと認識しているのだ」という韓国人サイドの主張を取り上げた。
また、「サムスンとLGが日本のテレビ分野の主導的地位を奪ったからだ。さらに、現代や起亜もホンダやトヨタを追い上げている。不幸なことに、経済競争が双方の憎しみを生んだ原因なのだ」という分析も伝えている。
その一方で、「そもそも韓国人は日本人のことを嫌っていない」とする意見も紹介。この回答者は「韓国人に根深い被害者意識があるのは間違いないが、総じていえば韓国人は決して感情的に日本人を恨み憎んでいるわけではない。一部の日本人は、韓国が抗日プロパガンダを教育カリキュラムの一部に組み込んでいるから韓国人は日本が嫌いなのだと言う。しかし、事実はそうではない。韓国は歴史の事実をカリキュラムの一部にしているだけだ」としており、おそらく韓国のネットユーザーによる意見だろう。」
http://news.searchina.net/id/1666441?page=1
<オモシロイ視点と言えばそうだが・・。↓>
「・・・中国メディアの快資訊は・・・「なぜ中国人は自ら日本に移り住むのか」と疑問を投げかける記事を掲載した。
こうした嘆きの背景には、日中の歴史的背景から生じた反日感情のほか、幼い頃から中国人が受けて来た愛国教育も関係しているのだろう。一方で、近年は日本に魅力を感じて旅行で訪れるだけでなく、仕事や留学などで日本に移り住む中国人が増えていることは中国人にジレンマを感じさせるようだ。
記事は、「日本の街中で見る着物姿の女性のほとんどが中国人である」と指摘し、多くの中国人は日本の文化を気に入り、「日本に旅行するだけにとどまらず、留学を選ぶ若者も多い」と主張。さらに「卒業後は日本に国籍を移し、自衛隊に加入する人までいる」と主張した。こうした選択について、自衛隊に加入すると様々な福利厚生を受けることができるので、自衛隊を仕事として目指すのも「日本では通常のことで、個人で選択できる権利なのだ」と説明した。
そして自衛隊に入る中国人はごく一部であるとしつつも、「日本に国籍を移し、自衛隊に加入する中国人は、少なからず同胞から軽蔑される」と指摘した。中国と日本では国防に関する制度が大きく異なるため、自衛隊は中国人からすると軍隊と同様に感じられるのだろう。また、今でも軍国主義時代の旧日本軍を題材とにした抗日ドラマが放映されているゆえ、自衛隊と言っても旧日本軍を連想させるのかもしれない。
また記事は、多くの中国人が日本の文化に魅了されている理由について、「中国では古くからの文化や伝統を自ら捨て去り、保存してこなかったゆえに、中国から伝わった文化が残る日本に魅了されているのではないか」と嘆いている。」
http://news.searchina.net/id/1666455?page=1
<分かる分かる。↓>
「・・・中国メディア・東方網は・・・「中国なら廃車になるオールドカーが、日本ではまだ走っている 中国の自動車ファンにとっては羨ましい」とする記事を掲載した。
記事は「中国のオールドカーファンは、クラシックな自動車のデザインや美しさを、アルバムや博物館でしか見ることができない。しかし、お隣の日本では、実際に路上を走行しているのを見ることができるというから羨ましい。自動車好きの中国人観光客の多くは、日本にやって来て古い車を見かけては記念写真を撮るのに夢中になるのだ」と紹介した。
そのうえで、日本には中国とは異なり「強制的な廃車制度」がないことを指摘。自動車大国の日本では、毎年数多くの新車が路上に出現するが、その一方で年季の入った自動車が生存ずる余地も残されているのだとした。そして、日本では原則2年に1度車検を通りさえすれば走行距離や使用年数に関係なく公道を走ることが許されると伝えている。
記事は、毎年強化される環境基準に到達しないものは淘汰されるほか、使用年数が長い自動車は自動車税が高くなるなど、新車の購入を促す流れはあるものの「一刀両断で古い車にナンバーを与えず公道走行を禁止するわけではない政策に、人に対する思いやりを感じる」と評した。そして、過去の名車が強制的に公道から排除されるのは実に残念であり、中国でも今後自動車の管理政策がよりフレキシブルになることを望んで文章を締めくくった。」
http://news.searchina.net/id/1666457?page=1
<伊藤は武士だったが李鴻章はそうじゃなかった、で終わりだよ。↓>
「中国メディア・東方網は・・・「伊藤博文は日本を変えることができたのに、どうして李鴻章は中国を変えられなかったのか」とする記事を掲載した。
記事は、19世紀末において中国の首輔大臣を務めた李鴻章と、日本初の首相を務めた伊藤博文は、生きた時代も地位もほぼ同じであり、さらに富国強兵の夢を抱いていた点でも共通すると紹介。しかし、「似た者どうし」にリードされた両国のたどった道は全く異なるものとなり、清王朝が崩壊の道を辿る一方、日本帝国は飛躍的な発展を遂げるに至ったとしている。
そのうえで、1901年に李鴻章が死去した際、当時活躍していたジャーナリストの梁啓超が著作のなかで両者の比較分析を行っており、李鴻章は政治的な見識や客観的な視点という点において、伊藤と比べ物にならないほど劣っていたと指摘していたことを伝えた。
梁啓超によれば、李鴻章は「国民の原理を知らず、世界の大勢を知らず、政体の根本を知らない」、「洋務は知っていても、国務は知らない」、「兵事を知っていても民事は知らない」、「外交は知っていても内治は知らず、朝廷は知っていても、国民は知らない」とのことで、「李鴻章は時代が作ったヒーローだが、時代を作ったヒーローではない」という。
一方で、伊藤については幕末期に短期間ながらも英国に留学して見識を広め、政治の根本を理解していたと説明。また、日本の政治家の中でも勉強家で読書癖があることで知られており、首相になっても書店で本を読むことは止めなかったとのエピソードを紹介している。
記事は、「伊藤は憲法を制定して日本の長期的な安定を図ったのに対し、李鴻章は足を新時代に踏み入れながら、頭が旧時代に残ったままの状態で、西洋の学問に対する理解も終始浅薄な表面上のものに留まっていた」と伝えた。」
http://news.searchina.net/id/1666458?page=1
<ここまで言い切ったのは初めてかな。↓>
「日本を訪れた絶対に行くべき場所、それは「生鮮市場」だ・・・中国メディアの騰訊・・・」
http://news.searchina.net/id/1666459?page=1
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<太田>
ASUS上の作業です。
>4. 手順2で貼り付けた[madVR]フォルダーにアクセスしてください。
5.
一[install.bat]上で右クリックして、
二展開したメニューの[管理者として実行(A)]をクリックしてください。
そもそも、madVRフォルダの中身は全部見えており、個々のファイルは圧縮されていないようですが、フォルダそのものは、圧縮されている表示のままです。
とにかく、Program Filesにこのフォルダを貼り付けたけれど、[install]・・
バッチファイルと説明されているので間違いないでしょうが、[.bat]が表示されていません・・ファイルを右クリックしても、[管理者として実行(A)]がメニュー中に表示されません。
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一人題名のない音楽会です。
本日のオフ会「講演」の主テーマの主舞台が、大正末期から戦前の昭和期にかけてなので、当時の雰囲気の一端を想像していただけるのではないか、と、1923年(大正12年)に作詞作曲された「月の沙漠」小特集をお送りします。
ずっと以前にも、大好きな曲だと書いたことがあると思いますが、この歌は、作詞者の加藤まさをによれば、「念頭に置かれていたのはアラビアの情景だった」が、「学生時代に結核を患った加藤が、保養のために訪れた御宿海岸(千葉県)の風景から発想した」ともされており、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%88%E3%81%AE%E6%B2%99%E6%BC%A0
私にとっては、少年時代を過ごしたエジプト(のサハラ砂漠)と幼年時代の四日市の海水浴場の双方を連想させる、思い出深い作品でもあります。
月の沙漠(小鳩くるみ)
https://www.youtube.com/watch?v=B07HUPmnM7A
月の沙漠 芹洋子
https://www.youtube.com/watch?v=02_QRpvOcOU
月の砂漠 森繁久彌
https://www.youtube.com/watch?v=CMU07ioy9ZY
月の砂漠(スザンヌ・ハード)~英語バージョン<The desert of the moon >
https://www.youtube.com/watch?v=4ivYeqroSHM
石原裕次郎月の砂漠(アカペラ)
https://www.youtube.com/watch?v=SrszOxZaQQs
山崎ハコ。
https://www.youtube.com/watch?v=asOHTQU2Ekg
川田正子
https://www.youtube.com/watch?v=okaimGQu2LI
月の砂漠 (歌: フォレスタ フランク永井)
https://www.youtube.com/watch?v=bHLJGzrzuO8
月の砂漠 安田シスターズ
https://www.youtube.com/watch?v=yk8zbCxu5v4
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–アジア主義の系譜(追補)/江戸時代の選良教育–その負の遺産(その1)–
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–目次–
第0部 始める前に
第1部 アジア主義の系譜(追補)
1 始めに
2 人物篇
(1)帝国陸軍
〇山縣有朋
〇高島鞆之助
〇福島安正
〇宇都宮太郎
[宇垣一成の位置付け]
〇武藤信義
〇渡辺錠太郎
〇真崎甚三郎
[林銑十郎の位置付け]
〇荒木貞夫
〇小畑敏四郎
〇今村均
〇武藤章
(2)一般
●北一輝
●近衛文麿
3 事項篇
[軍部大臣現役武官制]
[二個師団増設問題]
[国本社]
[バーデン=バーデンの密約]
[木曜会/一夕会]
[陸軍省人事局補任課]
[統制派と皇道派]
[永田鉄山の事績を通して皇道派統制派抗争説を切る]
[対支一撃論]
4 歴史篇
[排日移民法]
[濱口首相遭難事件]
[三月事件]
[満州事変]
[十月事件]
[血盟団事件/五・一五事件/相沢事件、から、二・二六事件へ]
[日支戦争]
[通州事件]
[対英のみ開戦論]
[関東軍特種演習(関特演)]
[大東亜戦争]
5 エピローグ
[日本の1939年末~45年8月の事実上の最高権力者が杉山元である所以]
[島津斉彬コンセンサス信奉者達の堕天使達 ◎柳川平助◎山下奉文]
[テロ・クーデタについて]
[先の大戦時の非陸軍選良達の安保音痴ぶり]
[現在の最大公約数的帝国陸軍観]
6 終わりの終わりに
第2部 江戸時代の選良教育–その負の遺産(その1)
1 幕末公教育の転換
(1)始めに
(2)蘭学
(3)西洋医学所
(4)洋学所
[和学講談所]
[大村益次郎暗殺]
(5)参考:講武所
[幕末の西洋兵学受容]
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第0部 始める前に
ホームページに掲げたご案内では、「江戸時代の選良教育–その負の遺産」をお話しすることになっているのですが、前回の補足である、「アジア主義の系譜(追補)」の部分が膨れ上がってしまい、結果的には、選良教育の話は、導入部分だけにとどめざるをえなくなってしまったことを、最初にお断りしておきます。
第1部 アジア主義の系譜(追補)
1 始めに
本日の前半というよりも、大半のお話は表記についてであるわけですが、一、陸軍において、長州閥も薩摩閥も、そして当然ながらその両者の抗争、も存在しなかった、二、皇道派も統制派も、そして当然ながらその両者の抗争、もまた存在しなかった、三、山縣有朋(1838~1922年)・・彼に関しては、一とも関係する・・と福澤諭吉(1835~1901年)は、それぞれ、明治期の、官界と民間における、代表的な(私の言うところの)島津斉彬コンセンサス信奉者だった、という三点が、私のこれまでの主張の修正・・撤回ではなく、弁証法的発展です(?!)・・部分を含むところの、今から私がするお話の眼目である、ということを、まずもって申し上げておきます。
さて、幕末において、島津斉彬コンセンサス信奉者達が密かに掲げた諸目標は、第一に、戦争遂行可能な国家の構築、第二にロシアの脅威の解消、第三にアジアの解放、であった、というのが私の見方である、ということを、ここで、改めて、強調しておきたいと思います。
かかる島津斉彬コンセンサス信奉者達が、まず成し遂げたのが、第一に係るところの、明治維新であり、これでもって、彼らは、自分達の信奉するコンセンサスの妥当性を確信するに至ったはずであって、国力の相対的強化の進捗を念頭に置き、第二は中期目標、第三は長期目標、とする、という暗黙の了解が、彼らの間でその時点で事実上成立した、と想像されるところ、大正中期から昭和初期にかけての国際情勢の激変を受け、彼らの後継者達は、第二と第三の目標の前倒しかつ同時達成を期さざるをえないと方針を転換し、私の言うところの昭和維新・・下からの具体的プログラムを欠いていた社会通念上の昭和維新
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%AD%E5%92%8C%E7%B6%AD%E6%96%B0
ではなく、上からの具体的プログラムを伴っている昭和維新・・を企画し遂行するに至った、と私は見ており、その結果として、第三の目標を概ね達成するとともに、第二の目標に関しては、かねてよりその中間目標であったところの完全抑止・・長期目標は無害化・・、に成功した、というのが、アジア主義の系譜に係る、前回の本編と今回の追補篇、を通じての、私の主張の主題であるわけです。
その際、この後継者達は、明治維新の成功諸体験に学び(引きずられ?)、それらを再実行することで昭和維新を遂行しようとした、というのが、私の仮説です。
(もとより、明治維新は、孝明天皇が、縄文モードから弥生モードへのモード転換示唆を行ったという背景の下で行われ、昭和維新は、昭和天皇が、弥生モードから縄文モードへのモード転換示唆を行ったという背景の下で行われた、という大きな違いはあるのですが・・。)
まず、明治維新における「徳川幕府」に相当する、昭和維新における「敵」は何か、ですが、国内では、アングロサクソン文明継受にこだわり続ける政界・財界コンプレックスであり、国外では、ソ連、及び、欧米、並びに、その傀儡(蒋介石政権)、というわけで、強いて名付ければ、「アングロサクソン・アンシャンレジーム」、といったところでしょうか。
そして、明治維新の際における、島津斉彬コンセンサス信奉者中、統制に従わない者達を粛清・・桜田門外の変に関与した薩摩藩士達の粛清、寺田屋事件におけるそれ・・するとともに、横井小楠コンセンサス(のみ)信奉者達を懐柔しつつ利用した・・薩長同盟等・・、という経験に学び、昭和維新の際にそれらを再実行した・・前者は荒木貞夫、真崎甚三郎等の粛清、後者は永田鉄山軍務局長等や青年将校等の利用・・と見るわけです。
なお、明治維新の際の島津斉彬に相当する、昭和維新の際の黒幕は杉山元であった、という指摘を、私は、前回、既にしたところです。
それでは、明治維新の際の徳川慶喜に相当する者は、昭和維新では一体誰だったのでしょうか?
それは、強いてあげるなら、宇垣一成でしょうね。
また、明治維新の際の王政復古のクーデタに相当するクーデタは昭和維新でも起こったのでしょうか?
既遂と未遂の違いこそあれ、起こりました。
但し、それは、どちらも未遂に終わったところの、五・一五事件でもニ・二六事件でもなく、同様未遂におわった、1931年(昭和6年)の三月事件でしょう。
なお、奇しくも、明治維新は、非武士のみならず、幕府・御三家、それに親藩の過半、が軍事音痴という国内環境の下で遂行されたのに対し、昭和維新は、非軍人の大部分が軍事音痴という国内環境の下で遂行されたところです。
更に一言。
今回の私の話で、(脇役でしかなかったとはいえ、)海軍もカバーした方がベターであったことは、重々承知していますが、それは、今後の課題ということで、今回は省かせていただいています。
以上、申し上げたことを念頭に置いて、以下の私の話をお聞きください。
(なお、構成上、同じ話が何度も出てきて、まことに恐縮ですが、繰り返しによって、理解が深まることもあろう、と、ずうずうしく「忖度」させていただいています。)
2 人物篇
(1)帝国陸軍
〇山縣有朋(1838~1922年)<西郷隆盛・西郷従道>
「萩城下近郊の阿武郡川島村(現在の山口県萩市川島)に、長州藩の中間・・・の長男として生まれる。<すなわち、>足軽以下の・・・身分ながら、将来は槍術で身を立てようとして少年時代から槍の稽古に励んでいた。また父から勉強を教えられ、藩に出仕して下級役人として勤めながら文武に励んだ。
しかし幼少期から青年期に両親を相次いで失い、親代わりに育ててくれた祖母も元治2年(1865年)3月に謎の入水自殺を遂げ、家族に先立たれ寂しい青春を過ごしたことが山県の性格に大きな影響を与え、真面目だが猜疑心が強く簡単に人を信用しない人物に成長していった。この頃、友人・・・らに松下村塾への入塾を勧められるも、「吾は文学の士ならず」として辞退したともいわれる。
安政5年(1858年)7月、長州藩が京都へ諜報活動要員として派遣した6人のうちの1人として、松下村塾から選ばれた・・・伊藤俊輔(後の伊藤博文)らと共に上京し、尊王攘夷派の大物であった久坂玄瑞・梁川星巌・梅田雲浜らに感化を受け10月の帰藩後に久坂の紹介で吉田松陰の松下村塾に入塾したとされる。
⇒この頃の西郷隆盛の動静は、ざっと次の通りです。↓
「11月、藍玉の高値に困っていた下関の白石正一郎に薩摩の藍玉購入の斡旋をし、以後、白石宅は薩摩人の活動拠点の一つになった。12月、江戸に着き、将軍継嗣に関する斉彬の密書を越前藩主・松平慶永(春嶽)に持って行き、この月内、橋本左内らと一橋慶喜擁立について協議を重ねた。安政5年(1858年)1、2月、橋本左内・梅田雲浜らと書簡を交わし、中根雪江が来訪するなど情報交換し、3月には篤姫から近衛忠煕への書簡を携えて京都に赴き、僧・月照らの協力で慶喜継嗣のための内勅降下をはかったが失敗した。
5月、彦根藩主・井伊直弼が大老となった。直弼は、6月に日米修好通商条約に調印し、次いで紀州藩主・徳川慶福(家茂)を将軍継嗣に決定した。7月には不時登城を理由に徳川斉昭に謹慎、松平慶永に謹慎・隠居、徳川慶喜に登城禁止を命じ、まず一橋派への弾圧から強権を振るい始めた(広義の安政の大獄開始)。この間、西郷は6月に鹿児島へ帰り、松平慶永からの江戸・京都情勢を記した書簡を斉彬にもたらし、すぐに上京し、梁川星巌・春日潜庵らと情報交換した。7月8日、斉彬は鹿児島城下天保山で薩軍の大軍事調練を実施した(兵を率いて東上するつもりであったともいわれる)が、7月16日、急逝した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E9%83%B7%E9%9A%86%E7%9B%9B
このように、山縣の動静と西郷の動静双方に、梁川星巌と梅田雲浜が登場する、ということから、この時点で、山縣は西郷の知己にもなった可能性が高く、西郷を通じて、島津斉彬の考え方を吹き込まれた山縣が、拡大薩摩藩の一員、になった、との想像さえ可能でしょう。
ところで、白石正一郎(1812~80年)は、「鈴木重胤から国学を学び、重胤の門下生を通じ西郷隆盛が正一郎を訪ね親しくなり、文久元年(1861年)には薩摩藩の御用達となった。・・・長州藩の高杉晋作、久坂玄瑞らを資金面で援助した。土佐藩を脱藩した坂本龍馬なども一時、白石邸に身を寄せていた。文久3年(1863年)6月7日、高杉晋作の奇兵隊結成にも援助し、自身も次弟の白石廉作とともに入隊。正一郎は奇兵隊の会計方を務め、7月には士分に取り立てられた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E7%9F%B3%E6%AD%A3%E4%B8%80%E9%83%8E
という人物ですが、彼もまた、西郷の縁で、山縣と相前後して、彼については、拡大薩摩藩の一員、になった、と言い切っていいでしょう。
この白石、や、恐らくは山縣、の画策を通じて、長州藩は薩摩藩に取り込まれて行くのです。
(坂本龍馬の「薩長同盟」締結への貢献は誇張されている、と私は考えています。その坂本龍馬すら、本人にその自覚があったかどうかはともかく、客観的には、西郷によって操られていたところの、拡大薩摩藩の一員だった、と見てよいのではないでしょうか。)
もとより、その西郷を、(自身の逝去後を含め)斉彬が操っていたわけですが・・。(太田)
松陰門下となったことは出自の低い山県や伊藤らが世に出る一助となったと考えられる。山県が入塾したとされる時期から数か月後に松陰は獄に下り刑死することになったため、山県の在塾期間は極めて短かったと考えられる。しかし彼は松陰から大きな影響を受けたと終世語り、生涯「松陰先生門下生」と称し続けた。
⇒山縣が、それまでの考えを改めて松下村塾に入ったことも、「生涯「松陰先生門下生」と称し続けた」ことも、長州藩の上層部に山縣を食い込ませるために、西郷らが「指示」したということではないか、と想像したくなります。(太田)
文久3年(1863年)2月に再度京都へ向かい、滞在中に高杉晋作と出会い親しくなる。高杉の6月の奇兵隊創設と共にこれに参加し、武芸や兵法の素養を活かして頭角を現す。高杉は身分にとらわれずに有能な人材を登用したため、低い身分であった伊藤や山県などが世に出るきっかけを与えた。松下村塾と奇兵隊の存在により、幕末の長州藩からは伊藤や山県のように、足軽以下の平民と大差ない身分の志士が多く出ている。・・・
慶応3年(1867年)4月に亡くなった高杉の葬儀を済ませると、木戸に上洛を申し出て5月に3度京都へ赴き、薩摩藩士西郷隆盛・大久保利通・黒田清隆らと交流を結んだ。国父島津久光や家老小松清廉とも面会、天下の行く末や倒幕による挙兵・連携計画を打ち合わせ6月に帰藩・・・
⇒山縣・・見事に長州藩の有力者達への食い込みに成功した!・・のたびたびの上洛についても、薩摩藩の西郷らから、最新の指示を直接仰ぐためだ、と想像したくなります。(太田)
鳥羽・伏見の戦い後に奇兵隊にも出陣の命令が下り、山県は参謀福田侠平を従え3月に出発し大坂・次いで江戸へ下向、再<会>した西郷と意気投合し江戸に滞在、閏4月に大坂へ戻り木戸と話し合い、両者からの信頼を獲得した。また北陸地方・越後方面への出陣を命じられたことで山県は戊辰戦争に加わることになった・・・。
⇒以上の私の想像が概ね当たっているとすれば、「意気投合し」は余計です。
山縣については、薩摩藩の西郷らに比べ、長州藩の木戸らとの関係の方がよそよそしい感じを受けるのは私だけではありますまい。
木戸に食い込んだのも、西郷らの「指示」による、と想像したくなるわけです。(太田)
戊辰戦争(北越戦争・会津戦争)では黒田と共に北陸道鎮撫総督・会津征討総督・・・の参謀となり、奇兵隊を含む諸藩兵を指揮する立場に昇格した。・・・
越後平定という戦果は挙げられたが、薩摩兵と長州兵の連携が上手く行かず、黒田とも対立し一時参謀を辞職、復職したが薩長兵の仲が悪いまま別々に行軍するなど問題続きだった。この問題は西郷が現地に赴き、慰められた山県が薩長に気配りしたことで解決している。 ・・・
⇒このくだりから、私には、山縣が、長州兵の間で浮き上がっていた様子が見て取れるのですが・・。(太田)
明治2年3月、木戸や西郷に願い出ていた海外留学の許可が下り、6月28日に西郷の弟西郷従道と共に渡欧し、各国の軍事制度を視察する。・・・
各藩に分かれている軍事力を中央に纏めるため、薩摩に戻っていた西郷を政府へ呼び出す必要があると考えた木戸・大久保は11月に東京を出発、岩倉も合流して12月に薩摩入り、西郷を説得し翌明治4年(1871年)2月に一行は上京した。山県は一行に加わり西郷説得にも一役買<った。>・・・
⇒山縣が西郷と格別に親しい関係にあることは、衆目、認められていた、ということでしょう。(太田)
木戸ら文官が山県の頭越しに兵部省を動かす状態が続く中、改革途中で暗殺された大村益次郎の実質的な後継者として西郷の協力を得ることで軍制改革を断行、11月に・・・岩倉使節団の外遊により留守政府の下で徴兵制を取り入れ、明治6年(1873年)1月の6鎮台設置と同時に開始された(徴兵令)。前年の明治5年(1872年)2月に肥大化した兵部省を廃止し陸軍省・海軍省を置き陸軍大輔になり、3月に御親兵が改編された近衛都督も兼任、陸軍中将にも任じられ軍の中心人物になった。
⇒薩摩藩が「除去した」とまでは言いませんが、島津斉彬コンセンサス音痴であった大村益次郎(後述)が亡き者になった後、薩摩藩と長州藩のバランスを(あくまでも形式的にですが、)取る形で、西郷が、拡大薩摩藩の一員たる山縣に新設陸軍省を取り仕切りさせるとともに、士族出身者に恨まれる徴兵制導入に当たらせた、と受け止めるべきでしょう。(太田)
しかし明治5年、陸軍出入りの政商・山城屋和助に陸軍の公金を無担保融資して焦げ付かせる。いわゆる山城屋事件である。山城屋の自殺と証拠隠滅工作により山県に司法の追及は及ばなかったが、近衛局から山県に反抗的な薩摩系将校達が辞職を迫り、西郷の慰留はあったが責任を取る形で7月に近衛都督を辞任、明治6年4月に陸軍大輔も辞任し陸軍中将の階級だけが残った。しかし山県に代わりうる人材がなく、6月に陸軍卿で復職し参謀本部の設置、軍人勅諭の制定に携わった。
⇒薩摩系の一般将校達にまでは、山縣が実は長州閥の人間ではない、という認識が浸透していなかったため、山縣は苦労したが、常に西郷らが救いの手を差し伸べた、という構図が、私には見て取れます。(太田)
9月に使節団が帰国、征韓論と10月の明治六年政変には各鎮台巡視中のため不在だったが、西郷と木戸の間で板挟みになり煮え切らない態度を取ったため木戸の怒りを買い、政変後は卿の1人にも係わらず木戸の反対で参議になれなかった(他の卿は参議兼任)<が、>病気がちの木戸に代わり台頭した伊藤と大久保の支持で辛うじて現状維持<は>出来た・・・。8月に大久保と伊藤の引き立てでようやく参議も兼任したが、立場不安定なため佐賀の乱、台湾出兵に関与出来なかった。ただ、参議兼任後は大久保らと江華島事件の対応に当た<った。>・・・
⇒どうやら、木戸は、山縣が薩摩藩に取り込まれている、という認識を持つに至っていたようであり、長州藩で山縣に好意を持っていたのは、同じく、低い身分出身の伊藤博文くらいだったようですね。(太田)
明治10年(1877年)2月に勃発した西南戦争では参軍として官軍の事実上の総指揮を執った<。>・・・西郷の遺体を検分した山県は、任務を全うしたことを喜びつつも西郷の死に涙を流し悼んだ・・・
⇒彼の西郷との深い関係からして、これは、山縣の本心だったことでしょう。(太田)
第1次伊藤内閣の内務大臣として内務省を拠点に地方自治を担当する傍ら、陸軍大臣(陸軍卿から改名)になった<薩摩藩出身の>大山と共に引き続き軍拡に邁進した。・・・
<具体的には、長州藩出身の>桂と<薩摩藩出身の>川上操六が山県と大山の支持で<、伊藤博文らを押し切って、>軍拡を推し進め<ることとなる。>・・・ 」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%B8%A3%E6%9C%89%E6%9C%8B
⇒山縣が、長州藩出身者達の間でも支持を得るべく、育て上げたのが子飼いの桂太郎だったのでしょうが、山縣が桂を可愛がったのは、桂の、木戸ら、長州藩の有力者達にも巧妙に取り入る能力を買った部分もあった(注1)からこそでしょう。
(注1)「桂は山縣の派閥に組み入れられたが桂の木戸に対する気配りは大変なもので、駐在武官となって赴任したドイツからも月に1度は手紙を出し、珍しいものを木戸夫人宛てに贈った。また、木戸宛ての宛名には「木戸尊大人様閣下」になっている。この仰々しい敬称にはかえって木戸の方で驚いたに違いないが、桂にはそれを平然とやってのける図太さがあった。 」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%82%E5%A4%AA%E9%83%8E
このようにして、山縣は、桂の後、陸軍の主流を島津斉彬コンセンサス信奉者達に牛耳らせるための布石を打ち、それに成功した、ということではないでしょうか。
つまり、海軍は薩摩閥だったが陸軍は長州閥だった、という通説(俗説?)・・一体、言い出したのは誰だ?・・は誤りである、というのが私の現在の見解なのです。(太田)
〇高島鞆之助(1844~1916年)<旧薩摩藩>
とものすけ。「薩摩藩の藩校造士館に学ぶ。・・・
明治21年(1888年):大阪鎮台司令官。大阪偕行社附属小学校(現在の追手門学院小学校)を創設
明治24年(1891年):第1次松方内閣の陸軍大臣となる。
明治25年(1892年):枢密顧問官となる。
明治28年(1895年):台湾副総督となる。
明治29年(1896年):4月2日、第2次伊藤内閣の拓殖務大臣<(注2)>に就任
9月20日、第2次松方内閣の陸軍大臣に就任(明治30年(1897年)9月2日まで拓務相を兼任)。
明治32年(1899年):枢密顧問官となる(死去まで)。
明治40年(1907年):4月1日 後備役。・・・
上原勇作が野津邸の書生になった頃、高島夫婦も野津邸に同居していた。この頃からの付き合いのため、上原に便宜を図ることが多<かった。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B3%B6%E9%9E%86%E4%B9%8B%E5%8A%A9
(注2)「1896年(明治29年)4月2日、台湾総督府を監督する目的で拓殖務省が設置されて高島鞆之助が拓殖務大臣に任じられたが、行政整理により翌年の1897年(明治30年)9月2日に廃止された(高島が同省廃止まで大臣を務めていた)。以後、内務省が台湾事務を担当した。
だが日露戦争の結果、樺太・関東州を獲得し、朝鮮の保護権を確立したことから、1910年(明治43年)に内閣直属の拓殖局が設置された。拓殖局は大正時代には廃止・再設置・改称を繰り返していたが、外地統治・移民事業を担当するには拓殖局では不十分であるとして、1929年(昭和4年)に拓務省が新設され、朝鮮総督府・台湾総督府・樺太庁・南洋庁の統治事務の監督、および海外移民の募集や指導を行うことになった。
しかし、省設置後に始まった満州事変以降に獲得した占領地は軍部が統治していて拓務省が関与できなかったこと、朝鮮総督府には直接の監督権がないなど、当初から問題点が指摘されていた。1942年(昭和17年)に大東亜共栄圏を包括的に管理する大東亜省が設置されると、拓務省は、大東亜省・内務省・外務省などに分割された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8B%93%E5%8B%99%E7%9C%81
⇒台湾統治への並々ならぬ関心は、高島が紛れもなく島津斉彬コンセンサス信奉者であったことの証左でしょう。(太田)
〇上原勇作(1856~1933年)<旧薩摩藩・野津道貫・高島鞆之助・川上操六>
「薩摩藩島津氏一門都城島津家重臣・・・の次男として・・・日向国都城(現宮崎県都城市)<に>・・・生まれる。・・・
山縣有朋、桂太郎ら長州閥の元老凋落の後に陸軍に君臨し、強力な軍閥(上原閥)を築き上げた。・・・
⇒「長州閥」など存在しなかったことは、このすぐ後の記述からも明らかです。(太田)
上原閥は山縣閥の分派であるが、山縣同様に藩閥にこだわらなかった<!(太田)>ため数では長州閥を凌駕するようになり、多くの大将、中将(井戸川辰三、宇宿行輔、与倉喜平、高島友武、高山公通、長坂研介、権藤伝次、佐多武彦、伊丹松雄、岩越恒一、橋本群、林柳三郎、佐久間為人など)を輩出した。薩閥(大迫尚道、町田経宇、田中国重、菱刈隆)を始めとした九州閥(宇都宮太郎、福田雅太郎、尾野実信、武藤信義、真崎甚三郎)、陸士旧3期(+旧2期)閥(秋山好古、大谷喜久蔵、内山小二郎、柴五郎)、第5(野津)師団閥(浅田信興、一戸兵衛)、副官閥(奈良武次、今村均)、工兵閥などで構成されており、長州閥と重複するもの(田中義一、井上幾太郎)もいた。・・・
<そのうち、著名な者達として、幕臣の息子の>荒木貞夫、
< https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%92%E6%9C%A8%E8%B2%9E%E5%A4%AB >
<肥前藩の中農の息子の>眞崎甚三郎、
< https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E5%B4%8E%E7%94%9A%E4%B8%89%E9%83%8E <旧天領の長崎に生まれたが旧佐賀藩に養子に行った>柳川平助
< https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B3%E5%B7%9D%E5%B9%B3%E5%8A%A9 >
<土佐藩士の息子の>小畑敏四郎
< https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%95%91%E7%BE%8E%E7%A8%B2 >
らが<あげられる>。・・・
⇒杉山元が「九州閥」の中に登場しないのが不思議です。
杉山と上原との接点の発見・・一つや二つとは思えない・・を見つけることが今後の課題の一つです。(太田)
<藩校造士館、大学南校で学び、編入学した>陸軍幼年学校を経て、1879年(明治12年)、陸軍士官学校卒業・・・。1881年(明治14年)に渡仏、フランス陸軍に学び、1885年に帰国して工兵の近代化に貢献、工兵操典を編纂し「日本工兵の父」と称される。日清戦争においては岳父野津道貫<(注3)>が司令官を務める第1軍の参謀、日露戦争においては、やはり野津が司令官を務める第4軍の参謀長など数々の戦争に従軍して参謀職を務め、・・・<この間、薩摩藩出身の>参謀総長・・・川上操六<の下で>参謀本部第3部長<等を務めた。>・・・
(注3)みちつら。1841~1908年。「鹿児島城下高麗町の下級藩士・・・の二男として生まれる。・・・上原は17歳から野津家で書生をしていた。野津は上原に今後いかに工兵が重要となるかを説き「日本工兵をお前が創るのだ」と上原を工兵科に進学させた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E6%B4%A5%E9%81%93%E8%B2%AB
1912年(明治45年)、・・・<島津斉彬コンセンサス信奉者たる(太田)>山縣有朋により・・・第2次西園寺内閣の陸軍大臣に就任。陸軍提出の二個師団増設案が緊縮財政を理由に拒否されるや、帷幄上奏権を行使して辞任。陸軍は上原の後任者を出さず、軍部大臣現役武官制を利用して内閣を総辞職させた。・・・
宇垣一成による宇垣軍縮に対抗してその反対派を支援し、後の皇道派結成の温床となった。
⇒上原は、薩摩藩の先輩の高島鞆之助や川上操六らの薫陶を受け、島津斉彬コンセンサス信奉者としての自覚が更に深まった、と私は見ています。
対露抑止・無害化だけでなく、いずれ、アジア解放まで成し遂げなければならないのですから、世論に藉口して、軍拡を妨げようとする試みには徹底的に抵抗するし、軍縮の試みに至っては絶対に許さない、といったところでしょうか。(太田)
上原閥から皇道派が出た原因は上原が尊王主義であったことが部下たちに影響したためである。派閥抗争・確執の遠因となったとの意見もある。・・・
⇒皇道派・・統制派もだが・・など存在しなかったという話を後でしますが、いずれにせよ、このくだりは、全くナンセンスである、と断定してよい、と、私は思っています。
そもそも、上原ら、島津斉彬コンセンサス信奉者達の天皇ないし天皇家観は、島津家と近衛家/天皇家との関係に由来するところの、疑似親戚観・本家観なのであって、尊王主義などといったイデオロギー的色彩はなかった、と私は見ているからです。(太田)
、1931年(昭和6年)ごろには、防空には空軍省を設けて独立空軍を創るしかないと語っていたと伝えている。・・・
⇒1918年には、既に世界最初の空軍が英国で生まれており、このような上原の発想自体はさほど斬新なものとは言えないかもしれませんが、杉山元の航空兵力への思い入れの強さが、上原の薫陶を受けたものであった可能性は大だ、と思うのです。(太田)
陸軍大臣、教育総監、参謀総長の「陸軍三長官」を歴任し、元帥府に列せられたのは帝国陸軍史上、上原と杉山元の2名のみである。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E5%8E%9F%E5%8B%87%E4%BD%9C
⇒私は、むしろ、杉山自身が、自分が上原の衣鉢を受け継ぐ存在であることを示すべく、好んでそのようなキャリアを形成した、とさえ思い始めています。(太田)
〇福島安正(1852~1919年)<西郷従道・川上操六>
「松本藩士・・・の長男として生まれる。」幕府講武所、開成学校、陸軍士官登用試験に合格、陸大。
「明治9年(1876年)7月から10月まで<米>国に出張。フィラデルフィア万国博覧会へ西郷従道に随行。・・・1887年(明治20年)・・・ドイツのベルリン公使館に駐在・・・明治25年(1892年)、帰国に際し、冒険旅行という口実でシベリア単騎行を行い、ポーランドからロシアのペテルブルク、エカテリンブルクから外蒙古、イルクーツクから東シベリアまでの約1万8千キロを1年4ヶ月をかけて馬で横断し、実地調査を行う。この旅行が一般に「シベリア単騎横断」と呼ばれるものである。その後もバルカン半島やインドなど各地の実地調査を行い、現地情報を参謀次長の川上操六らに報告する。・・・
明治37年(1904年)・・・6月からの日露戦争では満州軍総司令部参謀として、・・・満州馬賊を率いて戦った「遼西特別任務班」「満州義軍」の総指揮を行った・・・
明治39年(1906年)4月、参謀本部次長・・・
[1909年、・・・山岡光太郎<を>・・・イスラーム世界の情報収集のためメッカ巡礼の旅へと出発<させた。>]
大正3年(1914年)9月15日、陸軍大将に進級と同時に後備役」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E5%B3%B6%E5%AE%89%E6%AD%A3
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%B2%A1%E5%85%89%E5%A4%AA%E9%83%8E ([]内)
⇒川上操六の、「明治18年(1885年)に陸軍少将・参謀本部次長、同19年(1886年)に近衛歩兵第2旅団長を務めた後、同20年(1887年)には再び<欧州>に渡りドイツで兵学を学ぶ。明治21年(1888年)、帰国し同22年(1889年)3月より参謀次長」という経歴に照らせば、福島に対し、西郷従道に続いて、島津斉彬コンセンサスを叩き込み、更に、「シベリア単騎横断」を命じた、のは川上でしょう。(太田)
〇宇都宮太郎(1861~1922年)<旧佐賀藩・川上操六(?)・高島鞆之助・上原勇作・福島安正>
「佐賀鍋島藩士・・・の四男として生まれる。」陸士、陸大。
「・・・1893年(明治26年)11月大尉に進み、同12月からインドに出張。翌年11月に帰国・・・
1908年(明治41年)12月には参謀本部第2部長に就任する。・・・1911年(明治44年)に<支那>で起きた辛亥革命では清朝保護の立場を取った政府方針に反し、密かに三菱合資会社社長・岩崎久弥から資金援助を受けて革命派の支援を行う。
⇒いかにもアジア主義者チックな振る舞いですね。(太田)
1914年(大正3年)5月・・・第7師団長に親補される。1916年(大正5年)8月には第4師団長に移り、1918年(大正7年)7月に朝鮮軍司令官となる。1919年(大正8年)11月に大将へ進み、翌1920年(大正9年)8月から軍事参議官となり在職中に死去。・・・
宇都宮以後の朝鮮軍司令官経験者の多くは陸軍三長官になっており、宇都宮も存命であれば参謀総長になっていた可能性は高い。・・・
高島鞆之助の部下であったころから高島閥であり、その縁で古参の上原閥になる。・・・上原勇作を陸軍大臣にするべくロビー活動を行う・・・また、上原が陸相を辞任しようとすると頑強に反対している。・・・
いわゆる「佐賀の左肩党」の盟主で、皇道派の荒木貞夫・真崎甚三郎の庇護者でもあった。
宇都宮亡き後、その派閥は武藤信義に引き継がれ、田中と袂を分かった上原の支援を受けることとなる。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E9%83%BD%E5%AE%AE%E5%A4%AA%E9%83%8E
「彼は・・・川上操六に可愛がられ・・・た。・・・宇都宮は少佐の頃から、郷党の後輩を集めて、佐賀左肩党という一種秘密結社めいたものをつくっていたという。
しかし<、別の典拠によれば、>・・・宇都宮が左肩党の領袖であるという点は同じであるが、この左肩党は佐賀人の集まりではなく、荒尾精<(コラム#9902)ら>・・・大陸雄飛派<・・アジア主義者達と形容すべき(太田)・・>の流れを汲む組織であるというのである。・・・<また、彼は、>情報畑を歩み、福島安正に信頼されていた。」
http://imperialarmy.blog3.fc2.com/blog-entry-46.html
⇒自民党/無所属の衆議院議員を務めた、「アジア主義者」の宇都宮徳馬・・但し「軍縮」を掲げた点は父への反抗か・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E9%83%BD%E5%AE%AE%E5%BE%B3%E9%A6%AC
が宇都宮太郎の息子であることからしても、そして、荒尾精との縁らしきものといい、太郎の「大陸雄飛」に侵略的含意はないと見るべきであり、彼が、島津斉彬コンセンサス信奉者らしい、アジア主義者であったことは、ほぼ明らかでしょう。(太田)
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[宇垣一成の位置付け]
「備前国磐梨郡大内村(現・岡山県岡山市東区瀬戸町大内)の農家<の>・・・子」陸士、陸大。
「尉官時代には薩摩出身の川上操六の元で地位を上げ、川上の死後は長州出身の田中義一に付き昇進した。・・・
⇒田中義一にすり寄った時点で、宇垣は、早くも、島津斉彬コンセンサス信奉者から横井小楠コンセンサス(のみ)信奉者へと転向した、と、私は見ている。(太田)
明治35年(1902年)から明治37年(1904年)にかけてドイツに留学・・・
大正13年(1924年)に田中による工作が成功し清浦内閣の陸軍大臣に就任した。加藤高明内閣でも陸軍大臣に留任した。田中および政友会と距離をとるようになり、憲政会に接近して宇垣軍縮を実行した。・・・中学校以上に余剰な将校を配置(陸軍現役将校学校配属令)し、軍事教育を徹底させて国家総動員体制を構築しようとした。第1次若槻内閣でも引き続き留任し昭和2年(1927年)まで務めた。・・・
昭和2年(1927年)に政友会政権下での陸相を辞退して朝鮮総督(臨時代理)に就任。昭和4年(1929年)に濱口雄幸内閣で再び陸軍大臣に就任し再度軍縮を検討したが、自身の健康悪化と濱口首相遭難事件で実現しなかった。
幕僚<・・当時次官だった杉山と見るべき(後述。太田)・・>が首謀者となり宇垣ら陸軍首脳も関与していたクーデター未遂事件(三月事件)が発覚した。クーデター後の首相就任が予定されていた宇垣は、合法的に政権を獲得できる見込みがあると判断したため計画を中止させた。昭和6年(1931年)に予備役となり、昭和11年(1936年)まで再び朝鮮総督を務めた。朝鮮総督時代に「内鮮融和」を掲げ、皇民化政策を行った。・・・
石原<莞爾>は後年、<参謀本部第一部長心得だった自分が、1937年1月に、広田内閣総辞職後、>宇垣の組閣を流産させた<ところ、>このときの自分の行動
< https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%8E%9F%E8%8E%9E%E7%88%BE >
を人生最大級の間違いとして反省している。
⇒石原は、この時点では、いまだ、完全な横井小楠(のみ)信奉者に転向しきっていなかったということ。
いずれにせよ、宇垣の組閣流産は、当時、まだ課長に毛が生えた程度に過ぎなかった石原の力によるものなどではなく、当時教育総監だった杉山元こそ黒幕だ、と私は見ている(後述)。
(流産後成立した林銑十郎内閣の陸軍大臣に、中村孝太郎が8日間就任、病気辞職した後、杉山が就任しているが、中村は、それから10年半も生き、しかも、6年間も現役を務めており、病気だけが理由で陸相を辞任したとは到底思えない。)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%99%E8%82%B2%E7%B7%8F%E7%9B%A3
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E8%BB%8D%E5%A4%A7%E8%87%A3
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9D%91%E5%AD%9D%E5%A4%AA%E9%83%8E(太田)
石原の反省は、宇垣の組閣流産の後の政治の流れが、石原が最も嫌う日本と<支那>の全面戦争、石原が時期尚早と考えていた対米戦争への突入へと動いていったことによるもので、石原は宇垣の力をもってすれば、この流れを変えることができたに違いないと考えたわけである。・・・
⇒石原も、また、米国のことが分かっていなかったわけだが、この点で、彼を責めるのは酷というものだろう。(太田)
大正デモクラシーのさなかの第1次山本内閣において軍部大臣現役武官制を予備役に拡大したときに、もっとも強硬に反対し、陸軍首脳部を突き上げたのが当時陸軍省の課長だった宇垣であり、皮肉にも広田内閣の時に復活したその現役武官制により組閣断念に追い込まれた。予備役でも陸相になることが可能であれば、宇垣自身が陸相を兼任すれば宇垣内閣が発足できた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%9E%A3%E4%B8%80%E6%88%90
⇒これは、島津斉彬コンセンサス信奉者から横井小楠コンセンサス(のみ)信奉者へと転向したことが自らの足をさらった、という一種の悲喜劇であった、と言えよう。(太田)
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〇武藤信義(1868~1933年)<旧佐賀藩・上原勇作>
「佐賀藩士・武藤信直の次男として生まれる。」陸士、陸大。
「大正4年(1915年)4月10日から参謀本部作戦課長を務める。大正5年(1916年)5月2日陸軍少将、歩兵第23旅団長。・・・大正8年(1919年)1月15日参謀本部第1部長、同年7月25日陸軍中将、<参謀本部>総務部長に移る。・・・大正10年(1921年)5月5日第3師団長に親補、翌年11月24日参謀次長。大正14年(1925年)5月1日に軍事参議官に親補<、>大正14年(1925年)・・・に軍事参議官に親補、翌年・・・から東京警備司令官を兼ねて陸軍大将に親任。同年・・・に関東軍司令官に就任。昭和2年(1927年)・・・、教育総監。昭和7年(1932年)・・・五・一五事件が起った事により引責辞任、・・・軍事参議官に退く。
昭和7年(1932年)・・・再び関東軍司令官に就任、満州国駐在特命全権大使と関東長官を兼務。・・・昭和8年(1933年)・・・に元帥号を賜る。・・・
武藤の元帥推薦に動いたのは荒木貞夫陸軍大臣であったという。・・・
<武藤は、>鈴木荘六の後任として参謀総長職を打診されたものの、辞退して後輩の金谷範三に譲ったされる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E8%97%A4%E4%BF%A1%E7%BE%A9
⇒参謀本部作戦課長就任の年の12月に上原が参謀総長になり、参謀本部第1部長/総務部長の時も引き続き上原が参謀総長であり、参謀次長になった年(11月)もなおそうで、その翌年の3月にようやく上原が転出しています。
そもそも、武藤の2回目と3回目の参謀本部勤務は、上原の要請ないし推薦によるもの、と考えていいでしょう。
なお、杉山らによる、と私が想像しているところの、閑院宮をお飾り参謀総長に就ける企ての一端を武藤が担っていて、武藤が金谷にそのことを言い含めて参謀総長の座を譲った可能性がある、と私は思っています。
そうとでも考えないと、金谷の、明治末期以降のそれまでの歴代の参謀総長達のうち、最短の在任期間(1年10か月)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%82%E8%AC%80%E6%9C%AC%E9%83%A8_(%E6%97%A5%E6%9C%AC) 前掲
の説明をすることが困難です。(太田)
〇渡辺錠太郎(1874~1936年)<旧尾張藩・山縣有朋・上原勇作>
「家庭が貧しかったために、小学校を中退・・・。その後、看護卒を志願して陸軍に入営(当時は、陸軍上等看護長になると医師開業免状を与えられたので、医師を目指して入営している)。・・・陸軍士官学校の受験を勧められ・・・合格。その後陸軍大学校に入校し明治36年に首席で卒業。・・・
1905年9月 元老山縣有朋の副官 ・・・1910年11月 山縣元帥副官 ・・・1922年9月 参謀本部第4部長 <(上原勇作は翌1923年3月まで参謀総長)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E5%8E%9F%E5%8B%87%E4%BD%9C 前掲>・・・1935年7月 <、>教育総監兼軍事参議官・・・1936年2月26日 二・二六事件で・・・自邸で殺害される。・・・
<1935>年7月に真崎が教育総監を更迭されその後任として渡辺が選ばれた。
人事後の7月18日に行われた軍事参議官会議において、退任に納得のいかない真崎と荒木は林陸相と対峙した。永田鉄山軍務局長を黒幕であると見ていた真崎は、永田が三月事件の際に執筆したクーデター計画書を持ち出した。
⇒私は杉山が黒幕だったと考えているところ、真崎はそうは考えていなかったようですが、私は、むしろ、これも、真崎の(陸軍省内力学を見極める)能力のなさの現れだ、と見ています。(太田)
渡辺からこれは私文書なのかそれとも機密書類なのかと尋ねられた荒木が機密文書であると述べたところ、渡辺は、機密文書を一参議官にすぎない真崎がなぜ所持しているのか、この場でそれを持ち出すのは永田を陥れようとする策略ではいのかと真崎、荒木を厳しく追求した。
渡辺は・・・教育総監就任後に第3師団の将校たちに対して真崎による国体明徴訓示(注4)を批判した。
(注4)「1935年(昭和10)2月18日、貴族院において菊池武夫は美濃部の天皇機関説を国体に背く学説として攻撃し、これを契機に機関説排撃運動が発生してくる。3月20日に貴族院は政教刷新決議を、また3月22日に衆議院は国体明徴決議をあげ、4月6日真崎甚三郎陸軍教育総監は機関説排撃と国体明徴を訓示し、4月9日に内務省は美濃部の著書3冊を発禁処分とした。右翼団体と在郷軍人会を中心とする機関説排撃運動は、4月以降全国的な広がりをもって展開し、8月3日岡田啓介内閣は国体明徴声明を発したが、軍部を背景とした排撃運動はやまず、10月15日政府は天皇機関説が国体に背く旨を明示した第二次国体明徴声明を発し、この声明を受けて軍部は運動の中止を指示して運動は終息した。」
https://kotobank.jp/word/%E5%9B%BD%E4%BD%93%E6%98%8E%E5%BE%B4%E9%81%8B%E5%8B%95-1317077
軍事参議官会議におけるやり取りは真崎によって青年将校に漏らされ、さらに国体明徴声明への批判は天皇機関説の擁護と捉えられいずれも青年将校の憤激を買った。荒木はこれらが渡辺が襲撃目標となった原因であると述べている。 」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A1%E8%BE%BA%E9%8C%A0%E5%A4%AA%E9%83%8E
⇒陸軍の島津斉彬コンセンサス信奉者達の間でも、有能・高潔な渡辺のような人物もおれば、荒木のような有能・下劣な人物も、真崎のような無能・下劣な人物もいた、ということであり、渡辺 v. 荒木・真崎、の対立だって起こり得た、ということでもあります。
