太田述正コラム#9841(2018.5.23)
<眞壁仁『徳川後期の学問と政治』を読む(その76)>(2018.9.6公開)

 「・・・ロシア使節との外交交渉は、安政元(1854)年11月14日、地震と津波から10日後の下田での第三回会商において、領事裁判権の施行(日本國魯西亞國通好條約<(注169)>第八條)と片務的最恵国条項<(注170)>への同意(同、第九條)を与えてしまう。

 (注169)「本条約によって、千島列島の択捉島と得撫島の間に国境線が引かれた。樺太においては国境を設けず、これまでどおり両国民の混住の地とすると決められた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E9%9C%B2%E5%92%8C%E8%A6%AA%E6%9D%A1%E7%B4%84
 (注170)「日米和親条約<について言えば、>・・・最恵国待遇を与えると、日本が<米国>以外の国との間で、<米国>と結んだ条約よりも相手国にとって有利な条約を結んだ場合、その条約が自動的に<米国>との間でも適用されることになります。
 ・・・日本は、<米国>との間で、・・・下田と箱館(函館)の二港を開港したわけですが、後にB国が、三港を開港するという日米和親条約よりも有利な条約を結<んだ場合>、<米国>との間で新たに条約を結ぶことなく自動的に、B国に開港された港を<米国>にも開港したことになる、これが最恵国待遇です。
 <で、>「片務的」という言葉の意味です<が、>これは、「片方だけが義務を負う」ということです。日米和親条約でいう「片方」は日本のことです。
 つまり、日本は<米国>を最恵国として扱う義務を負うのですが、<米国>は日本を最恵国として扱う必要はないということです。<米国>が、日本以外の国(仮にC国とします)との間で、C国に有利な条約を結んだとしても、その条約は日本には影響を及ぼさないということになります。
 日米修好通商条約が不平等条約であることは<良く知られていま>すが、日米和親条約の時点ですでに不平等なのです。」
https://withdom.jukendou.jp/articles/1068

⇒当時、日本が欧米諸国との間で最初に締結した日米和親条約が既に片務的最恵国条項を含んでいたことも、その後日本が締結した日本國魯西亞國通好條約(日露和親条約)が初めて領事裁判権を規定していたことも、私は、忸怩たる思いですが、知りませんでした。(太田)

 後者はすでに同年三月調印の日米和親條約(神奈川條約、「日本國米利堅合衆國和親條約」第九條)でも承認していた点であったが、すでにみたように従来より対外関係における諸外国均等待遇と国別格差待遇は国内での争点でもあり、また前者についても、先の林復齋や古賀謹堂、あるいは鹽谷宕陰<(注171)>の議論のように、清朝における犯罪者引き渡し拒否の事例を知る日本の識者が、無定見であった訳ではない。・・・

 (注171)しおのやとういん(1809~67年)。「江戸愛宕山下に生まれる。・・・昌平黌に入門し、また松崎慊堂に学んだ。遠江掛川藩主の太田氏に仕え、嘉永6年(1853年)ペリー来航の際に献策し、海防論を著す。文久2年(1862年)昌平黌教授に抜擢され修史に携わる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A1%A9%E8%B0%B7%E5%AE%95%E9%99%B0

⇒「すでにみたように」や「先の・・・議論のように」とありますが、見落としたのか記憶になく、確認しようと若干は試みたのですが、その根気も続きませんでした。
 このことでも、また異なった忸怩たる思いにかられた次第です。(太田)

 田邊蓮舟<(前出)>は、この「所謂治外法権」について、その日本での由来を家康のイギリス国王への返書翰に添えられた通商規則<(注172)>(第六・七条)に求め、また、「當時馭外の古法に淵源せしものにして、恰もかの所謂萬國公法てふものゝ、非基督教國を待遇する所以の様式に符合せるなり」と<してい>る。・・・ 」(469~470、618)

 (注172)家康の令状に添えられた「イギリス人に日本国内での居住と通商を許可する旨を記した親書(朱印状)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%96%E5%8F%B7
のことだろうが、この朱印状の現物の写真を見つけた
http://bodley30.bodley.ox.ac.uk:8180/luna/servlet/detail/ODLodl~23~23~98896~137206:Shuinjo–The-original-vermillion-se
ものの、私には読解できなかった。

⇒田邊の「非基督教國」という表現は、形式的には正しいものの、実質的には「欧米諸国から見ての非文明国」を意味していたことに、彼は気付いていなかったと想像されるわけですが、結局、当時の、対外交渉に関わっていた幕臣達全体が、領事裁判権問題だけではなく、片務的最恵国条項についても、眞壁の言うところとは違って、「無定見であった」結果、さしたる議論なしに、これら条項を受け入れてしまったのではないでしょうか。
 そのために、明治維新後の日本政府は、「不平等」諸条約改正に大変な苦労をさせられる羽目になった、と言えるではないでしょうか。(太田)

(続く)