太田述正コラム#9835(2018.5.20)
<眞壁仁『徳川後期の学問と政治』を読む(その73)>(2018.9.3公開)

 「しばしば政策以前とも思われるこのような個人的確執や組織対立は、重要案件をめぐる政策論争、さらにその政治判断を行う際の思想的対立をも伴っていた。
 謹堂<は>「書生」の「正論」をもって、勘定系の川路聖謨や村垣興三郎<(注161)>と「激論」した・・・

 (注161)村垣範正(むらがきのりまさ。1813~80年)。「旗本・・・の次男として生まれる。・・・天保2年(1831年)、新規に召し出され小十人格庭番となり、弘化2年(1845年)には細工頭、安政元年(1854年)には賄頭を経て勘定吟味役に抜擢。海防掛・蝦夷地掛として同年3月より蝦夷地・樺太巡視を行い、日露国境を確認。10月に江戸に帰府した。
 同年、ロシアのプチャーチン艦隊の再来日に際して、筒井政憲・川路聖謨らとともに露使応接掛として伊豆下田に赴任した。翌年以降、箱館表御用、内海台場普請ならびに大筒鋳立大船其他製造御用、東海道筋川々普請掛などを歴任。安政3年(1856年)7月には箱館奉行に昇進し、・・・先任の堀利煕とともに蝦夷地の調査・移民奨励・開拓事業を推進。1857年にはアイヌの間で蔓延していた天然痘対策のために幕府に種痘の出来る医師の派遣を要請し、桑田立斎らが派遣されて大規模種痘が行われた。これは幕府が正式に認めた初の種痘であった。安政5年(1858年)には安政の大獄で免職となった岩瀬忠震に代わって外国奉行に任命され、さらに翌年には神奈川奉行を兼務するなど能吏ぶりを買われた。
 安政7年(1860年)日米修好通商条約批准書交換のため幕府が<米国>へ派遣する使節団の副使(正使は新見正興、目付は小栗忠順)を拝し、正月に米国軍艦ポーハタン号にて太平洋航路で出港。・・・9月27日に江戸へ到着した。・・・
 ・・・同年11月・・・プロイセン・・・との間の日普修好通商条約締結にあたり、交渉中であった堀利煕が突然謎の自刃を遂げたため、その交渉の任を引き継ぎ、翌月、日本側全権として調印に臨んだ。
 文久元年(1861年)ロシア艦ポサドニック号が対馬芋崎浦を占拠するという事件(ロシア軍艦対馬占領事件)に際しては、箱館においてロシア領事ゴシケヴィチと交渉し、退去を求めた。また箱館港の砲台建設も促進した。文久3年(1863年)6月には作事奉行に転じ、翌元治元年(1864年)には西の丸留守居、若年寄支配寄合となり、一線から退く。・・・明治維新後は官職に就か<なかっ>た。
 遣米使節の護衛として咸臨丸に乗船した軍艦奉行・木村喜毅(芥舟)は、村垣を「機敏にして吏務に練達す」と評した。一方、福地源一郎(桜痴)は「純乎たる俗吏にて聊か経験を積たる人物なれば、素より其の器に非ず」と酷評している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E5%9E%A3%E7%AF%84%E6%AD%A3

⇒木村と福地の村垣評の最大公約数は、村垣が能吏ではあったらしい、ということです。
 幕府には能吏・・村垣の場合は人間主義的能吏だったらしい、と言えそう・・はいても、まともな政治家が殆どいなかったと私も思いますが、村垣をまともな政治家ではなかったと批判しても始まらないでしょう。
 例えば、町儒医の息子として生まれ、御家人にとり立ってられたところの、この福地源一郎(1841~1906年)自身、まともな政治家であったかどうかですが、1868年6月、彰義隊が上野で敗れた直後、「明治維新というが、・・・ただ、徳川幕府が倒れて薩長を中心とした幕府が生まれただけだ」という事実誤認コラムを、自分がその前月創刊していた『江湖新聞』に書き、すんでのところで重い処分を受けるところだった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E5%9C%B0%E6%BA%90%E4%B8%80%E9%83%8E
こと一つとっても、そうでなかったことは明らかでしょう。(太田)

 勘定系村垣と川路によれば、海防参与の徳川齋昭は外国人を「蚊蛇の如」く見、「蜂剪を焚くの法」をもって西洋諸国の排除を狙い、老中首座の阿部は、領事官・開港・国境画定のいずれも拒否する意向である。
 「人臣之節」としてロシア側の要求拒絶の命令に従わないわけにはいかない。
 齋昭と正弘の意向、上官の指令を支障なく遂行するのは、官僚としてたしかに能吏である。
 このような勘定系に対して謹堂は鋭く質問する。
 国内議論の「決裂」している状態と、主君への義理立てとどちらを重視するのか。
 敵を興す<(注162)>と、好を結ぶとどちらを選択するのか。

 (注162)ここの「興す」は、「大挙して立ち上がらせる。」
https://kotobank.jp/word/%E8%88%88%E3%81%99-452016
意だろう。

⇒当時の幕閣の方針はぶらかし策であって、「敵を興す」ことなく時間を稼ぎ、軍事力を「敵」を攘夷できるまで強化した上で鎖国を維持する、というものであったところ、軍事力の強化を行うことが、鎖国を維持するにせよ、開国するにせよ、必要不可欠だったのですから、攘夷か開国かを議論しているヒマがあったら、幕府は総力をあげて、軍事力の強化、つまりは、富国強兵策に取り組まなければならなかったのです。
 (そうしておれば、前述した理由から、早晩、開国せざるをえなくなっていたことでしょう。
 しかし結局、富国強兵策に幕府は取り組むことがなかったわけであり、だからこそ、取り組んできていた薩摩藩等によって滅亡させられてしまうわけです。)
 従って、謹堂の開国論など、彼自身の言葉を借りれば、まさに「書生」論でしかなかったのです。(太田)

 そして僅か一艘が着水しただけで得意気な勘定系役人に対して、ロシアの上にさらにイギリス・フランス・アメリカがあると西洋列強を数え上げる 」(464~465)

(続く)