渡辺は、杉山を、島津斉彬コンセンサス信奉者達の大使徒の座に確実に就かせたかったのであろう、と私は想像しています。(太田)
〇真崎甚三郎(1876~1956年)<旧肥前藩・上原勇作(?)>
「中農の<子>として佐賀県に生まれた。」陸士、陸大。
「陸軍の枢要である軍務局軍事課長を真崎はわずか1年しか務めなかった。この件について真崎は後に子息に対して、陸軍機密費の不正蓄積についての疑問を持ったため、機密費の適正な使用と管理について意見を具申したところ、近衛歩兵第1連隊に転出させられたと述べている。この当時、軍の機密費を取り扱っていたのは田中義一陸相、山梨半造次官、菅野尚一軍務局長、松木直亮陸軍省高級副官の四人であった。田中義一は政界入りする際にシベリア出兵時の機密費を流用して立憲政友会への持参金にしたとの風説があり国会でも追及されている。
⇒身内同士の会話が典拠になるのか、という留保を付けたいところですが、それがほぼ事実であった可能性が高いと思います。
私は、下出の諸事も勘案の上、真崎が(軍事)官僚として無能だった、という見解です。
陸軍省の最重要課長たる軍事課長にまでなれた以上、一つには、そつなく勤め上げれば、将来、軍務局長や次官、更には陸相にだってなれる可能性が高いのですから、そうなってから、例えば、機密費の問題にだって取り組めばよかったわけですし、二つには、後出の軍事課長当時の岩畔のように、うまく上司達に取り入るなり上司達を脅迫するなりして、自らも機密費の運用に関与させてもらうことだってできたはずなのに、真崎はそのどちらも追求しなかった、というか、それをやる能力がなかった、のですからね。(太田)
本科長、教授部長兼幹事を経て校長をつとめた4年間の陸軍士官学校時代に、真崎は教育家としての評価を高めた。この時期の生徒には安藤輝三、磯部浅一らがいる。・・・
⇒自分達の教師を、実際の数等倍立派な人間である、と、青年たる教え子達が妄想することが往々にしてある、ということでしょうね。(太田)
1932年1月、犬養内閣の陸軍大臣であった荒木貞夫の計らいで参謀次長に就任した。
⇒友情と仕事は切り離さなければならないのに、荒木は、自分と同じく下劣な、しかも、自分とは違って無能な、人物を枢要なポストに就けた、ということです。(太田)
皇族である閑院宮載仁親王が参謀総長であったので、慣例にしたがって真崎が参謀本部を取り仕切った。・・・
真崎は、<満州>事変不拡大・満州事変は満州国内でおさめること<、>を基本方針として収拾にあたった。
第一次上海事変の処理では、軍の駐留は紛争のもととして一兵も残さず撤兵した。
熱河討伐では、軍の使用は政府の政策として決定し、天皇の裁可を経てから実行されるという建前から、万里の長城を越えて北支への拡大を断固として押さえた。有利な戦機を見逃して二カ月以上も出動を押さえたとして、拡大派や国家革新推進派からは非難を浴びた。
<にもかかわらず、>満州事変後の軍の動きに不満を持つ昭和天皇から真崎は繰り返し叱責された。・・・
⇒真崎は、とにかく無能だった、で決まりでしょう。
昭和天皇の意向を実施するだけなら誰でもできます。
自分の意向を曲げてまで天皇の意向を実施した可能性が高いにもかかわらず天皇の不興を買ったとすれば、真崎に、官僚として必須の、コミュニケーション能力、根回し能力、が全くなかった、ということです。(太田)
1934年1月教育総監に就任、天皇機関説問題では国体明徴運動を積極的に推進し率先して天皇機関説を攻撃した。
⇒真崎は、自分の無能を自覚しないまま、君側の奸が天皇を操っている・・天皇の意向を操っている、プラス、自分の悪口を天皇に吹き込んでいる・・と妄想し、彼らを排除しようとした勘違い人間であった、ということです。
そもそも、真崎に、天皇機関説・・全く「無害」です(典拠省略)・・をきちんと理解する意欲も能力もなかったことが分かろうというものです。(太田)
齋藤内閣でも引き続き陸相を務めていた荒木は、皇道派青年将校に自重を求めたため声望が低下し<1934年(>昭和9年<)>に病を理由に辞任した。
その後任候補として真崎の名が挙がった。林銑十郎教育総監と柳川平助陸軍省次官からの推薦に対して、真崎を嫌っていた閑院宮載仁親王は、「真崎では不安心だから林にすべし」と述べたため林が陸相に、真崎は教育総監に回った。・・・
⇒ここでも、真崎の、上司を、しかも、お飾りに過ぎない上司でさえ、うまくお守をして味方につけることができなかったという、どうしようもない無能さ、が露呈しています。(太田)
昭和10年7月・・・<、今度は、>真崎は本人が同意しないまま教育総監を罷免され、後任には渡辺錠太郎がついた。・・・
⇒島津斉彬コンセンサス信奉者達の元締めの座に、既に杉山元が参謀次長・・実質的な参謀総長・・として就いており、彼のために退くべき時期が来ていたというのに、真崎は、荒木ともども、潔さがなさ過ぎた、権力の座にいじきたなくしがみつくという意味で下劣である、と言うべきでしょう。(太田)
<1936年(昭和11年)の二・二六>事件前に磯部浅一<(注5)>は荒木、真崎、杉山元などを訪問し、上層部の動向を確認している。・・・
(注5)あさいち(1905~37年)。「山口県大津郡菱海村(現長門市)河原に農業兼左官・・・の三男として生まれる。・・・<陸士>を経て陸軍歩兵将校となるが、中尉の時に経理部に転科した。陸軍一等主計の時に、陸軍士官学校事件により停職、「粛軍に関する意見書」配布により免官となった。二・二六事件において決起将校らと行動を共にし、軍法会議で死刑判決を受けて刑死した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A3%AF%E9%83%A8%E6%B5%85%E4%B8%80
⇒同事件の首謀者達から見て、荒木、真崎、杉山の3名の考えは似ていて、かつ、自分達の気持ちを理解している、と見られていたということです。
(但し、杉山のこの話が出てくるのは、本ウィキペディアくらいなのだが不思議だ。)
この3名は、いずれも、島津斉彬コンセンサス信奉者達なのですから、当然と言えば当然ですが・・。
(もっとも、渡辺は、島津斉彬コンセンサス信奉者であったにも拘わらず、誤解されて、二・二六事件の際、首謀者達に殺害されてしまう、というようなことも起こったわけです。)(太田)
軍事参議官となっていた真崎は・・・二・二六事件・・・後の3月10日に、荒木貞夫、川島義之、阿部信行、林銑十郎と共に予備役となった。本庄繁、南次郎も4月22日に予備役入りしている。・・・
⇒これで、名実ともに、陸軍は、杉山元時代となり、杉山は、翌1937年(昭和12年)に陸軍大臣に就任する運びとなります。(太田)
<真崎は、その後、軍法会議にかけられたが、>荒木が近衛文麿首相に無罪とするよう頼み込み、近衛は厳罰論に傾いていた杉山元陸相を説得し、これ以上の混乱を引き起こさぬように無罪とするように圧力をかけた。・・・
⇒荒木、近衛、杉山、の3名は、いずれも島津斉彬コンセンサス信奉者達ですが、近衛は杉山のロボットである(後述)ことから、杉山がもったいをつけて、荒木と真崎に恩を売った、ということでしょうね。(太田)
巣鴨在監日記の12月23日(1945年)には、「・・・皇太子殿下・・・が大王学を修められ、父君陛下の如く奸臣に欺かれ、国家を亡ぼすことなく力強き新日本を建設せられんことを祈る」と記している。<また、>遺言書では、・・・「日本の滅亡は主として重臣、特に最近の湯浅倉平、斎藤実、木戸幸一の三代の内大臣の無智、私欲と、政党、財閥の腐敗に因る」としている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E5%B4%8E%E7%94%9A%E4%B8%89%E9%83%8E
⇒後で出てくる満州事変のところを参照していいただきたいが、湯浅倉平、斎藤実、木戸幸らは、基本的に昭和天皇の意向に従った、或いはその意向を忖度した、言動を行っただけであると見るべきであり、こんな戯言をその期に及んで吐いた真崎は、何度も繰り返しましたが、無能な、島津斉彬コンセンサス信奉者であった、ということです。(太田)
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[林銑十郎の位置付け]
1876~1943年。「旧加賀藩士・・・の子として生まれる。」陸士、陸大。・・・
朝鮮軍司令官の職にあった<時、>林は、・・・中央の指示なしに朝鮮派遣軍を満州に進め越境将軍の異名をとった。・・・
⇒これは、林が、横井小楠コンセンサス(のみ)信奉者として、対ソ緩衝地帯確保に強い意欲を持っていたからこそである、と解すべきだろう。(太田)
元々皇道派の真崎に近いと見られていたのに、・・・<教育総監を経て、>岡田内閣の陸相時代には、皇道派の重鎮・真崎甚三郎教育総監を辞めさせている。・・・
1937年(昭和12年)、内閣総理大臣となる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E9%8A%91%E5%8D%81%E9%83%8E )[]↓内も)
⇒(既に触れたように、)荒木は、自分が「病気で退陣した後の陸軍大臣」に真崎を就けようとしたけれど、参謀総長の閑院宮が参謀次長の真崎を嫌っていて反対したため、教育総監だった林が、予定外で陸軍大臣に就任した、
https://books.google.co.jp/books?id=FVRRvn2Tt1wC&pg=PT133&lpg=PT133&dq=%E6%9E%97%E9%8A%91%E5%8D%81%E9%83%8E&source=bl&ots=eP8gBJdDBP&sig=RTgQGuJxrqpAP3U0izd8JcvImEA&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwiTnuWUqPHcAhWCd94KHVxbDRo4MhDoATAEegQIBhAB#v=onepage&q=%E6%9E%97%E9%8A%91%E5%8D%81%E9%83%8E&f=false
という経緯があるが、その林は、島津斉彬コンセンサス信奉者達たる荒木や真崎に対するに軍務局長になった永田鉄山ら横井小楠コンセンサス(のみ)信奉者達、という対峙構図の中で、「同志」として、当然のごとく、後者に与することとなり、その結果として真崎が切られた、ということだろう。(太田)
「日露戦争の際、ロシア語通訳官として従軍していた山岡光太郎<(注6)>と知り合う。
(注6)1880~1959年。陸軍将校の子。東京外大(露)卒。「日本人としては記録上初めてメッカ巡礼を果たし、昭和期の日本においてイスラームを紹介する著作を多く発表した。ムスリム名はオマル。・・・1912年に『アラビア縦断記』を著した。同書は明治天皇の天覧、昭憲皇太后の台覧に仰せつかった。1911年、武昌蜂起勃発に伴い黎元洪支援に従軍。1912年から1920年にかけて「世界巡遊」に赴<く。>・・・1923年よりカイロに1年、コンスタンティノープルに3年滞在し、1927年帰朝。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%B2%A1%E5%85%89%E5%A4%AA%E9%83%8E
その山岡が「日露戦争で日本が勝ってもロシアは極東進出を諦めない。それを阻止するには日本はトルコから東トルキスタンにいたるイスラーム<教徒達を反露親日にしなければならない、>という持論」を林大将(当時大尉)に語ったという。<林は、>またドイツに留学した成果を「第一次世界大戦時回教諸国の動静」として約800枚に上る研究ノートにまとめ上げている。・・・
モンゴルからイスラーム圏にかけて反共親日国家を樹立し、ソ連共産主義の南下を遮断する防共回廊構想・計画の源流が・・・林銑十郎であった・・・さらに計画を立案したのがモンゴル通と言われた松室孝良(陸士19期・少将・北平特務機関長など歴任)であり、その計画を推進したのが関東軍参謀副長時代(昭和9年12月就任)の板垣征四郎<(コラム#9902、9918、9990)>少将(陸士16期・大将・昭和23年12月法務死)であった・・・
[自身は回教徒ではなかったが<、>]さらに昭和13年9月には創立された「大日本回教会会長に就任する。総務部長に松室孝良をあてる・・・[同協会は在日回教徒のためにモスク・回教会館・神学校・図書館・宿泊所などの設立を目指して活動し、協会誌である『回教世界』を発刊している。]」
http://ginnews.whoselab.com/101101/tsuido.htm
⇒林のキャリアの中には、島津斉彬コンセンサス信奉者たる有力者達との接点が見いだせないところ、林は、島津斉彬コンセンサス信奉者の薫陶を受けてアジア主義者的にイスラム教徒達に関心を持ったところの、山岡との接触を通じ、山岡の主張のうち、対ソ抑止・無力化上有効な部分だけをつまみ食いした、ということだろう。
なお、板垣征四郎は島津斉彬コンセンサス信奉者中の大物だが、同コンセンサスと横井小楠コンセンサス(のみ)信奉者たる林の共有部分である対露抑止・無害化に関してのみ、彼は林の構想実現に尽力した、というだけのことだろう。(太田)
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〇荒木貞夫(1877~1966年)<上原勇作・武藤信義>
「旧一橋家家臣だった荒木貞之助の長男として<東京近郊に>生まれる。」陸士、陸大。
「1929年(昭和4年)、陸軍首脳は「青年将校を煽動する恐れあり」という理由で、第1師団長であった真崎甚三郎を台湾軍司令官として追いやったが、そのときに荒木も左遷される予定であった。しかし、教育総監の武藤信義が「せめて荒木は助けてやってくれ」と詫びを入れる形で、荒木は第6師団長から教育総監部本部長に栄転し東京に残った。・・・<武藤は>特に荒木を可愛がったらしい。・・・
⇒私情を公の場に持ち込む点で、荒木は、彼のメンターたる武藤と生き写しですね。(太田)
<荒木は、>1924年(大正13年)<の>・・・憲兵司令官時代から大川周明や平沼騏一郎・北一輝・井上日召といった右翼方面の人物と交流を持っていたことから、1931年(昭和6年)の十月事件においては、橋本欣五郎から首相候補として担がれたが、荒木自身の反対や意見の非統一から計画は頓挫した。
⇒「右翼」という言葉も使って欲しくなかったところですが、それはともかく、かかる十月事件解釈は誤りです(後述)。(太田)
満州事変真っ只中の同年12月に荒木は教育総監部本部長から、荒木の盛り立てを目的とする一夕会の永田鉄山や鈴木貞一らの働きかけで犬養内閣の陸相に就任した。
⇒1931年末の時点では、島津斉彬コンセンサス信奉者達と横井小楠コンセンサス(のみ)信奉者達との間に亀裂は入っていなかった、というわけです。(太田)
<その荒木は、>参謀総長には閑院宮元帥を担ぎ出してロボット化を謀り、参謀本部の実質トップとなる参謀次長には真崎を台湾軍司令官から呼び戻して就任させた。・・・
1936年(昭和11年)の二・二六事件の際には、皇道派の首領として青年将校達を裏で支えていたのでは、という疑惑が持ち上がったが、軍の主要人物の中では、一番明確に反乱将校に原隊復帰を呼びかけていた。しかし、荒木はこの事件後の粛軍によって予備役に退かされ、軍人としての第一線からは消えていった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%92%E6%9C%A8%E8%B2%9E%E5%A4%AB
⇒「一番明確に反乱将校に原隊復帰を呼びかけていた。」については、もちろん、直接の典拠が付されていませんが、間違いです。
さて、ウィキペディア等で常に上原閥に名を連ねる荒木ですが、上原が参謀総長(1915年12月~23年3月)の時の参謀本部欧米課長(1921年4月~23年3月少将進級・転出)が濃厚な接点です。
この時、武藤も、参謀次長(1922年11月~25年5月)として、荒木の上司でした。(太田)
〇小畑敏四郎(としろう。1885~1947年)<旧土佐藩・荒木貞夫>
「男爵小畑美稲の四男として・・・高知県<に>・・・生まれる。」陸士、陸大。
「1926年(大正15年)に参謀本部作戦課長に抜擢され<たが、その時の上司は>荒木貞夫第1部長<だった。>・・・1931年(昭和6年)12月、犬養内閣の陸相に荒木が就任すると、翌1932年(昭和7年)2月、同じロシア通で信頼の厚い小畑を再び参謀本部作戦課長に起用する異例の人事を行う。小畑は同年4月に少将に進み参謀本部第3部長に就任(作戦課長の後任は鈴木率道)、荒木の盟友である真崎甚三郎参謀次長<・・繰り返すが、当時、閑院宮参謀総長なので、真崎が実質的な参謀総長・・>の腹心として、皇道派の中枢と目されることになる。しかし同時期に参謀本部第2部長となった永田鉄山と対ソ連・支那戦略を巡って鋭く対立、1933年(昭和8年)6月の陸軍全幕僚会議で対ソ準備を説く小畑に対し、永田は対支一撃論を主張して譲らなかった。この論争が皇道・統制両派確執の発端となる。・・・
⇒繰り返しになりますが、そうではなく、島津斉彬コンセンサス信奉者であった小畑が対ソ(露)早期開戦論、横井小楠コンセンサス信奉者であった永田が対ソ(露)抑止論を唱えた、ということなのです。
(対支一撃論については後述。)(太田)
1936年(昭和11年)2月、二・二六事件が勃発、部下である陸大教官の満井佐吉が事件に連座しており、・・・<当時、>陸軍大学校長<であった>小畑も監督責任を問われることになる。・・・同年3月には中将に進むが、粛軍人事により皇道派の一掃が図られ、小畑も同年8月に予備役に編入された。
⇒小畑自身はとんだとばっちりを食ったところ、粛軍人事なるものは、マクロ的には、杉山元自作自演による、島津斉彬コンセンサス信奉者達の代替わりだった、というのが、私の見解です。(後述)(太田)
その後1937年(昭和12年)には、日<支>戦争にあたって召集を受け留守第14師団長に任ぜられたが、健康上の問題で召集解除となった。
大東亜戦争の戦局が悪化すると、かねて親しい近衛文麿の、東條内閣打倒による終戦工作に関与し、憲兵隊の監視下におかれる。
⇒長く、現役を離れていたため、小畑は、乾坤一擲、実施されたところの、インパール作戦や大陸打通作戦の機微に疎かったということでしょう。(太田)
敗戦によって1945年(昭和20年)8月17日、東久邇宮内閣が成立し、近衛や緒方竹虎の意向に沿って国務大臣に就任、約2カ月にわたり下村定陸相を補佐して軍部の収拾に当たる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%95%91%E6%95%8F%E5%9B%9B%E9%83%8E
〇今村均(1886~1968年)<上原勇作・杉山元>
「祖父は戊辰戦争の際に仙台藩参謀を務める名門であった」。陸士、陸大。
「1918年(大正7年)4月 – <在英>大使館附武官補佐官・・・1923年(大正12年)4月 – 上原勇作元帥附副官・・・1927年(昭和2年)4月9日 – インド公使館附武官・・・1931年(昭和6年)8月1日 – 参謀本部作戦課長・・・
政府や軍部の一部には、今村の施政を批判する者もおり、1942年(昭和17年)3月には今村とは親しい仲である参謀総長・杉山元が直々にバタビアに出張し、今村に対し「中央はジャワ攻略戦について満足しており褒めてはいるが、一方でその後の軍政については批判がとにかく多いから注意したまえ」と軽く叱責している。また、陸軍省軍務局長の武藤章、人事局長の富永恭次も今村に対し、ジャワ島でもシンガポール同様に強圧的な政策に転換するよう求めたが、今村は陸軍が布告した『占領地統治要綱』から「公正な威徳で民衆を悦服させ」という一節をひいて、要綱を改正する前に自分を免職するよう求め、軍政の方針を変えることに抵抗した。
今村は「八紘一宇というのが、同一家族同胞主義であるのに、何か侵略主義のように思われている」と述べており、その語に対する誤解に疑念をいだいている。・・・
1943年(昭和18年)5月1日 – 大将に昇進。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E6%9D%91%E5%9D%87
⇒今村は、上原とは副官時代等の縁、杉山元とはインド駐在武官の先輩として等の縁、があったと思われます。
今村は、武藤(下出)に並ぶ、人格者たる、島津斉彬コンセンサス信奉者の双璧だった、ということになりそうです。(太田)
〇武藤章(1892~1948年)<旧肥後藩>
「熊本県白水村 (現熊本県菊陽町)<(旧肥後藩)>の地主の家に生まれる。」
⇒武藤は、生まれからして、島津斉彬コンセンサス信奉者であった可能性が高い、と私は見ます。(太田)
陸士、陸大。「1937年(昭和12年)7月の盧溝橋事件に際しては、参謀本部作戦課長として、不拡大方針をたてた上司の作戦部長石原莞爾とは反対に対<支>強硬政策を主張し、12月には中支那方面軍参謀副長として現地に赴く。
⇒石原は横井小楠コンセンサス信奉者へと転向したけれど、武藤は転向せず、対支強硬策が対英米戦争につながるからこそ、その秋来たる、と、いう(私の想像する)杉山の論を採った、と見ています。(太田)
1938年(昭和13年)7月、北支那方面軍参謀副長に転任した。
1939年(昭和14年)3月少将に進み、同9月陸軍省軍務局長となる。
1941年(昭和16年)10月、中将に昇進。近衛内閣末期に対米関係が極度に悪化、近衛文麿首相は内閣を投げ出し同年11月に東条内閣が成立する。
⇒1940年10月に杉山元が参謀総長に就任しており、三長官の一人として、公式に、武藤の中将昇任と軍務局長留任を承認したはずです。武藤は杉山のお気に入りの人物だったに違いありません。(太田)
組閣に当たり天皇より開戦を是とする帝国国策遂行要領白紙還元の御諚が発せられ、東條英機首相も姿勢を対米開戦の回避に改める。
⇒島津斉彬コンセンサスに基づく国策が一時凍結されたわけです。(太田)
武藤はこれを受け、開戦に逸る参謀本部を制して最後まで対米交渉の妥結に全力を尽くした。(注7)
(注7)「岡敬純(おかたかすみ)(海軍省軍務局長)<は、>陸軍(武藤軍務局長)が出した、海軍は戦争を欲せずと表明すれば陸軍も従うとの提案を蹴った。<岡は、>避戦のチャンスをつぶした。」
https://blog.goo.ne.jp/yuujii_1946/e/c5aac3f8d8d7dc5a86f4378829601e30
⇒武藤は、天皇の命を受けた東條首相兼陸相という上司の命令に忠実に従った言動を行っただけでしょう。(太田)
開戦後は戦争の早期終結を主張し、東條や鈴木貞一、星野直樹らと対立、リヒャルト・ゾルゲにかねてから軍務局長の名で全面的な情報提供を命じていたことから1942年(昭和17年)4月にゾルゲ事件の発覚等により更迭され、近衛師団長となる。
⇒天皇の真意を忖度して、武藤が、(石原莞爾に大幅に遅れて、)島津斉彬コンセンサス信奉者から横井小楠コンセンサス信奉者へ転向した、と、私としては、解したいと思っています。(太田)
同師団はスマトラ島メダンで作戦中、1943年(昭和18年)6月に近衛第2師団に改編された。
1944年(昭和19年)10月に第14方面軍(フィリピン)の参謀長に就任した。これは第14方面軍司令官に任命された山下奉文の希望によるもので、フィリピンの地で終戦を迎えた。 ・・・
元は統制派に与していたため、皇道派に属する山下奉文とは思想が異なるが、仲が良かったという。・・・
⇒実は、(少なくともその少し前までは)2人とも島津斉彬コンセンサス信奉者だったわけですが、皇道派は、そして統制派すら、なかった、との私の指摘と適合する挿話ですね。(太田)
終戦の際、山下に共に切腹することを提案するが、説得され、現地で降伏。山下らが起訴されたマニラ軍事裁判では、逮捕起訴されないどころか、弁護人補佐として出廷し山下らの弁護につとめた。
しかしこの裁判の後、極東国際軍事裁判(東京裁判)に逮捕起訴されるため日本に戻された。
東京裁判で捕虜虐待の罪により死刑判決を受ける。東京裁判で死刑判決を受けた軍人の中で、中将の階級だったのは武藤だけである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E8%97%A4%E7%AB%A0
⇒ところで、以下のような主張があります。↓
「欧州で[1939年9月1日に]始まったドイツ対<英国>・フランスとの戦争に対して武藤は、どちら側に付くかをすぐには決めず、「不介入」を主張していました。・・・
いずれ巻き込まれることになるのだけれども、まずは不介入で臨み、敵味方を主体的に決められるようにするため<の>資源確保を重視した<のです>。・・・
武藤は、東南アジアを日本の自給自足を確立するための勢力圏にする「総合国策十年計画」を作ったのです。この勢力圏を「大東亜生存圏」と呼びました。
<(これは、「基本国策要綱」として、昭和15年(1940年)7月26日閣議決定される。)>・・・
その後、しばらくして[1940年6月22日、]フランスが降伏しました。そして、<英国>もどうも危ないという状態になった時に、武藤は独伊の側に付くと決断しました。・・・
大東亜生存圏の範囲は英仏、オランダの植民地です。フランスは既に降伏しているし、オランダもドイツに占領されている。もし<英国>がつぶれたら、英仏蘭が持つアジアの植民地がすべてドイツの植民地になってしまう。つまりドイツが東南アジアを握るようになる。
ならば、ドイツと手を握って、<米国>を参戦させない手を考えるしかないということになります。
・・・松岡<がぶちあげた>・・・日独伊ソの四カ国連合構想・・・は実は、先に武藤が立てたものなのです。」(川田稔)
https://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/275962/073000003/
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%A4%A7%E6%88%A6 ([]内)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC2%E6%AC%A1%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%86%85%E9%96%A3 (<>内)
しかし、日独伊ソの四カ国連合構想はさておき、大東亜生存圏構想/総合国策十年計画を「作った」のは、局長の武藤章ではなく、「直接の上司である武藤章軍務局長よりも実質的に権勢で上回り、陸軍の機密費3000万円を自由に使える立場となり小大臣と陰で囁かれ<た、軍事課長の>・・・岩畔豪雄<(コラム#9902等)>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E7%95%94%E8%B1%AA%E9%9B%84
でしょう。
蛇足ですが、「開戦直前の武藤(章)陸軍省軍務局長<は>、「国体変革」に至るまで敗北しても、日本民族は「再び伸びる」と予測<してい>た」
http://www.sankei.com/column/news/180803/clm1808030005-n1.html
(8月4日アクセス)というのですが、私は、これは杉山元参謀総長の持論であって、それが、対英米戦争開戦時の、(当然、首相/陸相の東條英樹を含めた、)陸軍首脳陣のコンセンサス化していたことの証左である、と、私は想像しています。
この予測もまた、的中したことを我々は知っています。(太田)
(2)人物篇–一般
●福澤諭吉(1835~1901年)
「天保5年12月12日(1835年1月10日)、摂津国大坂堂島浜にあった豊前国中津藩(現・大分県中津市)の蔵屋敷で下級藩士・・・の次男(末子)として生まれる。・・・
兄・三之助は父に似た純粋な漢学者・・・
安政元年(1854年)、19歳で長崎へ遊学して蘭学を学ぶ。・・・黒船来航により砲術の需要が高まり、「オランダ流砲術を学ぶ際にはオランダ語の原典を読まなければならないがそれを読んでみる気はないか」と兄から誘われたのがきっかけであった。
⇒この時点では、隠居したものの藩の実権を引き続き掌握していたところの、蘭癖大名、(で島津重豪の子)の奥平昌高(1781~1855年7月)が存命であり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%A5%E5%B9%B3%E6%98%8C%E9%AB%98
彼の意向を受け、同藩が、家督を継いでいた福澤の兄に命じて福澤を長崎に留学させた、と私は見ています。(太田)
長崎奉行配下の役人で砲術家の山本物次郎宅に居候し、オランダ通詞(通訳などを仕事とする長崎の役人)のもとへ通ってオランダ語を学んだ。・・・山本家の客の中に、薩摩藩の松崎鼎甫がおり、アルファベットを教えてもらう。・・・
⇒松崎との邂逅は偶然とは思えず、奥平昌高が、蘭癖仲間の「弟」、島津斉彬に頼んで、薩摩藩の家臣を事実上の福澤の後見人として長崎に派遣してもらった、と私は見ています。(太田)
安政2年(1855年)、・・・山本家を紹介した奥平壱岐や、その実家である奥平家(中津藩家老の家柄)と不和になり、中津へ戻るようにとの知らせが届く。しかし諭吉本人は前年に中津を出立したときから中津へ戻るつもりなど毛頭なく、大坂を経て江戸へ出る計画を強行する。大坂へ到着すると、かつての父と同じく中津藩蔵屋敷に務めていた兄を訪ねる。すると兄から「江戸へは行くな」と引き止められ、「大坂で蘭学を学ぶ」よう説得される。そこで大坂の中津藩蔵屋敷に居候しながら、・・・足守藩下士で蘭学者・緒方洪庵の適塾(適々斎塾)で学ぶこととなった。・・・
⇒寺島宗則(松木弘安。1832~93年)の「安政2年(1855年)より中津藩江戸藩邸の蘭学塾(慶應義塾の前身)に出講する。 安政3年(1856年)、蕃書調所教授手伝となった後、帰郷し薩摩藩主・島津斉彬の侍医となったが、再度江戸へ出て蕃書調所に復帰した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BA%E5%B3%B6%E5%AE%97%E5%89%87
という、この頃の軌跡に照らすと、薩摩藩と中津藩は、共同で、「学者」故に自由度が高い、松木と福澤を江戸へ対幕府のスパイとして送り込もうとした、と私は見るに至っています。
(これは、奇をてらった説では全くありません。学者にして医師であったシーボルトがスパイでもあったらしいことは、1828年のシーボルト事件
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%9C%E3%83%AB%E3%83%88%E4%BA%8B%E4%BB%B6
を通じて、蘭学者達や蘭癖大名等を中心に知れ渡っていた上、幕末においては、蘭学と軍事とは切っても切り離せない関係にあった(第2部参照)からです。
各藩の人士が、幕府の招聘に応じ、或いは、招聘なくしても、江戸に赴いて、蘭学を学んだり教えたりした目的の一つに、幕府及び各藩の軍事事情のスパイ任務もあった、と考えるのが、むしろ自然でしょう。)
この、奥平昌高の死の直後の時期において、中津藩の実権を握るに至っていたのは、家老の奥平壱岐であった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%A5%E5%B9%B3%E6%98%8C%E6%9C%8D
ことを踏まえれば、福澤は藩命に背いたわけであり、にもかかわらず、お咎めが全くなかった、ということから、福澤がいかに中津藩の寵児であったかが分かります。。
(奥平壱岐、なかなか興味深い人物です。↓
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%A5%E5%B9%B3%E5%A3%B1%E5%B2%90 )(太田)
<福澤は、>安政5年(1858年)・・・中津藩から江戸出府を命じられ・・・築地鉄砲洲にあった奥平家の中屋敷に住み込み、そこで蘭学を教えた。・・・この蘭学塾「一小家塾」が後の学校法人慶應義塾の基礎となったため、この年が慶應義塾創立の年とされている。
<この塾は、既に>[安政3年(1856年)<に江戸出府し、>蕃書調所教授手伝となっ<てい>た
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BA%E5%B3%B6%E5%AE%97%E5%89%87
]<ところの、>松木弘安を招聘し<ている>。・・・
⇒予定より2年遅れたけれど、江戸で、松木と福澤が共同スパイ活動を始めた、と、私は見ているわけです。(太田)
安政6年(1859年)の冬、日米修好通商条約の批准交換のために使節団が米軍艦ポーハタン号で渡米することとなり、その護衛として咸臨丸を<米>国に派遣することが岩瀬忠震の建言で決定した。万延元年1月19日(1860年2月10日)、諭吉は咸臨丸の艦長となる軍艦奉行・木村摂津守の従者として、<米国>へ立つ。・・・
⇒ここまで、薩摩藩・中津藩共同の福澤「スパイ」が、幕府へ食い込むことに成功した、ということです。(太田)
文久元年(1861年)に中津藩士、土岐太郎八の次女・お錦と結婚した。
その年の冬、竹内保徳を正使とする文久遣欧使節を英艦・オーディン号で欧州各国へ派遣することとなり、文久2年1月1日(1862年1月30日)、諭吉も翻訳方としてこれに同行することとなった。同行者には松木弘安・箕作秋坪がおり、行動を共にした。・・・
⇒今度は、目出度く、薩摩藩の松木と共に、スパイ任務を果たすことになった、ということです。(太田)
<戊辰戦争後、>妻・お錦の実家である土岐家と榎本武揚の母方の実家・林家が親戚であったことから、榎本助命のため寺島宗則(以前の松木弘安)の紹介で官軍参謀長・黒田清隆と面会し、赦免を要求<した>。・・・
⇒福澤は、実質、薩摩藩士でもあった上に、長崎留学の経緯からして島津斉彬も、生前、目をかけていたに違いなく、だからこそ、彼にはこんなことができたわけです。(太田)
廃藩置県を歓迎し、「政権」(軍事や外交)と「治権」(地方の治安維持や教育)の全てを政府が握るのでは無く「治権」は地方の人に委ねるべきであるとした『分権論』には、これを成立させた西郷隆盛への感謝と共に、地方分権が士族の不満を救うと論じ、続く『丁丑公論』では政府が掌を返して西南戦争で西郷を追い込むのはおかしいと主張した。]。 ・・・
⇒福澤は、島津斉彬コンセンサス信奉者にも、当然のことながら、なっていたことが、こういう挿話からも分かります。(太田)
教育の画一化・中央集権化・官立化が確立されると、東京大学に莫大な資金が注ぎ込まれ、慶應義塾は経営難となり、・・・島津家に維持費用援助を要請することになった。・・・
⇒こんな離れ業まで福澤にできたのは一体どうしてか、もはや説明の要はありますまい。(太田)
明治15年(1882年)に訪日した金玉均やその同志の朴泳孝と親交を深めた諭吉は朝鮮問題に強い関心を抱くようになった。諭吉の考えるところ、日本の軍備は日本一国のためにあるのではなく、西洋諸国の侵略から東洋諸国を保護するためにあった。
⇒これ、福澤に、島津斉彬が乗り移ったような言説ですよね。(太田)
そのためには朝鮮における清の影響力を排除することで日本が朝鮮の近代化改革を指導する必要があると考え、日本国内で最も強硬な対清主戦論者となっていった。
明治15年(1882年)7月23日、壬午事変が勃発し、朝鮮の日本公使館が襲撃される事件があり、外務卿井上馨は朝鮮政府に謝罪・賠償と日本公使館に護衛兵を置くことを認めさせた済物浦条約を締結した。清はこれによって日本の朝鮮への軍事的影響力が増すことを恐れたが、諭吉はこの一連の動きに満足の意を示すとともに清が邪魔してくるようであればこれを容赦すべきではないと論じた。明治15年10月に朝鮮からの謝罪使が訪日したが、この使節団は朴泳孝が正使、金玉均が副使の一人であった。朴泳孝は帰国に際して諭吉が推薦する慶應義塾出身の牛場卓蔵を朝鮮政府顧問に迎えている。
朝鮮宗主権の喪失を恐れる清は、袁世凱率いる3000の兵を京城へ派遣し、これによって朝鮮政府内は事大党(清派)と独立党(日本派)と中間派に分裂。独立派の金・朴は、明治17年(1884年)12月4日に甲申事変を起こすも清軍の出動で政権掌握に失敗した。この騒乱の中で磯林真三大尉以下日本軍人40人ほどが清軍や朝鮮軍に殺害され、また日本人居留民も<支那>人や朝鮮人の殺傷略奪を受けた。
この事件により日本国内の主戦論が高まり、その中でもとりわけ強硬に主戦論を唱えたのが諭吉だった。この頃諭吉は連日のように時事新報でこの件について筆をとり続け、「我が日本国に不敬損害を加へたる者あり」「支那兵士の事は遁辞を設ける由なし」「軍事費支弁の用意大早計ならず」「今より其覚悟にて人々其労役を増して私費を減ず可し」「戦争となれば必勝の算あり」「求る所は唯国権拡張の一点のみ」と清との開戦を強く訴えた。また甲申事変の失敗で日本に亡命した金玉均を数か月の間、三田の邸宅に匿まった。
この時の開戦危機は、明治18年(1885年)1月に朝鮮政府が外務卿井上馨との交渉の中で謝罪と賠償を行うことを約束したことや、4月に日清間で日清そろっての朝鮮からの撤兵を約した天津条約が結ばれたことで一応終息した。しかし主戦論者の諭吉はこの結果を清有利と看做して不満を抱いたという。
当時福沢の真意は、息子の福沢一太郎宛の書簡(1884年12月21日)に、「朝鮮事変之実を申せバ、日本公使幷ニ日本兵ハ、十二月六日支那兵之為ニ京城を逐出され、仁川へ逃げたる訳なり。日支兵員之多寡ハあれ共、日本人が支那人ニ負けたと申ハ開闢以来初て之事なり。何れただニては不相済事ならん。和戦之分れハ、今後半月か一月中ニ公然たる事ト存候。」にうかがえる。
明治27年(1894年)3月に日本亡命中の金玉均が朝鮮政府に上海におびき出されて暗殺される事件があり、再び日本国内の主戦論が高まった。諭吉も金玉均の死を悼み、相識の僧に法名と位牌を作らせて自家の仏壇に安置している。同年4月から5月にかけて東学党の乱鎮圧を理由に清が朝鮮への出兵を開始すると日本政府もこれに対抗して朝鮮へ出兵し、ついに日清は開戦に至った(日清戦争)。諭吉は終始、時事新報での言論をもって熱心に政府と軍を支持して戦争遂行を激励した。
国会開設以来、政府と帝国議会は事あるごとに対立したため(建艦費否決など)、それが日本の外交力の弱さになって現れ、清にとってしばしば有利に働いた。諭吉は戦争でもその現象が生ずることを憂慮し、開戦早々に時事新報上で『日本臣民の覚悟』を発表し「官民ともに政治上の恩讐を忘れる事」「日本臣民は事の終局に至るまで慎んで政府の政略を批判すべからざる事」「人民相互に報国の義を奨励し、其美挙を称賛し、又銘々に自から堪忍すべき事」を訴えた。
また戦費の募金運動(諭吉はこれを遽金と名付けた)を積極的に行い、自身で1万円という大金を募金するとともに、三井財閥の三井八郎右衛門、三菱財閥の岩崎久弥、渋沢財閥の渋沢栄一らとともに戦費募金組織「報国会」を結成した(政府が別に5000万円の公債募集を決定したのでその際に解散した)。 ・・・
晩年の諭吉の主な活動には海軍拡張の必要性を強調する言論を行ったり・・・したことなどがあげられる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E6%BE%A4%E8%AB%AD%E5%90%89
⇒長々と引用しましたが、福澤の、いわゆる脱亜論については、「日本の初等・中等教育の歴史教科書においても、「脱亜論」社説を「日本が欧米列強に近づくためにアジアからの脱却を唱えた物で、日本がアジアの1ヵ国であることを否定している」と定義付け、「日本人がアジアを蔑視する元となった脱亜入欧の代表的言説」と教えていることが多い<ところ、それに対し、>丸山眞男は、・・・<上記経緯に由来する、>福沢の挫折感と憤激の爆発として読まれねばならない・・・と説明<した>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%84%B1%E4%BA%9C%E8%AB%96
というですが、私は、島津斉彬の支那辱め論(コラム#9902)の福澤流の実践である、と解しています。(太田)
●北一輝(1883~1937年)<宮崎滔天・大川周明>
「新潟県佐渡郡両津湊町(現:佐渡市両津湊)の酒造業・北慶太郎・・・の長男輝次として生まれる。父慶太郎は初代両津町長を務めた人物で2歳下の弟は衆議院議員の北れい吉。・・・
1901年(明治34年)に・・・上京し幸徳秋水や堺利彦ら平民社の運動に関心を持ち、社会主義思想に接近した。・・・
弟れい吉が早稲田大学に入学すると、その後を追うように上京、同大学の政治経済学部[聴講生]となる。・・・
1906年(明治39年)に処女作『国体論及び純正社会主義』(『國體論及び純正社會主義』)刊行。大日本帝国憲法における天皇制を批判したこの本は・・・発禁処分となり、北自身は要注意人物とされ、警察の監視対象となった。・・・
⇒北がマルクス主義に関心を持ったのは、そもそも、北に人間主義志向性があったからでしょう。
彼の処女作『国体論及び純正社会主義』(下出のウィキペディア参照)の(派生的部分は無視すべきだが、)核心部分は要するに人間主義論であり、だからこそ、宮崎滔天らとの邂逅を通じて、彼は島津斉彬コンセンサス信奉者となった、と私は見ています。
そして、論理必然的に、北はアジア主義者になった、とも。(太田)
失意の中で、北は宮崎滔天<(コラム#9902)>らの革命評論社同人と知り合い、交流を深めるようになり、中国革命同盟会に入党、以後革命運動に身を投じる。・・・
1920年(大正9年・・・)8月、上海を訪問した大川周明<(コラム#9902)>や満川亀太郎<(注8)>らによって帰国を要請され、12月31日に清水行之助とともに帰国。
(注8)1888~1936年。「大阪府出身。・・・早稲田大学中退後、新聞記者を経て・・・大川周明や北一輝らとともに猶存社を結成、猶存社解散後は・・・アジア主義に立脚した国家改造運動をすすめた。拓殖大学教授。・・・アジア主義者や国家主義者、政界・官界・軍部だけではなく、社会主義者やデモクラットらとも幅広い親交を結んだ。 」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%80%E5%B7%9D%E4%BA%80%E5%A4%AA%E9%83%8E
⇒北が、完全に島津斉彬コンセンサス信奉者に成りきっていたことがよく分かろうというものです。(太田)
1921年(大正10年)1月4日から猶存社<(注9)>の中核的存在として国家改造運動にかかわるようになる。1923年(大正12年)猶存社が解散。
(注9)猶存会とも。「満川亀太郎を中心に、1919年8月1日に結成された国家主義運動の結社。・・・同人による学生運動の指導により、日の会(東京帝国大学)・猶興学会(京都帝国大学)・東光会(第五高等学校)・光の会(慶應義塾大学)・烽の会(札幌農学校)・潮の会(早稲田大学)・魂の会(拓殖大学)などの団体が生まれた。このうち日の会は猶存社同人の鹿子木員信と大川周明の支援を受けて岸信介らが結成したものである。
天皇観の相違やヨッフェ来日問題をめぐって、北と大川・満川との対立が激しくなり、1923年3月に猶存社自体は解散・分裂した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8C%B6%E5%AD%98%E7%A4%BE
鹿子木員信(かのこぎかずのぶ。1884~1949年)。「<肥後>熊本藩士族の家系として東京府に生まれる。旧制東京府立第一中学校から海軍予備校を経て、1904年に海軍機関学校を卒業し、「八雲」乗組みとして日本海海戦を戦った。海軍機関中尉で病を得て予備役を経て退役。・・・1906年(明治39年)9月 京都帝国大学文科大学哲学科選科入学にしたが、この時代に近衛文麿を知り関係を深める。また慶應義塾大学教授を経て、1907年より<米独>に留学。<米国>ではニューイングランド州のユニオン神学校で学ぶ。・・・興国同志会に属していたが森戸事件をきっかけに岸信介らとともに脱会。1926年に九州帝国大学教授・同法文学部長、1927年にはベルリン大学客員教授となる。九大時代の教え子に、哲学者の桑木務がいる。戦争中は徳富蘇峰が会長を勤める大日本言論報国会の専務理事、事務局長を務め、国粋主義思想を広めた。・・・
「プラトン哲学の研究」で文学博士(東京帝大)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B9%BF%E5%AD%90%E6%9C%A8%E5%93%A1%E4%BF%A1
⇒アジア主義者達の大部分は、要するに、島津斉彬コンセンサス信奉者達なのであり、彼らを(右翼と呼ぶに至っては言語道断ですが、)国家主義者達と呼ぶのは誤りです。
彼らが日本の安全保障を重視した愛国者達であったことは確かですが、アジアの解放を通じて長期的な日本の安全保障を図ろうというのですから、少なくとも、短・中期的には、彼らは、国家主義者達ではなく国際主義者達、としか形容できないからです。
なお、岸も東大の学生時代に島津斉彬コンセンサス信奉者になっていたことになるけれど、石原莞爾ら同様、その後、横井小楠コンセンサス(のみ)信奉者、しかもやわな信奉者、に転向した、と見ているところ、それは、生家の佐藤家が、岸の曽祖父の佐藤信寛
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E8%97%A4%E4%BF%A1%E5%AF%9B
の三代前までは武家ではなく、恐らくは商家であったこと、
https://books.google.co.jp/books?id=YY0lDwAAQBAJ&pg=PT19&lpg=PT19&dq=%E4%BD%90%E8%97%A4%E7%A7%80%E5%8A%A9&source=bl&ots=EP1KCBAZyx&sig=mHYDG8gA2y4WjSg2mrhAAeG669Y&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwij-4bhwsHcAhVGvbwKHZCwA9M4ChDoATADegQIAxAB#v=onepage&q=%E4%BD%90%E8%97%A4%E7%A7%80%E5%8A%A9&f=false
そして、横井小楠コンセンサス(のみ)信奉者ばかりであったところの、長州藩出身であったこと、が影響していた、と、私は考えるに至っています。(太田)
「日本改造法案大綱」<(コラム#10031)>が改造社から、出版法違反なるも一部伏字で発刊された。これは、議会を通した改造に限界を感じ、「軍事革命=クーデター」による改造を諭し、二・二六事件の首謀者である青年将校の村中孝次、磯部浅一、栗原安秀、中橋基明らに影響を与えた。また、私有財産や土地に一定の制限を設け、資本の集中を防ぎ、さらに華族制度にも触れ、“特権階級”が天皇と国民を隔てる「藩屏」だと指摘。その撤去を主張した。・・・
1936年(昭和11年)二・二六事件で逮捕。1937年(昭和12年)8月14日、民間人にも関わらず、特設軍法会議で、二・二六事件の理論的指導者の内の一人とされ、死刑判決を受ける。5日後の8月19日、事件の首謀者の一人とされた陸軍軍人の西田税とともに銃殺刑に処された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E4%B8%80%E8%BC%9D
「<北は、>社会主義を支持しながらも当時の社会主義者の主流であった非戦論には同調できず、国家主義を支持しながらも当時の国家主義者の主流であった国体論には同調できなかった。・・・北は<『国体論及び純正社会主義』の中で、>進化論の観点から人類は相互扶助の精神によって生存競争の対象を家族から部族、国家単位へと進歩してきたと論じ、その間に社会的同化作用によって内部の団結力を強化することで社会を進化させてきたと説いた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E4%BD%93%E8%AB%96%E5%8F%8A%E3%81%B3%E7%B4%94%E6%AD%A3%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E4%B8%BB%E7%BE%A9 ([]内も)
⇒『日本改造法案大綱』は、大正末の言葉を用いて、人間主義でもって理論化したところの、島津斉彬コンセンサス、を語ったものである、と受け止めていいでしょうね。(太田)
●近衛文麿(1891~1945年)<近衛篤麿・後藤隆之助(杉山茂丸)>
「父の篤麿はアジア主義の盟主であり、東亜同文会を興すなど活発な政治活動を行っていた。ところが、1904年(明治37年)に、篤麿は41歳で死去した。文麿は12歳にして襲爵し近衛家の当主となる・・・<学習院、一高。東大(文・哲学)を>「マルクス経済学の造詣が深い経済学者で共産主義者であった河上肇や被差別部落出身の社会学者・米田庄太郎に学ぶため、<中退、京大(法)に転学、卒業。>・・・
1933年(昭和8年)には近衞を中心とした政策研究団体として後藤隆之助<(注10)>らにより昭和研究会が創設された。
(注10)1888~1984年。一高、京大卒。「右翼の実力者である玄洋社の杉山茂丸<(コラム#9902)>に親炙し、志賀直方に兄事した。・・・
近衛文麿のブレーンとして彼を支え、大政翼賛会の組織局長を務めた。 」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E8%97%A4%E9%9A%86%E4%B9%8B%E5%8A%A9
杉山茂丸(1864~1935年)は、福岡藩士の長男。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E5%B1%B1%E8%8C%82%E4%B8%B8
⇒近衛は、幼少時には父から、大きくなってからは、(玄洋社/杉山譲に薫陶を受けた)
後藤から、島津斉彬コンセンサスの注入を二度にわたって受けた、ということになりそうです。(太田)
この研究会には暉峻義等、三木清、平貞蔵、笠信太郎、東畑精一、矢部貞治、また企画院事件で逮捕される稲葉秀三、勝間田清一、正木千冬、和田耕作らが参加している。後にゾルゲ事件において絞首刑に処せられる尾崎秀実もメンバーの一人であった。・・・
1936年(昭和11年)3月4日、宮内省で西園寺公望と会談した際、二・二六事件後に辞職した岡田啓介の後継として西園寺から推薦され大命降下もあったが、表向きは健康問題を理由に辞退した。真因は、近衞が親近感をもっていた皇道派が陸軍内において粛清されることに不安と不満があったからである。
⇒ですから、近衛が、陸軍の皇道派ならぬ、島津斉彬コンセンサス信奉者達に惹かれたのは当然でした。(太田)
一木喜徳郎が広田弘毅を推薦すると西園寺はすぐに賛成し、近衞を介して吉田茂に広田の説得を任せ、3月5日に広田に組閣の大命が下ったが、吉田ら自由主義者を外務大臣にする広田の組閣案に対して寺内寿一大将などの陸軍首脳部の干渉があり、粛軍と引き替えに大幅に軍に譲歩した形で3月9日に広田内閣が成立した。
⇒近衛は、同じ島津斉彬コンセンサス信奉者たる広田(コラム#9902)を自分の身代わりにした、というわけです。
私は、両者とも、杉山元がロボット候補として、かねてから目を付けていた人物達である、と見ています。(太田)
対中国政策が行き詰まった広田内閣は、1937年(昭和12年)1月の腹切り問答を機に総辞職した。宇垣一成内閣は陸軍の反対で組閣流産し、首相となった林銑十郎も5月31日に在職わずか3ヶ月で辞任した。
元老・西園寺公望の推薦により近衞は再び大命降下を受け、6月4日に第1次近衛内閣を組織した。・・・
⇒この頃までに、近衛は、杉山元から、(世論を島津斉彬コンセンサスへと糾合するという目的に照らして最適な)首相格たるロボットとして、白羽の矢を立てられるに至った、と私は見ています。
広田もそのことを承知していたのではないでしょうか。(太田)
軍部大臣には杉山元(陸軍)と米内光政(海軍)が留任し、外務大臣は広田弘毅、さらに民政党と政友会からも大臣を迎えた。昭和研究会からは有馬頼寧が農林大臣に、風見章が内閣書記官長に加わった。陸海軍からの受けも悪くなく、財界、政界からは支持を受け、国民の間の期待度は非常に高かった。
就任直後には、「国内各論の融和を図る」ことを大義名分として、治安維持法違反の共産党員や二・二六事件の逮捕・服役者を大赦しようと主張して、周囲を驚愕させた。この大赦論は、荒木貞夫が陸相時代に提唱していたもので、かれ独特の国体論に基づくものであったが、二・二六事件以降は皇道派将校の救済の意味も持つようになり、真崎甚三郎の救済にも熱心だった近衞は、首相就任前からこれに共感を示していた。しかし、西園寺公望は、荒木が唱えだした頃からこの論には反対であり、結局、大赦はならなかった。
⇒荒木はともかく、近衛自身は、京大の時の勉強を通じ、マルクス主義が私の言う人間主義を追求していることを知っていたのでしょう。
但し、近衛のその後の言動からすると、彼は、マルクス主義と(ソ連のイデオロギーたる)マルクスレーニン主義が似て非なるものであることまで、理解していなかった、ということではないでしょうか。(太田)
