太田述正コラム#9845(2018.5.25)
<眞壁仁『徳川後期の学問と政治』を読む(その78)>(2018.9.8公開)
「・・・その古賀謹一郎(謹堂)<は、>・・・洋学機関の学政の任を全うすることはできなかった。
頭取職にあっても、幕閣の意向を受けた指導が加わり、葛藤は絶えなかった。・・・
そして、安政2(1855)年8月から統率した洋学所・蕃書調所が、小川町から一ツ橋門外の護持院ガ原に移転され、洋書調所と改称される文久2(1862)年5月に、謹堂はついに、西丸留守居学問所御用へと転任させられる(文久2年5月15日)。・・・
⇒左遷されたと言ってよさそうなのは、眞壁と違って、私は当然だと思いますが、7年も同じポストにおれば、いくらそれが創設されたポストであったとしても、時期的に、そもそも、転任させられてしかるべきでしょう。(太田)
謹堂はその後、元治元(1864)年12月末には横須賀製鉄所<(注175)>奉行並<(注176)>となる。
(注175)「幕末の1865年(慶応元年)、江戸幕府の勘定奉行小栗忠順の進言により、フランスの技師レオンス・ヴェルニーを招き、横須賀製鉄所として開設される。その後造船所とするため施設拡張に着手したが幕府が瓦解。明治新政府は1868年9月に・・・横須賀製鉄所を接収。・・・横須賀造船所・・・を1871年に完成させた。・・・ 1872年10月に工部省から海軍省の管轄になり、1876年8月31日には海軍省直属となり、1884年には横須賀鎮守府直轄となる。1903年には組織改革によって横須賀海軍工廠となり、多くの軍艦を製造した。第二次世界大戦後は在日米軍の基地となっている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%AA%E9%A0%88%E8%B3%80%E9%80%A0%E8%88%B9%E6%89%80
(注176)「並」とは、「心得」・・ 官庁や会社で、ある役職の職務を下級の者が代行する時の職名。・・
https://kotobank.jp/word/%E5%BF%83%E5%BE%97-500570
のことだとも思われるが、確証が得られなかった。
⇒横須賀製鉄所跡地が米軍基地になっていて、しかも、そこが、原子力空母の母港になっている、というのは、まことに心が痛みます。(太田)
そして、その2ヶ月後に慶應3年3月に任命された、新たに目付となっての朝鮮遣外使節の大任が、彼の最後の仕事となった。
李大王3(1866)年1月の朝鮮で、キリスト教徒の大迫害が起こり、フランス人神父9名を含む、万に近い数とされる信徒が処刑された。
丙寅大獄とされるこの難を免れた神父の急告により(5月)、フランス政府は、フランス極東艦隊司令長官と駐清フランス臨時代理公使の判断で、外交手段によっては清朝の総理各国事務衙門を通して礼部に照会を求め(6月)、朝鮮偵察としてはフランス艦隊を向かわせ(8月)、さらに9月の第二回遠征の際には江華府を軍事占領した。
しかし、朝鮮の徹底抗戦により、艦隊は撤退を余儀なくさせられた。<(注177)>
(注177)丙寅洋擾(へいいんようじょう)。「アヘン戦争やアロー戦争で既に表面化していた<欧州>によるアジア諸国の植民地化に対する野心、及び同時期に起きた洪秀全による太平天国の乱も異国の宗教への敵意に影響したと考えられている。他に宮殿内での権力闘争、1865年の大飢饉で農民反乱が危惧された事も要因に挙げられている。・・・ フランス極東軍の指揮官であったピエール=ギュスターヴ・ローズ海軍少将<は、>・・・彼らは9名のフランス人を処刑した対価として、9000人の死で償う事になるだろう<、と>述べた<し、>・・・北京のベルネ代理公使は講和条件として「朝鮮王位のフランス皇帝への譲位」という実質的な保護国化を要求しようとし<、>・・・この考えは後にフランス皇帝ナポレオン3世の賛意を得て、正式にフランス帝国からの要求として李朝に突きつけられた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%99%E5%AF%85%E6%B4%8B%E6%93%BE