7月7日に盧溝橋事件をきっかけに日中戦争(支那事変)が勃発した。7月8日に不拡大方針を閣議で確認した。杉山元は支那駐屯軍司令官・香月清司に対し「盧溝橋事件ニ就テハ、極力不拡大方針ノ下ニ現地解決ヲ計ラレタシ」との命令を与え、今井武夫らの奔走により7月11日に現地の松井太久郎大佐(北平特務機関長)と秦徳純(第二十九軍副軍長)との間で停戦協定が締結された。
⇒杉山は、日本側が自制しても、必ず、蒋介石政府軍ないしその「友軍」が手を出してくるだろうと踏んで、かかる閣議了解を作り、それを支那駐屯軍に伝達した、というだけのことでしょう。(太田)
しかし近衞は蒋介石が4個師団を新たに派遣しているとの報を受け、同11日・・・内地三個師団を派兵する「北支派兵声明」を発表する。派兵決定とその公表は進行中の現地における停戦努力を無視する行動であり、その後の現地交渉を困難なものとした。・・・
⇒当然、杉山が内閣を動かしたということです。(太田)
その後の特別議会で近衞は「事件不拡大」を唱え続けた。しかし7月17日には1,000万円余の予備費支出を閣議決定。7月26日には、陸軍が要求していないにもかかわらず、9,700万円余の第一次北支事変費予算案を閣議決定し、7月31日には4億円超の第二次北支事変費予算を追加するなど、不拡大とは反対の方向に指導した。
⇒陸軍が正式要請をするまでもなく、近衛は、杉山の「指示」通りに動いていた、ということです。
なお、杉山が近衛の「ボス」であったことは、以下の挿話から明らかでしょう。↓
「第一次近衛内閣の陸相時代、閣議で拓務大臣の大谷尊由から「陸軍は一体どの線まで進出しようとするのか」と尋ねられた。これは弱気の近衛が拡大する一方の支那事変における陸軍の真意に不安を感じつつ、さりとて今更自分では訊けないので大谷に質問させたのである。しかし杉山は質問を無視して答えなかった。海軍大臣の米内光政が見かねて「だいたい永定河と保定との線で停止することになっているようである」と答えた。すると杉山は米内にむかって「君はなんだ、こんなところでそんなことを言っていいのか!」と怒鳴った。おとなしい米内はこの杉山の理不尽な激昂に対し「そうかなあ」とだけ答え、閣議の場はすっかり白けてしまった。いかに戦前でも閣議を公然と「こんなところ」呼ばわりした軍人はそういない。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E5%B1%B1%E5%85%83 (太田)
陸軍参謀本部作戦部長の石原莞爾は風見章を通じて、日中首脳会談を近衞に提案したが、<外相の>広田弘毅が熱意を示さず、最後のところで決断できなかった。
⇒広田は杉山と一心同体みたいなものだ、という認識を石原が持っていなかった点に、理論家ではあっても、陸軍内の力学には疎い・・この点では真崎的・・、彼の限界が露呈しています。(太田)
この状況を憂慮した石原は7月18日に杉山元に意見具申し、「このまま日中戦争に突入すれば、その結果はあたかもスペイン戦争でのナポレオン同様、底無し沼にはまることになる。この際、思いきって北支にある日本軍全体を一挙に山海関の満支国境まで引き下げる。近衛首相が自ら南京に飛び蒋介石と膝詰めで談判する」という提案をした。
⇒石原が、よりにもよって、近衛の人形遣いの杉山に、そんなことを直訴した、というのですから、もはや笑うしかありません。(太田)
同席した陸軍次官・梅津美治郎は、「そうしたいが、近衛首相の自信は確かめてあるのか」と聞き、杉山も「近衛首相にはその気迫はあるまい」と述べた。実際、風見によれば、近衞は陸軍が和平で一本化するかどうか自信がなく、せっかくの首脳会談構想を断念したと言われている。当初、近衞は首脳会談に大変乗り気になり、南京行きを決意して飛行機まで手配したが、直前になり心変わりし蒋介石との首脳会談を取り消した。石原は激怒し「二千年にも及ぶ皇恩を辱うして、この危機に優柔不断では、日本を滅ぼす者は近衛である」と叫んだ。
⇒叫ぶ相手は杉山でなければならないのに、石原には、(失脚する)最後の最後まで、黒幕が誰かに気付かなかったようですね。(太田)
8月2日には増税案を発表。この間に宋子文を通じて和平工作を行い、近衞と蒋介石との間で合意が成立した。国民政府側から特使を南京に送って欲しいとの電報が届くと、近衞は杉山元に確認を取り、宮崎龍介を特使として上海に派遣することを決定した。ところが海軍を通じてこの電報を傍受した陸軍内の強硬派がこれを好感せず、憲兵を動かして宮崎を神戸港で拘束し東京へ送還してしまう。このため折角の和平工作は立ち消えとなってしまった。
⇒近衛が、独自の動きをすれば、こんな風に杉山が潰してしまうってわけです。
憲兵の親分は陸軍大臣ですからね。(太田)
この件に関して杉山は関係者を一切処分しなかったばかりか、事情聴取すら行わず、結果的に事後了解を与えた形になっていた。杉山本人も当初は明解な釈明が能わない有様で、以後近衞は杉山に強い不信感を抱くようになる。
⇒自分が命じたのだから、処分できるはずがありません。
それにしても、近衛も、全くもって、軽いしトロイですねえ。(太田)
8月8日には日支間の防共協定を目的とする要綱を取り決めた。8月9日に上海で大山事件が発生し日中両軍による戦闘が開始された。8月13日に、近衞は二個師団追加派遣を閣議決定。8月15日に海軍は南京に対する渡洋爆撃を実行し、同時に、近衞は「今や断乎たる措置をとる」との断固膺徴声明を発表。8月17日には不拡大方針を放棄すると閣議決定した。
⇒杉山は海軍にも、完全に手を回してあった、と見ていいでしょう。(太田)
第2次上海事変が全面戦争へと発展したことを受け、9月2日に「北支事変」を「支那事変」と変更する閣議決定がなされた。9月10日には、臨時軍事費特別会計法が公布され、不拡大派の石原莞爾が失脚した。
⇒石原を切ったのは、参謀本部所属とはいえ、当然、杉山で決まりです。(太田)
また、国内では、10月に国民精神総動員中央連盟を設立。内閣資源局と企画庁が合体した企画院を誕生させ、計画経済体制の確立に向けて動き出した。11月には、1936年(昭和11年)に日本とドイツの間で締結された日独防共協定にイタリアを加えた日独伊防共協定を締結。その後に大本営を設置する。12月5日付の夕刊では、国民の一致団結を謳った「全国民に告ぐ」という宣言文を出させている。これは、近衞の意を受けて秋山定輔がまとめたもので、資金は風見章が出している。
⇒まさか、政府広告を打つのでカネが必要だった、ということでもないはずですから、どうして「資金」が必要だったか、私にはよく分かりません。
ロボットも、ロボットなりに、ようやく少し慣れて活発に働きだした感はありますが・・。(太田)
こうして、近衞は日本の全体主義体制確立へと突き進む。そんな中、12月13日に南京攻略により、日中戦争は第1段階を終える。
⇒全体主義、じゃなく、総動員、と書いて欲しかったところです。(太田)
翌1938年(昭和13年)1月11日には、御前会議で陸軍参謀本部の主導により「支那事変処理根本方針」が決定された。これはドイツの仲介による講和(トラウトマン工作)を求める方針だった。しかし、近衞は1月14日に和平交渉の打切りを閣議決定し、1月16日に「爾後國民政府ヲ對手トセズ」の声明(第一次近衛声明)を国内外に発表し、講和の機会を閉ざした。5月には現地日本軍が徐州を占領しており、7月には尾崎秀実・松本重治・犬養健・西園寺公一・影佐禎昭らの工作により、中国国民党左派の有力者である汪兆銘に接近して、国民党から和平派を切り崩す工作を開始し、石原莞爾らの独自和平工作を完全に阻止した。その後、日本軍は広東と武漢三鎮を占領している。
この間、国内では2月17日には防共護国団の約600名が立憲民政党と立憲政友会の本部を襲撃しているが(政党本部推参事件)、これに先立ち中溝多摩吉は政党本部襲撃計画案を近衞に見せ、近衞はこれに若干の修正を加えている。
⇒首相が騒動にお墨付きを与えるなど、杉山の「指示」を超えています。
はしゃぎ過ぎの、困った、坊ちゃん首相です。(太田)
さらに近衞は、支那事変のためとして、4月に国家総動員法や電力国家管理法を公布、5月5日に施行し、経済の戦時体制を導入、日本の国家社会主義化が開始された。なお、国家総動員法や電力国家管理法は、ソ連の第一次五カ年計画の模倣である。・・・また戦争継続の戦費調達のために大量の赤字国債である「支那事変公債」が発行され、国債の強制割当が行われた。
⇒国家社会主義化なんて言わないでおくか、私なら、日本型政治経済体制化、と書くところです。(太田)
この頃に近衞は、陸軍参謀総長・閑院宮載仁親王らに根回しをすることで杉山元の更迭を成功させた。後任の陸相には小畑敏四郎を考えたが、摩擦が生じることを懸念。そこで不拡大派の支持があった板垣征四郎を迎えることを決意し、山東省の最前線にいた板垣への使者として民間人の古野伊之助を派遣している。この時期の内閣改造で主に入閣したのは、陸軍の非主流派や不拡大派の石原莞爾らが、以前閣僚への起用を考えていた人々であった。この人事により軍部を抑える考えがあったものとされるが、板垣は結局「傀儡」となり失敗した。近衞は広田弘毅に代えて宇垣一成を外相に迎えたものの、宇垣の和平工作を十分に助けようとしなかった。宇垣はこれに不満を覚え、また近衞が興亜院を設置しようとしたこともあり、9月に辞任した。
⇒杉山は閑院宮は手なずけていた、と私は見ており、杉山自身が、陸軍の南進方針の確立と国内体制の整備の目途が付いたこの時点で、一旦、後をロボット近衛以下に任せ、支那の最前線を自らの眼で見ておきたい、と、自ら陸相ポストを去った、と私は見ています。
若かりし頃の杉山が現地視察に勤しんだ人間であったことを思い出してください。(太田)
8月には、麻生久を書記長とする社会大衆党を中心として、「大日本党」の結成を目指したが、時期尚早とみて中止した。これは、大政翼賛会へと至る独裁政党への第一歩である。
11月3日に「東亜新秩序」声明(第二次近衛声明)を発表。12月22日には日本からの和平工作に応じた汪兆銘の重慶脱出を受けて、対中国和平における3つの方針(善隣友好、共同防共、経済提携)を示した第三次近衛声明(近衛三原則)を発表した。しかし、汪に呼応する中国の有力政治家はなく、重慶の国民党本部は汪の和平要請を拒否、逆に汪の職務と党籍を剥奪し、近衞の狙った中国和平派による早期停戦は阻まれることになった。
1939年(昭和14年)1月5日に内閣総辞職する。
近衞の後を承けたのは前枢密院議長の平沼騏一郎だったが、平沼内閣には近衞内閣から司法兼逓・文部・内務・外務・商工兼拓務・海軍・陸軍の七大臣が留任したうえ、枢密院に転じた近衞自身も班列としてこれに名を連ねた。
しかし同時に、末次信正・有馬頼寧・風見章らのような近衛内閣の熱烈な制度改革論者は、平沼の閣僚名簿からは除かれていた。8月23日に独ソ不可侵条約が締結されると、1937年に締結した日独伊防共協定をさらに進めた防共を目的としたドイツとの同盟を模索していた平沼は衝撃を受け、「欧州の天地は複雑怪奇」という声明を残して内閣総辞職した。その一週間後にはドイツがポーランドに侵攻、これを受けて<英国>やフランスがドイツに宣戦布告したことで第二次世界大戦が始まる。平沼の後は陸軍出身の阿部信行と海軍出身の米内光政がそれぞれ短期間政権を担当した。
この間の近衞は新党構想の肉付けに専念した。1940年(昭和15年)3月25日には聖戦貫徹議員連盟が結成され、5月26日には近衞が木戸幸一や有馬頼寧と共に、「新党樹立に関する覚書」を作成した。再度、ソ連共産党やナチス党をモデルにした独裁政党の結成を目指した。6月24日に「新体制声明」を発表している。これに応じて、7月に日本革新党・社会大衆党・政友会久原派、ついで政友会鳩山派・民政党永井派、8月に民政党が解散する。
欧州でドイツが破竹の進撃を続けるなか、国内でも「バスに乗り遅れるな」という機運が高まっていた。これを憂慮した昭和天皇や内大臣・湯浅倉平が「海軍の良識派」として知られる米内光政を特に推して組閣させたという経緯があったのだが、陸軍がそれを好感する道理がなかった。半年も経たない頃から、陸軍は政府に日独伊三国同盟の締結を執拗に要求。米内がこれを拒否すると、陸軍は陸軍大臣の畑俊六を辞任させて後任を出さず、内閣は総辞職した。かわって大命が降下したのは、近衞だった。この際、「最後の元老」であった西園寺公望は近衞を首班として推薦することを断っている。
新党構想などの準備を着々と整え、満を持しての再登板に臨むことになった近衞は、閣僚名簿奉呈直前の7月19日、荻窪の私邸・荻外荘でいわゆる「荻窪会談」を行い、入閣することになっていた松岡洋右(外相)、吉田善吾(海相)、東條英機(陸相)と「東亜新秩序」の建設邁進で合意している。
⇒杉山にとって、近衛同様、東條もロボット、但し、近衛とは違って忠実、堅実、かつ有能、なロボットだった、と私は見ている次第です。(太田)
1940年(昭和15年)7月22日に、第2次近衛内閣を組織した。7月26日に「基本国策要綱」を閣議決定し、「皇道の大精神に則りまづ日満支をその一環とする大東亜共栄圏の確立をはかる」(松岡外相の談話)構想を発表。新体制運動を展開し、全政党を自主的に解散させ、8月15日の民政党の解散をもって、日本に政党が存在しなくなり、「大正デモクラシー」などを経て日本に根付くと思われていた議会制政治は死を迎えた。
⇒とんでもない。
こうして、日本的な議会制政治が確立したのです。
なお、この内閣で、東條英樹が陸軍大臣に就任しています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E8%BB%8D%E5%A4%A7%E8%87%A3
第2次近衛内閣の時の近衛は、杉山のリモートコントロール下の東條が、杉山に代わって、近衛を人形遣いとして動かしていったということです。(太田)
しかし、一党独裁は日本の国体に相容れないとする「幕府批判論」もあって、会は政治運動の中核体という曖昧な地位に留まり、独裁政党の結成には至らず、<近衛は、>10月12日に大政翼賛会の発足式で「綱領も宣言も不要」と新体制運動を投げ出した。
⇒どちらも、綱領が必須であるところの、多数の政党がせめぎ合う欧州型の議会制政治も、二大政党が競い合うアングロサクソン型の議会制政治も、地域対立も、階級・階層間対立もない日本では機能しないのであり、綱領なし、はむしろ正解なのです。(太田)
また、新体制運動の核の一つであった経済新体制確立要綱が財界から反発を受け、近衛が当初商工大臣に据えようとした革新官僚の商工次官・岸信介は辞退したために代わりに任じた小林一三は経済新体制要綱の推進者である岸と対立、小林は岸を「アカ」と批判した。内務大臣となった平沼騏一郎は経済新体制確立要綱を骨抜きにさせて決着を図り、平沼らは更に経済新体制確立要綱の原案作成者たちを共産主義者として逮捕させ、岸信介も辞職した。この間、新体制推進派は閣僚を辞職し、平沼は大政翼賛会を公事結社と規定し、大政翼賛会の新体制推進派を辞職させた。
⇒政界に比べて、財界においては、日本型政治経済体制への理解が遅れた、換言すれば、アングロサクソン的資本主義信仰が残っていた、ことを示しています。(太田)
9月23日に北部仏印進駐。9月27日に日独伊三国軍事同盟を締結。第二次世界大戦における枢軸国の原型となった。
⇒その直後の10月3日に、杉山元が参謀総長に就任しています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%82%E8%AC%80%E6%9C%AC%E9%83%A8_(%E6%97%A5%E6%9C%AC) 前掲
爾後、哀れな近衛は、小人形遣いの東條に加えて、大人形遣いの杉山にも小突き回され、こき使われ続けることになるのです。(太田)
1941年(昭和16年)4月13日に日ソ中立条約を締結。近衞らは日米諒解案による交渉を目指すも、この内容が三国同盟を骨抜きにする点に松岡洋右は反発し、松岡による修正案が<米国>に送られたが、<米国>は修正案を黙殺した。
6月22日に独ソ戦が勃発、ドイツ、イタリアと三国同盟を結んでいた日本は、独ソ戦争にどう対応するか、御前会議にかける新たな国策が直ちに求められた。陸軍は独ソ戦争を、仮想敵国ソビエトに対し軍事行動をとる千載一遇のチャンスととらえた。一方海軍も、この機に資源が豊富な南方へ進出しようと考えた。大本営政府連絡会議では松岡洋右は三国同盟に基づいてソ連への挟撃を訴えた。
7月2日の御前会議で「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」が決定された。この国策の骨格は海軍が主張した南方進出と、松岡と陸軍が主張した対ソ戦の準備という二正面での作戦展開にあった。
⇒この間、杉山は、一旦は対英のみ開戦(後述)を追求するものの、外務省と海軍の反対で断念し、対英米戦含みの南進と対ソ戦、の両にらみ、という自殺的(利他的)最大限戦略に復帰し、海軍に手をまわして南進論を主張させることによって、陸軍単独で閣議にかければ、相手にされなかった可能性のあるこの最大限戦略の国策化に成功するのです。
なお、東條は、この杉山最大限戦略の自殺性(利他性)に真に気付いていなかった可能性があると私は思います。(太田)
この決定を受けて<ソ連>に対しては7月7日いわゆる関東軍特種演習を発動し、演習名目で兵力を動員し、独ソ戦争の推移次第では<ソ連>に攻め込むという作戦であった。一方南方に対して南部仏印への進駐を決定した。
7月18日に内閣総辞職した。足枷でしかなかった松岡洋右を更迭するためであった(大日本帝国憲法では内閣総理大臣が閣僚を罷免出来る権限が無かったため)。
1941年(昭和16年)7月18日に、第3次近衛内閣を組織。外相には、南進論者の海軍大将・豊田貞次郎を任命した。7月23日にすでにドイツに降伏していたフランスのヴィシー政権からインドシナの権益を移管され、それを受けて7月28日に南部仏印進駐を実行し、7月30日にサイゴンへ入城。しかしこれに対する<米国>の対日石油全面輸出禁止等の制裁強化により日本は窮地に立たされることとなった。
9月6日の御前会議では、「帝国国策遂行要領」を決定。<英国>、<米国>に対する最低限の要求内容を定め、交渉期限を10月上旬に区切り、この時までに要求が受け入れられない場合、アジアに植民地を持つ<英国>、<米国>、オランダに対する開戦方針が定められた。
御前会議の終わった9月6日の夜、近衞はようやく日米首脳会談による解決を決意し駐日<米国>大使ジョセフ・グルーと極秘のうちに会談し、危機打開のため日米首脳会談の早期実現を強く訴えた。事態を重く見たグルーは、その夜、直ちに首脳会談の早期実現を要請する電報を本国に打ち、国務省では日米首脳会談の検討が直ちに始まった。しかし、国務省では妥協ではなく力によって日本を封じ込めるべきだと考え、10月2日、アメリカ国務省は日米首脳会談を事実上拒否する回答を日本側に示した。
⇒不安にかられたロボット近衛が、最後の反抗を試みてみたけれど、当然のごとく、失敗に終わったわけです。
まあ、近衛のやることなすことは、全て、杉山の掌の上で転がされていただけなのですが・・。(太田)
陸軍は<米国>の回答をもって日米交渉も事実上終わりと判断し、参謀本部は政府に対し、外交期限を10月15日とするよう要求した。外交期限の迫った10月12日、戦争の決断を迫られた近衞は外相・豊田貞次郎、海相・及川古志郎、陸相・東條英機、企画院総裁・鈴木貞一を荻外荘に呼び、対米戦争への対応を協議した。いわゆる「荻外荘会談」である。そこで近衞は「今、どちらかでやれと言われれば外交でやると言わざるを得ない。(すなわち)戦争に私は自信はない。自信ある人にやってもらわねばならん」と述べ、10月16日に政権を投げ出し、10月18日に内閣総辞職した。近衞と東條は、東久邇宮稔彦王を次期首相に推すことで一致した、しかし、東久邇宮内閣案は皇族に累が及ぶことを懸念する内大臣・木戸幸一らの運動で実現せず、東條が次期首相となった。・・・
⇒杉山の最も望んでいた布陣に、予定通りなったといったところでしょうか。(太田)
戦局が不利になりはじめた1943年(昭和18年)、近衞が和平運動に傾いていることを察した東條は、腹心の陸軍軍務局長・佐藤賢了を通じて「最近、公爵はよからぬことにかかわっているようですが、御身の安全のために、そのようなことはおやめになったほうがよろしい」と脅しをかけた。このことがそれまで優柔不断で弱気だった近衞を激怒豹変させた。以後、近衞は和平運動グループの中心人物になる。近衞は吉田茂らの民間人グループ、岡田啓介らの重臣グループの両方の和平運動グループをまとめる役割を果たし、また陸軍内で反主流派に転落していた皇道派とも反東條で一致し提携するなど、積極的な行動を展開した。
1944年(昭和19年)7月9日のサイパン島陥落に伴い、東條内閣に対する退陣要求が強まったが、近衞は「このまま東條に政権を担当させておく方が良い。戦局は、誰に代わっても好転する事は無いのだから、最後まで全責任を負わせる様にしたら良い」と述べ、敗戦を見越したうえで、天皇に戦争責任が及びにくくする様に考えていた。
⇒東條を据え置いたままで和平もへったくれもないでしょう。
「敗戦」を見越した、自分可愛さのアリバイ作りにしか思えません。
そんなミエミエの行為なんて、アリバイ作りにすらなりゃしません。
やはり、近衛には、自分で気の利いた動きができるような能力はなった、と断ぜざるをえません。(太田)
1945年(昭和20年)1月25日に京都の近衛家陽明文庫において岡田啓介、米内光政、仁和寺の門跡・岡本慈航と会談し、敗戦後の天皇退位の可能性が話し合われた。もし退位が避け難い場合は、天皇を落飾させ仁和寺門跡とする計画が定められた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E6%96%87%E9%BA%BF
⇒近衛流マスターベーションってやつです。(太田)
3 事項篇
史記的に言えば、以上は列傳であるところ、列傳があるんだから本紀もあるんだろう、という声が聞こえてきますが、明治維新から終戦までどころか、その昭和部分だけでも、本記、すなわち、通史、を書くことは、私が持ち合わせている能力と時間では極めて困難です。
通史となると、海軍のことももちろん触れなければならない上、外交や経済にも多少なりとも触れなければなりませんしね。
そこで、それに代わって、取敢えず、主として昭和部分に係る重要事項群をピックアップし、それぞれに、私による、簡単な解説を付けることにしました。
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[軍部大臣現役武官制]
「日本では、明治時代の初め、当時の軍部大臣に当たる兵部卿の補任資格を「少将以上」の者に限っていた。
その後、同様の規定は中断したり復活したりしていたが、1900年(明治33年)に、山縣有朋首相の主導で、軍部大臣現役武官制を明確に規定した。これは、当時勢力を伸張していた政党に対して、軍部を権力の淵源としていた藩閥が、影響力を維持するために執った措置とされる。
⇒そんな低次元の話ではなく、議会政治は、軍事に関しては顕教の世界しか基本的に取り扱えないことから、島津斉彬コンセンサスなる密教を密かに信奉する、陸海軍の幹部達は、議会の直接的影響が軍部に及ぶことを回避しようとした、と解するべきだろう。(太田)
しかし、日露戦争後の国際状況の安定と政党政治の成熟により藩閥と軍部の影響力は衰え、1913年(大正2年)の山本内閣の時には軍部大臣の補任資格を「現役」に限る制度が改められた。
⇒日露戦争後の日露協約時代、第一次世界大戦中からのロシアの混乱時代、を背景とする、顕教の論理に基づく日本国内での軍部掣肘に軍部が屈した第一弾が軍部大臣現役武官制の緩和であり、陸軍における、山梨軍縮(1922、1923年)と宇垣軍縮(1925年)(前出)、海軍における、ワシントン海軍軍縮条約(1922年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AF%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%B3%E6%B5%B7%E8%BB%8D%E8%BB%8D%E7%B8%AE%E6%9D%A1%E7%B4%84
であり、ロンドン海軍軍縮条約(1930年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%B3%E6%B5%B7%E8%BB%8D%E8%BB%8D%E7%B8%AE%E4%BC%9A%E8%AD%B0
だ。(太田)
再び軍部の影響力が強まった1936年(昭和11年)に問題を起こした退役軍人の影響を排除するためという名目で軍部大臣現役武官制<が>復活し<た。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%8D%E9%83%A8%E5%A4%A7%E8%87%A3%E7%8F%BE%E5%BD%B9%E6%AD%A6%E5%AE%98%E5%88%B6
⇒ここは、字面上はその通りなのだが、杉山元は、「1934年(昭和7年)8月に・・・参謀次長<という、閑院宮お飾り参謀総長を戴くところの、事実上の参謀総長>に就任<しており、>」二・ニ六事件の収束を行うことで、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E5%B1%B1%E5%85%83
上原と自分を結ぶ、中継ぎの島津斉彬コンセンサス信奉者達・・荒木貞夫、真崎甚三郎、本庄繁<(注12)>を、民間のアジア主義者達や若手将校達の島津斉彬信奉者達中の跳ね上がり達、更には、横井小楠コンセンサス(のみ)信奉者達を巧妙に利用しつつ、引退に追い込むと共に、更に、阿部信行、林銑十郎、南次郎、を予備役入りさせ、残りの現役陸軍大将を寺内寿一(注13)、西義一(注14)、植田謙吉(注15)の3名だけにし、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E5%B4%8E%E7%94%9A%E4%B8%89%E9%83%8E
同じ年に、教育総監、そして大将となり、更に翌年には陸軍大臣になって、以後、事実上、陸軍を牛耳り続ける、という、私が見るところの、その背景こそが重要なのだ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E5%B1%B1%E5%85%83 前掲
(注12)本庄繁(1876~1945年)は、兵庫県の農家の子。陸士、陸大。満州事変の時の関東軍司令官で二・二六事件の時の侍従武官長で青年将校達に理解を示している。
「1945年(昭和20年)11月、GHQから逮捕令が下る。本庄は11月20日、陸軍大学校内の補導会理事長室で割腹自決。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%BA%84%E7%B9%81
彼が皇道派だというので、島津斉彬コンセンサス信奉者としたいところなのだが、その根拠をいまだ探し出し得ていない。
(注13)1879~1946年。「第18代内閣総理大臣などを歴任した元帥陸軍大将寺内正毅の長男で、皇族以外では唯一陸海軍を通して親子2代で元帥府に列せられた人物。」陸士、陸大。広田内閣で陸軍大臣(1936~37年)。杉山元の後任の教育総監(1937年)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BA%E5%86%85%E5%AF%BF%E4%B8%80
(注14)1878~1941年。旧会津藩士の子。陸士、陸大。1936年の二・二六事件後に教育総監になったが、病のため、すぐに杉山元にその座を譲っている。「<同>年8月、予備役に編入された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E7%BE%A9%E4%B8%80
(注15)1875~1962年。大阪府出身で陸軍軍吏の子。陸士、陸大。「関東軍司令官・・・在任中にノモンハン事件が発生<(1939年5~9月)>。停戦後にその責めを負うかたちで1939年(昭和14年)12月に予備役編入となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A4%8D%E7%94%B0%E8%AC%99%E5%90%89
すなわち、杉山は、1939年12月の時点で、(ドサ回りが確定していた寺内を除くところの、)陸軍の序列トップになる。(太田)
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[二個師団増設問題]
「1904年(明治36年)の日露戦争開戦直前の陸軍は<近衛師団+第1~12師団)の>13個師団体制であったが、戦時中に4個、戦後の1906年にはさらに2個増強されて19個師団体制となった。陸軍では戦時中から満州軍参謀本部を中心に戦後のロシアによる報復を予測するとともに従来の守戦中心の作戦から攻勢中心の作戦に切り替えるべきという考えから19個師団から20個師団程度の増強を望んでおりその水準は達成していたが、陸軍に大きな影響力を持つ山縣有朋はこれを機に「平時25個師団・戦時50個師団」まで拡張すべきだと主張、海軍も<米国>を仮想敵国とした八八艦隊構想を抱いており両者の構想が組み合わさる形で、「帝国国防方針」案が作成された。
⇒日露戦争の勝利で、横井小楠コンセンサス信奉者達と共有していたところの、対露抑止なる、第1目標の中間目標達成の可能性が見えてきたとの認識から、陸海軍の島津斉彬コンセンサス信奉者達が、手を取り合って、島津斉彬コンセンサスにおける第2、第3の目標、の成就に向けて布石を打ち始めた、と解することができよう。(太田)
同案は1906年10月に上奏され、翌1907年4月になって裁可を得た。この方針に関して軍部は統帥権を根拠にして内閣の関与を一切認めなかったが、内閣総理大臣である西園寺公望<・・公家出身・・>は「財政の状況が許す限り」という前提を付けた上でこの方針に同意した。
陸軍は当面の目標として朝鮮半島に駐留させる2個師団の増師(師団増設)を行って21個師団体制にすることを望んだ。だが、戦後の財政難の中で第1次西園寺内閣も第2次桂<太郎・・長州藩出身・・>内閣もそれを行うことはなかった。1911年に成立した第2次西園寺内閣の陸軍大臣の石本新六[・・姫路藩出身で、薩長出身者以外では初めての陸相就任
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E6%9C%AC%E6%96%B0%E5%85%AD
]はその方針を変えなかったが、内閣との対決は避けて協調する方針を取っていた。ところが、1912年(明治45年/大正元年)4月に石本陸相が急死して後任に上原勇作が就任すると、軍務局長の田中義一とともに政財界に対して積極的な働きかけを始めることになる。
陸軍は、
シベリア鉄道の複線化によりロシア軍の増強が容易になっている。
辛亥革命によって中国情勢が不安定になっている。
日韓併合によって常設部隊の必要性が生じた(従来は内地(日本本土)の師団を交替で派遣していたが、非常時には対応が困難)。
として、増設の必要性が高まっていると主張した。これに対して、内閣は
財政難。
日露協商の成立で日露関係は安定している。
世論が増設に反対している。
として、時期尚早であるとした。当時、内閣は行財政整理と減税および継続中の海軍充実の財源に充てるために各省に対して予算の1割(10%)の削減を求めていたが、陸軍はこれを実質3%に抑えてその差分の7%を2個師団の増設予算に回すように求めた。世論の支持を受けた内閣と政財界に支持を広げた陸軍の対立が続いたが、明治天皇の崩御(7月30日)と大喪(9月13日)があり、結論は先送りされた。
大喪が終わると、陸軍は内閣に対して2個師団の増設の理由を説明させて欲しいと求め、責任者である田中、続いて大臣である上原が説明を行ったが、閣議の納得を得られず、続いて山縣有朋と西園寺公望が会談を行った。当初は、陸軍側の要望も受け入れて欲しいと要請した山縣も、2度目の会談で増師が実現しないと重大な事態を招くと西園寺に迫り、会談は決裂に至った。これを受けた上原は11月22日の閣議において2個師団増加のために今後6年間に200万円ずつの財源をつけるように要求した。内閣はこれを拒否、世間でも増師反対大会が開かれるに至った。これを受けて、上原は12月2日に大正天皇に対して帷幄上奏をして自身の辞職の旨を伝えた。陸軍は後任を推薦せずに5日に西園寺内閣は総辞職した(軍部大臣現役武官制)。この総辞職の過程は政党(立憲政友会)を基盤とした内閣と藩閥・軍部・官僚の抗争という要素があったが、藩閥や軍部に対する人々の怒りを招き、陸軍の後押しを受けた第3次桂内閣は第一次護憲運動によって2か月で崩壊した(大正政変)。
1914年に第一次世界大戦が勃発し、当時の第2次大隈内閣は2個師団増設の必要を認めて予算案を提出したが、かつての西園寺内閣の支持基盤で大正政変を主導した立憲政友会の反対で否決、衆議院は解散されて1915年3月25日に第12回衆議院議員総選挙が行われた。この選挙で大隈内閣を支持する党派が勝利を納め、同年6月になって2個師団増設の予算案が認められた。これを受けてこの年の12月に第19師団と第20師団が咸鏡北道の羅南と京城郊外の竜山にそれぞれ設置された。 」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E5%80%8B%E5%B8%AB%E5%9B%A3%E5%A2%97%E8%A8%AD%E5%95%8F%E9%A1%8C
⇒島津斉彬コンセンサス信奉者たる山縣、大隈、上原がタッグを組み、死に物狂いで陸軍の増強を実現させたわけだ。
ロシアの脅威が表見上ほぼなくなっていた時期だけに、これは大変な偉業だった、と言うべきだろう。
なお、私の今回の新たな指摘であるところの山縣、そして前回指摘したところの大隈、が、文字通りの島津斉彬信奉者達であったことが、この話からもお分かりいただけることと思う。(太田)
「この結果、陸軍の常設師団は全21個師団となった。
<しかし、>第一次大戦<終了>による世界的不況により、各国の軍備縮小が行われた。
陸軍も、軍事費の削減を図り、大正11年<(1922年)>~大正14年<(1925年)>にかけて、3次におよぶ軍縮が行われた。そして第3次軍縮によって、第十三師団・第十五師団・第十七師団・第十八師団の4個師団が廃止となった。
全17個師団編成である。
尚、この状態で山東出兵、満州事変、熱河作戦<が>行われ<ることとなる>。」
http://www.jyai.net/military/data-02/index001.htm
⇒軍縮と言っても、日本に関しては、不況よりも、大正デモクラシーにより、密教たる島津斉彬コンセンサスを信奉している人々が、論理必然的に議会では圧倒的少数派でしかありえなかったことが原因である、と私は見ているわけだが、いずれにせよ、この時期の軍縮が、昭和に入ってからの軍拡のもたつきもあり、日支戦争での、日本の短期的勝利を不可能にした、とも言えよう。(太田)
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[国本社]
国粋主義(コラム#10001)についても、平沼騏一郎(コラム#10007)についても、既に取り上げたことがあるが、平沼が会長を務めた国本社(注16)(こくほんしゃ)について、この際、私見を記しておく。
(注16)「国本社<は、>・・・弁護士竹内賀久治・弁護士太田耕造が奔走し、・・・平沼騏一郎を迎え、1921年(大正10年)1月に設立され・・・会長には平沼、専務理事には竹内賀久治が就任した。『国本新聞』、機関紙『国本』を発行したが、実態としては平沼の政治活動の支援団体の性格もあった。
平沼の人脈を活かし、副会長には、東郷平八郎や山川健次郎が就任。官僚では原嘉道、鈴木喜三郎、塩野季彦、小原直、小山松吉、後藤文夫、鎌田栄吉。軍人では海軍の東郷、加藤寛治、末次信正、斎藤実、大角岑生、陸軍の上原勇作、宇垣一成、荒木貞夫、真崎甚三郎、秦真次、菊地武夫、小磯國昭、永田鉄山、財界からは池田成彬、結城豊太郎。学界からは山川健次郎、哲学者の古在由直や学習院大学教授紀平正美、医学者荒木寅三郎、倫理学者深作安文、文学者幸田露伴や三井甲之、農学者横井時敬らが会員となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E6%9C%AC%E7%A4%BE
このうち、東郷は薩摩藩士出身だし、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E9%83%B7%E5%B9%B3%E5%85%AB%E9%83%8E
山川健次郎は会津藩士出身だが、妹が大山巌の妻で、「日露戦争の時にはすでに東大総長であったにも関わらず陸軍に「一兵卒として従軍させろ」と押し掛け、人事担当者を困惑させたという」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%B7%9D%E5%81%A5%E6%AC%A1%E9%83%8E
人物、と、副会長二人が島津斉彬コンセンサス信奉者と来れば、元々、(下心もあり、)雇われマダムとして国本社の会長に収まった平沼だったが、国本会は、この二人によって乗っ取られ、島津斉彬コンセンサスの中核部分であると私が見ている国粋主義の対民間宣伝機関に化した、と言ってよいのではないか。
だからこそ、上原、荒木、真崎のような、純正島津斉彬コンセンサス信奉者達が参集したのだろう。
このほかにも、大角が旧尾張藩、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%A7%92%E5%B2%91%E7%94%9F
秦が小倉藩典医の子、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%A6%E7%9C%9F%E6%AC%A1
菊池が肥後人吉藩領主の子、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%8A%E6%B1%A0%E6%AD%A6%E5%A4%AB_(%E9%99%B8%E8%BB%8D%E8%BB%8D%E4%BA%BA)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E8%89%AF%E6%B0%8F
小磯が新庄藩士の子、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%A3%AF%E5%9C%8B%E6%98%AD
横井時敬が肥後熊本藩士の子、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%AA%E4%BA%95%E6%99%82%E6%95%AC
であることから、島津斉彬コンセンサス信奉者達である可能性が高い。
宇垣と永田という、横井小楠コンセンサス(のみ)信奉者2人が混じっているところが面白いが、既述したように、宇垣は元々は川上操六の薫陶を受けていて島津斉彬コンセンサス信奉者であったものの、比較的早期に横井小楠コンセンサス(のみ)信奉者へ転向した、と見ているところ、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%9E%A3%E4%B8%80%E6%88%90 前掲
昔の好で名前を貸したのではないか、と、また、根っからの横井小楠今センサス(のみ)信奉者たる永田(後出)に関しては、自身の考えを韜晦しつつ、異なった考えの人々も含め、幅広く、同輩達とも先輩達とも交流して自身の陸軍中枢ポストへの将来における就任を確実なものにしようとしていたのではないか、と、私は見ている。
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[バーデン=バーデンの密約]
1921年10月27日、欧州出張中の岡村寧次、スイス公使館付武官永田鉄山、ロシア大使館付武官小畑敏四郎の陸軍士官学校16期の同期生が南ドイツの保養地バーデン=バーデンで来たるべき戦争に向けて、人事刷新と軍制改革を断行して、軍の近代化と国家総動員体制の確立、真崎甚三郎・荒木貞夫・林銑十郎らの擁立、陸軍における長州閥打倒、各期の有能な同志の獲得・結集などの陸軍の改革や、満蒙問題の早期解決、革新運動の断行を誓い合ったとされる。
⇒そもそも、長州閥など存在しなかったのだから、彼らが「長州閥打倒」を期した、という話そのものの信憑性を私は疑っている。
いずれにせよ、彼らが戦前の昭和期の帝国陸軍を動かして行ったのではなく、彼らが、上原勇作の薫陶を、直接的に受けた真崎や荒木、更には、間接的に受けたと私が見ている杉山元、らにおだて挙げられ、利用される形で当時の帝国陸軍が動かされて行った、官僚機構というのは、いかに「日本的」なものであれ、そういうものでしかありえない、というのが私の見解だ。(太田)
これに先立つ1913年(大正2年)から1919年(大正8年)ぐらいの間に、三者は陸軍の情弊に憤慨し、皇軍の威容の立て直しと革新を志し、勉強会を開いていた。土曜の夜には、この三人と東條英機が小畑宅で勉強会を開いていたという。1920年(大正9年)、三人を軸とした同憂の士は、長州閥の中に孤立していた真崎甚三郎<陸軍省軍務局>軍事課長を擁護することをひそかに申し合わせた。
⇒ここの「長州閥」についても同様。(太田)
1922年(大正11年)から1923年(大正12年)に永田と小畑が帰国すると、再び会合するようになり、同志も増えて、1927年(昭和2年)ごろ、二葉会を結成した。永田は、鈴木貞一が結成した木曜会と結合しようとし、小畑らの反対にあったが、巧みな政治的手腕によって、1929年(昭和4年)5月、二葉会と木曜会を合併して、一夕会を結成した。
永田と小畑の親密な関係は1928年(昭和3年)秋ごろまで続いた。大佐に昇進してしばらくしてからは、すっかり往来がなくなり、手紙のやり取りもなくなったという。
1932年(昭和7年)、小畑は<参謀本部第1部作戦課長に就任すると、上海出兵や満洲事変に関して作戦本位に計画を立て、容赦なく要求したので、<(参謀本部第1部)>編成<動員>課長の東条と衝突し、また<(陸軍省軍務局)>軍事課長の永田とも相争うようになった。
⇒このあたりは、話半分に読み流しておけばよかろう。(太田)
1932年後半期には、一夕会は永田を中心とした統制派と、小畑を中心とした皇道派に分裂した。
⇒何度でも繰り返すが、このような捉え方は、間違いと言って語弊があれば、極めて誤解を呼ぶ。(太田)
1933年(昭和8年)、日ソ不可侵条約と東支鉄道買収と対支関係について、永田と小畑は対立した。
1933年8月、荒木陸相は定期異動で永田少将を歩兵第一旅団長に、小畑少将を近衛歩兵第一旅団長に転出させた。永田は1934年(昭和9年)3月に軍務局長に就任したが、小畑は中央に返り咲くことはなかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%87%E3%83%B3%EF%BC%9D%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%87%E3%83%B3%E3%81%AE%E5%AF%86%E7%B4%84
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[木曜会/一夕会]
「木曜会は、1927年(昭和2年)11月ころ、参謀本部作戦課員の鈴木貞一<少佐>と要塞課員<(陸軍省軍務局防備課員の誤りか(太田))>の深山亀三郎<少佐>が中心となり、鈴木・深山をはじめとする日本陸軍中央の少壮幕僚グループによって組織された。構成員は、総勢18名ほどであり、幹事役の鈴木(陸士22期卒業)のほか、石原莞爾(21期)、村上啓作(22期)、根本博(23期)、土橋勇逸・深山亀三郎(24期)ら陸軍士官学校21期から24期にかけての卒業生を中心としていた。しかし、陸士16期の永田鉄山や岡村寧次、17期の東条英機も会員として、この会に加わった。・・・
⇒かなり先輩である、永田や東條の参加は、自分達の閥を作る下心があった、ということだろう。(太田)
1928年(昭和3年)1月19日にひらかれた第3回会合では、当時、陸軍大学校の教官であった石原莞爾が『我が国防方針』という題で話をしており、「日米が両横綱となり、末輩之に従ひ、航空機を以て勝敗を一挙に決するときが世界最後の戦争」と述べている。石原はまた、日本から「一厘も金を出させない」という方針の下に戦争しなければならないと述べ、「全支那を根拠として遺憾なく之を利用せば、20年でも30年でも」戦争を続けられるという構想を語っている。・・・
石原は陸大の『欧州古戦史講義』において、貧弱な日本が仮に百万規模の最新式軍隊を出征させ、なおかつ、膨大な軍需品を補給しなければならないとしたら日本の破産は必至であり、それゆえ、フランス革命後のナポレオン・ボナパルトが対英戦でみせたような、占領地の徴税・物資・兵器によって出征軍が自活し、中国の軍閥を掃蕩、土匪を一掃して治安を回復すれば、たちまち民衆の信頼を得て目的以上のことを達成できると説き、「戦争により戦争を養ふ」本旨を主張した。・・・
⇒この(諸所に未熟さが見られる)石原の主張だが、米国(アングロサクソン)に対する仇敵視にせよ、新装備(航空機)志向にせよ、支那との「連携」志向にせよ、ナポレオン崇敬にせよ、やはり、この時点では、石原莞爾は、島津斉彬コンセンサス信奉者であった、と見たい。(太田)
この会には、永田鉄山、東条英機、鈴木貞一、根本博らが出席した。・・・
1928年3月1日の第5回会合では、根本博(参謀本部支那課員)の報告がなされたのち、当時永田鉄山の腹心であった東条英機(陸軍省軍事課員)によって、当面の目標を「満蒙に完全な政治的勢力を確立する」ことに置くこと(満蒙領有論)、および、今後の国軍の戦争準備は対ソビエト連邦を主眼とすべきことが提起された。
⇒陸軍は、私の言うところの、対露抑止を主眼とする横井小楠コンセンサスを最大公約数とする組織であり続けた、と私は見ているので、ここは、「戦争準備は対ソビエト連邦を主眼とすべき」の前に、「引き続き」、を付けるべきだろう。
国際情勢複雑化に伴い、対支那、対英国、対米国、も考慮しなければならなくなったけれど、「引き続き」、という意味であると考えればよかろう、ということだ。(太田)
この提起は、以下のような情勢判断のもと、参加者の質疑応答を経て、最終的に確認された。
・日本が「その生存を完からしむる」ためには満州・蒙古に政治的権力を確立することが必要であり、それにはロシア(ソ連)による「海への政策」との衝突が避けられない。
⇒当然のことだ。(太田)
・満蒙は、「支那」・・・にとっては「華外の地」であり、日本と<支那>のあいだの軍事力の格差は歴然としている。それゆえ<支那>が日本と国力を賭けた戦争をおこなうことはないであろう。したがって、対<支那>の戦争準備は特段に顧慮する必要はなく、単に対露戦争のための「資源獲得」を目的とする程度でよい。
⇒その支那・・とりわけ国民党勢力・・に欧米や露が肩入れした場合のことを想定していない未熟な発想だ。(太田)
・将来戦は「生存戦争」すなわち一国の生存のための戦争となり、<米>国はみずからの生存のためには南北アメリカ大陸のみで十分であるから、アジアに対して国力を賭してまで軍事介入することはないであろう。満蒙は、<米国>にとって「生存上の絶対的要求」ではないから本格的介入は考えられない。しかし、第一次世界大戦参戦の経緯にみられるように、来たるべき日露の戦争に介入することはありうるので、「政略」によって努めて<米国>の干渉を排除する必要があり、軍事面における「守勢的準備」は必要である。
・<英国>は満蒙問題との関わりが存在するものの、軍事以外の方法で解決可能である。
⇒これぞ、希望的観測の極致だ。(太田)
以上、参加者はこれを「判決」と称して会の総意とし、満蒙領有が相互に申し合わされた。
⇒満蒙領有については、ある意味、当然だ。(太田)
なお、このときの会合には石原莞爾は参加していなかった。
この方針は同年12月6日にひらかれた木曜会第8回会合でも再確認された。このときには、岡村寧次も出席しており、積極的に発言している。さらに、この方針は、二葉会との合流を経て成立した上述の一夕会にも引きつがれた。
従来、1931年(昭和6年)9月にはじまる「満州事変」は一般的に、世界恐慌下における1930年代初頭の日本経済の苦境(昭和恐慌、農業恐慌)を打開するため、石原莞爾ら関東軍が立案・計画したもの、あるいはその独断専行により惹起されたものとする見解が根強かったのであるが、実際には、<米>国ニューヨーク市で世界恐慌がはじまった1929年秋に先だち、その1年以上前に、日本ではすでに陸軍中央において満蒙領有方針が打ち出されていたのである。
なお、木曜会の「満蒙領有方針」は、1928年時点での関東軍の「満州分離方針」とも異なる性格をもっていた。関東軍の方針は、日本の実権掌握下における新政権の樹立を企図していたが、それは中華民国の主権が存続することを前提としたもので、鉄道問題や商租権問題など従前からの外交事案解決を主な動機としていた。しかし、木曜会が打ち出した方針は<支那>の主権をまったく否定するものであり、その目的は満蒙問題の諸懸案解決にとどまらず、対ソ戦をはじめとする国家総力戦への対応という動機からの要請を柱としていた。また、同じころ(1928年3月)、参謀本部第一部(荒木貞夫部長、小畑敏四郎作戦課長)も「満蒙における帝国の政治的権力の確立」を主張しているが、これは、木曜会の満蒙領有方針とほぼ同内容のものであった。・・・
このことから、当時、参謀本部第一部と木曜会とのあいだに何らかの連携があったと考えられる。それは、永田・岡村・東条らと小畑との関係を通したものと推測される。・・・
当時の対<支>政策は、木曜会・一夕会の「満蒙領有方針」、関東軍の「満蒙分離方針」のほか、より主要なものとして、田中義一(立憲政友会)首相らの「満蒙特殊地域論」、すなわち、長城以南の<支那>本土は国民政府(蒋介石政権)の統治を容認するが、日本影響下の張作霖ら奉天軍閥の勢力を温存することによって満蒙での特殊権益を保持する立場と、また、浜口雄幸ら野党の立憲民政党による協調外交的立場、すなわち、国民政府によって満蒙をふくめた全中国が統一されることを基本的に容認し、国民政府との友好関係を確立することによって経済交流の拡大を実現しようという立場があった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%9B%9C%E4%BC%9A_(%E6%97%A5%E6%9C%AC%E9%99%B8%E8%BB%8D)
⇒というより、木曜会は、参謀本部内の空気を読んで上掲の「判決」、とりわけ、満蒙領有論、を打ち出した、というだけのことだろう。(太田)
「一夕会(いっせきかい)は、1929年(昭和4年)5月19日に日本陸軍内に発足した、佐官級の幕僚将校らによる会合。陸軍士官学校14期生から25期生を中心に組織された。・・・
一夕会には多くの陸軍高級エリートが所属していたが、優等卒業者は多く参加していたものの首席卒業者は鈴木率道のみであった。・・・
⇒チェックする労を惜しんだ。(太田)
陸士14期 小川恒三郎(注17)
(注17)新潟・陸士一四・陸大二三・歩兵第一旅団長・参謀本部第四部長・墜死・中将進級
https://blog.goo.ne.jp/oceandou/e/6102363bce5239ed9524ad8bf33a9bcf
陸士15期 河本大作(注18)、山岡重厚(注19)
(注18)こうもと(1883~1955年)。「兵庫県・・・に、地主の子として生まれた。」陸士、陸大。「1928年(昭和3年)6月4日、蒋介石の北伐の圧迫を受け北京から満州に帰還する途上にあった張作霖は、奉天近郊の南満州鉄道線路上で殺害された(張作霖爆殺事件)<を>関東軍高級参謀の河本が計画立案をし<た。>・・・河本は軍法会議にかけられることはなく1929年(昭和4年)4月に予備役に編入」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E6%9C%AC%E5%A4%A7%E4%BD%9C
「<当時、>参謀本部第2部長<であった、>・・・松井石根・・・は・・・関東軍河本大作の厳罰を要求し<ている。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E4%BA%95%E7%9F%B3%E6%A0%B9
(注19)1882~1954年。土佐藩士の子。陸士、陸大。「1931年(昭和6年)3月、教育総監部第2課長在任中に三月事件が起こるが、真崎甚三郎第1師団長らとともに武力発動に強く反対、これを未然に防止する。同年8月1日、陸軍少将に進み、歩兵第1旅団長に就任、いわゆる皇道派の中心人物の一人と見なされることになる。
同年11月、犬養内閣において荒木貞夫が陸相に就任すると、軍政経験が無い山岡を1932年(昭和7年)2月、陸軍省軍務局長に抜擢する。その後1934年(昭和9年)3月には永田鉄山の軍務局長就任に伴い、整備局長に回る。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%B2%A1%E9%87%8D%E5%8E%9A
陸士16期 永田鉄山、小畑敏四郎、岡村寧次、小笠原数夫<(注20)>、磯谷廉介<(注21)>、板垣征四郎、黒木親慶<(注22)>
(注20)1884~1938年。福岡県出身(何藩?)。旧姓島田。陸士、陸大。「陸軍航空部門の整備拡張につくした。陸軍中将。」
https://kotobank.jp/word/%E5%B0%8F%E7%AC%A0%E5%8E%9F%E6%95%B0%E5%A4%AB-1061773
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/A/ogasawara_ka.html (「」内以外)
(注21)1885~1967年。「兵庫県出身。旧篠山藩士・・・の三男」、陸士、陸大。「陸軍省人事局補任課長、・・・参謀本部第2部長・・・<支那>通を自認し、中国公使館付武官、大使館付武官を歴任した後、1936年(昭和11年)3月23日に軍務局長となり、二・二六事件の収拾に尽力。・・・関東軍参謀長に栄転するが、翌1939年(昭和14年)9月にノモンハン事件の敗北の責任を取り参謀長を辞任し参謀本部付となり、同年11月に待命、翌月、予備役に編入された。太平洋戦争が始まり、日本が香港を占領すると召集を受け香港総督に就任・・・陸軍中将」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A3%AF%E8%B0%B7%E5%BB%89%E4%BB%8B
(注22)大正9年に退役しており、間違いではないか。
https://kotobank.jp/word/%E9%BB%92%E6%9C%A8%20%E8%A6%AA%E6%85%B6-1644290
陸士17期 東條英機、渡久雄<(注23)>、工藤義雄<(注24)>、飯田貞固<(注25)>
(注23)1885~1939年。渡正元の三男。陸士、陸大。参謀本部第2部長等。陸軍中将。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A1%E4%B9%85%E9%9B%84
(注24)不明。
(注25)1884~1977年。新潟県出身。陸士、陸大。近衛師団長等。陸軍中将。
陸士18期 山下奉文、岡部直三郎、中野直三
陸士20期 橋本群、草場辰巳、七田一郎
陸士21期 石原莞爾、横山勇、町尻量基
陸士22期 本多政材、北野憲造、村上啓作、鈴木率道、鈴木貞一、牟田口廉也
陸士23期 清水規矩、岡田資、根本博
陸士24期 沼田多稼蔵、土橋勇逸、深山亀三郎、加藤守雄<(注26)>
(注26)「東京」。陸士、陸大。「陸軍省人事局補任課長・歩兵第三四連隊長・舞鶴要塞司令官・少将・仙台陸軍幼年学校長・死去)」
https://blog.goo.ne.jp/oceandou/e/78caa87e3db08c8c900b405ff587cd7a
陸士25期 下山琢磨<(注27)>、武藤章、田中新一、富永恭次<(注28)>
(注27)「福井県」。陸士、陸大。「最終階級は陸軍中将。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E5%B1%B1%E7%90%A2%E7%A3%A8
(注28)「長崎県」。陸士、陸大。参謀本部第4部長を経て、1939年「9月には参謀本部第1部長に就任したが1940年9月の北部仏印進駐に際して現地に出張し、参謀総長の命令と偽って軍司令官の間で合意した西原・マルタン協定に違反し強引に軍を進め数百人の死傷者を出したため停職処分となった。・・・1941年(昭和16年)4月に陸軍省人事局長として中央に復帰し、・・・1943年(昭和18年)3月、陸軍次官となり・・・1944年(昭和19年)7月の東條内閣総辞職と共に失脚した<が、>翌8月、杉山元陸相によって第4航空軍司令官に転出させられ、9月8日マニラに着任し・・・フィリピン決戦において陸軍初の航空特別攻撃隊・・・の出撃命令を出すこととな<り、>・・・「諸君はすでに神である。君らだけを行かせはしない。最後の一戦で本官も特攻する」と言<って送り出した。>・・・<当時、彼の唯一の子であった、慶大卒の富永靖大尉も都城から出撃し、特攻戦死している。>・・・<この間、>心身の消耗を理由に南方軍に対して司令官の辞任を2度も申請していたが、決戦の最中に司令官を交代することはできないとして拒否された。ところが翌翌1945年(昭和20年)1月・・・突然・・・台湾に・・・単独逃亡<したことで悪名高い。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E6%B0%B8%E6%81%AD%E6%AC%A1
⇒ざっと見渡して、れっきとした島津斉彬コンセンサス信奉者が、板垣征四郎、石原莞爾(当時)、牟田口廉也、くらいはいるが、木曜会/一夕会は、単に、血気盛んで上昇志向の強い、少壮陸軍将校達の勉強会といったところだろう。
(余談だが、富永は、フィリピン赴任までに、後の本人申告からして、精神を病んでいた可能性が高いと私は思う。少なくとも、こういった面では、陸軍の人事管理は時代遅れも甚だしかったのではないか。)(太田)
・・・人事問題を研究していた二葉会と満蒙問題を研究していた木曜会の流れを汲む組織であるからには、当然その2つが中心的な話題となる。第1回の会合では以下ような決議がされた。
1.陸軍の人事を刷新し諸政策を強力に進める
2.満蒙問題の解決に重点を置く
3.荒木貞夫、真崎甚三郎、林銑十郎の三将軍を盛りたてる
まず陸軍中央の重要ポスト掌握に向けて動いた。最初の会合の直後である1929年(昭和4年)5月21日、岡村寧次が全陸軍の佐官級以下の人事に大きな権限をもつ、人事局補任課長に就任の辞令を受けた。
⇒政策立案に関してはともかく、下克上で、人事が左右されることなど、日本の官僚機構においてはありえない。
上司筋中、誰が、岡村を補任課長に推したか、だが、人事局長の川島義之は、その後の時期における評だろうが、「真崎甚三郎と親しかったようである<が、>・・・統制派と皇道派・・・<の>どちらにも属していなかった・・・無色」の人物だった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E5%B3%B6%E7%BE%A9%E4%B9%8B
こと、次官の阿部信行は、やはり、その後の時期における評だろうが、同じく、「統制派、皇道派のどちらにも属さず、無色」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E9%83%A8%E4%BF%A1%E8%A1%8C
な、非政治的な人物であった(コラム#9973(未公開))こと、から除かれるとして、まず第一に、時の大臣の白川義則<・・松山藩士の子・・>の可能性がある。
彼は、「大臣在任中の1928年(昭和3年)6月4日、張作霖爆殺事件が起こる。田中首相は昭和天皇にたいし同年12月24日「矢張関東軍参謀河本大佐が単独の発意にて、其計画の下に少数の人員を使用して行いしもの」と河本大佐の犯行を認めたうえで、関係者の処分を行う旨の上奏を行った。しかし田中はその後、陸軍ならびに閣僚・重臣らの強い反対にあった。白川義則陸相は三回にわたって天皇に関東軍に大きな問題はない旨を上奏し、陸軍は軍法会議開廷を回避して行政処分で済ませるため、6月14日付で河本高級参謀を内地へ異動させたので、河本をふくめた関係者の処分を断念。<田中は、>「この問題はうやむやに葬りたい」との上奏を行う<羽目>となった 」という人物だ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E5%B7%9D%E7%BE%A9%E5%89%87
もとより、当時の陸軍省の将官級人事には、参謀総長も教育総監も口を出せた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E8%BB%8D%E4%B8%89%E9%95%B7%E5%AE%98
ことから、彼らは、陸軍省の人事担当局長である人事局長や、人事担当課長である補任課長の人事にも、事実上、口を出せたと思われる。
当時、教育総監であった、「<佐賀藩士の子である>武藤信義<は、陸軍大臣経験者であって、>・・・鈴木荘六の後任として参謀総長職を打診されたものの、辞退して後輩の金谷範三に譲ったされる
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E8%97%A4%E4%BF%A1%E7%BE%A9
が、岡村は、参謀本部内国戦史課長から陸軍省人事局補任課長に転任しており、武藤が岡村を推した可能性も否定できない。
なお、上述の事情から、もう一人、将官級人事に口を出せた金谷参謀総長(上掲)は武藤の意向に配慮せざるを得ない立場にあったと思われる。
しかし、私見では、本命は、当時、陸軍省の筆頭局長の軍務局長であった杉山元
http://kitabatake.world.coocan.jp/rikukaigun6.html
だ。(太田)
岡村は直属の上司の人事局局長に小磯國昭を任命させるよう動いたがこれには失敗する。
⇒それが事実だとして、失敗したのは当たり前だ。(太田)
同年8月の人事異動の後、岡村は人事局の課員に七田一郎、加藤守雄、北野憲造らを就任させた。<(1932年(昭和7年)2月に>岡村の後任の<補任>課長には磯谷廉介が就任し、加藤守雄が高級課員<・・高級課員、すなわちナンバー2(太田)・・>となっている。<)>
翌1930年8月<1日>、永田鉄山が予算配分に強い発言力をもち、全陸軍におけるもっとも重要な実務ポストである軍務局軍事課長に就任。
⇒これは、陸軍大臣の宇垣一成というより、同日付で次官に昇格した杉山元・・既に6月16日に次官心得になっていた・・の軍務局長時代
http://kitabatake.world.coocan.jp/rikukaigun6.html
の指名の可能性が高い、と見るのが自然だろう。(太田)
渡久雄が参謀本部欧米課長に就任。
⇒殆どどうでもよい話だ。(太田)
これより前、1928年(昭和3年)<6月4日>には関東軍高級参謀であった河本大作が張作霖爆殺事件(満州某重大事件)を起こしていたが、同年10月に石原莞爾が関東軍主任参謀に、翌1929年(昭和4年)5月には、板垣征四郎が河本大作の後任の関東軍高級参謀になる。
そのころには加藤守雄が補任課員であり、その働きかけによるものとみられている。
⇒石原、板垣については、加藤の補任課入り前なので、間違いだ。
岡村に関しても、石原に関しては補任課長就任前だし、板垣征四郎に関しては課長就任と同時だから、前任者の時に決まっていたはずだから関係ない。
この二人の関東軍への送り込みは巡り合わせだったのか、片方、或いは両方が、誰かの差し金だったのか、など、満州事変の必然性に鑑み、私には、どうでもいいことのような気もする。(太田) 、
1931年(昭和6年)8月には、鈴木貞一が軍事課支那班長に、東條英機が参謀本部動員課長に、武藤章が同作戦課兵站班長に就任するなど、満州事変開始期には、陸軍中央部の主要中堅ポストは一夕会メンバーで占められていた。
⇒張作霖爆殺事件については、彼の軍務局長就任前だったので除かれる(注29)が、それ以外のこと・・人事・・は、当時、軍務局長ないし次官だった杉山
http://kitabatake.world.coocan.jp/rikukaigun6.html 上掲
の意向を踏まえたものである、と、私は見る。(太田)
(注29)「河本大作を満洲に送り込んだのは一夕会の画策であったと土橋勇逸<が>証言している」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B5%E4%BD%9C%E9%9C%96%E7%88%86%E6%AE%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6
というが、一種の洞話だろう。
また、1931年8月に荒木貞夫が教育総監部本部長に就任した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E5%A4%95%E4%BC%9A
⇒これについては、判断は控える。(太田)
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[陸軍省人事局補任課]
「藤井非三四『陸軍人事』・・・によると陸軍士官の人事の中核は実役停年名簿と考課表。前者は階級ごとに士官学校・陸大の成績を勘案して序列化したもの<(注30)>で昇進と配属の基礎になる。考課表は上司が作成し、原本は部隊に申し送りで保管され、陸軍省や関連各局に写しが送られる。・・・
(注30)海軍の例だが、「毎年作成される「現役海軍士官名簿」で・・・<いわゆる>ハンモックナンバー<が>・・・海軍部内や陸軍に公示された。同時に同階級に任じられ、同じ軍艦などで勤務する同期生の間にも、先任・後任の区別は厳然として存在し、軍令承行令による指揮系統の序列はもちろん、式典での整列の際などでもハンモックナンバーの順に並んだ。 」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%A2%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%8A%E3%83%B3%E3%83%90%E3%83%BC
⇒これは、陸海空自衛隊でも同じ・・ハンモックナンバーのことを「名番」と称する・・なのだが、どうしてそんなものを、上掲には書いてないが、半公開状態で主要部隊において保有し管理しておくかと言うと、部隊や艦艇で、有事に指揮官が死亡したり指揮不能になった場合に、次に指揮を執る者を自動的に決められるようにするためだ。
(医官、法務官、技術系将校達、はこの中に入っていない。)
名番が下位の者が当該部隊等で同一階級にいない場合は、下位階級で名番最上位の者が指揮を執るわけだ。
このこともあり、軍隊では、階級が上位の者だけでなく、名番が上位の者にも下位の者は平素から敬意を払うように自然になる。(太田)
佐官の人事を決めていた陸軍省補任課では、・・・正式課員九名で・・・実質的に4万人分の・・・考課表の写しと実役停年名簿のパズルで昇進やポストを決めていたわけである。」
https://togetter.com/li/587674
⇒私は、防衛庁人事教育局人事第一課在籍当時、陸上自衛隊の補任課の業務の「監督」を担当したことがあるが、基本的に同じ方式でもって、陸上自衛官佐官級人事が行われていた。
(但し、陸士→防大、陸大→幹部学校指揮幕僚課程。)
違う点は、考課表に同僚達や部下達の評判(アンケート調査の結果)も反映されていたことだけだ。
ここで、もう一度海軍の例だが、「井上成美は中将で海軍兵学校長を務めていた時に、兵学校のある期について、兵学校卒業席次と最終到達階級との関連を数学的に分析している。
<・・海軍兵学校にも実役停年名簿が配布されていたことがお分かりか(太田)・・>
1.兵学校卒業席次と最終官等の上下との相関係数は「+0.506」となった。
2.兵学校を卒業後、現役で勤務する年数を平均25年とすると、兵学校3年の成果がそれに匹敵する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%A2%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%8A%E3%83%B3%E3%83%90%E3%83%BC 前掲
どうして、そういう人事になってしまうかだが、常に、人事の結果が、細部に至るまで、名番でもって事実上公開されるのだから、恣意的人事をやったと思われないためにも、客観的な、兵学校席次に基本的に依拠した方が無難だからだ。
これが、陸軍になると、「現役将校が陸大を卒業すると、それまでの実績に基づく序列にかかわらず士官候補生(士候)同期の最上位に置かれた。」(同上)という次第であり、上澄みの人事については、陸士席次と更にこれに陸大席次を加味して、海軍に比して、よりバカチョン方式で行われた、と見て良い。
だから、陸軍人事局補任課長の裁量権は、海軍人事局第1課長
http://www.geocities.jp/boat_sparrowhawk/PersonalDepart.htm
よりも狭かったということになりそうだ。
いずれにせよ、旧陸軍せよ陸上自衛隊にせよ、人事局長以上、自衛隊の場合内局人事局以上、で決定するところの、将官級人事がある程度固まらないと、佐官級人事作業に着手できないことや、将官級人事がある程度固まった場合の、補任課長に係る、佐官級の上澄みの人事・・大佐の(一佐)の重要配置の人事・・の裁量権は更に狭いこと、とが容易に想像できるだろう。
岡村が補任課長としてできたことなどたかが知れている、と思った方がいいのだ。(太田)
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[統制派と皇道派]
最初に結論を書くが、「永田鉄山によれば、陸軍には荒木貞夫と真崎を頭首とする「皇道派」があるのみで「統制派」なる派閥は存在しなかった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9A%87%E9%81%93%E6%B4%BE
というのだが、彼が、存在しているとした皇道派ですら、「それぞれの軍閥に所属したとされている当事者たちは<統制派と皇道派という>名称を使用していない」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%B1%E5%88%B6%E6%B4%BE
というのだから、派閥名を持たなかったわけだ。
例えば、自由民主党の派閥で名前のないものなど存在しえないことに思いを致すだけでも、永田鉄山(一人?)の主張にもかかわらず、統制派はもとより、皇道派でさえ、外野の無責任なイマジネーションの産物に過ぎず(注31)、実際には、そんなものは存在しなかった、と考えるべきだろう。
(注31)「皇道派、統制派といった名称は、大岸頼光が怪文書において使用した」らしい
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%B1%E5%88%B6%E6%B4%BE
なお、「大岸頼光という人はもともとは<二・二六>事件を引き起こした青年将校運動の思想的リーダー<の一人>と目されていた人で、事件当時は和歌山連隊の大隊長で大尉だった人だそうです。そのため・・・陸軍刑務所に収監はされたものの、軍籍追放という処分で終わったようです。その人材を惜しむ人が軍中枢の情報部にいて、軍のダミー商社・・昭和通商・・で・・・幹部<として>・・・働き始めたらしいです。・・・昭和通商という会社は旧・・・陸軍の・・・秘密工作資金の調達や、軍需物資の調達<をやっていたようです。>」
http://zzz.oops.jp/hiro/bbs/bbs_bu.cgi?mode=red&namber=34852&no=0&KLOG=56
「<統制派は、>皇道派のような明確なリーダーや指導者はおらず、初期の中心人物と目される陸軍省軍事課長(後、軍務局長)の永田鉄山も軍内での派閥行動には否定的な考えをもっており、「非皇道派=統制派」が実態だとする考え方も存在する。・・・
<内務官僚の>安倍源基は、皇道派青年将校が反感を抱いていた陸軍省と参謀本部(省部)における陸大出身者幕僚が漠然と統制派と呼ばれるようになっただけであると述べている。 」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%B1%E5%88%B6%E6%B4%BE
私は、それに代えて、(ご承知のように、どちらも私の命名だが、)幕末期由来の、島津斉彬コンセンサス信奉者と横井小楠コンセンサス(のみ)信奉者のせめぎあいとして、昭和戦前期の帝国陸軍を中心とする日本史を捉えることを提唱しているわけだ。
但し、島津斉彬コンセンサス信奉者達≒皇道派と言われた人々、横井小楠コンセンサス(のみ)信奉者達≒統制派と言われた人々、という感じではある。
ちなみに、「皇道派のメンバーを上原勇作が支援していた経緯から、<皇道派には>旧薩摩閥も多かったと<も>される」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9A%87%E9%81%93%E6%B4%BE 前掲
ところだ。
しかし、既に述べたように、薩摩の海軍・長州の陸軍という認識は誤りであり、最初からずっと、日本の軍全体が、広義の、というか、観念上の、薩摩閥の指導下にあり続けたわけだ。
しかし、軍幹部中の島津斉彬コンセンサス信奉者は、相対的に若年の下級将校達の方から、順次、確実に減少して行った。
というのも、対露抑止・無害化はともかく、アジア解放、の方は、軍の指導理念ないし教育プログラムの中に組み込むことには馴染まなかったからだ。
そんなことをしていることが漏れたら、日英同盟時代は同盟が継続できなくなってしまっただろうし、同盟解消以降と雖も、欧米諸国全体に黄禍論を喚起しかねなかっただろうし、そもそも、いくら、急速に力をつけて行ったとは言っても、日本の経済力、軍事力をもってして、欧米(とロシア)列強の過半以上と同時に戦う戦争など、日本の軍部、就中、陸軍にとって、SFのような次元の話であり、具体的な作戦計画に馴染むようなものではなかったからだ。
累次の帝国国防方針(秘)(注32)で複数の欧米列強が列記されているとはいえ、戦争するのは、そのうちの一国、というのが基本的な想定だった。
(冷戦時代の自衛隊は、潜在敵国をソ連、中共、北朝鮮とする防衛計画(作戦計画)を作っていたが、基本的に同様の想定だった。)
(注32)帝国国防方針。「日露戦争終結直後の1905年8月日英同盟の改訂が行われた事を受けて、<英国>とロシア帝国との間で開戦となった場合の日本軍の対処方針について山縣有朋を中心に検討したのがルーツとされている。その後、三国協商・日露協約締結によってその可能性は失われたものの、長年の国防における「海主陸従」状態の打破の好機と見ていた山縣はあくまでも策定の成案を目指した。山縣の原案を元に当時陸軍中佐であった田中義一が草案を作成したものであった。海軍側もこれに対抗して同様の計画を作成して陸海軍揃って提出するに至ったのである。
仮想敵国をロシア・<米国>・ドイツ・フランスとし、陸軍は平時25個師団・戦時50師団体制を、海軍は八八艦隊の創設を謳っていた。・・・
明治40年4月4日明治天皇により裁可され・・・、以後国際情勢の変化などに応じて変更された。しかし、事実上は日本陸軍はロシア、日本海軍は<米>国を仮想敵国とする事態は変わらず、その国防思想を統一するという当初の狙いは不十分にしか達成されなかった。・・・
帝国国防方針は大正7年、12年、昭和11年に改定されたが大きな変化はなかった。ただし仮想敵国はロシア・<米国>・<支那>から、<米国>・<支那>・ソ連、第三回の改定では<米国>・ソ連・<英国>・<支那>に順序が若干変化した。この帝国国防方針に基づいて、「帝国軍ノ用兵要領」、さらに「年度作戦計画」が作成された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E5%9B%BD%E9%98%B2%E6%96%B9%E9%87%9D
若干、補足しておく。
一般に、皇道派と統制派については、以下のような説明がなされる。↓
「<幕臣の家に生まれた>荒木貞夫・・・が<肥前の中農の家に生まれた>真崎甚三郎と共に、皇道派をつくりあげる基盤は、<備前の水飲百姓の家に生まれた>宇垣一成陸相の下で、いわゆる宇垣軍縮が実施された時期に生まれたと言える。
宇垣は<代々信濃の高島藩の藩医を務めてきた家に生まれた>永田鉄山を陸軍省動員課長に据え、地上兵力から4個師団約9万人を削減した。その浮いた予算で、航空機・戦車部隊を新設し、歩兵に軽機関銃・重機関銃・曲射砲を装備するなど軍の近代化を推し進めた。
永田は、第一次世界大戦の観戦武官として、<欧州>諸国の軍事力のあり方や、物資の生産、資源などを組織的に戦争に集中する総力戦体制を目の当たりにし、日本の軍備や政治・経済体制の遅れを痛感した。宇垣軍縮は軍事予算の縮小を求める世論におされながら、この遅れを挽回しようとするものであった。統制派の考え方はこの流れをくむものである。
⇒総力戦体制の構築の必要性については、陸軍内でコンセンサスが成立していたと見られるのであって(コラム#省略)、そんなことで、「統制派」を特徴づけることはできない。(太田)
一方、宇垣が軍の実権を握っている間、荒木・真崎らは宇垣閥外の人物として冷遇されていた。荒木は1918年のシベリア出兵当時、シベリア派遣軍参謀であったが、この時に革命直後のロシアの混乱や後進性を見る一方で、赤軍の「鉄の規律」や勇敢さに驚かされた。そのため荒木は反ソ・反共の右派的体質を身につけただけでなく、ソヴィエトの軍事・経済建設が進む前にこれと戦い、シベリア周辺から撃退し、ここを日本の支配下に置くべきであるという、対ソ主戦論者となった。
⇒対露(ソ)抑止/無害化に関しては、陸海軍内で最初からコンセンサス(横井小楠コンセンサス!)が確立し、共有されていたところ、同コンセンサスをほぼ部分集合として抱えるところの、島津斉彬コンセンサス信奉者達は、横井小楠コンセンサス(のみ)信奉者達に比して、より大きな所要相対的兵力量の確保を目指していたことから、半ば公然と口にすることができたところの、仮想敵国たるソ連(露)の脅威を誇張する傾向があった、ということだ。(太田)
折から、佐官・尉官クラスの青年将校の間に『国家改造』運動が広がってきた。その動機は、
・ソビエトが1928年にはじまる第一次五ヶ年計画を成功させると、日本軍が満州を占領することも、対ソ攻撃を開始することも不可能になるので、一刻も早く対ソ攻撃の拠点として満州を確保しようとする焦り。
⇒「満州を確保しようとする焦り」は、横井小楠コンセンサス(のみ)信奉者達と雖も共有していたはずだ。(太田)
・軍縮のため将校達の昇進が遅れ、待遇も以前と比べて悪化しそれに対する不平・不満が激化したこと。
などである。
⇒この点についても同様だったはずだ。(太田)
・農村の恐慌や不況のため、農民出身者の兵士の中に共産主義に共鳴する者が増加し、軍の規律が動揺するのではないかという危機感を将校達に与えたこと。
・農村の指導層(地主・教師・社家・寺族・商家など)出身の青年将校の中には、幼馴染や部下の兵の実家・姉妹が零落したり「身売り」されたりするなど、農村の悲惨な実態を身近で見聞きしていた者が多かったため。
⇒英米的資本主義経済体制への反感は一般国民の間に広範に存在していて、それは、弥生モードから縄文モードへの回帰ムード、の一環だったというのが私の認識だ(コラム#省略)が、昭和天皇自身が、1928年時点でモード転換示唆を行ったことで、杉山ら、陸軍の島津斉彬コンセンサス信奉者達が焦らされたのではないか、と前回のオフ会「講演」(コラム#9902)で指摘したところだ。(太田)
青年将校らは、このような状況を作り出しているのが、宇垣ら軍閥を始め、財閥・重臣・官僚閥であると考えたのである。
⇒全く根拠レスな怒りではないものの、それは、英米政治経済体制・・議会制民主主義/資本主義・・信奉者/受益者への嫌悪感に根差しつつも、無知に基づくスケープゴート群のでっち上げに近かった、と私は思う。(太田)
1931年12月、十月事件の圧力を背景に、犬養内閣で荒木が陸相に就任すると、真崎嫌いで知られる<諸藩混在の国東半島出身の>金谷範三参謀総長を軍事参議官に廻し、後任に閑院宮載仁親王を引き出す。ついで1932年1月に台湾軍司令官の真崎を参謀次長として呼び戻し、参謀本部の実権を握らせた。一方で杉山元、二宮治重らの宇垣側近を中央から遠ざけ、次官に<長崎天領出身の>柳川平助、軍務局長に<土佐藩士の子の>山岡重厚を配する等、自派の勢力拡大を図った。
⇒この時、杉山元が左遷された的な記述が彼のウィキペディアにもあり、「同年11月、荒木貞夫が陸相となり、いわゆる皇道派が陸軍内の実権を握ると、宇垣側近とみられた杉山は次官を更迭され、1932年(昭和7年)2月に久留米第12師団長に親補され<た>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E5%B1%B1%E5%85%83
というのだが、こちらの方も、直接の典拠は付されていない。
部隊勤務になることがあたかも左遷であるかのような認識は誤りだと言ってよい。
軍人というものは、選良中の選良と雖も、部隊勤務と中央勤務とを繰り返すのが異動における原則・・但し、非選良は部隊勤務中心・・なのであって、その後も、杉山が1938年に陸軍大臣を辞任してから、軍事参議官を経て北支那方面軍司令官となり、1940年に参謀総長になるまで中央を離れていたことについても同じことが言える。
前回のオフ会「講演」(コラム#9902)で指摘したように、そもそも、杉山は、荒木や真崎と同様の島津斉彬コンセンサス信奉者だったわけだから、荒木や真崎が杉山と仲が悪かったとは(もとより、その可能性も否定はしないが、)考えにくいところだ。(太田)
人事局長の<福岡藩(?)の大庄屋の子>松浦淳六郎、軍事課長<で土佐藩の開業医の子>の山下奉文もこの系譜につながる。・・・
荒木や真崎は、・・・軍の拡大強化や対ソ戦を早く決行できる<ようにすべく、>・・・「君側の奸」を討ち、「国体を明徴」にし、「天皇親政」を実現すべしと<した>。このような思想を抱く荒木らに対し、青年将校らは「無私誠忠の人格」として崇敬した。これが皇道派である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9A%87%E9%81%93%E6%B4%BE
⇒彼ら、島津斉彬コンセンサス信奉者達のいう「天皇親政」とは、島津斉彬コンセンサス信奉者たる自分達の対内外政策遂行に協力的でない昭和天皇の考えを改めさせるか、それができないのなら、自分達の意のままになる新天皇を擁立する・・明治維新の際の、孝明天皇から明治天皇への代替わりを想起せよ・・というのがそのココロであって、「君側の奸」という表現は、このココロの婉曲表現である、と、考えることもできよう。
「国体・・・明徴」の方は、議院内閣制、つまりは、政党権力、を排除する・・明治維新の際の幕府の排除を想起・・、というのがそのココロである、と、私は見ているところだ。(太田)
——————————————————————————-
——————————————————————————–[永田鉄山の事績を通して皇道派統制派抗争説を切る]
「1933年(昭和8年)6月、陸軍全幕僚会議が開催され、会議の大勢は「攻勢はとらぬが、軍を挙げて対ソ準備にあたる」というにあったが、参謀本部第二部長の永田一人が反対し、「ソ連に当たるには支那と協同しなくてはならぬ。それには一度支那を叩いて日本のいうことを何でもきくようにしなければならない。また対ソ準備は戦争はしない建前のもとに兵を訓練しろ」と言った。これに対し荒木貞夫陸軍大臣は「支那を叩くといってもこれは決して武力で片づくものではない。しかも支那と戦争すれば英米は黙っていないし必ず世界を敵とする大変な戦争になる」と反駁した。
対支戦争を考えていた永田は、対ソ戦準備論の小畑敏四郎と激しく対立し、これが皇道派と統制派の争いであった。
⇒対ソ緩衝地帯・策源地として満州を確保するための満州事変の頃までは、陸軍内の島津斉彬コンセンサス信奉者達と横井小楠コンセンサス(のみ)信奉者達との間でコンセンサスがあったところ、それから先、対ソ早期開戦論に立つ前者と対ソ抑止論に立つ後者とは対立し始めた、ということ。
対ソ開戦を行ってソ連を崩壊させ、ロシアを無害化するか、そこまで行かなくても、親日的なロシアに「戻す」ことができれば、対ソ後背地でありかつ容共勢力が跋扈するところの支那本土など、自ずから無害化され、その上で、次にアジア解放を目指そう、という島津斉彬コンセンサス信奉者達、と、対ソ開戦を回避しつつ対ソ抑止を維持するためには、かかる支那本土を積極的に無害化しなければならないとして対支一撃論
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BE%E6%94%AF%E4%B8%80%E6%92%83%E8%AB%96
をとる横井小楠コンセンサス(のみ)信奉者達、とが対立したわけだ。
この論争、それだけをとれば、軍配は荒木/小畑に上げるべきだろう。
永田は、軍事だけを見ていて、国際政治全体を見ていなかったから、分析を誤った、と判定すべきだ、ということだ。
この論争を、転出先の久留米で(第12師団長として)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E5%B1%B1%E5%85%83 前掲
横目で見ていたはずの杉山元の発想はどちらでもなかったのであって、この頃までに、島津斉彬コンセンサス信奉者中の先輩たる荒木的発想の者達を引退させたうえで、同信奉者中の後輩たる小畑らをけむに巻きつつ、横井小楠コンセンサス(のみ)信奉者達中の永田らを利用して、対ソ抑止・無害化、と、アジア解放、とを、できうれば一挙に、(日本の損害を顧みることなく)成し遂げようとするところの、島津斉彬コンセンサスの昭和維新版とでも呼ぶべきもの、を構想するに至っていたのではないか、というのが私の仮説だ。(太田)
<永田は、>1934年(昭和9年)に陸軍省軍務局長となった。
同年8月、国府津に・・・数名の腹心を集めて会議を開き、永田が従来指導していた経済国策研究会を通じ、昭和神聖会に働きかけ、上奏請願に導き、国家改造に伴って戒厳令を布き、皇族内閣を組織するという計画を練った。
エーリヒ・ルーデンドルフの政治支配と総力戦計画に心酔し、同年10月、陸軍の主張を政治、経済の分野に浸透させ、完全な国防国家の建設を提唱する『国防の本義と其強化の提唱』(注33)という陸軍パンフレットを出版した。
(注33)「原案は、いずれも東京帝国大学への派遣学生であった池田純久(当時少佐・経済学部)、四方諒二(当時少佐・法学部)らによって作成され、鈴木貞一班長を中心とした新聞班の検討を経たのち、永田鉄山軍務局長の承認、林銑十郎陸軍大臣の決裁を得て発行された。内容は北一輝の『日本改造法案大綱』をより具体化したようなものであった。
同パンフレットの内容は陸軍主導による社会主義国家創立・計画経済採用の提唱であったため多くの論議を呼んだ。軍事ファシズム体制を主張するものであった。
作成に関与したのは統制派に属する将校たちだったが、当時対立していた皇道派も表立っては反対しなかった。皇道派は行き過ぎた管理経済は共産主義的であるとして反対していたが、軍国主義体制の樹立については異論はなかった。
政党政治家は強い反対を唱え、議会では陸軍大臣が追及されたが、「国民の一部のみが経済上の利益特に不労所得を享有し、国民の大部が塗炭の苦しみを嘗め、延ては階級的対立を生ずる如き事実ありとせば、一般国策上は勿論国防上の見地よりして看過し得ざる問題である」といった見地に立った統制経済の提唱に対しては,革新系の中野正剛や赤松克麿は賛意を表明し、なかでも社会大衆党の書記長麻生久は「パンフレットに沿って進まないものは、社会改革活動の落伍者である」との熱烈な賛辞をおくった。
批判は美濃部達吉らからも起こり、雑誌「中央公論」11月号は「陸軍国策の総批判」という特集を組んだ。美濃部は「陸軍発表の国防論を読む」という論文で「国家既定の方針を無視し、真に挙国一致の聖趣にも違背す」と批判した。美濃部は陸軍の怨嗟を受け、すぐに天皇機関説問題として糾弾されることとなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%98%B2%E3%81%AE%E6%9C%AC%E7%BE%A9%E3%81%A8%E5%85%B6%E5%BC%B7%E5%8C%96%E3%81%AE%E6%8F%90%E5%94%B1
⇒商工省において、「昭和初年からの経済恐慌処理と,産業合理化政策の実施,満州事変を契機とする経済の統制化にともない,しだいに業務と機構は拡大した。30年臨時産業合理局が外局として設けられ産業合理化行政を専管し,また同年には通商戦の激化にそなえて貿易課を貿易局に昇格させた」
https://kotobank.jp/word/%E8%87%A8%E6%99%82%E7%94%A3%E6%A5%AD%E5%90%88%E7%90%86%E5%B1%80-1437859
という背景の下、「当時文書課長だった吉野と岸と臨時産業合理局の木戸幸一が重要産業統制法を起案実施<(1931年(昭和6年)3月31日)>し」ており、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%B8%E4%BF%A1%E4%BB%8B
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8D%E8%A6%81%E7%94%A3%E6%A5%AD%E7%B5%B1%E5%88%B6%E6%B3%95
私の言うところの、日本型政治経済体制の整備が進んでいたところ、『国防の本義と其強化の提唱』は、これに軍事的装飾を付しただけ、というのが私見だ。
だから、これに、島津斉彬コンセンサス信奉者達が異論を唱えるはずがなかった。
但し、永田が主導した陸軍内のこの動きが重要なのは、この結果、関東軍が事実上コントロールしていた満州国において、日本よりも先に、日本型政治経済体制の実験的整備を行う運びとなり、その成果が日本にフィードバックされる形で、日本における日本型政治経済体制の本格的整備が円滑に進捗することになったことだ。(太田)
「永田の在世中、議会、政党、軍、政府の間で、合法あるいは非合法による近衛文麿擁立運動についての覚書が作成され・・・ていた・・・<すなわち、>近衛を担いで革新内閣を実現し、革新官僚と連絡をとって革新政策を実現しようとした。
⇒これも、恐らく黒幕は杉山元であり、近衛は政治家としてはお世辞にも有能とは言えない人物であったものの、一応、島津斉彬コンセンサス信奉者であったことから、近衛をお飾り首相にすることによって、杉山が、陸軍内の島津斉昭コンセンサス信奉者達と民間のアジア主義者の協力を得ようとした、ということであった、と、私は見る。(太田)
そのために軍内反対派の皇道派を追放し、部内秩序を乱し、クーデターを企てている青年将校を弾圧しようとした。
⇒間違いだろう。
「部内秩序を乱し、クーデターを企てている青年将校を弾圧」することに、まともな島津斉彬コンセンサス信奉者達が反対するはずがないからだ。
私は、永田ら横井小楠コンセンサス(のみ)信奉者達を使嗾し、と言って語弊があれば、泳がせて、かかる動きをとらせたのも、杉山元である、とにらんでいる。
杉山は、1932年(昭和7年)2月まで陸軍次官をしていたが、久留米第12師団長を経て、(二度目の陸軍航空本部長を務めていた)渡辺錠太郎・・当時大将で軍事参議官兼務・・から、1933年(昭和8年)3月に同職を引き継いでおり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E5%B1%B1%E5%85%83
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E8%BB%8D%E8%88%AA%E7%A9%BA%E6%9C%AC%E9%83%A8
この、荒木貞夫と真崎甚三郎両名より陸士で1期先輩で杉山にとって陸士14期も先輩であるところの、島津斉彬コンセンサス信奉者たる渡辺との間で、不肖の島津斉彬コンセンサス信奉者達にして二人三脚の荒木と真崎を引退に追いやり、杉山に同コンセンサスの総帥たらしめる具体的計画が練られた可能性が高い、と、私は踏んでいる。
そして、この計画を側面援護すべく、渡辺は、自由に動くことが出来るところの、単なる軍事参議官に退いた、と・・。
そのうえで、満を持して、杉山は、1934年8月、参謀本部次長・・閑院宮参謀総長を戴くが実質的な参謀総長・・に就くわけだ。(太田)
統制派のカウンター・クーデターは『政治的非常事変勃発ニ処スル対策要綱』<(注34)>という具体案にまでなっていた。
(注34)「片倉衷<(ただし。1898~1991年。仙台に生まれ、陸士、陸大)は、>・・・1933年(昭和8年)8月から参謀本部第二部第4課第4班に務める。陸軍省および参謀本部の幕僚の座長となって「政治的非常事変勃発に処する対策要綱」という文書を作成した。これは、軍人による政治的非常事態が起きた際の対処をまとめたもので、二・二六事件における対応策にも利用された。この文書の目的は、皇道派などによるクーデターの鎮圧を利用して、軍主導の強力な政治体制を確立することにあったと、後に片倉は証言している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%87%E5%80%89%E8%A1%B7
「要綱」は、政治的騒乱に乗じた国家改造について、政治、外交、治安警備、経済、社会政策、教育、世論工作など、多岐にわたって、実に事細かな構想と対策を提示する。事実、二・二六事件以後の軍部統制派主導の政治において、これらのうちの少なからぬ部分は実現されたのである。」
http://www.computician.net/dr/en/node/48
⇒おどろおどろしい叙述だが、(自衛隊もそうだが、)軍隊は対外戦争だけを任務とする存在ではないのであって、治安に係る作戦計画を準備するのも、参謀本部の職務、ということ以上でも以下でもなかろう。(太田)
永田らは機密費を使って、真崎甚三郎悪玉説を流布し、岡田啓介総理大臣は真崎を軍から追放することを内閣の最高方針としたという。
⇒陸軍内の島津斉彬コンセンサス信奉者を中心とする若手跳ね上がり将校達、及び、彼らの神輿にされる恐れがある、無能な真崎、の排除を画策した、ということであり、これに、海軍出身の首相まで賛同したことは、少しも驚くべきことではないだろう。
繰り返すが、これらの動きの背後には、杉山(と渡辺)がいた、と私は見るわけだ。(太田)
同年11月に陸軍士官学校事件が起こる。村中孝次大尉、磯部浅一一等主計をはじめ青年将校らは、「これは、我々を陥れる辻政信大尉と片倉衷少佐による陰謀であり、永田が暗躍しており<(注35)>、真崎教育総監の失脚を目論む統制派の陰謀である」と主張した。
(注35)「片倉本人は後に・・・辻政信<との>・・・共同謀議・永田指示説を<どちらも>否定している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%87%E5%80%89%E8%A1%B7 前掲
⇒その後の言動からしても、怪しいのは辻だろう。(太田)
青年将校らの政治策動を封じるために、少なくとも真崎大将の教育総監は退いてもらわねばならないという議論が、武藤章中佐や池田純久中佐といった統制派を中心に起こり、「多少の波乱があっても、それを覚悟しても断行せねばなるまい。波乱といっても大したこともあるまい」という結論に達した。
そこで永田軍務局長は陸軍大臣林銑十郎大将に真崎大将転補のことを相談すると、林陸軍大臣は真崎大将の転補を断行することを決意した。
1935年(昭和10年)7月15日の異動において真崎教育総監が更迭された事が、あたかも永田の暗躍ないし陰謀によるもので、統帥権の干犯であるかのように皇道派に喧伝された。
⇒下劣な、荒木、真崎2名の共謀による私利的喧伝が行われたわけであり、こんなものを、島津斉彬コンセンサス信奉者達による喧伝、と、我々は受け止めてはなるまい。(太田)
それを真に受けた歩兵第41連隊付の相沢三郎中佐は、同年7月19日に・・・永田に面会し辞職を迫る。
同年8月12日、<永田は、>その相沢に軍務局長室で殺害された(相沢事件)。・・・
永田暗殺によって統制派と皇道派の派閥抗争は一層激化し、皇道派の青年将校たちは、後に二・二六事件を起こすに至る。
その後、永田が筆頭であった統制派は、東條英機が継承し、石原莞爾らと対決を深め(石原は予備役となり)やがて太平洋戦争(大東亜戦争)に至る。
企画院総裁だった鈴木貞一は戦後、「もし永田鉄山ありせば太平洋戦争は起きなかった」、「永田が生きていれば東條が出てくることもなかっただろう」とも追想していた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E7%94%B0%E9%89%84%E5%B1%B1
⇒このくだりは全て誤りだろう。
一、二・二六事件の鎮圧は島津斉彬コンセンサス信奉者達と横井小楠コンセンサス(のみ)信奉者達の「コンセンサス」の下で行われた、二、東條は島津斉彬コンセンサス信奉者たる杉山元の手駒に過ぎなかった、三、石原は島津斉彬コンセンサスから横井小楠(のみ)コンセンサス信奉者へと転向したために杉山らから切られた、四、英米一体論を前提にしたからには誰が陸軍のかじ取りを行おうと日米戦争は回避不可能だった、と、私は見ているからだ。(太田)
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[対支一撃論]
小畑敏四郎のウィキペディアは、横井小楠コンセンサス(のみ)信奉者たる永田鉄山が対支一撃論の創唱者であるとしている
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%95%91%E6%95%8F%E5%9B%9B%E9%83%8E 前掲
のに対し、下掲の対支一撃論のウィキペディアは、島津斉彬コンセンサス信奉者と目される武藤章(後述)、及び、横井小楠(のみ)信奉者ではないかと思われる田中新一(注36)、らが、あたかも、その創唱者達であるかのような記述ぶりだ。↓
(注36)1893~1976年。「本籍新潟県。村松藩士・農業、田中寅五郎の長男として北海道釧路で生まれる。」陸士、陸大。「1936年(昭和11年)3月に陸軍省軍務局課員、同年8月に兵務局兵務課長となる。1937年(昭和12年)1月の宇垣一成への組閣大命降下に際しては、嘗ての陸軍実力者による掣肘を嫌う石原莞爾参謀本部作戦課長らと陸軍中央を説得、陸相を推挙させずに宇垣内閣を流産させる。同年3月には軍務局軍事課長に就任。7月7日の盧溝橋事件発生に当たり、武藤章参謀本部作戦課長と連携し、不拡大方針をとる石原莞爾参謀本部第1部長を押し切って5個師団10万人規模の北支増派を決定させ、北支事変に至る。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E6%96%B0%E4%B8%80
「日本陸軍上層部は、関東軍が満ソ国境において ソ連軍と対峙している状況で、中国における戦線拡大を警戒したため、<支那>事変不拡大の方針を打ち出し、早期講和の道を模索し始める。
しかし、・・・武藤章<参謀本部作戦課長>、田中新一<陸軍省軍務局軍事課長>ら・・・は対支一撃論を唱え、国民政府に強硬姿勢で望み 講和を引き出すという方針を陸軍上層部に訴える。そして、事変の不拡大と拡大のどちらが良いのかのはっきりした長期戦略の無いまま、対支一撃論に従って上海を攻略し(第二次上海事変)、南京も攻略した(南京攻略戦)。
日本軍は強力な一撃を国民政府に加えることに成功したが、国民政府は屈服せず、これ以後、中国全土に事変が波及した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BE%E6%94%AF%E4%B8%80%E6%92%83%E8%AB%96
ちなみに、横井小楠コンセンサス(のみ)信奉者に転向していた石原莞爾は、参謀本部第一部長心得であった「1936年(昭和11年)、関東軍が進めていた内蒙古の分離独立工作(いわゆる「内蒙工作」)に対し、中央の統制に服するよう説得に出かけた<が>、現地参謀であった武藤章が「石原閣下が満州事変当時にされた行動を見習っている」と反論し同席の若手参謀らも哄笑、石原は絶句したという。
1937年(昭和12年)の支那事変(日中戦争)開始時には参謀本部作戦部長であったが、ここでも作戦課長の武藤などは強硬路線を主張、不拡大で参謀本部をまとめることはできなかった。・・・戦線が泥沼化することを予見して不拡大方針を唱え、トラウトマン工作にも関与したが、当時の関東軍参謀長・東條英機ら陸軍中枢と対立し、9月に参謀本部の機構改革では参謀本部から関東軍へ参謀副長として左遷された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%8E%9F%E8%8E%9E%E7%88%BE
また、「1937年(昭和12年)・・・の8月に<病気で参謀本部付けとなった>今井清のあとをうけ、・・・参謀次長となる(石原完爾作戦部長の推挽)<多田駿(1882~1948年。旧仙台藩士の子)は、>・・・事変については石原と同じく不拡大派であり、蒋介石との和平交渉継続を唱えていた。
1938年(昭和13年)1月15日の連絡会議ではトラウトマン和平工作の打ち切りを主張する広田弘毅外相に対し、この期を逃せば長期戦争になる恐れがあるため交渉継続を主張した。多田は結論を参謀本部に持ち帰って協議し、参謀本部は政変回避のために不同意であるが反対はしないこととなったため、和平工作は打ち切られた。多田の在任した一年強の期間、参謀本部は不拡大方針でいた。また、杉山元陸相の更迭を盛んに主張している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E7%94%B0%E9%A7%BF
しかし、この2人のうち、田中は、単に、当時陸軍大臣であった、上司たる杉山元の意向に沿って動いただけだと思われる。
杉山は、横井小楠コンセンサス(のみ)信奉者達の対支一撃論が、事態の泥沼化と英国、或いは英米、との戦争をもたらすであろうことを、荒木や小畑同様、百も承知しながら、だからこそ、積極的に対支一撃論を推進した、ということだろう。↓
杉山元は、「1937年(昭和12年)、林銑十郎内閣下の陸軍大臣に就任、続く第一次近衛内閣でも留任。盧溝橋事件では強硬論を主張し、拡大派を支持。1938年(昭和13年)辞任。軍事参議官となり、同年12月北支那方面軍司令官となり山西省攻撃を指揮<した>。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E5%B1%B1%E5%85%83
なお、武藤は、事変前の満州時代から、そして、事変当時満州にいた東條英機もまた、杉山元の意を受けて行動していた、と私は見ている。
その東條は、こんな早い時点に、杉山の心の中を公開してしまったわけであり、軽率極まりないとの誹りを免れないだろう。↓
「1938年(昭和13年)5月、第1次近衛内閣<での杉山元の後任たる>陸軍大臣・板垣征四郎の下で、陸軍次官・・・に就<いた東條英樹は、>・・・同年11月28日・・・「支那事変の解決が遅延するのは支那側に英米とソ連の支援があるからである。従って事変の根本解決のためには、今より北方に対してはソ連を、南方に対しては英米との戦争を決意し準備しなければならない」と発言し、「東條次官、二正面作戦の準備を強調」と新聞報道された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%A2%9D%E8%8B%B1%E6%A9%9F
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4 歴史篇
以下、時系列に従って、主要な出来事を並べて、昭和戦前史の通史に代えます。
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[排日移民法]
「<米国で、いわゆる>排日移民法<が、大正13年(>1924<)>年7月1日に施行された・・・
排日移民法は当時の日本人の体面を傷つけ、反米感情を産み、太平洋戦争へと突き進む遠因となったのは疑いないところである。少数とはいえども移民する権利が存在する状態と、完全に移民する権利が奪われて1人も移民できなくなるのとでは、超えられない差が存在しており、新渡戸稲造が同法成立に衝撃を受け、二度と米国の地は踏まないと宣言する(実際は1932年に満州事変の国策擁護目的の米国講演を行うこととなり、翌年カナダで客死)など、特にそれまで比較的親米的な感情を持っていた層に与えた影響は大きかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8E%92%E6%97%A5%E7%A7%BB%E6%B0%91%E6%B3%95
⇒杉山元は、その直後の同年8月に軍務局軍事課長に就任しており、
https://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E5%B1%B1%E5%85%83
同課長在任時に。陸軍の中枢課長として、陸軍内外のあらゆる情報を活用しつつ、対米戦争も念頭に置いたところの、対ソ抑止・無害化、及び、アジア解放、の前倒し同時達成、ための戦争構想を確立した、と、私は想像している。
(ところで、杉山の日本語ウィキペディアの余りの短さに私は呆れている。
実に、彼の軍事課長就任すら記述していない。
一般に、日本の軍人関係には力の入っているところの、漢語ウィキペディアは、杉山についての上掲も衝撃的なまでに短いが、軍事課長就任はちゃんと記述されている。但し、「参謀本部軍務局軍事課長」と誤記している。
杉山の邦語ウィキペディアの飛躍的充実を有志に強く期待したい。)
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[濱口首相遭難事件]
「一貫して国際協調を掲げていた濱口<雄幸>は、<外相に幣原喜重郎、>蔵相に元日本銀行総裁の井上準之助を起用し、<井上>の協力の元、軍部をはじめ内外の各方面からの激しい反対を押し切る形で金解禁を断行。当時、日本経済はデフレの真っ只中にあり「嵐に向かって雨戸を開け放つようなものだ」とまで批判された。特に当時の日本経済の趨勢を無視して、旧平価(円高水準)において解禁した・・・ことで、輸出業の減退を招き、その後のより深刻なデフレ不況を招来することになる。結果としては、直後に起きた世界恐慌など、世界情勢の波にも直撃する形となり、濱口内閣時の実質GDP成長率は1929年(昭和4年)には0.5%、翌・1930年(昭和5年)には1.1%と経済失政であると評される事になる。・・・
1930年(昭和5年)11月14日、濱口は・・・東京駅<で>・・・玄洋社系右翼団体愛国社・・・愛国社社員の佐郷屋留雄<(さごうやとめお)>に至近距離から銃撃され・・・<翌年>8月26日・・・に・・・死去した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BF%B1%E5%8F%A3%E9%9B%84%E5%B9%B8
⇒この濱口首相遭難事件は、アジア主義者(在野の島津斉彬コンセンサス信奉者)の無知かつはねあがりを泳がせて利用する、的な謀略、を駆使することとなる、杉山元に対し、その背中を最終的に押した事件だったのではなかろうか。(太田)
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[三月事件]
「三月事件とは、1931(昭和6)年3月20日を期して、日本陸軍の中堅幹部によって計画された、クーデター未遂事件である。橋本欣五郎ロシア班班長ら「桜会」<(注37)>のメンバーが、民間右翼の大川周明・清水行之助らと計画を立案した。
(注37)「1930年9月、参謀本部の橋本欣五郎中佐、<他2名の中佐>が発起人となり設立した。参謀本部や陸軍省の陸大出のエリート将校が集まり、影佐禎昭、・・・長勇、・・・などの「支那通」と呼ばれる佐官、尉官が多く、・・・その設立趣意書には、政党政治の腐敗と軍縮への呪詛が述べられ、軍部独裁政権樹立による国家改造を目的としていた。・・・
主な会員<は、>・・・橋本欣五郎・・・牟田口廉也・・・遠藤三郎・・・武藤章・・・影佐禎昭・・・富永恭次・・・河辺虎四郎・・・<福岡藩領出身の
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%8B%87 >長勇・・・岩畔豪雄・・・辻政信・・・
橋本・長らを中心とした<この>急進的なグループは、大川周明らと結んで、1931年(昭和6年)3月の三月事件、同年10月の十月事件を計画(いずれも未遂)。軍部の独走を助けた。・・・桜会は十月事件後に解散させられた・・・。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%9C%E4%BC%9A
橋本欣五郎(1890~1967年)は、「岡山県岡山市に生まれ7歳の時福岡県門司市<・・江戸時代には小倉藩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%80%E5%8F%B8%E5%B8%82 >・・に移る。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%8B%E6%9C%AC%E6%AC%A3%E4%BA%94%E9%83%8E
影佐禎昭(さだあき。1893~1948年)は、「広島浅野藩士の家系」に生まれる。陸士、陸大、東大法。「満州事変直前の1931年9月4日の講演では、「蒋介石が我国の恩を忘れて反抗せるは言語道断である……支那に対し平和の解決は至難であるから戦争は避け得られない。諸君は陸軍の後援者となりて鞭撻せられんことを切望す」と国民を扇動した。
1937年陸軍参謀本部第7課(支那課長)、大佐昇進。同年11月、日中戦争が泥沼化の様相を呈すると、参謀本部第2部(情報部)では対支特務工作専従の部署の必要性に迫られ、新たに第8課(宣伝謀略課)を設置し、影佐は初代課長に据えられ日中戦争初期の戦争指導に当たる。その後、軍務課長を歴任し民間人里見甫を指導し<支那>の地下組織・青幇(チンパン)や、紅幇(ホンパン)と連携し、上海でのアヘン売買を行う里見機関を設立。中国で阿片権益による資金は関東軍へ流れたという。また板垣征四郎陸軍大臣の有力なブレーントラストとしても知られ、興亜院創設に至るまでの紛糾に際しての巧妙な処理等で名を挙げた。
1939年、日本陸軍は日中戦争の戦局打開のため、蒋介石と対立した中国国民党親日派の汪兆銘に協力し汪政権樹立を計画。影佐を長とする通称「梅機関」(影佐機関)工作を進め成功。1939年2月頃、活動を休止した土肥原機関を受け継いだ。この中に晴気慶胤少佐を長とするテロ組織「ジェスフィールド76号」も含まれていた。同年少将に昇進、支那派遣軍総司令部付。翌1940年3月、南京政府樹立で「梅機関」はその役目を終え正式に解散した。4月、汪政府樹立後は汪政府の軍事最高顧問に就任。「影佐機関」は解散したが、上海と南京にそのネットワークは残り、南京政府操縦工作と重慶政府攪乱工作を続けた。
しかし東條英機内閣総理大臣から「影佐は中国に対して寛大すぎる」と判断され、1942年北満国境の第7砲兵司令官へ転任。同年中将、翌1943年にラバウルの第38師団長へ転任。ズンゲンの戦いで生き残ってしまった成瀬部隊に玉砕を命じた。この顛末は水木しげるの漫画「総員玉砕せよ!」に描かれている。米軍がラバウルを越えて日本本土へ向かったことから、孤立状態の当地で終戦を迎えた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%B1%E4%BD%90%E7%A6%8E%E6%98%AD
⇒橋本は、杉山と同じ旧小倉藩地域出身者であって、杉山の子飼いであると想像されるが、この桜会に集まったメンバーらは、いずれも、島津斉彬コンセンサス信奉者達であった、と見てよかろう。
岩畔は、読者のTSYさん指摘のように、島津重豪の娘の嫁ぎ先である旧新庄藩地域出身者であり(コラム#9918)、元々、このコンセンサス信奉者であった可能性が強かったわけだが、桜会メンバーであった以上、そうであった、と断定してよさそうだ。(太田)
だが、最終的には宇垣の同意が得られず未遂に終わった。この計画には参謀本部第2部長・建川美次少将。、二宮治重参謀次長、小磯國昭軍<務>局長も賛同していたとみられる。
清水が主催する右翼団体・大行社が警視庁を襲撃、東京各所で擬砲弾を炸裂させて騒擾を起こし、社会民衆党の亀井貫一郎、赤松克麿らが大衆を動員して第59回帝国議会における労働法案上提の予定日である3月20日に開催中の議会へ群衆を押しかけさせ、陸軍将校が議会を封鎖して議会の保護を理由に浜口内閣(浜口は襲撃事件で重傷を負い、幣原喜重郎が代理を務めていた)を辞任させ、宇垣一成陸相を首班指名させる計画だった。・・・
計画の資金として、参謀本部の機密費と清水行之助が徳川義親から借りた資金20万円を充てることが計画された。・・・
計画は永田鉄山軍事課長や岡村寧次補認課長にも伝わったが、岡村の日記によれば、永田らは当初から「慎重を勧告」し、「最初より軍最高首脳が同意せざるべきを判断して戒め」たという。・・・
⇒彼らには伝えられていなかったけれど、永田は、このクーデタ計画が杉山元次官を首謀者として進められていることにうすうす気づいていた、と考えれば平仄が合う。(後述)
第1師団長の真崎は、3月15日に永田と士官学校同期である師団参謀長磯谷廉介から、クーデターの計画を聞き、磯谷をして永田に警告させた。さらに、警備司令官に対して、「もし左様な場合には、自分は第一師団長として、警備司令官の指揮命令を奉じない。あるいは大臣でも次官でも、逆に自分が征伐するかもしれんから、左様ご了承を」と通告した。それで計画はガタガタに崩れた。・・・
⇒真崎は自分が蚊帳の外に置かれていたことに怒ったのだろうが、杉山は、クーデタが敢行されれば、真崎は邪魔はしないだろうと見切っていたと見る。(太田)
統制派・・・は、三月事件を断行し、軍事政権に切り換えたうえで、満蒙問題に着手する予定であったが、皇道派の正論に圧倒されて失敗に終わると、満蒙で事を起こして国内の改革を行おうとした。・・・
⇒そうではなく、宇垣がついに決断できなかったために、杉山はクーデタを中止した、と思われる。
杉山にとって一番大事だったのは、陸軍が一丸となって行動し、無血クーデタで陸軍が権力を掌握し、昭和天皇にそれを既成事実として飲ませることだったから、とも。(太田)
宇垣は事件後陸相を辞して、朝鮮総督に就任。1937年(昭和12年)には組閣の大命を受けるに至るが、本事件や「宇垣軍縮」が災いし、軍部大臣現役武官制を盾にとった陸軍の強硬な反対に遭い頓挫。その後たびたび首相候補として名を連ねるが、ついに首相の椅子に座ることはなかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9C%88%E4%BA%8B%E4%BB%B6
⇒「「杉山元<は、>・・・1926年の蒋介石による北伐開始、・・・及び、1926年の英国の親蒋介石政権化・・・、1928年の、(ヴェルサイユ平和会議時の人種平等宣言非採択下での、欧米植民地解放戦争を非合法化したところの)不戦条約締結、・・・ソ連の五カ年計画(経済成長/軍事力強化)開始、・・・等を踏まえ、帝国陸軍を挙げて、島津斉彬コンセンサスの前倒し成就、を推進する決意を固めた、と、・・・想像<できるところ、>・・・1929年(昭和4年)6月27日<に>・・・昭和天皇<によって、>・・・弥生モードから縄文モードへのモード転換示唆がなされ・・・帝国陸軍を中心とする、杉山元ら島津斉彬コンセンサス信奉者達は、大車輪でコンセンサス内容の前倒し実現に向けての努力を行わざるをえないことになった」(コラム#9902)、というのが私の見解であることはご承知の通りだ。
その杉山は、「〈1923年陸軍省軍事課長、国際連盟陸軍代表、
http://royallibrary.sakura.ne.jp/ww2/biblo/japan/sa/sugiyama.html
を経て、〉宇垣一成に重用され、1928年(昭和3年)には陸軍省軍務局長<・・昭和期の陸軍省軍務局長は、全ての官僚機構の中で最も大きな権勢を誇ったポスト・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%8D%E5%8B%99%E5%B1%80
>に就任。
[1930.8.1-1932.2.29は陸軍次官
http://www.geocities.co.jp/since7903/gunbu/rikugun-zikan.htm ]
<になっていたが、その次官の時の>1931年(昭和6年)には宇垣を首班とする軍事政権樹立を図る三月事件に小磯國昭<・・杉山の後任の軍務局長。その後、杉山の後任として次官。・・(上掲2典拠)>、二宮治重<参謀次長>らとともに関与した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E5%B1%B1%E5%85%83
⇒「関与」したどころか、杉山こそ、三月事件の首謀者だろう。
そもそも、橋本に桜会を作らせ、更に、民間のアジア主義者達と連携させたのは杉山である、とさえ私は見る。
ところが、上司の宇垣が日和ったことで、杉山は一旦挫折する。
銘記すべきは、宇垣さえ日和らず、或いは、宇垣さえ脅迫して従わせていたならば、この杉山による、と私が見るクーデタは成功していた、という点だ。
すなわち、この時点で、・・もとよりそれに気付いた者もおればまだ気付けなかった者もいただろうが、既に杉山は、事実上、陸軍全体のリーダーになったのであり、杉山自身、そんな自分に対して確固たる自信を持つに至った、と私は想像している。(太田)
「十月事件とは、1931年(昭和6年)10月の決行を目標として日本陸軍の中堅幹部によって計画された、クーデター未遂事件である。・・・
⇒当然、これも、首謀者は、次官の杉山だったはずだ。(太田)
1931年9月18日深夜、柳条湖事件が発生、これを端緒として満州事変が勃発し<てい>た。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E6%9C%88%E4%BA%8B%E4%BB%B6
⇒満州事変も、首謀者は杉山であると見る(下述)。
こちらの方は、ご存知のように、成功するわけだ。(太田)
「<杉山は、>同年9月の満州事変勃発時には陸軍次官として「正当防衛」声明を発表<す>る。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E5%B1%B1%E5%85%83 前掲
⇒当然だ。(太田)
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[満州事変]
「1929(昭和4年)・・・年8月、岡村寧次が陸軍省人事局補任課長になり、1930年(昭和5年)8月、永田鉄山が軍務局軍事課長になった。同年11月永田は満洲出張の際に、攻城用の24糎榴弾砲の送付を石原らに約束し、1931年7月に歩兵第29連隊の営庭に据え付けられた。満州事変直前の1931年8月には、陸軍中央の主要実務ポストを一夕会会員がほぼ掌握することとなった。
⇒全て、当時の軍務局長~次官であった杉山元がおぜん立てをした、と見て良い。(太田)
1931年3月、満蒙問題の根本的解決の必要を主張する「昭和6年度情勢判断」が作成され、同年6月、建川美次参謀本部第二部長を委員長とし、陸軍省の永田鉄山軍務局軍事課長、岡村寧次人事局補任課長、参謀本部の山脇正隆編制課長、渡久雄欧米課長、重藤千秋支那課長からなる、いわゆる五課長会議が発足し、一年後をめどに満蒙で武力行使をおこなう旨の「満洲問題解決方針の大綱」を決定した。同年8月、五課長会議は山脇に代わり東条英機編制課長が入り、今村均参謀本部作戦課長と磯谷廉介教育総監部第二課長が加わって、七課長会議となった。今村作戦課長は「満洲問題解決方針の大綱」に基づく作戦上の具体化案を8月末までに作成した。
⇒陸軍省、参謀本部、教育総監部の三省部にまたがる正規の業務の実施は、陸軍大臣、参謀総長、教育総監の合意なくして行い得ず(注38)、かつ、かかる政治にもわたる業務については、陸軍省主管であることから、杉山次官の首謀により、陸軍中央(除く大臣)主導で満州事変が行われたことに間違いなかろう。
(この業務実施中、杉山元は一貫して次官だった・・1930年8月~1932年2月・・のに対し、陸相は1931年4月に宇垣一成から南次郎に代わっている。
http://www.geocities.co.jp/since7903/gunbu/rikugun-zikan.htm
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E8%BB%8D%E5%A4%A7%E8%87%A3 )(太田)
(注38)例えば、「大正初期から、将官人事はこの三長官が合意とすることが慣例とな<り、更に>、陸軍の幹部人事について三長官が会議を開くことが陸軍省参謀本部教育総監部関係業務担任規定で明文化された」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E8%BB%8D%E4%B8%89%E9%95%B7%E5%AE%98
が、規定がない時も、「将官人事はこの三長官が合意とする」「合意」がまずあったはずだ。
陸軍中央部では永田鉄山、鈴木貞一らが動き、関東軍では石原莞爾、板垣征四郎らが動くことで満洲事変の準備が整えられ、一夕会系幕僚が陸軍中央を引きずり、内閣を引きずって満洲事変を推進していった。・・・
⇒同じことを何度も繰り返し指摘しているが、そんなことで陸軍中央と関東軍とが連携して動くことなどありえないのであって、全て、杉山次官の指示で進められたはずだ。(太田)
当時の外務省の見解として幣原喜重郎外相は「支那人は満洲を支那のものと考えているが、あれはロシアのものだった。牛荘の領事を任命するには、ロシアの許諾が必要だった。日本がロシアを追い出さなければ、満洲は清国領土から失われたことは間違いない。しかし、日本は領土権は主張しない。日本人が相互友好協力の上に満洲に居住し、経済開発に参加できればよいのであって、これは少なくとも道義的に当然の要求である。また、中国がかりそめにも日本の鉄道に無理強いするような競争線を建設できないことは、信義上自明の理である」と述べている。幣原外相は英米との国際協調により<支那>政府に既存条約を尊重することを求めようとし、<米国>のマクマリー駐中国公使も同様の方針を本国政府に訴えていたが、国務省内の親中派のホーンベルク極東部長によって日本との協調路線は退けられた。
⇒幣原は、自分自身が蒔いた種による部分も大きかったところの、支那に係る国際情勢の悪化を踏まえ、せめて、この頃までに「国際協調」路線を断念し、ダメージコントロール路線に切り替えるべきだったのに、能力と意欲の不足で、それができなかったということだ。(太田)
1931年(昭和6年)9月18日午後10時20分頃、奉天(現在の瀋陽)郊外の柳条湖付近の南満洲鉄道線路上で爆発が起きた。現場は、3年前の張作霖爆殺事件の現場から、わずか数キロの地点である。爆発自体は小規模で、爆破直後に現場を急行列車が何事もなく通過している。 関東軍はこれを張学良の東北軍による破壊工作と発表し、直ちに軍事行動に移った。 これがいわゆる柳条湖(溝)事件である。
<これは>、関東軍作戦参謀石原莞爾中佐が首謀し、軍事行動の口火とするため自ら行った陰謀であった・・・。奉天特務機関補佐官花谷正少佐、張学良軍事顧問補佐官今田新太郎大尉らが爆破工作を指揮し、関東軍の虎石台独立守備隊の河本末守中尉指揮の一小隊が爆破を実行した。 ・・・
⇒もちろん誤りで、石原は・・本人がどこまで自覚していたかどうかはともかく・・、杉山次官の指示を実行しただけのはずだ。(太田)
9月19日午前7時、陸軍省・参謀本部合同の省部首脳会議が開かれ、小磯国昭軍務局長が「関東軍今回の行動は全部至当の事なり」と発言し、一同異議なく、閣議に兵力増派を提議することを決めた。出席者は杉山元陸軍次官、小磯国昭軍務局長、二宮治重参謀次長、梅津美治郎総務部長、今村均作戦課長(建川美次第一部長の代理)、橋本虎之助第二部長、および局長・部長以上の会議において特別に出席が許され、実質的に局長待遇であった永田鉄山軍事課長であった。省部首脳会議の決定を受け、作戦課は朝鮮軍の応急派兵、第10師団(姫路)の動員派遣の検討に入り、軍事課は閣議提出案の準備にかかった。
⇒この手際の良さは、首謀者が杉山であったことを紛れもなく物語っている。(太田)
同日午前10時の閣議で南次郎陸軍大臣は関東軍増援を提議できず、事態不拡大の方針が決定された。
⇒三月事件の時は宇垣一成陸相に日和られてクーデタに失敗した杉山は、今回も、南次郎陸相に日和られたけれど、今回は、目的完遂に向けて引き続き努力を続けることになる。(太田)
同日午前、杉山陸軍次官、二宮参謀次長、荒木貞夫教育総監部本部長によって、満蒙問題解決の動機となすという方針が合意され、条約上の既得権益の完全な確保を意味し、全満洲の軍事的占領に及ぶものではないとされた。
同日午後、作戦課は、関東軍の旧態復帰は断じて不可で、内閣が承認しないなら陸相が辞任して政府の瓦解も辞さないという「満洲における時局善後策」を作成し、参謀本部内の首脳会議の承認を得た。作戦課は関東軍の現状維持と満蒙問題の全面解決が認められなければ、陸軍によるクーデターを断行する決意であった。
⇒これも、黒幕は、当然、杉山だった、と見る。(太田)
南陸相は、事態不拡大の政府方針に留意して行動するよう、本庄繁関東軍司令官に訓電した。
20日午前10時、杉山次官、二宮次長、荒木本部長は、関東軍の旧態復帰拒否と、政府が軍部案に同意しない場合は政府の崩壊も気にとめないことを確認した。
軍事課は、事態不拡大という閣議決定には反対しないが、関東軍は任務達成のために機宜の措置をとるべきであり、中央から関東軍の行動を拘束しないという「時局対策」を策定し、南陸相、金谷範三参謀総長、武藤信義教育総監(陸軍三長官)の承認を得た。
⇒ついに南陸相が「軟化」したわけだ。(太田)
9月19日午前8時30分林銑十郎朝鮮軍司令官より、飛行隊2個中隊を早朝に派遣し、混成旅団の出動を準備中との報告が入り、また午前10時15分には混成旅団が午前10時頃より逐次出発との報告が入ったが、参謀本部は部隊の行動開始を奉勅命令下達まで見合わせるよう指示した。20日午後陸軍三長官会議で、関東軍への兵力増派は閣議で決定されてから行うが、情勢が変化し状況暇なき場合には閣議に諮らずして適宜善処することを、明日首相に了解させる、と議決した。
⇒同じく。(太田)
張学良が指揮する東北辺防軍の総兵力約45万に対して関東軍の兵力は約1万であったため、兵力増援がどうしても必要であった。そこで関東軍は20日、特務機関の謀略によって吉林に不穏状態をつくり、21日、居留民保護を名目に第2師団主力を吉林に派兵し、朝鮮軍の導入を画策した。21日午前10時の閣議で朝鮮軍の満洲派遣問題が討議されたが、南次郎陸相の必要論に同意する者は若槻禮次郎首相のみであった。
⇒首相だけは、恐らく、杉山が根回しを済ませていたのだろうが、ここで、更に、首相ともども、残りの閣僚達を説得する必要が生じたわけだ。(太田)
21日、林朝鮮軍司令官は独断で混成第39旅団に越境を命じ、午後1時20分、部隊は国境を越え関東軍の指揮下に入った。21日午後6時、南陸相に内示のうえ、金谷範三参謀総長は単独帷幄上奏によって天皇から直接朝鮮軍派遣の許可を得ようと参内したが、永田鉄山軍事課長らの強い反対があり、独断越境の事実の報告と陳謝にとどまった。21日夜、杉山元陸軍次官が若槻首相を訪れ、朝鮮軍の独断越境を明日の閣議で承認することを、天皇に今晩中に奏上してほしいと依頼したが、若槻首相は断った。
⇒杉山が首相に直談判したが、若槻はまだ閣内をまとめ切れていなかったということ。(太田)
林朝鮮軍司令官の独断越境命令は翌22日の閣議で大権干犯とされる可能性が強くなったため、陸軍内では、陸相・参謀総長の辞職が検討され、陸相が辞任した場合、現役将官から後任は出さず、予備役・後備役からの陸相任命も徹底妨害するつもりであった。増派問題は陸相辞任から内閣総辞職に至る可能性があった。
22日の閣議開催前に、小磯国昭軍務局長が若槻首相に、朝鮮軍の行動の了解を求めると、若槻はすでに出動した以上はしかたがないと容認し、午前中の閣議では、出兵に異論を唱える閣僚はなく、朝鮮軍の満洲出兵に関する経費の支出が決定。天皇に奏上され、朝鮮軍の独断出兵は事後承認によって正式の派兵となった。
⇒残りの閣僚達が、杉山の事実上の脅迫に屈したということだろう。(太田)
日本政府は、事件の翌19日に緊急閣議を開いた。南次郎陸軍大臣はこれを関東軍の自衛行為と強調したが、幣原喜重郎外務大臣(男爵)は関東軍の謀略との疑惑を表明、外交活動による解決を図ろうとした。
⇒外交による解決が不可能だからこそ、謀略による「解決」を追求せざるをえなかったというのに、幣原も無責任なことだ。(太田)
しかし、21日に林中将の朝鮮軍が独断で越境し満洲に侵攻したため、現地における企業爆破事件であった柳条湖事件が国際的な事変に拡大した。21日の閣議では「事変とみなす」ことに決し、24日の閣議では「此上事変を拡大せしめざることに極力努むるの方針」を決した。林銑十郎は大命(宣戦の詔勅)を待たずに行動したことから、独断越境司令官などと呼ばれた。
関東軍参謀は、軍司令官本庄繁を押し切り、政府の不拡大方針や、陸軍中央の局地解決方針を無視して、自衛のためと称して戦線を拡大する。独断越境した朝鮮軍の増援を得て、管轄外の北部満洲に進出し、翌1932年(昭和7年)2月のハルビン占領によって、関東軍は中国東北部を制圧した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%80%E5%B7%9E%E4%BA%8B%E5%A4%89
⇒「押し切り」という表現は不適切だろう。
本庄は柳条湖事件の1か月前に内地から赴任しており、当然、杉山次官や二宮次長等から、満州事変計画を言い含められていたはずだからだ。
私見では、満州事変に関しては、いわゆる下克上は、次官と大臣/天皇の間と、参謀総長と天皇の間で行われたにとどまる。
いわゆる、関東軍の下克上なるものは、神話に過ぎない、ということだ。(太田)
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[十月事件]
「当時外務大臣であった幣原喜重郎を中心とした政府の働きにより、不拡大・局地解決の方針が9月24日の閣議にて決定された<時、>・・・陸軍急進派はこの決定を不服とし、三月事件にも関わった桜会が中心となり、大川周明・北一輝らの一派と共にこの動きに呼応するクーデターを計画した。・・・鎌倉の牧野伸顕内大臣の襲撃は海軍が引き受けていた。また、大本教の出口王仁三郎とも渡りをつけており、信徒40万人を動員した支援の約束も取り付けていたし、赤松克麿・亀井貫一郎らの労働組合も動く手筈となっていた。・・・
荒木貞夫陸軍中将を首相に、さらに大川周明を蔵相に、橋本欣五郎中佐を内相に、建川美次少将を外相に、北一輝を法相に、長勇少佐を警視総監に、小林省三郎少将を海相にそれぞれ就任させ、軍事政権を樹立する、という流れが計画の骨子となる。・・・
大内力は、この計画ははじめから実行に移す予定はなく、それをネタに政界や陸軍の中央部を脅迫することで政局の転換を図ることが目的であったと推測して<いる。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E6%9C%88%E4%BA%8B%E4%BB%B6 前掲
⇒この事件も黒幕は杉山のはずだ。
彼の目的は、自分が、期から言って、陸軍の最高幹部たる三長官のどれかの座・・満州事変後に参謀総長に就任した閑院宮はお飾りであったので、参謀次長/教育総監/陸軍大臣、が最高幹部・・に、直ちに就けないので、それまでの暫定措置として、荒木/真崎、を最高幹部に据えることであり、それに成功した、と見る。(太田)
「同年11月、荒木貞夫が陸相となり、いわゆる皇道派が陸軍内の実権を握ると、宇垣側近とみられた杉山は次官を更迭され、1932年(昭和7年)2月に久留米第12師団長に親補される。
⇒「更迭」ではありえない。
上原→荒木/真崎→杉山、こそ、陸軍内の島津斉彬コンセンサス信奉者達の本流、つまりは陸軍の本流なのであり、杉山が陸軍の最高幹部になるまでの間、一時的にこの二人が最高幹部の座を預かったと見るべきだろう。
但し、人間、「約束」があっても、いざ権力の座に就くと、居座りたくなるものだ。(太田)
その後は皇道派、統制派の抗争が続くが、荒木の辞任、真崎甚三郎の教育総監更迭を契機に皇道派は勢いを失う。杉山は陸軍航空本部長を経て1934年(昭和7年)8月には参謀次長兼陸軍大学校校長に就任、省部中央に復帰した。1936年(昭和11年)の二・二六事件では青年将校らの要求を拒否し、反乱鎮圧を指揮した。事件後には教育総監、同年に陸軍大将となり、梅津美治郎、東條英機ら統制派中枢に担がれる形で陸軍の重鎮への道を歩む。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E5%B1%B1%E5%85%83 前掲
⇒杉山が、若干の紆余曲折はあったものの、基本的に、予定通り、事実上の最高幹部になったというだけのことだ。
改めて強調しておくが、私見では、杉山こそが、昭和期の陸軍、ひいては日本政府における、島津斉彬的存在であって、私の言う昭和維新の主人公だったのだ。(太田)
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[血盟団事件/五・一五事件/相沢事件、から、二・二六事件へ]
三月事件、満州事変、十月事件、は、いずれも杉山元が首謀者だったと私は見ているわけだが、表記の一連の事件は、陸、海軍の若手将校達や民間の広義の島津斉彬コンセンサス信奉者達・・概ね、広義のアジア主義者達、ともいえる・・の主導で起きた、総動員体制構築促進を意図したものであるところ、これら諸事件を、多かれ少なかれ、杉山は、自分が信奉する島津斉彬コンセンサスの残りの2目標の前倒し同時達成を目指す謀略に巧妙に利用した、というのが私の見方だ。
☆血盟団事件(テロ)は、「1932年(昭和7年)2月から3月にかけて発生した連続テロ(政治暗殺)事件<で、>政財界の要人が多数狙われ、・・・前大蔵大臣で民政党幹事長の・・・井上準之助と・・・三井財閥の総帥(三井合名理事長)である・・・団琢磨が暗殺された<もの>。・・・
日蓮宗の僧侶である井上日召は、茨城県大洗町の立正護国堂を拠点に、近県の青年を集めて政治運動を行っていたが、1931年(昭和6年)、テロリズムによる性急な国家改造計画を企てた。・・・
井上はクーデターの実行を西田税・・・らを中心とする陸軍側に提案したが拒否されたので、1932年(昭和7年)1月9日、東大<生達>・・・や海軍の<将校達>・・・と協議した結果、2月11日の紀元節に、政界・財界の反軍的巨頭の暗殺を決行することを決定し・・・た。ところが、1月28日第一次上海事変が勃発したため、海軍側の参加者は前線勤務を命じられたので、1月31日に海軍の<将校達>・・・が集まって緊急会議を開き、先鋒は民間が担当し、一人一殺をただちに決行し、海軍は上海出征中の同志の帰還を待って、陸軍を強引に引き込んでクーデターを決行することを決定した。・・・
大川周明<も>・・・しぶしぶ<一味に加わっ>た。
一連のテロに恐れをなした三井財閥の池田成彬は、世間の反財閥感情を減ずるために、社会事業へ寄付を行なう三井報恩会の設立や株式公開、定年制の導入など、俗に言う「財閥の転向」を演出し、三菱財閥などもそれに倣った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%80%E7%9B%9F%E5%9B%A3%E4%BA%8B%E4%BB%B6
⇒三月事件と十月事件の首謀者が杉山元だとすると、この両事件に関与していた大川周明が、この血盟団事件と下で取り上げる五・一五事件にも関与していることから、1932年に久留米第12師団長になっていた杉山
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E5%B1%B1%E5%85%83 前掲
は、この両事件についても、大川から情報を得ていたはずであり、少なくとも止めようとはしなかったと考えられる。(太田)
☆五・一五事件(テロ)は、「血盟団の残党<が>、橘孝三郎の愛郷塾を決起させ、陸軍士官候補生の一団を加え、さらに、大川周明<ら>の援助を求めたうえで、再度陸軍の決起を促し、大集団テロを敢行する計画をたて、<血盟団>事件の数か月後に・・・起こした<もの>。」(上掲)
「大川周明<は、>資金と拳銃を<提供した。>・・・
1932年(昭和7年)5月15日に・・・武装した海軍の青年将校たちが総理大臣官邸に乱入し、内閣総理大臣犬養毅を殺害した。・・・
首相官邸以外にも、内大臣官邸、立憲政友会本部、警視庁、変電所、三菱銀行などが襲撃されたが、被害は軽微であった。・・・
後継首相の選定は難航した。従来は内閣が倒れると、天皇から元老の西園寺公望にたいして後継者推薦の下命があり、西園寺がこれに奉答して後継者が決まるという流れであったが、この時は西園寺は興津から上京し、牧野内大臣の勧めもあって、首相経験者の山本権兵衛・若槻礼次郎・清浦奎吾・高橋是清、陸海軍長老の東郷平八郎海軍元帥・上原勇作陸軍元帥、枢密院議長の倉富勇三郎などから意見を聴取した。・・・
陸軍は政党内閣には反対であった。・・・
結局西園寺は政党内閣を断念し、軍を抑えるために元海軍大将で穏健な人格であった斎藤実を次期首相として奏薦した。斎藤は民政・政友両党の協力を要請、挙国一致内閣を組織する。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E3%83%BB%E4%B8%80%E4%BA%94%E4%BA%8B%E4%BB%B6
☆相沢事件については、以下の通り。
「1935年(昭和10年)6月、林陸相と永田軍務局長の満洲・朝鮮への視察旅行中、磯部浅一、村中孝次、河野寿は永田を暗殺しようとした。・・・
相沢は真崎の更迭に際して配布された「教育総監更迭事件要点」や「軍閥重臣閥の大逆不逞」と題する怪文書を読み、教育総監更迭の「真相」を知って統帥権干犯を確信した。
⇒これら怪文書は真崎甚三郎(前出)が意図的に流したと思われる。
言語道断だ。(太田)
また「粛軍に関する意見書」を読み、磯部浅一、村中孝次の免官(8月2日付)を知ると、このままでは皇道派青年将校たちが部隊を動かして決起し、国軍は破滅すると考え、元凶を処置することによって国家の危機を脱しなければならないと決意した。
台湾転任を前に、8月11日に上京。・・・
8月12日午前9時30分頃陸軍省に到り、相沢が一番尊敬していた山岡重厚整備局長を訪ね、談話中に給仕を通して永田少将の在室を確かめた後、午前9時45分頃、軍務局長室に闖入して直ちに軍刀を抜いて永田に切りかかり、次いで刺突を加えて殺害した。
決行後整備局長室に戻って「永田に天誅を加えた」と告げた。山岡は予想外の表情をしたが、永田を刺突した際に刀身を持ったため出血している左手をハンカチで縛り、たまたま来室していた大尉に医務室へ案内させた。途中、永田局長の一の子分といわれた新聞班長の根本博大佐が駆け寄ってきて、黙って固い握手を交わした。また、調査部長の山下奉文大佐が背後から「落ち着け落ち着け静かにせにゃいかんぞ」と声をかけた。こうした陸軍省内の様子を見て「ありがたい、維新ができた」と内心感激した。
⇒このうち、根本博の言動は勘違いによるものであった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%B9%E6%9C%AC%E5%8D%9A
のに対し、山岡(旧土佐藩士の子。軍務局長から整備局長に回っていた。)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%B2%A1%E9%87%8D%E5%8E%9A
と山下(前出)は、島津斉彬コンセンサス信奉者であったと目されるところ、横井小楠コンセンサス(のみ)信奉者の永田とそりの合わない部分があったのかもしれないが、いただけない言動だ。
いずれにせよ、横井小楠コンセンサス(のみ)信奉者であったと目される林銑十郎陸相の下で、両コンセンサス信奉者達が、省内の局長ポストには混在していたわけであり、両者の対立が先鋭なものであったとは考えにくい。(太田)
事件を受けて、綱紀粛正のため陸軍省では9月から10月にかけて首脳部の交代が行われた。林銑十郎陸相、橋本虎之助陸軍次官、橋本群軍務課長は退任し、川島義之陸相、古荘幹郎陸軍次官、今井清軍務局長、村上啓作軍務課長の布陣となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E6%B2%A2%E4%BA%8B%E4%BB%B6
☆二・二六事件(クーデタ)
「1936年(昭和11年)2月26日から2月29日にかけて、皇道派の影響を受けた陸軍青年将校らが1,483名の下士官兵を率いて起こした日本のクーデター未遂事件である。・・・
死亡者 松尾伝蔵内閣総理大臣秘書官事務取扱(私設秘書)
高橋是清大蔵大臣
斎藤実内大臣
渡辺錠太郎教育総監
負傷者 鈴木貫太郎侍従長・・・
三井財閥は血盟団事件・・・で団琢磨を暗殺されて以後、青年将校らによる過激な運動の動向を探るために「支那関係費」の名目で半年ごとに1万円(総務省統計局の戦前基準国内企業物価指数で、平成25年の価値にして7000万円ほど)を北一輝に贈与していた。三井側としてはテロに対する保険の意味があったが、この金は二・二六事件までの北の生活費となり、西田税(北の弟子で国家社会主義思想家)にもその一部が渡っていた。・・・
2月25日夕方、亀川哲也は村中孝次、西田税らと自宅で会合し、西田・村中の固辞を押し切り、弁当代と称して、<・・・久原財閥の総帥
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E5%8E%9F%E6%88%BF%E4%B9%8B%E5%8A%A9・・・>久原房之助から受領していた5000円から、1500円を村中に渡した。・・・
1935年(昭和10年)9月、磯部が川島義之陸軍大臣を訪問した際、川島は「現状を改造せねばいけない。改造には細部の案など初めは不必要だ。三つぐらいの根本方針をもって進めばよい、国体明徴はその最も重要なる一つだ」と語った。
1935年12月14日、磯部は小川三郎大尉を連れて、古荘幹郎陸軍次官、山下奉文軍事調査部長、真崎甚三郎軍事参議官を訪問した。山下奉文少将は「アア、何か起こったほうが早いよ」と言い、真崎甚三郎大将は「このままでおいたら血を見る。しかし俺がそれを言うと真崎が扇動していると言われる」と語った。
1936年(昭和11年)1月5日、磯部は川島陸軍大臣を官邸に訪問し、約3時間話した。「青年将校が種々国情を憂いている」と磯部が言うと、「青年将校の気持ちはよく判る」と川島は答えた。「何とかしてもらわねばならぬ」と磯部が追及しても、具体性のない川島の応答に対し、「そのようなことを言っていると今膝元から剣を持って起つものが出てしまう」と言うが、「そうかなあ、しかし我々の立場も汲んでくれ」と答えた。
1936年1月23日、磯部が浪人森伝とともに川島陸軍大臣と面会した際には渡辺教育総監に将校の不満が高まっており「このままでは必ず事がおこります」と伝えた。川島は格別の反応を見せなかったが、帰りにニコニコしながら一升瓶を手渡し「この酒は名前がいい。『雄叫(おたけび)』というのだ。一本あげよう。自重してやりたまえ。」と告げた。
⇒この時に限らないが、川島は、情勢認識が甘く、かつ無責任だ。(太田)
1936年1月28日、磯部が真崎大将のもとを訪れて、「統帥権問題に関して決死的な努力をしたい。相沢公判も始まることだから、閣下もご努力いただきたい。ついては、金がいるのですが都合していただきたい」と資金協力を要請すると、真崎は政治浪人森伝を通じての500円の提供を約束した。
⇒真崎に至っては、醜悪と言うべきか。(太田)
磯部はこれらの反応から、陸軍上層部が蹶起に理解を示すと判断した。
1936年2月早々、安藤大尉が村中や磯部らの情報だけで判断しては事を誤ると提唱し、新井勲、坂井直などの将校15、6名を連れて山下の自宅を訪問した際、山下は、十一月事件<・・1934年(昭和9年)の陸軍士官学校事件
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E8%BB%8D%E5%A3%AB%E5%AE%98%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E4%BA%8B%E4%BB%B6
のこと(太田)・・>に関しては「永田は小刀細工をやり過ぎる」「やはりあれは永田一派の策動で、軍全体としての意図ではない」と言い、一同は村中、磯部の見解の正しさを再認識した。
反乱部隊は蹶起した理由を「蹶起趣意書」にまとめ、天皇に伝達しようとした。蹶起趣意書は先任である野中四郎の名義になっているが、野中がしたためた文章を北が大幅に修正したといわれている。1936年2月13日、安藤、野中は山下奉文少将宅を訪問し、蹶起趣意書を見せると、山下は無言で一読し、数ヵ所添削したが、ついに一言も発しなかった。
⇒山下についても同様。(太田)
また、蹶起趣意書とともに陸軍大臣に伝えた要望では宇垣一成大将、南次郎大将、小磯国昭中将、建川美次中将の逮捕・拘束、林銑十郎大将、橋本虎之助近衛師団長の罷免を要求している。 ・・・
北一輝、西田税の思想的影響を受けた青年将校はそれほど多くなく、いわゆるおなじみの「皇道派」の青年将校の動きとは別に、相沢事件・公判を通じて結集した少尉級を野中四郎大尉が組織し、決起へ向けて動きを開始したと見るべきであろう。・・・
1936年(昭和11年)・・・1月下旬から2月中旬にかけて反乱部隊の夜間演習が頻繁になっていたことなどから、警視庁では情勢の只ならぬことを察し、再三に渡って東京警備司令部<(注39)>に対して取り締りを要請したものの、取り合われなかった。・・・
(注39)「関東大震災により東京とその近辺に行政戒厳が施行され、関東戒厳司令部が設けられ戒厳解除により廃止された際、当分の間ということで設けられた大日本帝国陸軍の・・・天皇直隷<の>・・・司令部・・・
司令官は、陸軍大将又は陸軍中将で親補職であり、それまで東京衛戍司令官とされていた第1師団長より上位である東京衛戍司令官とされ、警備区域は東京市、荏原郡、豊多摩郡、北豊島郡、南足立郡、南葛飾郡、横浜市及び橘樹郡ではあったが、近衛師団や第1師団に対する統率系統はなく、警備上の指揮権を有するのみであった。
司令部は、参謀長、参謀、副官並びに下士及び判任文官の、全部で10人程度の小さな事務所であった。
昭和10年(1935年)から新たに設けられた東部防衛司令部を兼ね、昭和12年(1937年)に東部防衛司令部の編制が官衙から軍隊に改められた際、東京警備司令部は廃止された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E8%AD%A6%E5%82%99%E5%8F%B8%E4%BB%A4%E9%83%A8
⇒「関東戒厳司令部<が>陸軍参謀本部内に配置された」
http://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_10366946_po_04.pdf?contentNo=1&alternativeNo=
ことはともかくとして、その後継の東京警備司令部も、参謀本部「外」でこそあったけれど、他の部隊同様、参謀本部の「区処」・・海軍でいう「指揮・指示」・・
http://admiral31.world.coocan.jp/r0001.htm
を受けることから、杉山は、参謀次長としてこの情報に接していたと思われるところ、杉山はあえて「取り合わ・・・なかった」、握りつぶした、と見てよいのではないか。(太田)
26日・・・午前5時ごろ、反乱部隊将校の香田清貞大尉と村中孝次、磯部浅一らが丹生誠忠中尉の指揮する部隊とともに、陸相官邸を訪れ、6時半ごろようやく川島義之陸軍大臣に会見して、香田が「蹶起趣意書」を読み上げ、蹶起軍の配備状況を図上説明し、要望事項を朗読した。川島陸相は香田らの強硬な要求を容れて、古庄次官、真崎、山下を招致するよう命じた。川島陸相が対応に苦慮しているうちに、他の将校も現れ、陸相をつるし上げた。斎藤瀏少将、小藤大佐、山口大尉がまもなく官邸に入り、7時半ごろ、古庄次官が到着した。・・・
赤坂見付台上に張られた蹶起軍の歩哨線を、<参謀本部作戦課長の>石原<莞爾>が肩を怒らせながら無理やり通行しようとし・・・日直の部屋から参謀次長の杉山元・・・に電話をかけ、〝閣下、すぐに戒厳令を布かれるといいと思います〟と<伝えた。>・・・
⇒石原は、事件当時、杉山の指示下で動いていた、と見てよかろう。(太田)
真崎大将は陸相官邸を出て伏見宮邸に向かい、海軍艦隊派の加藤寛治とともに軍令部総長伏見宮博恭王に面会した。真崎大将と加藤は戒厳令を布くべきことや強力内閣を作って昭和維新の大詔渙発により事態を収拾することについて言上し、伏見宮をふくむ三人で参内することになった。真崎大将は移動する車中で平沼騏一郎内閣案などを加藤に話したという。参内した伏見宮は天皇に「速やかに内閣を組織せしめらること」や昭和維新の大詔渙発などを上申したが、天皇は「自分の意見は宮内大臣に話し置きけり」「宮中には宮中のしきたりがある。宮から直接そのようなお言葉をきくことは、心外である。」と取り合わなかった。
午前9時、川島陸相が天皇に拝謁し、反乱軍の「蹶起趣意書」を読み上げて状況を説明した。事件が発生して恐懼に堪えないとかしこまる川島に対し、天皇は「なにゆえそのようなもの(蹶起趣意書)を読み聞かせるのか」「速ニ事件ヲ鎮圧」せよと命じた。この時点で昭和天皇が反乱軍の意向をまったく問題にしていないことがあらためて明瞭になった。・・・
杉山元参謀次長が甲府の歩兵第49連隊及び佐倉の歩兵第57連隊を招致すべく上奏。
⇒杉山は、昭和天皇のことを陸軍次官当時から熟知しており、天皇の絶対的信認を得る目的もあり、目をつぶって事件を起こさせた上で、一貫して、叛徒達に最強硬な姿勢で臨み続けた、ということだろう。(太田)
午後に清浦奎吾元総理大臣が参内。「軍内より首班を選び処理せしむべく、またかくなりしは朕が不徳と致すところとのご沙汰を発せらるることを言上」するが、天皇は「ご機嫌麗しからざりし」だったという・・・
正午半過ぎ、・・・荒木・真崎・林のほか、阿部信行・植田謙吉・寺内寿一・西義一・朝香宮鳩彦王・梨本宮守正王・東久邇宮稔彦王といった軍事参議官によって宮中で非公式の会議が開かれ、穏便に事態を収拾させることを目論んで26日午後に川島陸相名で告示が出された。
一、蹶起ノ趣旨ニ就テハ天聴ニ達セラレアリ
二、諸子ノ真意ハ国体顕現ノ至情ニ基クモノト認ム
三、国体ノ真姿顕現ノ現況(弊風ヲモ含ム)ニ就テハ恐懼ニ堪ヘズ
四、各軍事参議官モ一致シテ右ノ趣旨ニヨリ邁進スルコトヲ申合セタリ
五、之以外ハ一ツニ大御心ニ俟ツ
この告示は山下奉文少将によって陸相官邸に集まった香田・野中・津島・村中の将校と磯部浅一らに伝えられたが、意図が不明瞭であったため将校等には政府の意図がわからなかった。・・・
午後4時、戦時警備令に基づく第一師団命令が下った。この命令によって反乱部隊は歩兵第3連隊連隊長の指揮下に置かれたが、命令の末尾には軍事参議官会議の決定に基づく次のような口達が付属した。
一、敵ト見ズ友軍トナシ、トモニ警戒ニ任ジ軍相互ノ衝突ヲ絶対ニ避クルコト
二、軍事参議官ハ積極的ニ部隊ヲ説得シ一丸トナリテ活溌ナル経綸ヲ為ス。閣議モ其趣旨ニ従ヒ善処セラル
前述の告示とこの命令は一時的に反乱部隊の蹶起を認めたものとして後に問題となった。・・・
27日・・・「皇軍相撃」を恐れる軍上層部の動きは続いたが、長年信頼を置いていた重臣達を虐殺された天皇の怒りはますます高まり、午前8時20分にとうとう「戒厳司令官ハ三宅坂付近ヲ占拠シアル将校以下ヲ以テ速ニ現姿勢ヲ徹シ各所属部隊ノ隷下ニ復帰セシムベシ」の奉勅命令が参謀本部から上奏され、天皇は即座に裁可した。
本庄繁侍従武官長は決起した将校の精神だけでも何とか認めてもらいたいと天皇に奏上したが、これに対して天皇は「自分が頼みとする大臣達を殺すとは。こんな凶暴な将校共に赦しを与える必要などない」と一蹴した。奉勅命令は翌朝5時に下達されることになっていたが、天皇はこの後何度も鎮定の動きを本庄侍従武官長に問いただし、本庄はこの日だけで13回も拝謁することになった。
午後0時45分に拝謁に訪れた川島陸相に対して天皇は、「私が最も頼みとする大臣達を悉く倒すとは、真綿で我が首を締めるに等しい行為だ」「陸軍が躊躇するなら、私自身が直接近衛師団を率いて叛乱部隊の鎮圧に当たる」とすさまじい言葉で意志を表明し、暴徒徹底鎮圧の指示を伝達した。また午後1時過ぎ、憲兵によって岡田首相が官邸から救出された。天皇の強硬姿勢が陸相に直接伝わったことと、殺されていたと思われていた岡田首相の生存救出で内閣が瓦解しないことが明らかになったことで、それまで曖昧な情勢だった事態は一気に叛乱軍鎮圧に向かうことになった。・・・
28日・・・午前0時、反乱部隊に奉勅命令の情報が伝わった。午前5時、遂に蹶起部隊を所属原隊に撤退させよという奉勅命令が戒厳司令官に下達され、5時半、香椎浩平戒厳司令官から堀丈夫第一師団長に発令され、6時半、堀師団長から小藤大佐に蹶起部隊の撤去、同時に奉勅命令の伝達が命じられた。小藤大佐は、今は伝達を敢行すべき時期にあらず、まず決起将校らを鎮静させる必要があるとして、奉勅命令の伝達を保留し、堀師団長に説得の継続を進言した。香椎戒厳司令官は堀師団長の申し出を了承し、武力鎮圧につながる奉勅命令の実施は延びた。自他共に皇道派とされる香椎戒厳司令官は反乱部隊に同情的であり、説得による解決を目指し、反乱部隊との折衝を続けていた。この日の早朝には自ら参内して「昭和維新」を断行する意志が天皇にあるか問いただそうとまでした。しかしすでに武力鎮圧の意向を固めていた杉山参謀次長が激しく反対したため「討伐」に意志変更した。
⇒いかに、杉山一人だけが・・部下の石原莞爾以上に・・、一貫して最強硬姿勢を貫いたかが分かる。(これに続く、以下↓においても同様。)(太田)
朝、石原莞爾大佐は、臨時総理をして建国精神の明徴、国防充実、国民生活の安定について上奏させ、国政全体を引き締めを内外に表明してはどうかと香椎戒厳司令官に意見具申した。また午前9時ごろ、撤退するよう決起側を説得していた満井佐吉中佐が戒厳司令部に戻ってきて、川島陸相、杉山参謀次長、香椎戒厳司令官、今井陸軍軍務局長、飯田参謀本部総務部長、安井戒厳参謀長、石原戒厳参謀などに対し、昭和維新断行の必要性、維新の詔勅の渙発と強力内閣の奏請を進言した。香椎司令官は無血収拾のために昭和維新断行の聖断をあおぎたい、と述べたが、杉山元参謀次長はふたたび反対し、武力鎮圧を主張した。 」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E3%83%BB%E4%BA%8C%E5%85%AD%E4%BA%8B%E4%BB%B6
⇒「陸軍航空本部長を経て1934年(昭和7年)8月には参謀次長・・・に就任、省部中央に復帰し<ていた杉山元は、こ>・・・の二・二六事件では青年将校らの要求を拒否し、反乱鎮圧を指揮した。事件後には教育総監、同年に陸軍大将とな<った>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E5%B1%B1%E5%85%83
わけだが、杉山は、「下」の青年将校らと「上」の天皇を見事に利用しつつ、中継ぎたる無能な島津斉彬コンセンサス信奉者である諸先輩を引退に追い込み、かつ、天皇の絶対的信認を得たことで、自らの「権力」を、(殆ど気取られることなく、)盤石のものにすることに成功した、ということだ。
このようにして、それ以降、杉山は天皇の不興を買うことをどんどんやっていくことになるが、彼が権力の座からを追われる心配をほぼなくすことができたわけだ。(太田)
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[日支戦争]
「1936年4月17日、廣田内閣は閣議をもって支那駐屯軍の増強を決定した。・・・
⇒杉山元は、3月23日まで参謀本部次長であり、
http://kitabatake.world.coocan.jp/rikukaigun7.html
かつ、8月1日に教育総監に就任するまで参謀本部付だった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%99%E8%82%B2%E7%B7%8F%E7%9B%A3
ので、この決定は杉山がイニシアティヴをとったと考えられるだけでなく、その決定、実施にも、前官待遇で事実上影響を及ぼし得る立場にあったことを銘記すべきだろう。(太田)
参謀本部は増強された支那駐屯軍の一部を通州に駐屯させ、これによって冀東防衛の態勢を確立させる案であったが梅津美治郎陸軍次官から外国軍隊の北支駐屯を定めた北清事変最終議定書の趣旨に照らして京津鉄道から離れた通州に駐屯軍を置くことはできないという強い反対があったため通州の代わりに北平西南4キロの豊台に駐屯軍の一部(一個大隊)を置くことになった。豊台は北寧鉄路の沿線であるが北京議定書で例示された地点ではなく、1911年から27年まで英国が駐屯した実績があるとして選ばれたが、陸軍自身の調査でも「豊台ニ法的根拠ナシ」との結論が出されており、法的根拠なしに臨時として部隊を置きこれを永駐化する方針の元に駐兵が行われた。豊台駐兵は中国外交部の反対にもかかわらず行われた上、中国軍兵営とも近く、盧溝橋事件の遠因と指摘されてきた。・・・
⇒通州、豊台、どちらへの駐屯にせよ、北京議定書違反には変わらないのであって、それが挑発行為になることを承知の上で、あえて、杉山は駐屯させた、ということだ。(太田)
1937年(昭和12年)7月7日に北京(北平)西南方向の盧溝橋で・・・日本軍と中国国民革命軍第二十九軍との衝突<起きた。>・・・盧溝橋事件<である。>・・・
⇒杉山元は、同年の2月9日から既に陸軍大臣になっており、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E8%BB%8D%E5%A4%A7%E8%87%A3
この報告に小躍りしたのではないか、と、私は想像している。(太田)
関東軍司令部(軍司令官:植田謙吉大将10期、参謀長:東條英機中将17期)は蘆溝橋事件発生の報に接すると、八日早朝会議を開き、「ソ連は内紛などのため乾岔子事件の経験に照らしても差し当たり北方は安全を期待できるから、この際質察に一撃を加えるべきである」と判断し、参謀本部へは「北支ノ情勢ニ鑑ミ独立混成第一、第十一旅団主力及航空部隊ノ一部ヲ以テ直ニ出動シ得ル準備ヲ為シアリ」と報告した。
⇒当時、既に東條は杉山の意を受けて動いていた、と(前にも記したように)私は見ている。
(翌1938年(昭和13年)5月30日に、杉山陸相が次官として東條を招致する
http://www.geocities.co.jp/since7903/gunbu/rikugun-zikan.htm
、という一点からだけでも、そう言えると思う。)(太田)
関東軍では、事件が発生すると、八日、機を失せず独立混成第十一旅団等に応急派兵を命じ満支国境線に推進させた。該旅団は九日夕までに主力をもって承徳市、古北口間、一部をもって山海関に集結した。また関東軍飛行 隊主力も錦州、山海関地区に集結した。
支那駐屯軍は、八日午後、事態の将来を顧慮し、関東軍に対し弾薬、燃料及び満鉄従業員ならびに鉄道材料の増派援助方に関し協議した。
また同日十八時十分、関東軍は「暴戻なる支那第二九軍の挑戦に起因して今や華北に事端を生じた。関東軍は多大の関心と重大なる決意とを保持しつつ厳に本事件の成行きを注視する」と声明した。関東軍が所管外の事柄に対して、このような声明を公表することは異例であり、この事件に対する異常な関心を示したものである。
⇒繰り返すが、東條は杉山の意を受けて動いていた、と私は見ているわけだ。(太田)
更に関東軍は支那駐屯軍に連絡しかつ幕僚を派遣して強硬な意見を述べ(九日、辻政信大尉36期、天津着)両軍連帯で中央に意見具申をしようと申し入れた。支那駐屯軍は、すでに不拡大方針で事件処理に当たっており、かつソ連が今出て来ないという対ソ情勢判断に責任が持てないこと、関東軍が中国問題を非常に軽く見ていることに不安を感じ、申し入れを断った。
また朝鮮軍(軍司令官:小磯國昭<(注40)>中将12期)も関東軍と同様に「北支事件ノ勃発ニ伴ヒ第二十師団ノ一部ヲ随時出動セシメ得ル態勢ヲトラシメタリ」と報告した。これは年度作戦計画訓令に基づく応急の措置であったが、小磯大将自身は「この事態を契機とし支那経略の雄図を遂行せよ」という意見であった。・・・
(注40)1880~1950年。陸士、陸大。旧新庄藩士の子
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%A3%AF%E5%9C%8B%E6%98%AD
なので、小磯は、島津斉彬コンセンサス信奉者だった可能性がある。
杉山元陸軍大臣、梅津美治郎陸軍次官<は、この当時、>・・・陸軍の対中強硬派<だった。>・・・
宮崎龍介は蒋介石に信用のある宮崎焔天の息子ということで南京に急派することになった。神戸で乗船すると、憲兵隊に逮捕されてしまい、和平工作は破綻となる。
7月23日、宮崎龍介は近衛文麿の密書を手に、東京駅から神戸へ向けて旅立った。南京の蒋介石の元へは、あらかじめ暗号電文による知らせがとどいており、「特使派遣を歓迎する」との返信が、早々に近衛の元に届いていた。宮崎龍介は汽車に丸1日ゆられて、翌日、目的地の神戸へと下り立った。そのころ、東京では近衛がどういうわけか、盧溝橋事件では戦線拡大を唱え、自身の南京行きを強く妨害した当の杉山元に、蒋介石のもとへ密使を派遣したことを話してしまっていた。近衛の思惑としては、陸軍による妨害が行われないよう杉山にクギを刺したつもりだったのだろうが、これがとんだヤブヘビとなってしまう。杉山は首相官邸をあとにするや、そのまま憲兵隊本部へすぐに連絡を入れたようだ。
7月24日、宮崎は、神戸港に停泊していた中国行きの船へと乗り込んだ。タラップを上がり、船員に自分の船室を訊ねたとたん、周囲を屈強な男たちに囲まれ逮捕されてしまった。同日、部隊の移動は停止し、逆に第132師を北平に進入させたほか、付近にも増兵を始めた。そのため駐屯軍は29軍に参謀を派遣して折衝を行わせるとともに事態の急変に対処する準備を始めた。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%A7%E6%BA%9D%E6%A9%8B%E4%BA%8B%E4%BB%B6
⇒杉山が、あらゆる手段を弄して盧溝橋事件の日支戦争化を推進したこと、が分かる。(太田)
「1937年11月から翌1938年1月にかけて、中独合作により中華民国と友好関係にあったドイツを仲介者とするトラウトマン和平工作が日中間によって行われたが、12月の南京陥落によって日本側では対中強硬論が政府(内閣総理大臣近衛文麿・外務大臣広田弘毅)と海軍(海軍大臣米内光政)にて台頭。一方、陸軍では陸軍省(陸軍大臣杉山元)こそ政府・海軍と同じく強硬派であったが、多田駿陸軍中将を筆頭とする参謀本部は終始日中和平交渉の継続を強く主張。参謀本部の要請によって日露戦争以来の御前会議が開かれるなどしたが、政府・海軍および陸軍省の圧力を受け、1月15日に政府は最終的に交渉の打ち切りを決定。翌日16日に近衛内閣は「帝国政府は爾後国民政府を対手とせず。真に提携するに足りる新興支那政権に期待し、これと国交を調整して更生支那の建設に協力せんとす」との声明を発し(第一次近衛声明)、トラウトマン和平工作は頓挫した。 」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E6%B4%8B%E6%88%A6%E4%BA%89
⇒このような参謀本部の島津斉彬コンセンサス色の希薄化に危機意識を持った杉山は、自ら、参謀総長として、参謀本部に復帰することにした、と、私は見ている。(太田)
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[通州事件]
「日中戦争(支那事変・北支事変)の初期の1937年(昭和12年)7月29日に<支那>陥落区の通州(現:北京市通州区)において冀東防共自治政府保安隊(<支那>人部隊)が、日本軍の通州守備隊・通州特務機関及び日本人居留民を襲撃・殺害した事件。通州守備隊は包囲下に置かれ、通州特務機関は壊滅し、200人以上におよぶ猟奇的な殺害、処刑が<支那>人部隊により行われた。・・・
冀東政府<は>謝罪<するとともに、>慰謝金、損害賠償120万円を交付し、・・・12月24日には・・・冀東政府より・・・、事件関係者が処罰または逃亡したと説明された。 」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%9A%E5%B7%9E%E4%BA%8B%E4%BB%B6
「梅津次官は国際条約尊重の念から通州駐屯に反対したが豊台に駐屯した部隊が盧溝橋事件に巻き込まれたこと、さらに多数の日本居留民が虐殺された通州事件が通州における日本軍不在を狙って計画されたことは日本の善意が悲劇を招いた事例であるとしている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%A7%E6%BA%9D%E6%A9%8B%E4%BA%8B%E4%BB%B6
「特別召集された・・・第71回帝国議会・衆議院(7月28日開会、8月7日閉会)で、北支事変の勃発にさいして「陸海軍将兵に対する感謝決議」を全会一致で採択、さらに北支事変のための特別追加予算・・・を審議もなく満場一致で可決<した。>」(コラム#6260)
⇒この種事件の発生は、杉山陸相の想定内だったことだろう。
彼の「期待」通り、日本の国民世論は激高し、北支事変が日支戦争に転化する大きな契機となった、と言えよう。
実際。8月13日に第二次上海事変が起こり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E4%B8%8A%E6%B5%B7%E4%BA%8B%E5%A4%89
戦争は本格化する。(太田)
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[対英のみ開戦論]
忘れている読者も多いだろうし、知らない読者はもっと多いはずなので、表記を振り返っておく。
「爾来の大英帝国及び米国への日本の海軍及び陸軍の累次の勝利に鑑みつつ1937年から1941年の<私の東京在勤期間>を振り返れば、英国との戦争に日本を飛び込ませようとする過激派の不断の努力に抗すべく示されてきたところの日本の穏健派分子の巧みさに驚愕せざるをえない。
<これら分子の>努力は、天津問題に関する危機が酣であった1939年の夏<(コラム#3780)>の間、特に顕著だった。
日本が、南西太平洋地域において陸、海、そして空にわたって疑問の余地なく優位にあるという認識は、日本の指導者の間でより戦争志向的で非良心的な人々をしてしばしば、英国との繰り返し起こった紛争を解決し、英国の権益と影響力を極東から永久に排除するために武力に訴えよう、という気にさせたからだ。
その誘惑が一番大きかったのが、フランスが1940年春に瓦解した瞬間だった。
というのも、その頃には、1937年から始まった計画の下における日本の軍備増強のためになされた巨大な準備がほぼ完成に近づきつつあったからだ。
にもかかわらず、平和は維持されたのだ。・・・
純粋に軍事的な都合だけの観点から言えば、この時期における英国だけに対する戦争は、我々が、最も準備ができていなくて、しかも米国からの武器援助を受ける可能性がより小さかっただけに、日本の陸軍と海軍の参謀達にとっては、1941年末に、英国と米国を束にして、しかもこの二つの大国が改善された軍事状況にあったというのに戦争を仕掛けるよりは、魅力的な案に見えたに違いない。・・・
<1940年春の時点で日本が対英開戦をしておれば、>バトル・オブ・ブリテン<(コラム#3497、3511)>にまだ勝利を収めておらず、ダンケルク<からの撤退の打撃>から回復してなかった我々は、日本によって、シンガポールを失うとともに、インド洋地域にも侵攻されていた可能性が極めて高いのだ。」(クレイギー駐日英国大使報告書)(コラム#3968)
⇒当然のことながら、文中に出てくる「過激派」や「穏健派」の具体的人名等を念頭に置きながら、クレーギーはこの報告書を纏めたわけで、彼がそれを明記していないのは、情報源となった人々を秘匿し、彼らを守るためだ。
他方、戦前史研究者達、とりわけ、日本人たる戦前史研究者達は、具体的人名等を炙り出す努力をすべきなのに、その形跡が見られないのは残念だ。
私は、本件に関しては、(まともだった)「過激派」は陸軍、(アホだった)「穏健派」は外務省と海軍である、と見てきた次第(コラム#省略)だが、「過激派」総帥は、杉山元参謀総長(当時)だったはずだ、と、この際、明言しておこう。(太田)
「北のインドシナに進駐、中華民国支配地域への攻撃に利用した。これにより日本の対米英関係は緊張した。その後新たにビルマを経由する「援蒋ビルマルート」が作られた。1940年(昭和15年)7月19日の荻窪会談では、盟主である英国が不在の東南アジア植民地に向かう南進論の方針が確認され、戦争相手は英国のみに局限するが、対米戦も準備する必要があるとされた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E6%B4%8B%E6%88%A6%E4%BA%89
同会談での、「近衛以外の出席者は陸海軍が推した東條英機、吉田善吾の陸海相候補と、近衛自らが選んだ外相候補の松岡洋右。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%BB%E7%AA%AA%E4%BC%9A%E8%AB%87
⇒近衛は杉山のロボット、東條は杉山の手先であり、この2人が(どちらも杉山の「指示」の下、)同じ意見を開陳したであろうこと、と、その開陳内容が明確な対英のみ開戦方針ではなかったこともあり、海軍「代表」の吉田・・佐賀県(旧肥前藩)の農民の子であり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E5%96%84%E5%90%BE
島津斉彬コンセンサス信奉者であった可能性が高い・・は反対しなかったのだろう。
また、松岡は、外務省を20年遠ざかっており、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B2%A1%E6%B4%8B%E5%8F%B3
この時点では、まだ英米一体論には立っていなかったのではなかろうか。(太田)
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[関東軍特種演習(関特演)]
「独ソ戦(1941年6月22日開戦)<に>独ソ戦が始まり緒戦はドイツ軍が圧倒的優位に立つと、松岡洋右外務大臣や原嘉道枢密院議長らをはじめ日本政府内では、まずは日独同盟を重視し、ドイツと協力してソ連を挟撃すべしという主張が勢いを持った(北進論)。近衛文麿総理大臣はノモンハン事件で証明された<ように>関東軍の現有兵力(兵員約28万)では満州工業地帯の防衛が困難であると判断、関東軍首脳部の主張を支持。・・・
⇒ノモンハン事件は実質日本側の勝利であったことを、注意喚起のために、改めて指摘しておく。(太田)
7月2日の御前会議は『情勢の推移に伴う帝国国策要綱』を採択し、独ソ戦が有利に進展したら武力を行使して北方問題を解決するとの方針を決定した。これに基づいて7月7日に関特演の大動員令が下り、第1次動員として13日に内地から約300の各部隊を動員、16日には第2次動員として14個師団基幹の在満州・朝鮮部隊を戦時定員に充足かつ内地より2個師団を動員、北満に陸軍の膨大な兵力と資材が集積された。・・・
<すなわち>、関東軍は戦時定員の14個師団および多数の砲兵部隊・戦車部隊・航空部隊・支援部隊を有す74万以上の大兵力となった。
しかし、1941年7月28日の南部仏領インドシナ進駐などを契機とした<米国>や<英国>、オランダとの緊張状態が加速したこともあり、日本政府はソ連方面よりも東南アジア方面へと政策の重点を移して行った(南進論)。
⇒参謀総長の杉山が、アジア解放を優先させるために、この時点での北進論を完全につぶすために、南部仏印進駐をさせた、と見るべき。(太田)
1941年8月3日、関東軍は田中新一作戦部長と有末二十班長らがソ連との戦争を念頭とした態度案を海軍側に提出、陸海軍間で話し合いが行われるも、文書から「対ソ開戦」の文字を削除するように海軍側が迫り、5日に妥結した。これを受け、大本営陸軍部と関東軍は1941年8月9日に年内の対ソ開戦の可能性を断念した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E6%9D%B1%E8%BB%8D%E7%89%B9%E7%A8%AE%E6%BC%94%E7%BF%92
⇒杉山は、田中らの頭越しに、海軍に根回ししていて、自分の思い描いたラインに持って行った、ということだろう。(太田)
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[大東亜戦争]
「1941年・・・9月3日、日本では大本営政府連絡会議において帝国国策遂行要領が審議され、9月6日の御前会議で「外交交渉に依り十月上旬頃に至るも尚我要求を貫徹し得る目途なき場合に於ては直ちに対米(英蘭)開戦を決意す」と決定された。・・・
11月1日の大本営政府連絡会議では「帝国は現下の危局を打開して自存自衛を完(まつと)うし大東亜の新秩序を建設するため、此の際、英米蘭戦を決意し」「武力発動の時期を12月初頭と定め、陸海軍は作戦準備を完整す」という内容の帝国国策遂行要領が改めて決定した。その後11月5日御前会議で承認された。以降、陸海軍は12月8日を開戦予定日として対米英蘭戦争の準備を本格化させた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E6%B4%8B%E6%88%A6%E4%BA%89
⇒大東亜戦争に係るこの二回の御前会議は、作戦に関するものであり、実質的起案者は杉山元、ということになる。
この時点で、杉山は、軍事課長時代に自分が自身に掲げた目標の8割方は達成した、と思ったことだろう。
そして、この戦争の結果、この目標中のアジア解放はほぼ、対ソ(対露)抑止・無害化は完全抑止までほぼ、達成されたことを我々は知っている。(太田)
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5 エピローグ
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[日本の1939年末~45年8月の事実上の最高権力者が杉山元である所以]
1939年末までに、西と植田が退役し、杉山は、寺内に次ぐ、陸軍「名番」2位となるが、寺内は、陸相、教育総監にこそ就いたけれど、それまでに省部の主要ポストを経験していない上、宇垣が陸相在任時、予備役編入が内定した時に宇垣に泣きつき、ほだされた宇垣が、彼を現役に留めた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BA%E5%86%85%E5%AF%BF%E4%B8%80 前掲
ことが知られていたであろうことから、この時点で、事実上、陸軍「名番」1位になったと言えるだろう。
首相時代の東條など、二重の意味で杉山の「指示」に服す存在でしかなかったはずなのだ。(注41)
(注41)まず、元帥は星四つだから、星三つの東條は、杉山が中央で身近にいる以上、その言うことを聞かざるをえない。
杉山は、それに加えて、「名番」でも事実上の1位だったのだから、陸軍に係ること・・当時は、概ね日本政府に係ることだった・・は、全て杉山が、事実上の最高意思決定者だった、と解すべきなのだ。
下掲の挿話を参照して欲しい。↓
「軍需次官になったのはいいけれど、<東條さんは>国務大臣を兼任しろという。それは商工大臣だった私<、岸信介、>をただの次官にしたのではかわいそうだからという意味だろう。しかし私はそういう東條さんの気持ちはよくわかったけれど、やはり次官を引き受ける以上は、国務大臣になることは遠慮したいと言ったのです。東條さんはどうしてかと聞くので、私はこう答えた。軍需次官としては大臣であるあなたの言う事を無理でも何でも聞かなければいけない。しかし国務大臣となると東條さんと同格だから、あなたの言うことでどうしても受け入れる事ができなくなる場合だって生じる。そういう矛盾した立場に置かれるのは困るので次官だけでいい、と。
そうしたら東條さんはうまいことを言った。いや、お前を優遇するために国務大臣を兼任させるのではない。俺は軍需大臣だけれど総理と兼務だから、忙しくて軍需省には行けない。ところが軍需省には軍人をたくさんまわすし、軍人というのは自分もそうだが、星の数で言うことをきいたり、きかなかったりするものだ。<我々は、>若い頃からそうやって育てられてきた人間だ。次官といえば星二つの中将格だけれど、大臣は星三つの大将だから、陸海軍からやってくる中将以下は皆お前の言うことをきく。だから俺の留守を取締まる君を国務大臣にするのだと。」
https://ameblo.jp/kouran3/entry-11960016137.html
杉山が東條の「上官」であったことは、東條内閣総辞職の頃の二人の得も言われぬ関係からも感知することができよう。↓
「杉山元<は、>・・・1944年(昭和19年)2月のトラック島空襲を機とした東條英機首相兼陸相の参謀総長兼任の際には、山田乙三教育総監とともに統帥権独立を盾として抵抗するが、昭和天皇と木戸幸一内大臣に対する宮中工作をすませた東條に屈して辞任。
⇒屈したのではなく、東條の懇願に敗けた、ということなのだろう。(太田)
しかし同年7月、サイパン失陥によって倒閣運動が勢いを増すと、東條は参謀総長を梅津美治郎に譲り内閣の延命を図る。杉山も山田に代り教育総監に回るが、結局東條は失脚。小磯國昭に組閣の大命が降下すると、小磯の陸軍への掣肘を抑えようとする梅津ら陸軍中枢の意向を受け、陸軍大臣に再任される。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E5%B1%B1%E5%85%83
「総辞職<へと追い詰められた>東條は次の内閣において、山下奉文を陸相に擬する動きがあったため、これに反発して、杉山元以外を不可と主張した。自ら陸相として残ろうと画策するも、参謀総長・梅津美治郎の反対でこれは実現せず、結局杉山を<陸軍大臣に>出すこととなったとされる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%A2%9D%E8%8B%B1%E6%A9%9F
⇒最終的に、やはり「上官」に座を譲った、ということ。(太田)
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[島津斉彬コンセンサス信奉者達の堕天使達]
◎柳川平助(1879~1945年)<旧肥前藩>
「1879年に長崎県西彼杵郡村松村(2007年現在・長崎市・・・)に生まれる。幼少時に佐賀県の柳川家に養子に出る。」陸士、陸大。
「1918年に北京陸軍大学校に教官として着任。国際連盟派遣、欧州駐在を経て荒木貞夫陸軍大臣の下で1932年に陸軍次官・・・
⇒柳川が島津斉彬コンセンサス信奉者だったからこそ、荒木が次官に据えたのだろう。(太田)
1936年の二・二六事件の後に予備役編入。
二・二六事件の頃、昭和天皇について「不適任なら、別の人に替えてもよい」と・・・語<っている。>・・・
⇒既に説明したところの、島津斉彬コンセンサス信奉者の天皇観に照らせば、かかる発言には何の不思議もない。
出来悪の一族の長は隠居させる、というだけのことだ。(太田)
1937年に第二次上海事変で中国国民党軍を押し切れない上海派遣軍支援のために、第10軍が編成され、再召集された柳川が司令官に任命されて現役に復帰した。杭州湾上陸作戦を成功させ、<国民党政府>軍の退路を脅かし、上海攻略に貢献する。更に参謀本部や上海派遣軍の意向を無視し独断で<国民党政府>軍を追撃、南京攻略戦へと発展させる。
1938年3月に中支那方面軍の再編成に伴い召集解除、帰還。1938年12月に設立された興亜院の初代総務長官。1940年に第2次近衛内閣で、司法大臣を務め、第3次近衛内閣では国務大臣に転じた。1945年病死。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B3%E5%B7%9D%E5%B9%B3%E5%8A%A9
「第十軍は、「蒋介石政権を屈服させる」という目的のために、「「イペリット」及焼夷弾ヲ以テスル爆撃ヲ約一週間連続的ニ実行シ南京市街ヲ廃墟タラシム」ことを真面目に作戦として提案している・・・
柳川兵団の進撃が早い のは、将兵の間に略奪強姦勝手次第という暗黙の了解があるからだ」
http://d.hatena.ne.jp/bluefox014/20060723/p1
「「わしは、ヒットラー総統のユダヤ人に対する政策と同じように、不逞鮮人をことごとく、どこかの島に隔離してみな去勢してしまった方がよいと思っている。そうすれば、不逞鮮人はいなくなるし、これからも出てこないだろう。これから、大東亜10億の民を統治して行かなければならない皇国日本が、たかだか二千万そこそこの朝鮮人をあまやかすことなんかないじゃないか。それで、わしはまず朝鮮人の思想犯を一人残らず去勢してしまうのが一番よいと思っている。ヒットラー総統は、すでにユダヤ人の去勢を実行しているそうではないか。優生学上からいっても、劣等民族は滅ぼされるべきもので、西では独伊の両民族、東ではわが大和民族が他民族を統治することは天の定め*でもあるんだよ。」(1941年6月、当時の司法大臣・柳川平助と記者団との会見)
http://renqing.cocolog-nifty.com/bookjunkie/2005/11/post_4b08.html
⇒柳川は、上原閥の一員とされているが、上原との接点は分からなかったし、皇道派の一員ともされているが、荒木らとの接点も・・大臣と次官の関係であった時を除き・・分からなかった。
いずれにせよ、柳川は、島津斉彬コンセンサス信奉者達の大堕天使、とも言うべき存在だ。
但し、咎められる前に亡くなったのも、彼の、一つの能力。(太田)
◎山下奉文(1885~1946年)<旧土佐藩>
「開業医である父・・・の次男として高知県に生まれる・・・妻は永山元彦陸軍少将・・・の長女・・・。永山少将が佐賀県の出身で、宇都宮太郎・真崎甚三郎・荒木貞夫へとつながる、いわゆる「佐賀の左肩党」の系譜に属したため、女婿である山下も皇道派として目されるようになった。1936年(昭和11年)2月に発生した二・二六事件では、皇道派の幹部として決起部隊に理解を示すような行動をとった。山下は決起部隊の一部の将校が所属していた歩兵第3連隊長を以前務めていて彼らと面識があり、同調者ではないかと周囲からは見られていた。このため、・・・<当時、>少将<で>・・・陸軍省軍事調査部長<であった>・・・山下<の自>宅の電話は事件前から逓信省と陸軍省軍務局(事件後は戒厳司令部)によって傍受・盗聴を受けている。
決起部隊が反乱軍と認定されることが不可避となった折に、山下の説得で青年将校は自決を覚悟した。このとき山下は陸軍大臣と侍従武官長を通じて、彼らの自決に立ち会う侍従武官の差遣を昭和天皇に願い出たが、これは昭和天皇の不興を買うことになった。この件に関して『昭和天皇独白録』には「本庄武官長が山下奉文の案を持ってきた。それによると、反乱軍の首領3人が自決するから検視の者を遣わされたいというのである。しかし、検視の使者を遣わすという事は、その行為に筋の通ったところがあり、これを礼遇する意味も含まれていると思う。赤穂義士の自決の場合に検視の使者を立てるという事は判ったやり方だが、背いた者に検視を出す事はできないから、この案を採り上げないで、討伐命令を出したのである」とある。また『木戸幸一日記』にも「自殺するなら勝手になすべく、このごときものに勅使なぞ、以ってのほかなり」とあり、青年将校を擁護する山下に対し、天皇や元老の評価は極めて低かった。事件収拾後、山下は軍から身を引く覚悟も固めたが、川島義之陸軍大臣が慰留につとめ、朝鮮・竜山の歩兵第40旅団長への転任という形で軍に残った。しかし、事件の影響で陸軍の主流派コースからはずれ、陸軍省や参謀本部・大本営のエリートポストにつくことはなかった。・・・
太平洋戦争(大東亜戦争)開戦を控えた1941年11月6日には第25軍司令官を拝命しマレー作戦(E作戦)を指揮。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E4%B8%8B%E5%A5%89%E6%96%87 ([]↓ないも)
「第25軍の山下奉文軍司令官は、河村少将に、軍の主力部隊を速やかに新作戦へ転用するため、シンガポールの治安を乱し、軍の作戦を妨げるおそれのある華僑「抗日分子」を掃討することを指示した。・・・<その結果、5,000人弱の華僑が、ほぼ無差別に殺害された。>・・・
第25軍の山下奉文司令官は、<米>軍のマニラ裁判で[、シンガポール華僑虐殺事件、マニラ大虐殺等の責任を問われ、]死刑が確定し、1946年2月に処刑されていたため、起訴されなかった。・・・
1947年4月2日、河村警備隊長と大石憲兵隊長の2人に絞首刑、他の5人に終身刑が宣告された。
・・・全員死刑とならなかった要因として、弁護人の1人<が>弁護側のアドバイザーとなったベイト大尉から「グッド・フライデー前に酌量減刑の嘆願をすれば宗教的に好影響がある」との助言を受け入れて実行した結果、好影響があったとしている。このほかにもベイト大尉は、英軍が・・・類似のゲリラ殲滅作戦を行った例を挙げたり、広島・長崎における原爆による一般民衆の被害状況を訴えて判決を有利に導いたとされる。
他方で中国系住民にとっては不満の多い判決とな<った。>」」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%AB%E8%8F%AF%E5%83%91%E7%B2%9B%E6%B8%85%E4%BA%8B%E4%BB%B6
⇒柳川には、支那人、朝鮮人に対する差別意識があったが、山下にはなかった点で、山下の場合は、島津斉彬コンセンサス信奉者達の小堕天使、といったところだが、明治維新の際の戊辰戦争の最中に、無辜の旧幕臣の小栗忠順(ただまさ)以下4名を斬首した、(彼らの上司が命じた可能性もあるが、)土佐藩士の、軍監豊永貫一郎、及び、原保太郎、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%A0%97%E5%BF%A0%E9%A0%86
https://blog.goo.ne.jp/kenmotsu7/e/52826ed51e432325a6b49cf4fa4cd99d
両名を想起させられる。(太田)
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[テロ・クーデタについて]
昭和維新期におけるテロ・クーデタ(未遂)は避けられない必要悪だった。
一つには、明治維新だって、下掲のような諸テロ・クーデタ抜きでは成し遂げられなかったからだ。
☆テロ
・安政7年3月3日(1860年3月24日)の桜田門外の変(大老井伊直弼を暗殺)。決行者は、水戸浪士17名と薩摩藩士1名。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%9C%E7%94%B0%E9%96%80%E5%A4%96%E3%81%AE%E5%A4%89
・文久2年1月15日(1862年2月13日)の坂下門外の変(老中安藤信正を負傷)。「信正老中暗殺には失敗したものの、桜田門外の変に続く幕閣の襲撃事件は幕府権威の失墜を加速した。この事件を契機として、信正は4月に老中を罷免され、8月には隠居・蟄居を命じられ、磐城平藩は2万石を減封された。」決行者は水戸浪士6人。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%82%E4%B8%8B%E9%96%80%E5%A4%96%E3%81%AE%E5%A4%89
☆クーデタ
・「八月十八日の政変とは、江戸時代末期(幕末)の文久3年8月18日(1863年9月30日)、穏健攘夷派である孝明天皇・中川宮朝彦親王および会津藩と開国派の薩摩藩が中心となり、急進・過激攘夷派である三条実美ら一部公家および長州藩の画策するクーデターを阻止し、京都から追放した反クーデターである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E6%9C%88%E5%8D%81%E5%85%AB%E6%97%A5%E3%81%AE%E6%94%BF%E5%A4%89
・「慶応3年12月9日(1868年1月3日)、<岩倉具視が首謀者となり、>朝議が終わり公家衆が退出した後、待機していた・・・薩摩・土佐・安芸・尾張・越前・・・5藩の兵が御所の九門を封鎖した。御所への立ち入りは藩兵が厳しく制限し、二条摂政や朝彦親王ら親幕府的な朝廷首脳も参内を禁止された。そうした中、赦免されたばかりの岩倉具視らが参内して「王政復古の大号令」を発し、新体制の樹立を決定、新たに置かれる三職の人事を定めた」王政復古の大号令(クーデタ)。
二つには、昭和戦前期の一連のテロ・クーデタ決行者達が、幕末期のテロ・クーデタ決行を間接的直接的に担った者達と同様、概ね、島津斉彬コンセンサス信奉者達だったからだ。
彼らの大願が成就して明治維新という形で日本の体制変革が成ったところ、今度は、彼らの大願が成就して、アジア解放という形で非欧米世界の体制変革が成ったこと、を我々は知っている。
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[先の大戦時の非陸軍選良達の安保音痴ぶり]
「近衞は1945年(昭和20年)2月14日に、昭和天皇に対して「近衛上奏文」を奏上した。近衞が天皇に拝謁したのは3年4ヶ月前の内閣総辞職後初めてであった。この上奏文は、国体護持のための早期和平を主張するとともに和平推進を天皇に対し徹底して説いている。また陸軍は主流派である統制派を中心に共産主義革命を目指しており、日本の戦争突入や戦局悪化は、ソビエトなど国際共産主義勢力と結託した陸軍による、日本共産化の陰謀であるとする反共主義に基づく陰謀論<・・以下、「妄想的陰謀論」という(太田)・・>も主張している。近衛上奏文の作文には<外務官僚の>吉田茂と<大蔵官僚の>殖田俊吉が関与しており、両者はこの近衛上奏からまもなくして、陸軍憲兵隊に逮捕拘束された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E6%96%87%E9%BA%BF 上掲
⇒いずれも武の素養が皆無であるところの、島津斉彬コンセンサス信奉者のメッキが剥がれた、近衛、同コンセンサスと無縁の吉田茂、そして殖田俊吉、というトンデモ・コンビが、こんな「妄想的陰謀論」を信じ込むに至っていたことに慄然たる思いがする。(太田)
「海軍には支那事変の勃発以前から陸軍統制派アカ論が存在した。海軍大将の山本英輔<(注42)>は、斉藤実内府に送るの書(昭和10年12月29日)の中で、政府が一向に荒木、真崎の陸軍皇道派の要望に応えない為に、革新将校が「意気地がなく手緩い、最早上官頼むに足らず、統制派の方がマシだ」といい、我が国体に鑑み皇軍の本質と名誉を傷つけることなきを立て前とし、大元帥陛下の御命令にあらざれば動かないと主張する皇道派を見限り、統制派の勢力が拡大しつつあることを指摘し、「始めは将官級の力を藉りて其目的を達せんと試みしも容易に解決されず、終に最後の手段に訴えて迄もと考える方の系統がファッショ気分となり、之に民間右翼、左翼の諸団体、政治家、露国の魔手、赤化運動が之に乗じて利用せんとする策動となり、之が所謂統制派となりしものにて、表面は大変美化され居るも、其終局の目的は社会主義にして、昨年陸軍のパンフレットは其の真意を露わすものなり。林前陸相、永田軍務局長等は之を知りてなせしか知らずして乗ぜられて居りしか知らざれども、其最終の目的点に達すれば資本家を討伐し、凡てを国家的に統制せんとするものにて、ソ連邦の如き結果となるものなり」と警告を発していた(木戸幸一関係文書257~258頁)。 ・・・
(注42)1876~1962年。「最終階級は海軍大将。鹿児島県出身。山本権兵衛元内閣総理大臣の甥(権兵衛の兄吉蔵の息子)・・・慶應義塾幼稚舎、攻玉社を経て、海軍兵学校第24期、海軍大学校第5期卒業。・・・
軍令部参謀であった1909年(明治42年)には、上司の山屋他人軍令部第二班長に「飛行器」の研究・採用を主張する意見書を提出しており、日本海軍で航空戦力の将来性に注目した最初の人物である。
山本はドイツ駐在武官や海軍大学校校長、練習艦隊司令官等を経て、1927年(昭和2年)に新設された海軍航空本部の初代本部長に就任した。その後は横須賀鎮守府司令長官や連合艦隊司令長官といった要職を歴任している。
政治的にはロンドン海軍軍縮条約に反対しており、いわゆる艦隊派に属していた。また、陸軍皇道派の活動に理解を示して<おり、>・・・海軍は二・二六事件に強硬な態度を取り、軍事参議官会議で、末次信正、中村、小林は海軍兵力による武力討伐に賛成したが、山本は反対であった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%9C%AC%E8%8B%B1%E8%BC%94
⇒薩摩藩出身者ですらこの体たらくなのだから、海軍上層部の大部分は、先の大戦当時までに、非軍事官僚達並みとまでは言わないけれど、「武」に疎く、かつまた、島津斉彬コンセンサスともいつしか無縁の存在に成り下がってしまっていた、と解してよさそうだ。(太田)
「昭和18・・・年3月18日、近衛は、小林躋造<(注43)>海軍大将を荻外荘に招いた。
(注43)せいぞう。1877~1962年。「旧安芸広島藩浅野家家臣・・・の三男。・・・福山誠之館中学、修道学校(現修道中学校・修道高等学校)、旧制私立海軍予備校を経て海軍兵学校第26期入校。・・・条約派・・・最終階級は海軍大将。海軍次官、連合艦隊司令長官、台湾総督、翼賛政治会総裁、小磯内閣の国務大臣などを歴任した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%9E%97%E8%BA%8B%E9%80%A0
当時日独の攻勢作戦が限界に達して崩壊へ向かい始め、それに伴い東條内閣に対する信頼感が減退し、一部識者の間では、東條英機首相の更迭の必要性が囁かれる中、吉田茂と共に早期講和を画策していた小林大将は、次期首班候補の一人として浮上していた。
⇒山本は艦隊派、要するに省益追求派、小林は条約派、要するに良識派、であるわけだが、どちらも、「武」に疎かったために、陸軍理解が浅薄であったからこそ、小林は、同じ生き物であった吉田茂とウマがあった、ということだろう。
職掌からしても、海軍の上層部は、非軍事省庁の技官達と意識は殆ど同じになっていたのではなかろうか。(太田)
近衛は、会談劈頭に陸軍中堅層が抱懐するという以下の『国家革新の陰謀』を打ち明け、小林大将に、後継首班を引き受け「赤に魅せられた」陸軍の革新派を速やかに粛清することを要請したのである。
<「・・・>陸軍の赤に魅せられた連中は、政府や軍首脳部の指示を無視し、無暗に戦線を拡大し英、米との衝突をも憚らず遂に大東亜戦争にまで追い込んで仕舞った。しかも其の目的は戦争遂行上の必要に藉口し、我が国の国風、旧慣を破壊し、革新を具現せんとするのである。此の一派の率いる陸軍に庶政を牛耳られては国家の前途深憂に堪えない。
翻って所謂革新派の中核となってる陸軍の連中を調べて見ると、所謂統制派に属する者が多く荒木、真崎等の皇道派の連中は手荒い所はあるが所謂皇道派で国体の破壊等は考えて居らず又其の云う所が終始一貫してる。之に反し統制派は目的の為に手段を選ばず、しかも次々に後継者を養っている。速かに之を粛清しないと国家危うしである。 <」、と。>
小林大将は、自分の微力は総理の任にあらざる旨を答えたが、かねてより岡田啓介<(注44)>海軍大将から陸軍内に斯くの如き恐るべき動きのある事を薄々聞いており、近衛から改めて「陸軍統制派アカ論」を聞かされ、とにかく早く戦争を止めねばならないと痛感したのであった。
(注44)1868~1952年。「福井藩士・・・の長男として生まれる。・・・旧制福井中学(のち藤島高校)を卒業。翌年1月に上京し、一時上級学校進学のために須田学舎や共立学校(のち開成高校)などの受験予備校に在籍したが、学資の援助を受けていたことを心苦しく感じ、学費が掛からないところとして師範学校系か陸海軍系学校の受験を決意、陸軍士官学校受験に志望変更した。受験に必須であったドイツ語を学ぶため、当時陸士の予備校であった陸軍有斐学校に入学したが、遠縁の海軍士官に勧められ海軍兵学校に入校した。 ・・・
1923年(大正12年)に海軍次官、1924年(大正13年)に連合艦隊司令長官、1927年(昭和2年)に海軍大臣となり、1932年(昭和7年)に再び海軍大臣に就任。その間、軍事参議官としてロンドン海軍軍縮会議を迎え、「軍拡による米英との戦争は避け、国力の充実に努めるべし」という信念に基づき海軍部内の取りまとめに奔走。条約締結を実現した。
1934年(昭和9年)、元老・西園寺公望の奏請により組閣の大命降下、内閣総理大臣となる。・・・
二・二六事件<の後、>・・・1936年(昭和11年)3月9日、岡田内閣は総辞職した。
その後の岡田は、二・二六事件の痛手から立ち直り、自国の破滅を意味する<米国>との戦争を避けるために当時、生存していた海軍軍人では最長老となる自分の立場を使い、海軍の後輩たちを動かそうとしたが、皇族軍人である伏見宮博恭王の威光もあって思うように行かなかった。1940年(昭和15年)以降は重臣会議のメンバーとして首相奏薦に当たっている。
開戦後の岡田は軍令部作戦課員の長男・貞外茂、大蔵省総務局長で女婿の迫水久常、参謀本部作戦課員で<義弟で二・二六事件時に岡田の身代わりになって殺害された>松尾伝蔵<陸軍大佐>の女婿の瀬島龍三と連絡を保ち、他の重臣に比して戦況の推移の情報を常に得ていた。1943年(昭和18年)の正月には、ミッドウェーの敗退とガダルカナルの戦いの消耗戦での兵力のすり潰しで最早太平洋戦争に勝ち目はないと見て、和平派の重臣たちと連絡を取り、当時の東條内閣打倒の運動を行う。若槻禮次郎、近衛文麿、米内光政、またかつては政治的に対立していた平沼騏一郎といった重臣達が岡田を中心に反東條で提携しはじめる。
東條内閣倒閣の流れはマリアナ沖海戦の大敗により決定的となった。岡田は不評だった海軍大臣・嶋田繁太郎の責任を追及、その辞任を要求、東條内閣の切り崩しを狙う。東條英機は岡田を首相官邸に呼び出し、内閣批判を自重するように要求したが岡田は激しく反論し、東條は逮捕拘禁も辞さないという態度に出たが、岡田はびくともしなかった。岡田は宮中や閣内にも倒閣工作を展開、まもなくサイパンも陥落し、東條内閣は総辞職を余儀なくされた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E7%94%B0%E5%95%93%E4%BB%8B
瀬島龍三(1911~2007年)。「富山県西砺波郡松沢村鷲島(現在の小矢部市鷲島)の農家で村長の瀬島龍太郎の三男として生まれた。
旧制富山県立砺波中学校、陸軍幼年学校を経て、1932年に陸軍士官学校(第44期)を次席(首席は原四郎)で卒業・・・1938年12月8日に陸軍大学校(第51期)を首席で卒業・・・
平成19年5月30日、同台経済懇話会会長として瀬島龍三は安倍首相に提出した提案書のなかで美しい国づくりの大テーマとして近未来を見据えた地球温暖化対策、クリーンエネルギーの増加、豊かな良い水を護ることを提案した。 」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%80%AC%E5%B3%B6%E9%BE%8D%E4%B8%89
⇒瀬島についてだが、安倍晋三に期待した、という一点だけとっても、彼が単なる勉強秀才であったことがバレバレだ。
よって、彼が戦時中に岡田に流した情報など、上司トップの杉山らの真意の片鱗すら伝え得たものではなかった、と思ってよさそうだ。
もっとも、岡田自身、「妄想的陰謀論」に汚染されていたようだから、仮に杉山らの真意を聞かされていたとしても、理解できなかった可能性が大だが・・。(太田)
同年4月、中野正剛<(注45)>と共に東條首相を批判していた三田村武夫<(注46)>代議士が荻外荘を訪問し近衛と会談した。
(注45)「1940年(昭和15年)、大政翼賛会総務に就任。1941年(昭和16年)に太平洋戦争(大東亜戦争)開戦時、東方会本部で万歳三唱するが長期化する戦局に懸念を抱くようになる。
首相・東條英機が独裁色を強めるとこれに激しく反発するようになる。1942年(昭和17年)に大政翼賛会を権力強化に反対するために脱会している。同年の翼賛選挙に際しても、自ら非推薦候補を選び、東条首相に反抗した。東方会は候補者46人中、当選者は中野のほか、本領信治郎(早大教授)、三田村武夫たち7人だけであった。それでも翼賛政治会に入ることを頑強に拒み、最終的には星野直樹の説得でようやく政治会に入ることを了承した。・・・
議会での反東條の運動に限界を感じた中野は近衛文麿や岡田啓介たち「重臣グループ」と連携をとり、松前重義や三田村武夫らと共に東條内閣の打倒に動きはじめた(松前はこのため報復の懲罰召集を受けてしまう)。こうして中野を中心にして、重臣会議の場に東條を呼び出し、戦局不利を理由に東條を退陣させて宇垣一成を後任首相に立てようとする計画が進行し宇垣の了解も取り付け、東條を重臣会議に呼び出すところまで計画が進行したが、この重臣会議は一部の重臣が腰砕けになってしまい失敗に終わる。
そののち、中野は東久邇宮稔彦王を首班とする内閣の誕生を画策する戦術に切替えたが、東條の側の打つ手は中野の予想以上に早く、まず1943年(昭和18年)9月6日、三田村武夫が警視庁特高部に身柄拘束される(中野正剛事件)。警視庁は10月21日に東方同志会(東方会が改称)他3団体の幹部百数十名をが身柄拘束される中で中野も拘束された。東條は大いに溜飲を下げたが、この中野の身柄拘束は強引すぎるものとして世評の反発を買うことになった。結局、中野は10月25日に釈放される。その後、東條の直接指令を受けた憲兵隊によって自宅監視状態におかれ、その後の議会欠席を約束させられたという説がある・・・。
そして同年10月27日自宅1階の書斎で割腹自決」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E9%87%8E%E6%AD%A3%E5%89%9B
(注46)三田村武夫(1899~1964年)は、「岐阜県<生まれ。>・・・内務省警察講習所〔昭和2年〕卒
経歴内務省警保局、拓務省管理局に勤めたが、中野正剛に師事、退職して東方会に入り組織部長。戦前衆院議員に[1937年4月から]2度当選。中野没後、独立自由連盟を組織、昭和30年衆院議員に当選、のち日本民主党組織局長、自民党組織総局長、政調会選挙調査会副会長、衆院法務委員長などを歴任した。」
https://kotobank.jp/word/%E4%B8%89%E7%94%B0%E6%9D%91%20%E6%AD%A6%E5%A4%AB-1655893
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E7%94%B0%E6%9D%91%E6%AD%A6%E5%A4%AB ([]内)
⇒ばりばりの島津斉彬コンセンサス信奉者だったはずの中野正剛が、三田村武夫の影響で、「妄想的陰謀論」信奉者に堕してしまった、といったところだろうか。(太田)
三田村は1928年(昭和3年)6月から内務省警保局、拓務省管理局に勤務し、左翼運動の取締に従事しながら国際共産主義運動の調査研究に没頭した後、衆議院代議士となり、第七十六回帝国議会衆議院の国防保安法案委員会(昭和16年2月3日)では、日本の上層部が戦時防諜体制の大きな抜け穴になっていることを問題視して近衛首相を叱咤し、世間から危険視されても国家の為に徹底的に、第三国の思想謀略、経済謀略、外交謀略、政治謀略、中でも最も恐ろしい、無意識中に乃至は第三者の謀略の線に踊らされた意識せざる諜報行為に対する警戒と取締を強化するように政府(第二次近衛内閣)に要求していた。
荻外荘の近衛を訪問した三田村は、戦局と政局の諸問題について率直な意見を述べ、「この戦争は必ず敗ける。そして敗戦の次に来るものは共産主義革命だ。日本をこんな状態に追い込んできた公爵の責任は重大だ!」と近衛を詰問したところ、近衛は珍しくしみじみとした調子で、第一次第二次近衛内閣当時のことを回想し、「なにもかも自分の考えていたことと逆な結果になってしまった。ことここに至って静かに考えてみると、何者か眼に見えない力に操られていたような気がする-」と述懐した。・・・
⇒三田村の「妄想的陰謀論」に、恐らく、もともと吉田も、そして近衛も、更には、戦後になってからだが岸も、コロリと騙された、ということ。
(こうなると、安倍晋太郎と違って岸は、統一教会信者にはなっていない(コラム#省略)、と言い切る自信が、私にはなくなってきた。)
この3人に共通するのは、当時(も今も)文系最高峰の東大ないし京大の法学部卒という点だが、共通しているところの、非「武」感覚と非科学的思考に、維新後の教育制度の欠陥が露呈している、と思う。(太田)
・・・岸信介は戦争と共産主義-昭和政治秘録を読み、次のように遺言した。 「知友のラジオ日本社長、遠山景久君が、某日、『岸先生、大変な本を見付けました。是非第一読下さい』と持参されたのが、この三田村武夫氏の著書であった。読む程に、私は、思わず、ウーンと唸ること屡々であった。支那事変を長期化させ、日支和平の芽をつぶし、日本をして対ソ戦略から、対米英仏蘭の南進戦略に転換させて、遂に大東亜戦争を引き起こさせた張本人は、ソ連のスターリンが指導するコミンテルンであり、日本国内で巧妙にこれを誘導したのが、共産主義者、尾崎秀実であった、ということが、実に赤裸々に描写されているではないか。近衛文麿、東条英機の両首相をはじめ、この私まで含めて、支那事変から大東亜戦争を指導した我々は、言うなれば、スターリンと尾崎に踊らされた操り人形だったということになる(中略)。 この本を読めば、共産主義が如何に右翼、軍部を自家薬籠中のものにしたかがよく判る。何故それが出来たのか、誰しも疑問に思うところであろう。然し、考えてみれば、本来この両者(右翼と左翼)、共に全体主義であり、一党独裁・計画経済を基本としている点では同類である。当時、戦争遂行のために軍部がとった政治は、まさに一党独裁(翼賛政治)、計画経済(国家総動員法→生産統制と配給制)であり、驚くべき程、今日のソ連体制と類似している。ここに、先述の疑問を解く鍵があるように思われる。 国際共産主義の目的は、この著書でも指摘しているように、大東亜戦争の終結以降は筋書どおりにはいかず、日本の共産化は実らなかったものの、国際共産主義の世界赤化戦略だけは、戦前から今日まで一貫して、間断なく続いていることを知らなければならない。往年のラストボロフ事件、又、最近のレフチェンコ事件などは、ほんの氷山の一角にすぎないのであろう。これを食い止めるには、自由主義体制を執るすべての国家が連帯して、自由と民主主義をがっちりと守り、敵の一党独裁・計画経済に対するに、複数政党・市場経済の社会を死守することである。 私は、私自身の反省を込めて、以上のことを強調したい。また、このショッキングな本が、もっともっと多くの人々に読まれることを心から望む次第である。」」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E4%B8%8A%E5%A5%8F%E6%96%87
⇒陸軍以外の「選良」達の「武」意識がここまで低いと、彼らに説明しても到底理解を得られまいと達観し、とりわけ、「妄想的陰謀論」の猖獗もこれあり、陸軍上層部が、中国共産党との「提携」を、彼らにとっての部外者達にも、更には(直接の担当者達を除く)部下達にすら秘匿し抜いたのは、当然だったのではなかろうか。
蛇足ながら、近衛の言う「何者か眼に見えない力」、岸の言う「支那事変を長期化させ、日支和平の芽をつぶし、日本をして対ソ戦略から、対米英仏蘭の南進戦略に転換させて、遂に大東亜戦争を引き起こさせた張本人」(注47)は、島津斉彬コンセンサスであるわけだが、彼らには歴史の素養もまた碌になかったこと、が露呈してしまっている。(太田)
(注47)「<法学部時代>の岸は社会主義に関心を寄せてカール・マルクスの資本論やフリードリヒ・エンゲルスとの往復書簡などを読んだものの、国粋主義的な北一輝と大川周明の思想の方に魅了され、上海で大川に説得されて帰国していた牛込の北を訪ねている。後の満州国への関与などに対する大川の影響を岸は認めており、北も「大学時代に私に最も深い印象を与えた一人」として「おそらくは、のちに輩出した右翼の連中とはその人物識見においてとうてい同日に論じることはできない」と岸は語っている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%B8%E4%BF%A1%E4%BB%8B
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[現在の最大公約数的帝国陸軍観]
「明治から大正にかけて日本陸軍幹部は、長州人によって形成されていた。
当時、陸軍の実権を握っていた山県有朋、桂太郎、寺内正毅、田中義一らは、ことごとく長州出身者だった。実力がなくても、この系列につながっていれば部内で出世できたのである。
⇒山縣は隠れ薩摩人だったし、「田中<義一>を<陸軍>大臣にしてやった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E5%8E%9F%E5%8B%87%E4%BD%9C
ところの、大有力者たる、薩摩人、上原勇作に言及がないのもおかしい。
とにかく、縷々説明してきたように、大正に至るまで、陸軍を長州閥が牛耳っていたかのような叙述は間違いだし、「実力がなくても、この系列につながっていれば部内で出世できた」ようでは、日清、日露、第一次世界大戦での勝利などありえなかったことだろう。(太田)
大正の末期頃から、軍の内部に反長州閥グループが生まれてくる。
このグループは、長州閥の追い落としに成功した昭和初め頃から、二派に分裂するようになり、永田鉄山、岡村寧、東条英機など「統制派」と呼ばれるグループと、真崎甚三郎、山下奉文らの「皇道派」と呼ばれるグループに別れる。が、これ以外に両派のいずれにも属さないグループがあった・・・。
⇒これも縷々説明してきたところだが、そんな2グループも、従ってその2グループ間の抗争もなかったわけだ。(太田)
長州閥が退潮してから日本陸軍を動かすようになったのは、陸軍大学を卒業したエリート軍人達だった。難関の陸軍大学に合格するメンバーには、陸軍幼年学校出身者と旧制中学出身者があり、前者が多数を占めていた。陸軍大学合格者の9割までが幼年学校出身だったといわれる。
幼年学校は陸軍だけにあった制度で(海軍には海軍兵学校─海軍大学というコースしかなかった)、中学校1,2年修了者から選抜し入学させる学校だった。この学校の生徒は2~3年後に陸軍士官学校に進むが、陸軍士官学校へは中学校4,5年生も試験を受けて入学してきていたから、士官学校生徒には幼年学校出身者と中学校出身者という二種類の生徒がいた。士官学校生徒の圧倒的多数は、中学校出身者だったにもかかわらず、彼らはほとんど陸軍大学に入学できなかったのだ。
陸軍大学の卒業生は、軍政の中枢部に座り、参謀本部に入って軍の方針を決めた。だから、日本軍部を動かしていたのは陸軍幼年学校の出身者だったということになる。長州閥消滅後に台頭した「統制派」「皇道派」の主要メンバーも、幼年学校出身者達だった。
そこで・・・、次のよう<な>・・・状況が出現した・・・。
<昭和になって明治以来の藩閥は解消され・・・たが、今度は幼年学校出身でなければ、なかなか陸大に合格できないし、たとえ陸大を出ても主流になれないという新たな弊害が現出した・・・>
・・・栗林忠道、今村均、本間雅晴ら<は、>統制派にも皇道派にも属さなかった第三の良識派グループ<だ>。
彼らの共通点は、陸軍幼年学校の出身ではないことだった。栗林は長野中学、今村は新発田中学、本間は佐渡中学の出身で、彼らはそれぞれ士官学校に入る前に新聞記者を志望したかと思えば、将軍になってから「文人将軍」と呼ばれたりするというような経歴の持ち主だったのだ。
幼年学校に入学した生徒達が、頭のいい秀才揃いだったことに疑いはない。
⇒戦前の日本で最も頭のいい生徒達だった、と岩畔豪雄が指摘している(コラム#9918)ところだ。(太田)
だが、彼らは広い世界を知る以前に、軍エリート養成の学校に入り、豊かな教養をはぐくむチャンスを失ってしまった。彼らの頭は陸軍大学に入学後も、陸軍部内の派閥抗争やら、戦史の研究・図上作戦の駆け引きなどで一杯になり、世界に通用するような見識やナマの現実を分析する能力を育てる余裕がなかった。・・・
⇒話はその真逆だった、と私は指摘しているわけだ。(太田)
日本陸軍の中枢が利口馬鹿の集まりになり、太平洋戦争のさなかに勝手気ままで乱雑な作戦を展開したのは、実は、軍が天皇に直属する閉鎖的な世界だったためだ。明治憲法では、軍を統帥する権利が天皇大権に属し、軍は他のいかなる勢力も口出しできない聖域にされていた。
政党が議会で軍の行動や作戦を批判したりすると、軍関係者は、「統帥権の干犯」を言い立てて口を封じてしまった。日本軍部は天皇大権の陰に隠れ、何をやっても許されるという環境を作り上げ、その中で「乱雑さ、無秩序の度合い」を加速度化していったのである。禍根は天皇大権にあったのである。」
http://www.ne.jp/asahi/kaze/kaze/tuika26.html
⇒ここも真逆であり、「勝手気ままで乱雑な作戦を展開した」どころか、与えられた資源をとことん駆使した、「最も創造的で秩序ある作戦を展開した」からこそ、戦争目的を概ね達成できたのだ。(太田)
以上は、「文藝春秋2007年6月号「対談『昭和の陸軍 日本型組織の失敗』・・半藤一利(昭和史研究家・作家)、保坂正康(ノンフィクション作家)、福田和也(文藝評論家・慶應義塾大学教授)、戸部良一(防衛大学校教授)、黒野耐(元陸将補・武蔵野学院大学講師)の5氏による51頁におよぶ(94~144ページ)対談の記録」より。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~osame/omoukoto/212wa-bunnshunn-shouwanorikugunn/212wa-bunnshunn-souwa-no-rikugunn.htm
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6 終わりの終わりに
本日の話は、点だけであり、線になっていないではないか、と言われれば返す言葉もありませんが、それはさておき、その大部分の点を結ぶのが杉山元だ、ということを私が言いたいことは、伝わったのではないか、と思います。
大げさに言えば、日本の戦前昭和史・・これ、どうやら、戦前世界史、と言い換えられそうなのですが・・は、杉山の杉山による杉山のための歴史だった、といった趣の話になった感があります。
でも、そんなの、あなたが最も嫌う陰謀論じゃないの、と批判される方もおられるかもしれません。(注48)
(注48)前回の「講演」原稿で示唆したように、明治維新同様、昭和維新も、島津斉彬が作り上げたプログラムが実行されただけであるという意味では、斉彬による陰謀だ、という言い方もできないわけではないかもしれないが、1858年に鬼籍に入っている人物を、明治維新の方はまだしも、昭和維新の陰謀の首謀者であると言うのは、いささか無理がある。
いや、そちらを思い出すのではなく、歴史は、この時代の日本だけではなく、基本的に、選良から大衆に至る大勢の人達が共同で動かしていくだけに、これらの人々を動かすものは単純な原理である場合が大部分だ、とかねてから私が力説していることを思い出していただきたいのであり、戦前昭和史の場合、それが、島津斉彬コンセンサスであって、その、当時における主たるトレーガーが杉山であった、というのが、私の主張であるわけです。
杉山自身が、東條以上に、一切何も語らないまま自裁してしまった以上、我々には、残された、一次、二次史実群しかないわけですが、そういう制約下で、しかも、限られた時間の中で、私としては、かかる主張について、それなりのもっともらしさを醸し出せた、と、自分で勝手に思っています。
仮に「醸し出せた」としても、そもそも、太田の、そんな夜郎自大的な自信はどこからきているのだ、と、今度は言われそうですね。
一応のお答えとしては、これまで、戦前昭和史・・江戸時代以降の日本の近代史、と言い換えたいところです・・を論じてこられたところの、(当事者ならぬ)大部分の第三者たる人々とは違って、私は、官僚であったこと、しかも、「軍事」官庁の官僚であったこと、から、軍人が主導した戦前昭和史・・武士達ないしその後継者達が主導した江戸時代以降少なくとも終戦までの日本の近代史、とここでも言い換えたいところです・・にユニークな土地勘があった、というあたりでしょうかね。
もとより、これに加えて、子供の時からの度重なる海外滞在・訪問歴、それに、(その大部分において日本国民の税金のお世話になったところの)「雑多な」・・しかし、「浅ーい」・・学歴群、も、与っている部分がある、といったことでしょうか。
とまれ、この第1部に限りませんが、事実の誤りの指摘、疑問反論等のご意見、等、をお寄せいただければ幸いです。
第2部 江戸時代の選良教育–その負の遺産(その1)
1 幕末公教育の転換
(1)始めに
以下のようなコラムを紹介したことがあります。
「東大が’04年に独立行政法人になって以来、国からの補助金は削られ続けている。附属病院を抱え、カネを稼ぐことのできる医学部の教授がどんどん発言権を強めています。・・・
法学部と工学部が、医学部が強くなりすぎないよう牽制をしている・・・
工学部は、・・・企業からカネを引っ張って来られる。・・・圧倒的な人数を抱えているのも強い・・・
法学部は歴史が古く、権威がある。東大は『赤門』と『正門』の2つの門がありますが、赤門の前に医学部が控え、正門の前には法学部がある。法学部には、医学部とともに東大を引っ張ってきたという自負がある・・・」(コラム#9718)
これは、必ずしも正しくないのであって、「医」・「工」・「法」は、かねてから東大の中心でした。
その中でも、「医」こそ、東大の原点の原点なのである、というお話から始めようと思います。
(2)蘭学
「18世紀後半から蘭学が急速に広まってきたが、同時にその思想的影響が幕藩体制に対する悪影響を与えることを危惧する意見も高まった。そのため、江戸幕府は蘭学の自由な研究を抑圧するために翻訳出版の規制を行うとともに、幕府が蘭学知識を独占的に掌握して幕府に都合の良い物だけを利用していく路線を追求するようになった。その萌芽は文政4年(1821年)の出版取締令に見られるが、それが本格化していくのはシーボルト事件<(注1)>・蛮社の獄<(注2)>を経た後のことである。
(注1)「シーボルト事件は、江戸時代後期の1828年にフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトが国禁である日本地図などを日本国外に持ち出そうとして発覚した事件。役人や門人らが多数処刑された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%9C%E3%83%AB%E3%83%88%E4%BA%8B%E4%BB%B6
(注2)「蛮社の獄は、天保10年(1839年)5月に起きた言論弾圧事件である。高野長英、渡辺崋山などが、モリソン号事件と江戸幕府の鎖国政策を批判したため、捕らえられて獄に繋がれるなど罰を受けた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9B%AE%E7%A4%BE%E3%81%AE%E7%8D%84
「<長英は、脱獄後、一時、>伊予宇和島藩主伊達宗城に庇護され、宗城の下で兵法書など蘭学書の翻訳や、宇和島藩の兵備の洋式化に従事した。主な半翻訳本に砲家必読11冊がある。このとき彼が築いた久良砲台(愛南町久良)は、当時としては最高の技術を結集したものとされる。・・・
勝海舟 「高野長英は有識の士だ。その自殺する一ヶ月ばかり前に横谷宗與の照会で、夜中におれの家へ尋ねて来て、大いに時事を談論して、さて帰り際になって、おれに言うには、拙者は只今潜匿の身だから、別に進呈すべき物もないけれど、これはほんの志ばかりだといって、自分が謄寫した徂徠の『軍法不審』を出してくれた」」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E9%87%8E%E9%95%B7%E8%8B%B1
⇒前段は、高野が、宇和島藩で活躍したことや、江戸から宇和島まで、宇和島藩の庇護の下に「移送」されたことを想像させること、から、少なくとも外様藩の一部には幕府の権威を無視するむきがあったことを物語っており、後段は、幕府内でさえ、当局の権威を無視するむきがあったことを物語っています。
前段は、幕藩体制が事実上各藩連合体制に近かったことの反映と言える余地があるが、後段は、幕府瓦解の前兆と言うべきでしょうね。(太田)
天保10年(1839年)7月、天文方見習渋川敬直が蘭学取締の意見書を老中水野忠邦に提出したのをきっかけに翌年5月幕府は天文方に対し蘭書翻訳を妄りに外部に流布することを禁じ、また町奉行に命じて江戸市中の看板に横文字を用いているものを取締らせた。天保13年(1842年)6月に蘭書の翻訳出版を町奉行の許可制としたが、弘化2年(1845年)7月に許可の権限を天文方に移した。当時の天文方渋川景佑は敬直の実父で、敬直自身は書物奉行も兼務していたことから、蘭書の翻訳出版は実質上の天文方の掌握のもとに置かれた。ところが同年に天保の改革失敗の影響で渋川敬直が配流されると、一旦はこの流れは沈静化した。
ところが嘉永2年(1849年)に漢方医と蘭方医の対立が深刻化すると、漢方医側の政治工作もあり、徹底的な取締が開始されることとなる。まず同年3月に幕府医師の蘭方使用が禁じられるとともに全ての医学書は漢方医が掌握していた医学館の許可を得ることとなった。更に翌嘉永3年(1850年)9月には、蘭書の輸入は長崎奉行に許可制となり、諸藩に対して海防関係書を翻訳中の藩は老中に書名を届出、1部を天文方に提出するものとした。この一連の蘭書翻訳取締令によって蘭学に関する出版は困難となり、蘭学の自由な研究は制約されることとなった。
こうした流れの中で、天保12年(1841年)には高良斎の『駆梅要方』が、嘉永3年(1850年)には佐久間象山の『増訂荷蘭語彙』が出版禁止・不許可とされている。
⇒事実上親藩化していた外様藩の、それぞれ、医者、武士であったところの、高良は大阪で、佐久間は主として江戸で、つまり、幕府の直轄地で活動していた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E8%89%AF%E6%96%8E
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E4%B9%85%E9%96%93%E8%B1%A1%E5%B1%B1
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E4%B9%85%E9%96%93%E8%B1%A1%E5%B1%B1
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%94%B0%E5%B9%B8%E8%B2%AB
2人であることから、こういう目に遭うことになったけれど、各藩にとどまっていた、とりわけ諸外様藩、の領内にとどまっていた蘭学者達は、相対的に自由であったと想像されます。
蘭学弾圧は、幕府が、最先端の知の追求を放棄したことを意味し、自分で自分の首を絞めた愚行だったと言えるでしょう。(太田)
開国後の安政3年(1856年)6月、新刻の蕃書・翻訳書は新設の蕃書調所に提出して検閲を受けることとし、一般の翻訳書は書目年次を届出て、翻訳が完成したものは蕃書調所に1部提出することとされた。ところが安政5年(1858年)7月に幕府医師の和蘭兼学を認める決定を行い、伊東玄朴・戸塚静海が幕府奧医師に登用された。続いて、安政の五ヶ国条約に従って外国貿易が本格化すると、蘭書を始めとする洋書の輸入が長崎以外の港でも行われるようになり、輸入許可制がなし崩しに崩されていった。こうした中で万延元年(1860年)閏3月、暦書は従来通り天文方に、世界図・蕃書翻訳・蘭方医書は蕃書調所に草稿を提出するように命じられた。だが、輸入・流通に対する規制が不可能になった状況下において、一連の取締令は全く効果をなさないものとなっていった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%98%AD%E6%9B%B8%E7%BF%BB%E8%A8%B3%E5%8F%96%E7%B7%A0%E4%BB%A4
(3)西洋医学所
そんな幕府の蘭学観の変化を象徴しているのが、西洋医学所の設置です。↓
「江戸幕府が西洋医学を導入して教授させた医学校。安政5 (1858) 年5月7日,幕府の許可により伊東玄朴,大槻俊斎など江戸の蘭方医八十余名が協力してお玉ヶ池に種痘所を開き,種痘のほか,診療にもあたった。しかし,同年 11月に火災で焼失し,[種痘施行は一時、伊東玄朴と大槻俊斎の宅で続けられ、]翌年,下谷和泉橋に移転。万延1 (60) 年幕府はこれを収めて直轄の官学とし,種痘所と名づけ,大槻を長とした。翌年西洋医学所と改称し,教授,解剖,種痘の3科に分け,文久2(62) 年伊東と林洞海に取締りを命じ,次いで竹内玄同が伊東に代った。この年,大槻が死亡し,大坂から緒方洪庵を招いて,西洋医学所頭取とした。同3年西洋の文字を除いて単に医学所と称し,緒方の死後は,松本良順が頭取となり,学制を改め,理化学,解剖学,生理学,病理学,薬剤学,内科,外科の医学7科を定めた。明治1 (68) 年,新政府の所轄となり,翌年,大学東校と改称。幾多の変遷を経て 1878年,蕃書調所の後身,開成所と合体,東京大学医学部となった。」
https://kotobank.jp/word/%E8%A5%BF%E6%B4%8B%E5%8C%BB%E5%AD%A6%E6%89%80-86554
https://kotobank.jp/word/%E5%8C%BB%E5%AD%A6%E6%89%80-430897 ([]内
「文久1年1月(1861年11月)に設立された幕府直轄の西洋医学校「医学所」は、慶応4年4月(1868年5月)、明治新政府に接収されて6月26日(新暦8月14日)には「医学校」と改称され、翌明治2年(1869年)1月にはイギリス公使館付医師のW・ウィリスを教師として授業を開始した。この医学校は翌2月には官立の「大病院」と統合されて「医学校兼病院」となるが、同年7月18日(新暦8月15日)の大学校設立に際し、開成学校(旧幕府の開成所の後身)とともにその管轄下に入り、大学校「分局」とされた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E5%8C%BB%E5%AD%A6%E6%A0%A1
この西洋医学所の関係者達をご紹介することにしましょう。↓
伊東玄朴(1801~71年)。「肥前国<(佐賀藩(外様)>(現在の佐賀県神埼市神埼町的仁比山)にて仁比山神社に仕える武士・執行重助の子として誕生する。のちに佐賀藩士・伊東家の養子となる。・・・長崎の鳴滝塾で、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトよりオランダ医学を学ぶ。・・・
佐賀藩にて牛痘種痘法を実践し、安政5年(1858年)には大槻俊斎・戸塚静海らと図り江戸にお玉が池種痘所を開設、弟子の池田多仲を同所の留守居とした。同年7月3日、江戸幕府第13代将軍・徳川家定の脚気による重態に際し、漢方医の青木春岱・遠田澄庵、蘭方医の戸塚静海とともに幕府奥医師に挙用される。蘭方内科医が幕医に登用されたのは、伊東・戸塚が最初である。・・・
文久元年(1861年)より、西洋医学所の取締役を務めた。同年12月16日には蘭方医として初めて法印(将軍の御匙=侍医長に与えられる僧位)に進み、・・・名実ともに蘭方医の頂点に立った。のちの緒方洪庵の江戸招聘も、玄朴らの推挽によるところが大きい。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E6%9D%B1%E7%8E%84%E6%9C%B4
大槻俊斎(1806~62年)。「陸奥国桃生郡赤井村<(仙台藩(外様)>(現・宮城県東松島市)に[大槻武治の次男に]生まれる。安政5年(1858年)、伊東玄朴・戸塚静海らと図り、お玉が池種痘所設立。同所の長となる。万延元年(1860年)9月1日、将軍徳川家茂に拝謁し、お目見え医師となる。同年10月27日、陸奥国仙台藩医より幕府医師に登用される。お玉が池種痘所が公営(幕府営)となったのちも、そのまま頭取を勤めた。・・・お玉が池種痘所は西洋医学所、医学所等と改称・発展し、東京大学医学部の前身とされるため、俊斎は東大医学部初代総長と見なされている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%A7%BB%E4%BF%8A%E6%96%8E
http://tatujin.webcrow.jp/088685.html ([]内)
林洞海(はやしどうかい。1813~95年)。「豊前国小倉藩<(譜代)>士・・・の三男として生まれる。長崎でオランダ医学を学ぶ。安政5年(1858年)、大槻俊斎・伊東玄朴らと図り、お玉が池種痘所設立。万延元年(1860年)9月13日、小倉藩医より幕府医師に登用され、・・・文久元年(1861年)8月28日、奥医師に進み、同年12月16日、法眼に叙せらる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E6%B4%9E%E6%B5%B7
緒方洪庵(1810~63年)。「備中国足守藩<(外様)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%AE%88%E8%97%A9
>(現在の岡山市北部)士・・・の三男として生まれる。・・・
文政9年(1826年)7月、に中天游の私塾「思々斎塾」に入門・・・4年間、蘭学、特に医学を学ぶ。天保2年(1831年)、江戸へ出て坪井信道に学び、さらに宇田川玄真にも学んだ。天保7年(1836年)、長崎へ遊学しオランダ人医師ニーマンのもとで医学を学ぶ。この頃から洪庵と号した。天保9年(1838年)春、大坂に帰り、瓦町(現・大阪市中央区瓦町)で医業を開業する。同時に蘭学塾「適々斎塾(適塾)」を開く。・・・
文久2年(1862年)、幕府の度重なる要請により、奥医師兼西洋医学所頭取として江戸に出仕する。歩兵屯所付医師を選出するよう指示を受け、手塚良仙ら7名を推薦した。12月26日「法眼」に叙せられる。・・・
適塾から福澤諭吉、大鳥圭介、橋本左内、大村益次郎、長与専斎、佐野常民、高松凌雲など幕末から明治維新にかけて活躍した多くの人材を輩出した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B7%92%E6%96%B9%E6%B4%AA%E5%BA%B5
松本良順(1832~1907年)。「下総・・・佐倉藩<(譜代)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E5%80%89%E8%97%A9
>で病院兼蘭医学塾「佐倉順天堂」を開設していた父・・・<の下>・・・江戸・・・に生まれる。・・・幕医の松本良甫の養子となる。・・・
安政4年(1857年)閏5月18日、長崎伝習之御用を命じられ、長崎海軍伝習所に赴く。オランダ軍軍医のポンペに医学等の蘭学を学ぶ。文久2年(1862年)閏8月8日、奥詰医師となり、医学所頭取助を兼ねる。文久3年(1863年)12月26日、奥医師に進み、医学所頭取(東京大学医学部の前身)となる。元治元年(1864年)5月9日、法眼に叙せらる。・・・
明治6年(1873年)大日本帝国陸軍初代軍医総監となる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%9C%AC%E8%89%AF%E9%A0%86
⇒ご覧になったように、主だった関係者は、全員武士の子たる医者(外様3、譜代2。天領/旗本領・御三家・親藩からは0)です。
(但し、大槻俊斎の父大槻武治は、苗字こそあれ、武士でなかった可能性があります。)
つまり、彼らは、全員、武士としての立身出世を擲って医者の道を志した人々であったわけです。
(4)洋学所
次に、洋学所を取り上げますが、その前身は、蛮書和解御用でした。↓
「蛮書和解御用<は、>・・・1811年(文化8年)に江戸幕府によって設置された蘭書を中心とした翻訳機関。幕府の編暦・測量を司る天文方内に置かれた。蛮(蕃)書和解御用掛( – かかり)とも。天文方高橋景保の提唱により設置され、大槻玄沢、宇田川榕菴、青地林宗など優秀な蘭学者が翻訳官に任命された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9B%AE%E6%9B%B8%E5%92%8C%E8%A7%A3%E5%BE%A1%E7%94%A8
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[和学講談所]
幕府の学術機関には、和学講談所もあった。
「塙保己一の創立した学問所。寛政5 (1793) 年江戸幕府の許可と下付金を受けて江戸麹町に設立,のち表六番町に移した。林大学頭の支配を受け,国史,律令の講習および史料の編纂をおもな事業とし,屋代弘賢らを中心に『群書類従』『続群書類従』『武家名目抄』などを編纂した。幕末に保己一の子忠宝が尊攘派によって暗殺され,編纂は停止された。」
https://kotobank.jp/word/%E5%92%8C%E5%AD%A6%E8%AC%9B%E8%AB%87%E6%89%80-153863
小中村清矩は、「和歌山藩古学館教授となり、文久2年(1862年)、江戸幕府和学講談所講師となった。・・・実証主義的な国学は、明治期の小中村清矩らの手によって、近代以降の国文学の研究や国語学、民俗学の基礎となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E4%B8%AD%E6%9D%91%E6%B8%85%E7%9F%A9
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で、洋学所についてです。↓
「ペリー来航後、蘭学に止まらない洋学研究の必要を痛感した江戸幕府は、従来の天文台蛮書和解御用掛を拡充し、1855年(安政2年)、「洋学所」を開設した。しかしこれが開設直後の安政の大地震で全壊焼失したため、1856年3月17日(安政3年2月11日)、「蕃書調所」と改称し、古賀謹一郎を頭取、箕作阮甫と杉田成卿を教授、川本幸民、高畠五郎、松木弘安、手塚津蔵、東条英庵、原田敬策、田島順輔、村田蔵六、木村軍太郎、市川斎宮、西周 (啓蒙家)、津田真道、杉田玄端、村上英俊、小野寺丹元を教授手伝として同年末(安政4年1月)に開講した。(教授手伝にはこの後坪井信良(安政4年)、赤沢寛堂(安政5年)、箕作秋坪(安政6年)、も加わる。)
幕臣の子弟を対象に(1858年(安政5年)以降は藩士の入学も認めた)、蘭学を中心に英学を加えた洋学教育を行うとともに、翻訳事業や欧米諸国との外交折衝も担当した。語学教育は降盛、書籍は次第に充実し、自然科学部門も置かれた。1862年(文久2年)には学問所奉行<(注3)>および林大学頭の管轄下に入り昌平黌と同格の幕府官立学校となった。同年6月15日(5月18日)、「蕃書」の名称が実態に合わなくなったことを理由に「洋書調所」と改称、翌1863年10月11日(文久3年8月29日)、「開成所」と改称された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%95%83%E6%9B%B8%E8%AA%BF%E6%89%80
(注3)「文久2年11月14日(1863年1月3日)に設置され、初代奉行には田中藩主本多正納・高鍋藩世子秋月種樹が任命される。特に秋月は外様大名出身でかつ世子(実際には藩主実弟、また廃藩置県のため家督を継ぐことは無かった)の身分での異例の抜擢であった。その後、文久3年(1863年)11月には沼田藩土岐頼之、元治元年7月10日(1864年8月11日)には結城藩主水野勝知、同年7月28日(同8月29日)には黒川藩主柳沢光昭が奉行に任ぜられたが、元治元年11月12日(1864年12月10日)には内外の「政情多端」を理由として廃止された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%A6%E5%95%8F%E6%89%80%E5%A5%89%E8%A1%8C
その関係者も見ていきましょう。
古賀謹一郎(1816~84年)。「江戸昌平黌官舎にて、父・儒者古賀侗庵<の子として>生まれ・・・天保7年(1836年)大番役、同12年(1841年)書院番として江戸幕府に出仕し、・・・弘化3年(1846年)31歳で昌平黌(昌平坂学問所)の儒者見習となる。翌年、儒者とな<る。>・・・洋学の必要性をいち早く感じ、漢訳蘭書による独学にて、西洋の事情を習得する。・・・嘉永6年(1853年)、ロシアから派遣されたプチャーチン艦隊の来航に際し、応接掛となり、目付筒井政憲、川路聖謨に随行して長崎でロシア使節との交渉を行う。翌年ロシア艦再来日の際も、伊豆下田での交渉を行い、日露和親条約の締結に至った。従前からの洋学指向に加え、ロシアとの交渉でさらに西洋事情に通じ、日本の学問状況に危機感を抱いた謹一郎は、この頃たびたび老中阿部正弘に対して建白書を提出し・・・、安政2年(1855年)8月30日謹一郎は阿部より直々に洋学所頭取(校長)に任命された。蘭書翻訳・教育機関の構想を練り、勝麟太郎らとともに草案を作成し、同年9月蕃書調所設立案を提出した。この提案が元となり、安政4年(1857年)正月、蕃書調所が正式に開設されることとなった。
謹一郎は日本初の洋学研究教育機関として発足した蕃書調所頭取(校長)として、国内の著名な学者を招聘する。・・・
文久2年(1862年)5月、御留守居番就任に伴い、蕃書調所(この年「洋書調所」と改称し、さらに「開成所」となる)の頭取は解任された(原因は不明)。以後4年間は失職し、不遇の内に過ごす。慶応2年(1866年)製鉄所奉行として復職。翌年には目付となり、筑後守に補任される。江華島を巡るフランスと李氏朝鮮の紛争の仲介任務を託されるが、幕末の混迷により未遂に終わった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E8%B3%80%E8%AC%B9%E4%B8%80%E9%83%8E
⇒漢籍しか読めない、しかも、父親が純粋な儒官であり、武士としてのキャリアはあったものの、武術や兵学を身に着けていたとは考えにくく、それだけでも、外交・軍事、すなわち兵学・軍事技術/戦術書の翻訳と翻訳者の養成を主任務としたと考えられる洋学所の頭取として、古賀は不適任でした。
それに加えて、私の見るところ、古賀は識見に乏しく無能な人間であり、最後は、分限免職的に頭取の座を追われることになります。(コラム#9825、9833、9837、9843)(太田)
●🔵※箕作阮甫(1799~1863年)。「津山・・・藩<(親藩)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E5%B1%B1%E8%97%A9
>医箕作貞固(三代丈庵)の第三子・・・永田敬蔵(桐陰)・小島廣厚(天楽)から儒学を学ぶ一方、文化13年(1816年)には京都に出て、竹中文輔のもとで3カ年間医術習得にはげんだ。
文政2年(1819年)には、修業を終えて京都から帰り、本町三丁目で開業、翌年大村とゐと結婚した。やがて高50石御小姓組御匙代にすすみ、文政6年(1823年)には、藩主の供で江戸に行き、宇田川玄真の門に入り、以後洋学の研鑚を重ねる。
幕府天文台翻訳員となり、ペリー来航時に米大統領国書を翻訳、また対露交渉団の一員として長崎にも出向く。蕃書調所の首席教授に任ぜられ、幕臣に取立てられた。
日本最初の医学雑誌『泰西名医彙講』をはじめ、『外科必読』・『産科簡明』・『和蘭文典』・『八紘通誌』・『水蒸船説略』・『西征紀行』など阮甫の訳述書は99部160冊余りが確認されており、その分野は医学・語学・西洋史・兵学・宗教学と広範囲にわたる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AE%95%E4%BD%9C%E9%98%AE%E7%94%AB
⇒医者。医者の息子で、万能翻訳家志向、といったところです。(太田)
●🔵※杉田成卿(せいけい。1817~59年)。「杉田玄白の孫、杉田立卿の子として江戸浜町に生まれる。幼時より学業に優れ、儒学を萩原緑野、蘭書を名倉五三郎などに学ぶ。20歳の時から坪井信道に蘭学を学び、人格的にも深い感化を受けた。1840年に天文台訳員に任命され、1843年に老中・水野忠邦の命でオランダの政治書(国憲)を翻訳したが、水野の失脚によりこの書は日の目を見ないことになった。同じ年に『海上砲術全書』を訳述している。
1844年にオランダ国王から幕府に開国を勧めた親書を翻訳。1845年には父のあとをついで若狭国小浜藩<(譜代)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%B5%9C%E8%97%A9
>主の侍医となる。1853年のペリー来航の際は<米>大統領からの国書を翻訳。翌年、天文台役員の職を辞し、主として砲術書などの訳述に従い、1856年には蕃書調所の教授に迎えられた。本格的蘭和辞典の編纂などに力を尽くした」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E7%94%B0%E6%88%90%E5%8D%BF
⇒医者。医者の息子。但し、幕府(天文方)が翻訳家に仕立てたとも言えます。
同じく、何でもこなす翻訳家でしかありません。
●🔵川本幸民(1810~71年)。「摂津国有馬郡三田(現在の兵庫県三田市)で[藩医周安の三男として]に生まれた。
数え年で10歳のとき藩校で学び始めた。1827年からは木梨村(現在の加東市)で1年間、漢方医学を学んだ。
2年後の1829年、三田藩<(外様)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E7%94%B0%E8%97%A9
>藩主の九鬼隆国に命ぜられ、西洋医学を学ぶため江戸(現在の東京)に留学した。足立長雋、坪井信道らに蘭学を学び、物理や化学に精通した。
1833年、三田に帰郷し、父と同じ藩医に任じられた。・・・
1840年代後半から科学技術の分野で大きな業績を残し続けた。幸民の『裕軒随筆』によれば、1848年に白リンマッチを試作している。また幸民は1851年の『気海観瀾広義』を皮切りに多くの翻訳を含めた著作を出版した。薩摩藩藩主の島津斉彬に見出されると、1854年には薩摩藩籍となった。また薩摩藩校学頭も務めた。さらに造船所建造の技術指導のため実際に薩摩に赴いたとも伝えられている。この頃の弟子に、松木弘安(寺島宗則)、橋本左内等がいる。
⇒橋本佐内との関係は、佐内のウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%8B%E6%9C%AC%E5%B7%A6%E5%86%85
には出てきませんが、「恩師は蘭学界の「生き仏」、坪井信道。・・・坪井塾の同僚で生涯の親友が、緒方洪庵。・・・緒方洪庵つながりで、橋本左内や福沢諭吉も教えを乞いに来る中、我が子のように愛した一番弟子が、薩摩の松木弘安。・・・この薩摩の縁で、幸民は島津斉彬に熱望され三顧の礼を以て、薩摩藩籍に迎えられる。島津斉彬の洋化計画である「集成館事業」の技術顧問は、この川本幸民だったのだー。薩摩藩籍は取得しても、幸民の主たる仕事は幕府の「蕃書調所」の精煉方(化学部門)。島津斉彬の死後は幕臣となり、主任教授から最高幹部へ出世する」
https://ameblo.jp/yume-nomata-yume/entry-12338757796.html
ということだったようです。
となると、西郷と佐内は、この頃、斉彬ないし松木を通じて知り合っていた可能性がありますね。
なお、「一説によれば、1853(嘉永6)年前後、幸民は江戸の自宅でビールの醸造実験を行ったという。さらには、浅草下谷の曹源寺境内で、桂小五郎や大村益次郎、橋本左内といったそうそうたる人物を招いてビールの試飲会を行ったという話も伝わっている」
http://www.kirin.co.jp/entertainment/museum/history/column/bd005_1853.html
ところです。(太田)
1859年に東京大学の前身である蕃書調所の教授となった。1861年には幸民の有名な著作『化学新書』を出版し、近代化学を日本に移入した。宇田川榕菴の『舎密開宗』と並び江戸時代の重要な化学書の一つとされる。化学新書は蕃書調所において教科書として用いられた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E6%9C%AC%E5%B9%B8%E6%B0%91
http://www.city.sanda.lg.jp/kids/jiman/koumin.html ([]内)
⇒医者。医者の息子。科学者志向、といったところでしょうか。(太田)
🔵高畠五郎(1825~84年)。「父は阿波国の蘭方医・徳島藩<(外様)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B3%B6%E8%97%A9
>藩医・・・<徳島藩士
https://books.google.co.jp/books?id=HsxEF8AhR_0C&pg=PA77&lpg=PA77&dq=%E7%94%B0%E5%B3%B6%E9%A0%86%E8%BC%94&source=bl&ots=3xp0jp7JbQ&sig=JIRpawWZsCOyfBE3_03x8Lkj1xA&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwi6kMLGuYXcAhUCjpQKHRsaDOMQ6AEIRzAG#v=onepage&q=%E7%94%B0%E5%B3%B6%E9%A0%86%E8%BC%94&f=false
>1848年(嘉永元年) 大阪へ出て斎藤五郎に漢学を学ぶ。
1849年(嘉永2年) 江戸へ出て伊東玄朴に蘭学を学ぶ。・・・
1850年(嘉永3年) 佐久間象山の門下に入り、砲術を学ぶ。
1851年(嘉永4年) ・・・阿波藩主蜂須賀斉裕の知るところとなり中小姓格とな<る>。・・・
1856年(安政3年) 蕃書調所で教授職手伝に赴任。・・・
1859年(安政6年)7月29日 外国奉行所管の外国方(翻訳局)に転じる。外交文書の翻訳に従事。常に杉田玄端、福澤諭吉、村上英俊、木村宗三と働く。・・・
1863年(文久3年)8月 陸軍所出役。
1864年(元治元年)9月16日 開成所教授並に昇格。幕臣となる。・・・
1870年(明治3年)11月 新政府に召し出され兵部省出仕
1880年(明治13年)8月 海軍権大書記官に任官、翻訳刊行物出版・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E7%95%A0%E4%BA%94%E9%83%8E
⇒医者の息子。外交・軍事関係の翻訳専門家志向といったところでしょうか。(太田)
🔵松木弘安(寺島宗則)(1832~93年)(コラム#9902)。「薩摩<藩(外様)>国・・・の郷士・・・の次男として生まれる伯父で蘭方医の松木宗保の養嗣子となり、長崎で蘭学を学ぶ。弘化2年(1845年)、江戸に赴き伊東玄朴、川本幸民より蘭学を学び、安政2年(1855年)より中津藩江戸藩邸の蘭学塾(慶應義塾の前身)に出講する。
⇒拡大島津家間の人材の融通ですね。(太田)
安政3年(1856年)、蕃書調所教授手伝となった後、帰郷し薩摩藩主・島津斉彬の侍医となったが、再度江戸へ出て蕃書調所に復帰した。蕃書調所で蘭学を教える傍ら、安政4年(1857年)から英語を独学しはじめ、・・・文久元年(1861年)には、英語力が買われて幕府の遣欧使節団の西洋事情探索要員として、福澤諭吉、箕作秋坪とともに抜擢された。
文久2年(1862年)、幕府の第1次遣欧使節(文久遣欧使節)に通訳兼医師として加わる。・・・翌年に帰国して鹿児島に戻る。文久3年(1863年)の薩英戦争においては五代友厚とともにイギリス軍の捕虜となる。慶応元年(1865年)、薩摩藩遣英使節団に参加し、再び欧州を訪れる。
明治維新後、遣欧使節での経験を生かして外交官となる。・・・明治5年(1872年)、初代の在イギリス日本公使となる。明治6年(1873年)、参議兼外務卿となる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BA%E5%B3%B6%E5%AE%97%E5%89%87
⇒医者。医者の養子。外交官志向、といったところでしょうか。(太田)
🔵手塚津蔵(1822~78年)。「周防国熊毛郡周防村(現山口県光市小周防)に医師手塚寿仙の次男として生まれる。天保9年(1838年)、長崎において高島秋帆やシーボルトに蘭学、造船術などを学び、のち英学にも長じた。嘉永3年(1850年)江戸に出<、更に、>・・・下総国(千葉県)佐倉に移り、嘉永4年(1851年)佐倉藩<(譜代)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E5%80%89%E8%97%A9 >に仕え、蘭書の翻訳に従事した。・・・
安政3年(1856年)江戸の蕃書調所の教授手伝いとして出仕した。
維新後は開成学校教授を経て、外務省に出仕して外務省貿易事務官となり、ロシアや朝鮮の事情を視察した。・・・
著訳書には『海防火攻新覧』『泰西史略』『熕手(こうしゅ)要覧』『万国図誌』があり、また『伊吉利(イギリス)文典』The Elementary Chatechismus, English Grammar1850年版を復刻した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%8B%E5%A1%9A%E5%BE%8B%E8%94%B5
⇒医者の息子。同じく、外交官志向、といったところでしょうか。(太田)
〇東条英庵(1821~85年)「文政4年・・・長門国で生まれる。・・・父は<長州藩(外様)の一門家老
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B3%E7%94%B0%E6%AF%9B%E5%88%A9%E5%AE%B6
>右田毛利家毛利筑前の家臣<(?)>・・・
1844年(弘化元年) 適塾で学ぶ。
1845年(弘化2年) 江戸へ出て伊東玄朴に学ぶ。
1847年(弘化4年) 長州藩の西洋書翻訳御用掛となる。
1853年(嘉永6年) 長州藩の藩医となる。
1857年(安政4年)4月 蕃書調所で教授職手伝に赴任。
1857年(安政4年)11月 軍艦操練所教授方に赴任。
1859年(安政6年)1月 幕臣となる。
1864年(元治元年) 開成所授職並となり、オランダ語を教えた。
維新後は徳川家と共に静岡へ。静岡学問所教授となる。・・・
著書『練率訓語』『電火銃小解』」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%9D%A1%E8%8B%B1%E5%BA%B5
⇒武士兼医者で武士の息子。軍事戦術家志向、といったところでしょうか。(太田)
●🔵原田一道(1830~1910年)「備中国鴨方藩<(=岡山藩(外様)の支藩)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E5%B1%B1%E8%97%A9#鴨方藩
>藩医・・・の長男として生まれる。はじめ駒之進、のち敬策・吾一と称す。備中松山藩家老の山田方谷に学ぶなどした後、嘉永3年(1850年)、江戸にて蘭学医伊東玄朴に師事。砲術など洋式兵学を修めて幕府に出仕。安政3年(1856年)、蕃書調所取調出役教授手伝・海陸軍兵書取調出役に就き、兵学を講じるなど翻訳にも従事する。
文久3年(1863年)12月、横浜鎖港談判使節外国奉行・池田長発らの遣仏使節団一行に随いて渡欧。兵書の購入に努めるなど、使節団帰朝後も欧州に滞留してオランダ陸軍士官学校に学ぶ。慶応3年(1867年)に帰朝。戊辰戦争が起こったため、故郷の鴨方藩に仕えたが、のち再度江戸へ出府し、陸軍所教授・開成所教授として洋学を教授した。西周・津田眞道・神田孝平・福澤諭吉らと研究にも励んでいる。その後、慶応4年(1868年)には砲兵頭に任命された。
維新後は沼津兵学校教師を経て、新政府の徴士として出仕。明治2年(1869年)に軍務官権判事、同4年(1871年)に陸軍大佐、さらに兵学校御用掛や兵学校大教授、兵学校頭、太政官大書記官、一等法制官などを歴任。明治6年(1873年)には岩倉遣欧使節団に陸軍少将・山田顕義理事官の随行員として参加し、フランス、オランダなど欧米各国を巡遊。明治12年(1879年)に陸軍省砲兵局長、同14年(1881年)には陸軍少将に進み、東京砲兵工廠長・砲兵工廠提理・砲兵会議議長等の陸軍の要職に歴任している。・・・
晩年、裏猿楽町の自邸では地道に兵器研究を行っていた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E7%94%B0%E4%B8%80%E9%81%93
⇒医者で医者の息子。軍事技術者志向、といったところでしょうか。(太田)
●田島順輔(1828~59年)。「文政11年生まれ。田島柳卿の子。<安中藩<(譜代)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E4%B8%AD%E8%97%A9 >
士
https://books.google.co.jp/books?id=HsxEF8AhR_0C&pg=PA77&lpg=PA77&dq=%E7%94%B0%E5%B3%B6%E9%A0%86%E8%BC%94&source=bl&ots=3xp0jp7JbQ&sig=JIRpawWZsCOyfBE3_03x8Lkj1xA&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwi6kMLGuYXcAhUCjpQKHRsaDOMQ6AEIRzAG#v=onepage&q=%E7%94%B0%E5%B3%B6%E9%A0%86%E8%BC%94&f=false
>大坂の緒方洪庵門でまなび,江戸で洋学を研修,手塚律蔵らとまじわる。安政3年から蕃書調所で洋学助教をつとめた。のち長崎で軍艦操縦,砲術をまなぶ。」
https://kotobank.jp/word/%E7%94%B0%E5%B3%B6%E9%A0%86%E8%BC%94-1089216
「田島柳卿(たじまりゅうけい。1789~1873年)。「寛政元年生まれ。医を業としながら天文・地理学を研究。望遠鏡をつくり天体観測をおこなう。また世界の国名,港湾などをくわしく記載した地球儀を製作した。・・・85歳。近江(おうみ)(滋賀県)出身。通称は良輔。号は蘭園。著作に「地動略説」など。」
https://kotobank.jp/word/%E7%94%B0%E5%B3%B6%E6%9F%B3%E5%8D%BF-1089237
⇒医者兼蘭学者の息子。軍事戦術家志向、といったところでしょうか。(太田)
●🔵大村益次郎(1824~69年)。「周防国<(長州藩(外様)>・・・に村医の・・・長男として生まれる。天保13年(1842年)、防府で、シーボルトの弟子の梅田幽斎に医学や蘭学を学び、翌年4月梅田の勧めで豊後国日田に向かい、4月7日広瀬淡窓の私塾咸宜園に入る。1844年6月まで漢籍、算術、習字など学ぶ。同年、帰郷して梅田門下に復帰後、弘化3年(1846年)、大坂に出て緒方洪庵の適塾で学ぶ。適塾在籍の間に長崎の奥山静叔のもとで1年間遊学し、その後帰阪、適塾の塾頭まで進む。
嘉永3年(1850年)、・・・帰郷し、・・・村医となって村田良庵と名乗る。・・・
大村は宇和島藩で西洋兵学・蘭学の講義と翻訳を手がけ、宇和島城北部に樺崎砲台を築く。安政元年(1854年)から翌安政2年(1855年)には長崎へ赴いて軍艦製造の研究を行<い、>・・・式軍艦の雛形を製造する。ただし、わずかな差で国産初ではない(国産第1号は薩摩藩)といわれている。・・・
⇒藩主の伊達宗城が従兄弟の島津斉彬の強い影響を受けていたことを改めて示唆していますね。(太田)
安政3年(1856年)4月、藩主伊達宗城の参勤にしたがって江戸に出る。同年11月1日、私塾「鳩居堂」を麹町に開塾して蘭学・兵学・医学を教える(塾頭は太田静馬)。同16日、宇和島藩御雇の身分のまま、幕府の蕃書調所教授方手伝となり、外交文書、洋書翻訳のほか兵学講義、オランダ語講義などを行<う。>・・¥・
安政4年(1857年)11月11日、築地の幕府の講武所教授となり、最新の兵学書の翻訳と講義を行った。・・・
万延元年(1860年)、長州藩の要請により江戸在住のまま同藩士となり、扶持は年米25俵を支給される。塾の場所も麻布の長州藩中屋敷に移る。文久元年(1861年)正月、一時帰藩する。西洋兵学研究所だった博習堂の学習カリキュラムの改訂に従事するとともに、下関周辺の海防調査も行う。同年4月、江戸へいったん帰り、文久2年(1862年)、幕府から委託されて英語、数学を教えていたヘボンのもとで学んだ。・・・
文久3年(1863年)10月、萩へ帰国する。24日、手当防御事務用掛に任命。翌元治元年(1864年)2月24日、兵学校教授役となり、藩の山口明倫館での西洋兵学の講義を行い、5月10日からは鉄煩御用取調方として製鉄所建設に取りかかるなど、藩内に充満せる攘夷の動きに合わせるかのように軍備関係の仕事に邁進する。一方では語学力を買われ、8月14日には四国艦隊下関砲撃事件の後始末のため外人応接掛に任命され、下関に出張している。26日の外国艦隊退去後、29日に政務座役事務掛として軍事関係に復帰、明倫館廃止後の12月9日、博習堂用掛兼赤間関応接掛に任命される。・・・
慶応元年(1865年)・・・大村は藩の軍艦壬戌丸売却のため、秘密裏に上海へ渡っている。・・・
高杉らは、西洋式兵制を採用した奇兵隊の創設をはじめとする軍制改革に着手、大村にその指導を要請する。桂小五郎(木戸孝允)の推挙により、大村は・・・上士となり、藩命により大村益次郎永敏と改名する。・・・
このころ大村は精力的に、明倫館や宿舎の普門寺で西洋兵学を教授したが、特に彼の私塾であった普門寺は、普門寺塾や三兵塾と呼ばれた。ここでは大村はオランダの兵学者クノープの西洋兵術書を翻訳した『兵家須知戦闘術門』を刊行、さらにそれを現状に即し、実戦に役立つようわかりやすく書き改めたテキストを作成し、その教え方も無駄がなく的確であったという。
慶応2年(1866年)、幕府は第二次長州征伐を号令、騒然とした中、明倫館が再開される。桂小五郎は同年5月に藩の指導権を握り、大村、高杉、伊藤博文、井上聞多(のち井上馨)らと倒幕による日本の近代化を図り、幕府との全面戦争への体制固めを行っていた。すでに3月13日、大村は兵学校御用掛兼御手当御用掛として明倫館で兵学教授を始めていたが、5月には近代軍建設の責任者となり、閏5月6日に大組御譜代に昇格、100石を支給され、名実共に藩士となる。
大村は桂の意見を参考に、四方からの攻撃に備えるには従来の武士だけでなく、農民、町人階級から組織される市民軍の組織体系確立が急務であり、藩はその給与を負担し、併せて兵士として基本的訓練を決行しなければならぬと述べ、有志により結成されていた諸隊を整理統合して藩の統制下に組み入れ、5月22日には1600人の満16歳から25歳までの農商階級の兵士を再編した。さらに旧来の藩士らの再編を断行し、石高に合わせた隊にまとめ上げて、従卒なしに単独で行動できるようにして効率のよい機動性を持たせた軍を作るかたわら、隊の指揮官を普門塾に集めて戦術を徹底的に教えた。・・・
6月に戦闘が開始される。大村は石州口方面の実戦指揮を担当する。その戦術は最新の武器と巧妙な用兵術に加え、無駄な攻撃を避け、相手の自滅を誘ってから攻撃を加えるという合理的なもので、旧態依然とした戦術に捉われた幕府側をことごとく撃破するなど、彼の軍事的才能が遺憾なく発揮されたものであった。6月16日、大村は中立的立場を取った津和野藩を通過して浜田まで進撃する。7月18日に浜田城を陥落させ、のち石見銀山を占領した。・・・
⇒大村は、島津斉彬コンセンサスに基づいて示し合わせて行動していたところの、徳川慶勝と西郷隆盛の掌中で踊らされていたに過ぎません。↓
「幕府が長州征伐(第一次長州征討)を行うこととなる。征討軍総督には初め紀州藩主・徳川茂承が任じられたが<尾張藩藩主の父親で元藩主の>慶勝に変更され、慶勝は薩摩藩士・西郷吉之助を大参謀として出征した。この長州征伐では長州藩が恭順したため、慶勝は寛大な措置を取って京へ凱旋した。しかしその後、長州藩は再び勤王派が主導権を握ったため、第二次長州征討が決定する。慶勝は再征に反対し、茂徳の征長総督就任を拒否させ、上洛して御所警衛の任に就いた。長州藩は秘密裏に薩摩藩と同盟を結んでおり(薩長同盟)、幕府軍を藩境の各地で破った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%85%B6%E5%8B%9D
「西郷は征長軍参謀に任命された。24日、大坂で征長総督・徳川慶勝にお目見えし、意見を具申したところ、長州処分を委任された。そこで、吉井友実・税所篤を伴い、岩国で長州方代表の吉川経幹(監物)と会い、長州藩三家老の処分を申し入れた。引き返して徳川慶勝に経過報告をしたのち、小倉に赴き、副総督・松平茂昭に長州処分案と経過を述べ、薩摩藩総督・島津久明にも経過を報告した。結局、西郷の妥協案に沿って収拾が図られ、12月27日、征長総督が出兵諸軍に撤兵を命じ、この度の征討行動は終わった。収拾案中に含まれていた五卿処分も、中岡慎太郎らの奔走で、西郷の妥協案に従い、慶応元年(1865年)初頭に福岡藩の周旋で九州5藩に分移させるまで福岡で預かることで一応決着した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E9%83%B7%E9%9A%86%E7%9B%9B
征討終了後、山口に帰還、12月12日海軍用掛を兼務する。海軍頭取前原彦太郎(のちの前原一誠)を補佐する。翌年には軍の編制替えを行うなど、その多忙さは変わることがなかった。
慶応3年(1867年)、討幕と王政復古を目指し西郷吉之助、大久保一蔵ら薩摩藩側から長州藩に働きかけが行われた。藩内では討幕か否かに分立したが、大村は禁門の変や下関戦争の失敗から、薩摩の動きには用心すべきでもあり、今一度力を蓄え十分に戦略を立てた後、兵を動かすべきと慎重論を唱えた。だが、9月に大久保が長州に来て討幕を説得したことで藩内の世論は出兵論に傾く。10月27日、大村は掛助役に左遷され、出兵の実務に携わるが、「ああいう勢いになると、十露蕃(そろばん)も何も要るものじゃない。実に自分は俗論家であった。」と時局を見抜けない無知を反省する弁を残している。
⇒政治・・戦略と言った方がいいのだが・・音痴であることを自覚する程度の能力はあったことは窺えますが、慶勝と西郷の掌中で踊らされている、との自覚があったとは」、ここに至る経過を見ている限りは思えません。
所詮、大村は、戦略家ではなく、練達の軍事戦術家でしかなかった、と言うべきでしょう。(太田)
徳川慶喜による大政奉還後の明治元年(1868年)1月14日、鳥羽・伏見の戦いを受け、毛利広封が京へ進撃、17日に大村は随行する形で用所本役軍務専任となる。22日に山口を発ち、2月3日に大阪、7日に京都に到着する。その際、新政府軍(官軍)の江戸攻撃案を作成したと見られる。2月22日、王政復古により成立した明治新政府の軍防事務局判事加勢として朝臣となる。大村は京・伏見の兵学寮で各藩から差し出された兵を御所警備の御親兵として訓練し、近代国軍の基礎づくりを開始する。翌3月、明治天皇行幸に際して大阪へ行き、26日の天保山での海軍閲兵と4月6日の大阪城内での陸軍調練観閲式を指揮する。
4月には、西郷と勝海舟による江戸城明け渡しとなるも、旧幕府方の残党が東日本各地に勢力を張り反抗を続けており、情勢は依然として流動的であった。このころ大村は、岩倉具視宛の書簡で関東の旧幕軍の不穏な動きへの懸念、速やかな鎮圧の必要と策を述べており、その意見を受け入れる形で、大村は有栖川宮東征大総督府補佐として江戸下向を命じられる。21日には海路で江戸に到着、軍務官判事、江戸府判事を兼任する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%9D%91%E7%9B%8A%E6%AC%A1%E9%83%8E
⇒医者で医者の息子。軍事戦術家志向、といったところでしょうか。(太田)
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[大村益次郎暗殺]
「上野戦争の軍議で薩摩の海江田信義と対立、西郷が仲介に入る場面があった。この席上で大村が発した「君はいくさを知らぬ」の一言に、海江田信義が尋常ではない怒りを見せたこと等が、海江田による大村暗殺関与説の根拠となっている。・・・
⇒(当然、『孫子』等を読んでいる海江田は戦略の重要性を知り、大村は知らないくせに、海江田に「いくさを知らぬ」はトンデモ発言だった。
この上野戦争の後、佐賀藩の江藤新平は、「西郷の胆力、大村益次郎の戦略、老練、感心に耐へ難く御座候」(上掲)という、これまたトンデモ感想を記しているが、江藤は、家庭の事情で藩校を中途退学しており、兵学を学ぶ機会がなかったのだろう。(太田)
明治2年(1869年)6月には政府の兵制会議で大久保らと旧征討軍の処理と中央軍隊の建設方法について論争を展開している。兵制会議は6月21日から25日にかけて開催された。そこで、藩兵に依拠しない形での政府直属軍隊の創設を図る大村らと、鹿児島(薩摩)・山口(長州)・高知(土佐)藩兵を主体にした中央軍隊を編成しようとする大久保らとの間で激論が闘わされた。・・・
だが、国民皆兵を目標とする大村の建設的な意見は周囲の理解を得られなかった。大久保は戊辰戦争による士族の抵抗力を熟知していたため、かえって士族の反発を招くと考え、岩倉具視らは農民の武装はそのまま一揆につながるとして慎重な態度をとっていたのである。・・・
⇒大村の戦略音痴、ここに極まれり、という印象だ。(太田)
明治2年(1869年)、大村は軍事施設視察と建設予定地の下見のため、京阪方面に出張する。京都では弾正台支所長官の海江田信義が遺恨を晴らすため、新軍建設に不平を抱く士族たちを使って大村を襲うよう煽動する、などの風説が流れるなど不穏な情勢となっていた。木戸孝允らはテロの危険性を憂慮し反対したが、大村はそれを振り切って中山道から京へ向かう。
⇒戦略音痴の一環だが、彼は、とりわけ、治安情勢判断能力が甚だしく欠如していた、と言わざるをえない。(太田)
同年8月13日に京に着き、・・・9月・・・4日夕刻・・・元長州藩士の団伸二郎、同じく神代直人ら8人の刺客に襲われ・・・治療をうけた<が>・・・死去した。」(上掲)
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〇※木村軍太郎(1827~62年)「下総(しもうさ)佐倉藩<(譜代)>(千葉県)藩士。杉田成卿,佐久間象山らに蘭学,兵学をまなぶ。藩主堀田正睦(まさよし)につかえ,藩の兵制を改革。また幕府天文台の蕃書和解御用,蕃書調所出役教授手伝などをつとめた。・・・訳書に「砲術訓蒙」。」
https://kotobank.jp/word/%E6%9C%A8%E6%9D%91%E8%BB%8D%E5%A4%AA%E9%83%8E-1070314
⇒武士の息子。軍事戦術志向、といったところでしょうか。(太田)
🔵市川兼恭(1818~99年)「幼名三輔。後、岩之進または斎宮、明治2年(1869年)9月逸吉に改める。号は浮天斎。父は広島藩藩医・・・
天保9年(1838年) 11月 緒方洪庵の適塾へ入門。蘭学を学ぶ。弘化元年(1844年) 頃から 杉田成卿に蘭学を学ぶ。・・・
福井藩<(親藩)で福井藩士となり、<
https://books.google.co.jp/books?id=HsxEF8AhR_0C&pg=PA77&lpg=PA77&dq=%E7%94%B0%E5%B3%B6%E9%A0%86%E8%BC%94&source=bl&ots=3xp0jp7JbQ&sig=JIRpawWZsCOyfBE3_03x8Lkj1xA&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwi6kMLGuYXcAhUCjpQKHRsaDOMQ6AEIRzAG#v=onepage&q=%E7%94%B0%E5%B3%B6%E9%A0%86%E8%BC%94&f=false
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E4%BA%95%E8%97%A9
>砲術師範となった。
⇒藩主の松平春嶽が、「師」、島津斉彬の強い影響を受けていたことを示唆しています。(太田)
幕府天文台訳員を勤め、蕃書調所と開成所教授職を歴任。大番格砲兵差図役頭取勤方となる。電信機や活版印刷などの技術開発に携わる。維新後は陸軍兵学中教授となった。・・・著書『遠西武器図略』」」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%82%E5%B7%9D%E5%85%BC%E6%81%AD
⇒医者の息子。兵学、軍事戦術志向、といったところでしょうか。(太田)
🔵西周(1829~97年)。「石見国津和野藩<(外様)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E5%92%8C%E9%87%8E%E8%97%A9
>(現、島根県津和野町)の御典医(注4)の家柄。・・・<津和野藩士
http://tsuwano-bunka.net/people/detail_nishi/
>藩校・養老館で蘭学を学んだ。安政4年(1857年)には蕃書調所の教授並手伝となり津田真道と知り合い、哲学ほか西欧の学問を研究。文久2年(1862年)には幕命で津田真道・榎本武揚らとともにオランダに留学し、シモン・フィッセリングに法学を、またカント哲学・経済学・国際法などを学ぶ。・・・慶応元年(1865年)に帰国した後、目付に就任、徳川慶喜の側近として活動する。王政復古を経た慶応4年(1868年)、徳川家によって開設された沼津兵学校初代校長に就任。同年、『万国公法』を訳刊。明治3年(1870年)には乞われて明治政府に出仕、以後兵部省・文部省・宮内省などの官僚を歴任し、軍人勅諭・軍人訓戒の起草に関係する等、軍政の整備とその精神の確立に努めた。
明治6年(1873年)には森有礼・福澤諭吉・加藤弘之・中村正直・西村茂樹・津田真道らと共に明六社を結成し、翌年から機関紙『明六雑誌』を発行。啓蒙家として、西洋哲学の翻訳・紹介等、哲学の基礎を築くことに尽力した。・・・
明治14年(1881年)、現在の獨協中学校・高等学校にあたる獨逸学協会学校の創立に参画した。2年後の開校にあたり初代校長に就任した。・・・
西洋語の「philosophy」を音訳でなく翻訳語(和製漢語)として「哲学」という言葉を創ったほか、「藝術(芸術)」「理性」「科學(科学)」「技術」「心理学」「意識」「知識」「概念」「帰納」「演繹」「定義」「命題」「分解」など多くの哲学・科学関係の言葉は西の考案した訳語である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%91%A8_(%E5%95%93%E8%92%99%E5%AE%B6)
(注4)武家の御典医は、将軍や藩主と身近に接する立場で、武士に準ずる身分であった。
⇒医者の息子。哲学者志向、といったところでしょうか。(太田)
〇津田真道(まみち。1829~1903年)。「美作国津山藩<(親藩)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E5%B1%B1%E8%97%A9
>上之町(現:岡山県津山市)の生まれ。幼名は喜久治。後に真一郎、行彦とも名乗った。嘉永3年(1850年)に江戸に出て箕作阮甫と伊東玄朴に蘭学を、佐久間象山に兵学を学ぶ。
藩籍を脱して苦学したが、安政4年(1857年)蕃書調所に雇用されて、文久2年(1862年)には西周とオランダに留学しライデン大学のシモン・フィッセリングに学ぶ。・・・
4年後に帰国する。その講義録を慶応2年(1866年)に『泰西国法論』と題して訳出する。これは日本初の西洋法学の紹介となる。その後、幕府陸軍の騎兵差図役頭取を経て、目付に就任。大政奉還に際しては徳川家中心の憲法案を構想した(『日本国総制度』)。
明治維新後は新政府の司法省に出仕して『新律綱領』の編纂に参画。明治2年(1869年)、人身売買禁止を建議。明治4年(1871年)、外務権大丞となり日清修好条規提携に全権・伊達宗城の副使として清国へ行く。のち陸軍省で陸軍刑法を作成。さらに裁判官、元老院議官。明治23年(1890年)には、第1回衆議院議員総選挙に東京8区から立候補して当選、大成会に属して初代衆議院副議長に就任。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E7%94%B0%E7%9C%9F%E9%81%93
「父は津山藩士。」
http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/584.html
⇒武士の息子。法学者志向、といったところでしょうか。(太田)
●🔵杉田玄端(1818~89年)。「尾張藩<(御三家)>医・權頭信珉の子として江戸に生まれた。旧姓は吉野。幼名は徳太郎。7歳から藩で習字、漢学、算学を学ぶ。
杉田立卿に師事した後、杉田白元の養子となって杉田家の家督を相続し(杉田玄白の義理の孫となる)、医術をよく学ぶ。若狭国小浜藩主の侍医を務めたのちに幕府お抱えの医師となり、戸塚文海と共に勝海舟ら要人奉行の主治医となり、蘭学をもって蕃書調所教授から慶応元年(1865年)に外国奉行支配翻訳御用頭取となる。・・・
医学書のみならず、嘉永4年(1851年)には幕末最高の世界地理知識書といわれる『地学正宗図』を完成させており、これは吉田松陰や橋本左内らの「世界」観を構築する基となった。
維新後は、徳川家が陸軍士官を養成するために作った沼津兵学校付属病院に出仕し、陸軍付医師頭取に就任。明治政府に出仕せず、1875年(明治8年)福澤諭吉に招かれて慶應義塾内の医学所「尊生舎」教授となり、慶應義塾医学所の最初のスタッフの一人となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E7%94%B0%E7%8E%84%E7%AB%AF
⇒医者で医者の息子。洋学所での勤務は本意ではなかったのかも。(太田)
●🔵村上英俊(1811~90年)。「下野国那須郡<(水戸藩(御三家))
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E9%87%8E%E5%9B%BD#近代以降の沿革
>佐久山の医師村上松園の長子として生まれる。文政7年(1824年)に父とともに江戸に移り、宇田川榕菴に蘭学を学ぶ。天保12年(1841年)信濃国松代藩主真田<幸貫>に藩医として仕官し、佐久間象山の下でベルセリウスの『化学提要』フランス語版を和訳し<た。>」
https://ja.wikipedia.org/wik/%E7%9C%9F%E7%94%B0%E5%B9%B8%E8%B2%AB
⇒松代藩は、当時、事実上の親藩であった上に、真田幸貫(1791~1852年。藩主:1823~52年)は寛政異学の禁を行った松平定信の長男なのですから、蘭学を奨励したなんて、奇跡みたいな話ですね。(太田)
「安政5年(1857年)には蕃書調所で日仏間の条約を翻訳し、多くの弟子にフランス語を教授した。また幕命により『三語便覧』『五方通語』『仏蘭西詞林』などの辞書を編纂し、元治元年(1864年)には日本初の本格的な仏和辞典『仏語明要』を編纂し、慶応3年(1867年)には戦術書『仏蘭西答古知機』を和訳した。明治元年(1869年)、仏語塾「達理堂」を開いた。また化学にも造詣が深く、薬用ヨードの製造やメッキ法、爆薬製造法などの研究にも従事した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E4%B8%8A%E8%8B%B1%E4%BF%8A
⇒医者で医者の息子。彼は、科学者の名に値する人物ですね。(太田)
●🔵?小野寺丹元(1800~76年)。「大槻平泉(おおつき-へいせん),シーボルトにまなび,かたわらオランダ語,ロシア語を習得。幕府蕃書調所教授手伝となる。のち仙台藩医,医学館学頭,府学蘭学局総裁をつとめた。・・・陸奥(むつ)磐井郡<(仙台藩またはその支藩の一関藩(外様))
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A3%90%E4%BA%95%E9%83%A1
>(岩手県)出身。・・・訳書に「済生一方」「新訳牛奄忽伊斯」など。」
https://kotobank.jp/word/%E5%B0%8F%E9%87%8E%E5%AF%BA%E4%B8%B9%E5%85%83-1063852
⇒医者で医者の息子? 洋学所での勤務は本意ではなかったのかも。(太田)
●🔵坪井信良(1823~1904年)。「越中国高岡<(加賀藩(外様/準親藩))
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B2%A1%E5%B8%82
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%B3%80%E8%97%A9
>の医師・・・の二男として生まれる。坪井信道にオランダ医学を学び、その婿養子となる。安政5年(1858年)、大槻俊斎・伊東玄朴らと図り、お玉が池種痘所を設立する。元治元年(1864年)11月20日、越前国福井藩医より幕府医師に登用され、奥医師となる・・・。同年11月16日、法眼に叙せらる。明治6年(1873年)11月、日本で最初の医学雑誌『和蘭医事雑誌』を創刊し、明治8年(1875年)12月までに43号を発刊した。明治7年(1874年)から明治10年(1877年)まで、東京府病院長を務める。・・・息子の坪井正五郎は人類学者。地質学者・鉱物学者の坪井誠太郎と地球物理学者の坪井忠二はともに正五郎の息子で信良の孫、物理化学者の坪井正道は誠太郎の長男で信良の曾孫にあたる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%AA%E4%BA%95%E4%BF%A1%E8%89%AF
⇒医者で医者の息子/養子。やはり、洋学所での勤務は本意ではなかったのかも。(太田)
●🔵?赤沢寛堂? 「江戸<で>・・・赤沢寛堂に蘭医学を学んだ。」
https://books.google.co.jp/books?id=kr6_J4lrUEAC&pg=PA156&lpg=PA156&dq=%E8%B5%A4%E6%B2%A2%E5%AF%9B%E5%A0%82&source=bl&ots=mOdVhHw5co&sig=viukTeddE8HMEbgZA2TMHbWJ0zI&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwiS8bXszIDcAhXBnpQKHULeCOIQ6AEIKzAB#v=onepage&q=%E8%B5%A4%E6%B2%A2%E5%AF%9B%E5%A0%82&f=false
「赤沢寛堂の元で2年間の修行を経て、・・・医院を開いた」 人物がいる。
http://torotorosanpo.sakura.ne.jp/taguchihakase.htm
⇒医者で医者の息子? 彼もまた、洋学所で働いたのは本意ではなかったのかも。(太田)
⦿※箕作秋坪(しゅうへい。1826~86年)。「備中国(現・岡山県)・・・阿賀郡上呰部村 <=備中新見藩<(外様)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E8%A6%8B%E8%97%A9 >
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E8%B3%80%E9%83%A1
>・・・の儒者・菊池陶愛(菊池應輔亮和の婿養子である医者菊池好直正因の養子である菊池慎の子。名は文理。通称は士郎。)の次男として生まれた。
はじめは美作国津山藩士の箕作阮甫、次いで緒方洪庵の適塾にて蘭学を学び、それぞれの弟子となった。嘉永3年(1850年)、阮甫の二女・つねと結婚して婿養子となり、つねとの間に、長男・奎吾(夭折)、次男・数学者の大麓(秋坪の実家・菊池家の養嗣子)、三男・動物学者の箕作佳吉、四男・歴史学者の箕作元八の4男をもうけた。
幕末の外交多事のなか、幕府天文方で翻訳に従事する。安政6年(1859年)、幕府蕃書調所(東京大学の前身)の教授手伝となる。文久元年(1861年)の幕府による文久遣欧使節に福澤諭吉、寺島宗則、福地源一郎らと随行し<欧州>を視察する。慶応2年(1866年)、樺太国境交渉の使節としてロシアへ派遣される。
明治維新後は、かつての攘夷論者が率いる明治新政府に仕えるのを好まず、三叉学舎を開設。三叉学舎は当時、福沢諭吉の慶應義塾と並び称される洋学塾の双璧であり、東郷平八郎、原敬、平沼騏一郎、大槻文彦などもここで学んだ。また、日本初の本格的私立法律・経済学校である専修学校(専修大学の前身)の開設においても、法律経済科を設置し創立者である相馬永胤らに教授を任せるなどの協力をしている。明治12年(1879年)、教育博物館(国立科学博物館の前身)の館長となり、従五位に叙せられた。明治18年(1885年)には東京図書館(帝国図書館及び国立国会図書館の前身)の館長も務めた。東京師範学校摂理も務めた。
また、明治6年(1874年)、森有礼らと明六社を創立してまもなく社長に就任する。明治12年(1879年)、福澤諭吉、西周、加藤弘之らとともに東京学士会院の創設に参画し、創立会員7名の一人となる。
秋坪は古賀<どう(人偏に同)>庵に学んだ漢学の大家でもあった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AE%95%E4%BD%9C%E7%A7%8B%E5%9D%AA
⇒儒者の息子。幕府が翻訳家として登用したと言えそうです。(太田)
以上をまとめると、次の通りです。
●医者 13
うち、●🔵医者の子 11(うち、?2)
その他 2
🔵医者の子 4
⦿儒者の子 2
〇武士の子 2
また、
天領/旗本領 1(古賀謹一郎)。(赤沢寛堂は可能性あり)。
御三家2
親藩 3
譜代 4
外様 10(但し、準親藩1を含む)
不明 1
かつまた、天文方出身者が4人、お玉が池種痘所が1人、です。
(ちなみに、天文方は、1868年まで存続します。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%96%87%E6%96%B9 )
このうち、維新後に復活した開成所教授になったのは、わずか1人にとどまります。
洋学所の所員陣は、4分の1が天領/旗本領の武士/領民であってしかるべき(注5)なのに、わずか1人(~2人?)であったことは、幕府が、公的にはもちろん、その幕臣達が私的にも、恐らくは洋学者に限らず、人材の養成に失敗していたことの現れである、と言えるでしょう。
(注5)1872年(明治5年)時点で、全国:3200万石のうち、天領・旗本領が800万石
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E9%AB%98
だった。
(参考)1855年(文久3年)の江戸の藩の石高ランキング
http://kitabatake.world.coocan.jp/rekishi3.html
次に、医者を家業として継いだ者が21人中11人も占めています。
その多くは、時代は漢医ではなく洋医だという認識の下、オランダ語を身に着けた結果、その語学能力を買われて、洋書の翻訳をやらされる羽目になった者である、と見られます。
もとより、元々、洋学に興味があったけれど、生活の資を得るために、医学も勉強しておいた、という者がいた可能性はありますが・・。
とまれ、看過できないのは、武士の子ではない者が21人中18人もいたことです。
彼らの大部分が軍事・・軍事装備や軍事戦略・戦術・・に特別の思い入れがあったとは思えません。
にもかかわらず、洋学所では、もっぱら、「強兵」関係文献の邦訳をやらされたと見られるのですから、心中、複雑な思いでいた者が少なくなかったことと推察されます。
武士たる幕臣中の才覚ある者達は、自分達の職業が本来何であったかに気付かされ、読むべき書籍を、行政のための漢籍から、軍事のための蘭書に切り替える必要を感じたけれど、自分達では蘭書が読めない。そこで、緊急避難的に、蘭医達等を使って翻訳をさせたが、蘭医達等はいま一つ気が入らない。そんな彼らを、幕臣中の才覚ある者達は馬鹿にした・・という図式が想像できる、というものです。
で、洋学所での教育についてですが、昌平坂学問所での文官教育は引き続き行われていたところ、今度は、洋学所で技官教育が始められたが、相変わらず、武士/軍人教育はなされることはなかった、という整理でよさそうです。
洋学所の所員達の幕府とのこのような関係は、明治維新後のお雇い外国人(注6)、とりわけ、その中で、欧米学問の移植と学生の教育に携わった者達を彷彿とさせます。
洋学所の所員達もお雇い外国人達も、彼らの「研究」成果の利用者との関係が基本的に断絶していた、という点で共通性があった、ということです。
(注6)「「御雇」の原義は、(特に外国人に限らず)武家でない身分の者をその専門技芸において幕府の「御用」に徴用することを指した。江戸期後半になって諸外国の動向が伝わってくるにつけ、武士である幕臣だけでは様々な専門分野に対応できず、一般民の中から専門に秀でた特に優れた人材を募り、この需要に充てたものである。しかし幕府の側からすると身分としてはあくまでも「御雇い」であり、臨時雇用の色合いの濃い立場の低い扱いではあったが、それなりの処遇(給与・住居など)は与えられて、なかには能力と功績が認められると正規の幕臣として取り立てられ、武家として称氏(氏姓、苗字を名乗ること)・帯刀・世襲が許される場合もあった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E9%9B%87%E3%81%84%E5%A4%96%E5%9B%BD%E4%BA%BA
もちろん、違いもあります。
そのうちの一つは、前者の「研究」が欧米外交及び軍事に係る翻訳、すなわち、「強兵」のための知の提供であったと思われるのに対し、後者の「研究」が「強兵」だけでなく「富国」のための知の提供でもあったことです。
(5)参考:講武所
洋学所の話に戻しますが、では、かかる、「強兵」のための知、を受け取る側について、幕府は何らかの措置を講じたのでしょうか。
一応講じてはいます。
それが、講武所の設置です。
東大等の起源ではありませんが、参考までに、をの講武所を取り上げておきます。
講武所は、強兵のインフラ整備は幕閣そのものがあたるという前提の下、武芸(武術)訓練機関として、安政3年(1856年)に創設されました。
外様の諸藩の大部分が、藩校で行っていた「武」の教育を、ようやく、幕府が始めたわけです。↓
「ペリーの第2回次来航があった嘉永7年5月(1854年、安政元年)に、男谷信友(精一郎)の提案により阿部正弘が安政の改革の一環として、現在の浜離宮の南側に大筒4挺ほどの操練場を作った。正式には、安政3年(1856年)[安政2年(1855年)?]に講武場として築地に発足。まもなく築地は軍艦操練所となり、・・・万延2年(1861年)に現日本大学法学部図書館のある水道橋・・・の地に講武所を建設し武芸の講習所とし、慶応2年(1866年)11月には廃止。陸軍所に吸収されて砲術訓練所となる。・・・
諸役人、旗本・御家人、およびその子弟が対象で、・・・弓術・砲術・槍術・剣術・柔術部門に分かれ(のちに弓術部門と柔術部門は廃止)、洋式調練<も行い、>・・・総裁2名、各部門に師範役が1名ずつ、そしてその下に教授方が置かれていた。総裁には、旗本の跡部良弼と土岐頼旨、教授には、幕臣の高島秋帆・下曽根信敦・男谷信友・勝海舟・榊原鍵吉・窪田清音・伊庭秀俊・大村益次郎(村田蔵六)らがなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AC%9B%E6%AD%A6%E6%89%80
兵学教育も行った。「九鬼隆都が総裁、窪田清音が頭取兼兵学師範役に就任」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E9%B9%BF%E7%B4%A0%E6%B0%B4
男谷信友(1798~1864年)。「男谷検校(米山検校)の孫・男谷信連(新次郎)の子として生まれる・・・
検校は元々越後国三島郡長鳥村(現・新潟県柏崎市)の貧農の出で盲人であったが、・・・利財の才に長け・・・検校の末子平蔵(忠凞)は、安永5年(1776年)に江戸幕府の西丸持筒与力(御家人)となり(父に御家人株を買い与えられたという)、後に勘定に昇進し旗本となった。平蔵の長子が彦四郎で、三男が左衛門太郎(小吉)惟寅、勝海舟の父である。したがって、信友と勝海舟は血縁では又従兄弟・・・になる。・・・
信友は文化2年(1805年)、8歳のときに本所亀沢町、直心影流剣術12世の団野源之進(真帆斎)に入門して剣術を習い始めた。さらに、平山行蔵に兵法を師事、他に宝蔵院流槍術、吉田流射術にも熟達した。文政6年(1824年)、団野から的伝を授けられ、麻布狸穴に道場を開く。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B7%E8%B0%B7%E4%BF%A1%E5%8F%8B
「砲術方は西洋砲術(銃隊調練)を採用」
https://nihonshi.info/4%E6%9C%8813%E6%97%A5%E3%80%80%EF%BC%9C%E6%B1%9F%E6%88%B8%E5%B9%95%E5%BA%9C%E3%81%AE%E8%AC%9B%E6%AD%A6%E6%89%80%E3%81%8C%E9%96%8B%E6%A0%A1%EF%BC%881856%E5%B9%B4%EF%BC%9D%E5%AE%89%E6%94%BF6%EF%BC%89/
というのだから、砲術部門で、小銃射撃や小銃(と火砲?)を用いた練兵もやったようです。
で、そもそも、二人総裁制自体が、江戸町奉行じゃあるまいし、アナクロもいいところですが、一人目の総裁の跡部良弼は、武術も兵学にも縁がなさそうな人物であって、行政官・・名門故、昌平坂学問所で学んでいない・・として疑問符が付く(コラム#9765)、というわけで、完全なミスキャストです。↓
跡部良弼(よしすけ。1799~1869年)。「肥前唐津藩主水野忠光の六男で、老中水野忠邦の実弟。・・・旗本・跡部家に養子入りした・・・駿府、堺の両町奉行を経て大坂東町奉行・・・大塩の乱の鎮圧では、良弼も手兵を率いて出馬したが、計略を事前に察知していたにもかかわらず、大塩方が発した大砲の音に驚いて落馬したという醜態が記録されている。乱は鎮圧されたが、大坂の町の5分の1が破壊される被害を出す惨事となった。
大塩の乱について責任を問われることはなく、その後は大目付を経て勘定奉行に栄進した。勘定奉行在任中の天保13年(1842年)、翌年に予定された12代将軍徳川家慶の日光東照宮謝参準備のため日光に赴く途中、下総古河の宿場本陣に宿を取ったが、幕府の威光を盾にして、参勤交代で既に同宿場の本陣に入っていた陸奥仙台藩主伊達慶邦を強制的に退去させたため、後日伊達侯から幕府に強硬な抗議がなされたという逸話が残る。・・・
以後は江戸南町奉行、小姓組番頭、留守居、講武所総裁、江戸北町奉行を歴任した。幕末の慶応4年(1868年)に若年寄に就任するもわずか7日で免職とな<った。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B7%A1%E9%83%A8%E8%89%AF%E5%BC%BC
土岐頼旨も、跡部同様、武術も兵学にも縁がなさそうな人物で、行政官・・やはり、名門故、昌平坂学問所で学んでいない・・としては、跡部よりはしっかりしていそうであるけれど、ミスキャストである点では変りありません。↓
土岐頼旨(1805~84年)。「旗本、幕臣・・・天保7年(1836年)1月11日に普請奉行、天保9年(1838年)2月12日の作事奉行を経て天保12年(1841年)に勘定奉行に就任した。天保13年(1842年)4月15日に書院番頭に移り、天保14年(1843年)9月8日に下田奉行、天保15年(1844年)2月8日に浦賀奉行となり、弘化2年(1845年)にマーケイター・クーパー指揮下のアメリカ捕鯨船マンハッタン号が日本人漂流者を江戸に送り届けたいことを幕府に届け出た時、浦賀で漂流民を受け取るべきと幕府に上申、認められてマンハッタン号を浦賀に入港させ、漂流民を受け取った。同年3月20日、大目付兼海岸防禦御用掛(海防掛)に異動、弘化3年(1846年)3月28日に大番頭、嘉永5年(1852年)7月8日に留守居に移る。安政2年(1855年)2月5日、・・・講武所の総裁に跡部良弼と共に任命される。また、8月9日には大目付兼海岸防禦御用掛(海防掛)にも再任され、幕末の海防に携わった。安政4年(1857年)11月には・・・川路聖謨と共に<米>総領事タウンゼント・ハリスと日米修好通商条約の交渉に当たった。また翌安政5年(1858年)2月にはオランダとの交渉にも携わっている。
将軍継嗣問題に関しては一橋派に属して一橋慶喜の擁立を図り、松平慶永と通じたり、南紀派の井伊直弼・松平忠固らの駆逐計画について岩瀬忠震と議したりしていたが、安政5年(1858年)5月6日に突如大目付を免ぜられ、大番頭へ左遷させられた。さらに翌年の安政6年(1859年)10月19日には安政の大獄により職を免ぜられ、隠居・差控を命じられた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E5%B2%90%E9%A0%BC%E6%97%A8
時勢柄、「強兵」で最も重要なはずの砲術の先任師範に非武士出身者を充てざるをえなかった、という一点だけでも、幕府も命運は尽きていた、と言うべきでしょう。↓
高島秋帆(1798~1866年)。「寛政10年(1798年)、長崎町年寄の高島茂起(四郎兵衛)の三男として生まれた。・・・文化11年(1814年)、父の跡を継ぎ、のち長崎会所調役頭取となった。当時、長崎は日本で唯一の海外と通じた都市であったため、そこで育った秋帆は、日本砲術と西洋砲術の格差を知って愕然とし、出島のオランダ人らを通じてオランダ語や洋式砲術を学び、私費で銃器等を揃え天保5年(1834年)に高島流砲術を完成させた。・・・幕府の富士見宝蔵番兼講武所支配および師範となり、幕府の砲術訓練の指導に尽力した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B3%B6%E7%A7%8B%E5%B8%86
で、例によって、講武所の関係者をご紹介しましょう。
下曽根が教えたのは、もっぱら、砲術(火砲の運用)であった模様であり、火砲や砲弾の科学技術的原理は疎んじられていたように見受けられます。↓(太田)
下曽根信敦(1806~74年)。「旗本・筒井政憲の次男で、同じく旗本の下曽根信親の養子となった。・・・文政12年(1829年)に家督相続、小普請組に入る。天保6年(1835年)、渡辺崋山の門人となったが、崋山は蛮社の獄で蟄居させられた。天保12年(1841年)5月9日に幕閣立会いの下で行われた高島秋帆による日本初の洋式砲術と洋式銃陣の公開演習が武州徳丸ヶ原(現・高島平)で行われた。幕臣の下曽根および少し遅れて江川英龍が幕命により高島流砲術を学ぶために弟子入りして西洋流砲術を取得することが定められた。下曽根は塾を開き砲術の普及に努めた。・・・
下曽根の塾と江川の塾には西洋式兵制を学ぶために諸大名以下多くの門弟が集った、・・・ 安政2年(1855年)に鉄砲頭に任命、次いで翌安政3年(1856年)、新設の講武所の砲術師範に迎えられた。
文久元年(1861年)に西丸留守居に転じ、文久3年(1863年)には歩兵奉行に任じられたが、元治元年(1864年)に解任され、砲術師範に戻った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E6%9B%BD%E6%A0%B9%E4%BF%A1%E6%95%A6
⇒銃剣道ならともかく、剣道を正科にしたこと自体、アナクロでした。↓(太田)
男谷信友(1798~1864年)。「通称は精一郎。・・・信友と勝海舟は血縁では又従兄弟、系図上では従兄弟の間柄になる。
信友は文化2年(1805年)、8歳のときに本所亀沢町、直心影流剣術12世の団野源之進(真帆斎)に入門して剣術を習い始めた。さらに、平山行蔵に兵法を師事、他に宝蔵院流槍術、吉田流射術にも熟達した。文政6年(1824年)、団野から的伝を授けられ、麻布狸穴に道場を開く。・・・島田虎之助、大石進と並んで「天保の三剣豪」と謳われた。・・・
信友は兵学の重鎮であった窪田清音らと講武所の頭取並に就任し、門下からも榊原鍵吉などが剣術の師範役に就いた。講武所の剣術稽古は信友の方針により、形稽古を廃し、竹刀試合を主とした稽古が激しく行なわれた。また、信友はそれまでまちまちであった竹刀の全長を3尺8寸と定めた。これらの規定は明治以降の剣術に受け継がれ、現代の剣道に大きな影響を与えた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B7%E8%B0%B7%E4%BF%A1%E5%8F%8B
⇒勝海舟のような、山っ気の多い人間を、講武所の師範に、しかも、「数学が苦手」だというのに、砲術師範にしたことも、幕府のやる気を疑わせるものです。↓(太田)
勝海舟。「剣術は、実父・小吉の実家で従兄の男谷信友の道場、後に信友の高弟・島田虎之助の道場で習い、直心影流の免許皆伝となる。師匠の虎之助の勧めにより禅も学んだ。兵学は窪田清音の門下生である若山勿堂から山鹿流を習得している。蘭学は、江戸の蘭学者・箕作阮甫に弟子入りを願い出たが断られたので、赤坂溜池の福岡藩屋敷内に住む永井青崖に弟子入りした。弘化3年(1846年)には住居も本所から赤坂田町に移り、更に後の安政6年(1859年)7月に氷川神社の近くに移り住むことになる。
この蘭学修行中に辞書『ドゥーフ・ハルマ』を1年かけて2部筆写した有名な話がある。1部は自分のために、1部は売って金を作るためであった。蘭学者・佐久間象山の知遇も得て[注釈 6]、象山の勧めもあり西洋兵学を修め、田町に私塾(蘭学と兵法学)を開いた。・・・
文久元年(1861年)9月5日に講武所砲術師範となり天守番之頭格に格上げされたが、海軍から切り離されたためこれを左遷または海軍からの追放と受け取り、直弼暗殺後に政権を担当した安藤信正・久世広周の元では海軍強化の提案もロシア軍艦対馬占領事件に関する建策も採用されず不満の日々を送った。また、蕃書調所での勤務態度は不真面目でさぼってばかりで、頭取古賀謹一郎に任せきりだったとされる。 」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%9D%E6%B5%B7%E8%88%9F (「」内も)
⇒いくら何でも、砲術師範が3名に対し、剣術の師範も(後出の伊庭秀俊を含めて)3名、というのでは、話になりません。↓(太田)
榊原鍵吉(1830~94年)。「御家人・榊原益太郎友直の子。・・・
男谷信友から直心影流男谷派剣術を継承・・・
安政3年(1856年)3月、27歳のときに男谷の推薦によって講武所の剣術教授方となる。後に師範役に進む。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A6%8A%E5%8E%9F%E9%8D%B5%E5%90%89
⇒窪田清音は、山鹿流兵法者で長沼流兵法等も身に着けたこと自体は大変結構ではあれど、欧米兵法に目もくれない講義を行った模様であり、どうしようもありません。↓(太田)
窪田清音(くぼたすがね。1791~1867年)。「旗本・・・兵学・武術の達人で知られた父・窪田勝英から中島流砲術、外祖父・黒野義方から山鹿流兵法・吉富流居合を伝授される。甲州流軍学(都築勘助門人)、越後流軍学(松本三甫門人)、長沼流軍学(斎藤三太夫門人)も習得し、山鹿流兵法学者として甲越長沼等諸流兵法を兼修した。
武術では、田宮流剣術・居合・関口流柔術(平野匠八門人)、宝蔵院流槍術(鈴木大作門人)、無辺夢極流槍術(和田孫次郎門人)、小笠原流弓術(小笠原館次郎門人)、日置流弓術(土井主税門人)、大坪流上田派馬術(浅井金兵衛門人)、外記流砲術(井上左太夫門人)、能島流水軍(小島元八門人)を習得、皆伝した。
兵法と武術のみならず、伊勢流武家故実(本多忠憲門人)、国学(加藤千蔭門人)、和歌、書(岡田真澄門人)を学び、師範免許を得ている。・・・
清音は山鹿素水との関係が深い九鬼隆都の推薦もあり、兵法、武術、古伝研究の第一人者として幕府講武所頭取兼兵学師範役に就任した。幕末の情勢で近代兵器が台頭する状況で、清音は山鹿流の伝統的な武士道徳重視の講義を続けたことで様々な反応を呼び起こしたが、石岡久夫の研究によると、講義では士道の軸となるべく山鹿流の武士道徳を強調した反面、清音が著した五十部の兵書のうち、晩年の「練兵新書」、「練兵布策」、「教戦略記」などは、練兵主義を加えることで、山鹿流を激変する幕末の情勢に対応させようとしていたという。・・・
兵学門人は諸侯、旗本以下3000人余、剣術門人は600人余。 著名な門人には若山勿堂、谷口是忠、宍戸弥四郎、筧弥太郎、武藤為吉、林鶴梁、駒井朝温、小栗忠順、田都味嘉門、鈴木重嶺、中條金之助、戸田忠道、戸田忠昭、江原素六、小泉弥一郎、依田伴蔵、加藤田平八郎、高野武貞などがいる。
若山勿堂を通じた孫弟子に勝海舟、板垣退助、坂本龍馬、中岡慎太郎、土方久元、佐々木高行、谷干城、田都味嘉門を通じた孫弟子には土居通夫、山崎惣六、児島惟謙がいるなど」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AA%AA%E7%94%B0%E6%B8%85%E9%9F%B3
⇒同じく。↓(太田)
伊庭秀俊(1822~86年)。「大番与力新井一郎左衛門の子として生まれ、・・・養父秀業の家督を相続して、心形刀流九代目を襲名。・・・嘉永五年(1852)閏二月十二日、富士見御蔵番を拝命し、安政三年三月一日講武所の剣術教授方を仰せつけられる。文久元年(1861)八月五日、講武所剣術師範役並から小十人格となる。奥詰、両御番上席、二ノ丸御留守居格布衣の役を経て、慶応二年(1866)十一月十八日、遊撃隊頭取とすすみ、高百俵・御役金四百両・御手当十五人扶持を食む。維新後、海軍兵学校の剣道教師とな<る。>」
https://ameblo.jp/rekisi-shiro/entry-11912066290.html
⇒大村こそ、一見、講武所の師範にふさわしいように思われますが・・。↓(太田)
大村益次郎(村田蔵六)。「周防国吉敷郡鋳銭司(すぜんじ)村字大村(現・山口県山口市鋳銭司)に村医の・・・の長男として生まれる。天保13年(1842年)、防府で、シーボルトの弟子の梅田幽斎に医学や蘭学を学び、翌年4月梅田の勧めで豊後国日田に向かい、4月7日広瀬淡窓の私塾咸宜園に入る。1844年6月まで漢籍、算術、習字など学ぶ。同年、帰郷して梅田門下に復帰後、弘化3年(1846年)、大坂に出て緒方洪庵の適塾で学ぶ。適塾在籍の間に長崎の奥山静叔のもとで1年間遊学し、その後帰阪、適塾の塾頭まで進む。
⇒大村が、非武士の出身であることから、武術を身に着けていなかったことは当然だとしても、彼が、兵学の勉強を行った形跡もないことは問題です。
所詮、彼は、軍事の技術と運用の専門家以上ではなかったはずです。(太田)
嘉永3年(1850年)、・・・帰郷し、四辻で開業し、村医となって村田良庵と名乗る。・・・
嘉永6年(1853年)、・・・大村は伊予宇和島藩<に>出仕する。ただし宇和島藩関係者の証言では、大村はシーボルト門人で高名な蘭学者の二宮敬作を訪ねるのが目的で宇和島に来たのであり、藩側から要請したものでな<かった>という。・・・
大村は宇和島藩で西洋兵学・蘭学の講義と翻訳を手がけ、宇和島城北部に樺崎砲台を築く。安政元年(1854年)から翌安政2年(1855年)には長崎へ赴いて軍艦製造の研究を行った。・・・宇和島では提灯屋の嘉蔵(後の前原巧山)とともに洋式軍艦の雛形を製造する。ただし、わずかな差で国産初ではない(国産第1号は薩摩藩)といわれている。・・・
⇒大村の登用に、宇和島藩↑(一応外様)と幕府↓の間で、4年超のタイムラグがあるわけですが、この4年の差に象徴されているところの、幕府の遅れは取り返しがつかなかったということです。(太田)
安政3年(1856年)4月、藩主伊達宗城の参勤にしたがって江戸に出る。同年11月1日、私塾「鳩居堂」を麹町に開塾して蘭学・兵学・医学を教える(塾頭は太田静馬)。同16日、宇和島藩御雇の身分のまま、幕府の蕃書調所教授方手伝となり、外交文書、洋書翻訳のほか兵学講義、オランダ語講義などを行い、・・・安政4年(1857年)11月11日、・・・幕府の講武所教授となり、最新の兵学書の翻訳と講義を行った。・・・
⇒本来、調べてからものを言わなければならないのですが、私のカンでは、ここでの「兵学」は「軍事戦術」でしょうね。(太田)
同年3月19日には長州藩上屋敷において開催された蘭書会読会に参加し、兵学書の講義を行うが、このとき桂小五郎(のちの木戸孝允)と知り合う。これを機に万延元年(1860年)、長州藩の要請により江戸在住のまま同藩士となり、扶持は年米25俵を支給される。塾の場所も麻布の長州藩中屋敷に移る。文久元年(1861年)正月、一時帰藩する。西洋兵学研究所だった博習堂の学習カリキュラムの改訂に従事するとともに、下関周辺の海防調査も行う。同年4月、江戸へいったん帰り、文久2年(1862年)、幕府から委託されて英語、数学を教えていたヘボンのもとで学んだ。・・・
⇒まるで、幕府が、近い将来の仇敵に熨斗を付けて大村を「戻し」てやったような形ですね。
一体、何をやってるんだ、と言いたくなります。(太田)
文久3年(1863年)10月、萩へ帰国する。24日、手当防御事務用掛に任命。翌元治元年(1864年)2月24日、兵学校教授役となり、藩の山口明倫館での西洋兵学の講義を行い、5月10日からは鉄煩御用取調方として製鉄所建設に取りかかるなど、藩内に充満せる攘夷の動きに合わせるかのように軍備関係の仕事に邁進する。一方では語学力を買われ、8月14日には四国艦隊下関砲撃事件の後始末のため外人応接掛に任命され、下関に出張している。26日の外国艦隊退去後、29日に政務座役事務掛として軍事関係に復帰、明倫館廃止後の12月9日、博習堂用掛兼赤間関応接掛に任命される。・・・
長州藩では元治元年(1864年)の第一次長州征伐の結果、幕府へ恭順し、保守派が政権を握ったが、慶応元年(1865年)、高杉晋作らが馬関で挙兵して保守派を打倒、藩論を倒幕でまとめた。同年、大村は藩の軍艦壬戌丸売却のため、秘密裏に上海へ渡っている。・・・
福沢諭吉は自伝『福翁自伝』で、1863年の江戸における緒方洪庵の通夜の席での出来事として、
「(福沢が)『どうだえ、馬関では大変なことをやったじゃないか。……あきれ返った話じゃないか』と言うと、村田が眼に角を立て『なんだと、やったらどうだ。……長州ではちゃんと国是が決まっている。あんな奴原にわがままをされてたまるものか。……これを打ち払うのが当然だ。もう防長の土民はことごとく死に尽くしても許しはせぬ。どこまでもやるのだ。』と言うその剣幕は以前の村田ではない。」
と、長州藩士になりたての大村が過激な攘夷論を吐いたことに驚き
「自身防御のために攘夷の仮面をかぶっていたのか、または長州に行って、どうせ毒をなめれば皿までと云うような訳で、本当に攘夷主義になったのか分かりませぬが……」
と解釈している。大村自身が攘夷について言及した記録が他には見当たらないので真相は不明であるが、福沢と大村は元来そりが合わず、長州藩を攘夷の狂人扱いする福沢の物言いに立腹して口走ったのではないかという説もある」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%9D%91%E7%9B%8A%E6%AC%A1%E9%83%8E
⇒1963年の時点では、福沢はまだ(一応親藩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%B4%A5%E8%97%A9
だが、実態は拡大島津藩の一員であった(コラム#省略))中津藩から幕府に正式に移籍こそしていなかった・・移籍は翌年の1864年
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E6%BE%A4%E8%AB%AD%E5%90%89
・・けれど、事実上、幕府の人間になっていたので、大村が本心を明かさなかった可能性もゼロではありませんが、先生の通夜の席では、二人とも、意識は裃を脱いだ適塾の塾生時代に戻ったはずであり、私は、これは大村の本心だと思います。
そうだとすれば、「久坂玄瑞・・・は謹慎中の文久2年(1862年)8月、『廻瀾條議』と名付けた建白書を藩主に上提した。これが藩主に受け入れられ、長州藩の藩論となる。藩論は航海遠略策を捨て、完全に尊王攘夷に変更された(長井は翌年2月自刃を命ぜられた)。また翌月には、全国の尊攘派同<志>に向けた実践綱領の書『解腕痴言』を書いた。
『廻瀾條議』と『解腕痴言』は、結局「西洋の強大な武力に屈服する形で開国するのではなく、対等に交渉する気力を奮い起こすべきであり、それによって国力を回復させ、軍備を整えた後、対等な立場で条約締結に及ぶ」という意見であった。これは師松陰の開国的攘夷論を踏まえたものであるが、他方、「攘夷」という主張は、政権を幕府から朝廷へ回復させる倒幕という目的からも有効であると玄瑞は力説した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E5%9D%82%E7%8E%84%E7%91%9E
ことから、下関戦争が、長州藩の当時の藩論を形成した久坂としては、倒幕につなげるのが目的であったことすら、大村は聞かされていないばかりか、自分で気が付くことすらなかったことを意味します。
(しかも、久坂らすら、自分達が、島津斉彬コンセンサスに則って行動している薩摩藩の掌の上で転がされていることに気付いていなかったはずであることに思いを致せば、大村の二重の愚かさに、我々は、もはや言葉を失います。)
このことは、既に紹介したところの、長州征伐時や戊辰戦争時の大村の言動からも、彼が戦略音痴であったことが分かることからも、言えそうです。(太田)
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[幕末の西洋兵学受容]
幕末の欧米(西洋)兵学翻訳書群
http://www.ndl.go.jp/nichiran/s2/s2_5.html ※
http://www.library.tohoku.ac.jp/collection/exhibit/sp/2002/explanation.html
を一瞥した限りでは、戦略論で名高い、
プロイセン出身のハインリッヒ・ディートリッヒ・フォン・ビューロー、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%92%E3%83%BB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%92%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%93%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%AD%E3%83%BC
スイス出身のアントワーヌ=アンリ・ジョミニ、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%8C%EF%BC%9D%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%9F%E3%83%8B
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%A6%E4%BA%89%E6%A6%82%E8%AB%96
カール・フィーリプ・ゴットリープ・フォン・クラウッゼヴィッツ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%82%BC%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%83%E3%83%84
の著作は皆無だ。
そもそも、兵器や軍事戦術に関する著作ばかりで、戦争論や戦略論に関する著作は見当たらない。
例えば、※の中に、ビューローに影響を与えた人物群の一人であるシャルンホルスト・・参謀本部制度の生みの親の一人
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B2%E3%83%AB%E3%83%8F%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%AB%E3%83%B3%E3%83%9B%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%83%88
・・の本が登場するが、Militärisches Taschenbuch・・恐らく、zum Gebrauch im Felde. Mit einem Vorwort von Ulrich Marwedel, Neudruck der 3. Auflage von 1794
https://de.wikipedia.org/wiki/Gerhard_von_Scharnhorst
・・の蘭訳本であり、『野戦軍事便覧』といった趣のもので、訳者の西村茂樹は『陸軍字彙字書原稿』というタイトルにしているところ、戦争論や戦略論にも触れている内容であるとは考えにくい。
なお、大村益次郎は、J. KnoopのKort begrip der krijgskunst(1853)を翻訳している。(「兵家須知戦闘術門」)(※)
文字通り軍事戦術の本だ。
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(以下、次回オフ会「講演」原稿に続く)
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太田述正コラム#10043(2018.9.1)
<2018.9.1東京オフ会次第>
→非公開