一方、同年7月には朝鮮の大同江に座礁したアメリカ商船を、朝鮮軍と民衆が焼討ちにし、乗員全員を殺害する事件が起きていた。<(注178)>
(注178)ジェネラル・シャーマン号事件(General Sherman incident)。「1866年7月、<米国>のスクーナー型帆船「ジェネラル・シャーマン号」が[武装して]李氏朝鮮との通商を求めて大同江経由で平壌の羊角島に来航した。船の名称は南北戦争の将軍で「近代戦の創始者」とも言われるウィリアム・シャーマンに由来し、<米>商人W.B.プレストンと<英国>のメドーズ商会によって共同運航されていた。・・・
来航を受け、平壌の地方官は当初この船を難破船として処理しようとし、朝鮮の慣例に則って食糧や薪・水を支給した上で退去を命じる方針であった。ところが、朝鮮側の伝えるところによれば朝鮮側使者の李玄益が乗った小舟はシャーマン号側によって転覆させられ、李玄益は捕縛された。さらにシャーマン号は沿岸に集まっていた住民に砲撃を加えて10名あまりを殺害し河を遡行しはじめた。
これに激怒した住民はシャーマン号への攻撃を開始し、数日間の戦闘の末にシャーマン号は座礁した。ここで平壌監司の朴珪寿が指揮を執ってシャーマン号を焼き討ちし、乗組員全員を殺害した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%8D%E3%83%A9%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3%E5%8F%B7%E4%BA%8B%E4%BB%B6
https://en.wikipedia.org/wiki/General_Sherman_incident ([]内)
この事件が辛未洋擾(しんみようじょう)を引き起こした。「1871年、清に駐在していた<米>公使のフレドリック・ローは、シャーマン号事件への謝罪と通商を求めてアジア艦隊に朝鮮派遣を命じた。同年4月、<米>アジア艦隊司令官ジョン・ロジャーズ (John Rodgers) は日本の長崎で艦隊を編成し<、>同年5月に・・・5隻からなる艦隊を率いて江華島に向か<い、>・・・激しい砲撃戦を経て、・・・海兵隊を上陸させることに成功し、<鎮台3か所を>制圧した。この戦闘で朝鮮軍は240名以上の戦死者をだ<したのに対し>・・・、米軍は<15>名の戦死者<で済んだが、>・・・本来の目的である通商は・・・実現せず、朝鮮国は引き続き鎖国を続けた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%9B%E6%9C%AA%E6%B4%8B%E6%93%BE
「丙寅洋擾<は、>・・・<この>辛未洋擾と合わせて、<朝鮮の>孤立主義・排外主義に正当性を与える<こと>となった。こうした孤立路線は10年後に結ばれる日朝修好条規締結まで継続した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%99%E5%AF%85%E6%B4%8B%E6%93%BE 前掲
⇒戦闘に負け、当然、復讐にも保護国化(!)にも成功しなかったフランスに対するに、戦闘に勝ち、謝罪の代わりになりそうな復讐にも成功したものの通商は実現できなかった米国、というわけですが、保護国化を免れ、通商も拒否できたことが、朝鮮当局の不勉強や想像力の欠如ともあいまって、朝鮮の改革を妨げることになってしまうわけです。
これは、結構知られている史実ですが、改めて、朝鮮の人々に対して哀憐の情が沸き起こってきます。(太田)
徳川日本においては、・・・隣国朝鮮とフランス・アメリカ両国との和解調停をなすことが、自発的に企図された。
若年寄並外国総奉行、平山敬忠<(注178)>(省齋、1815~90)を正使とした慶應年間の朝鮮遣使計画に、古賀謹堂も副使として対馬出張を命じられたのである。」(488~491)
(注178)「陸奥国三春藩士・・・の子。20歳の時江戸に出て・・・安積艮斎に師事し、漢学や国学を学んだ。嘉永3年(1850年)小普請平山源太郎の養嗣子となり家督を継ぐ。翌年徒目付となる。・・・安政元年(1854年)ペリーが再来航した時応接掛となった。・・・また同年松前蝦夷地用掛堀利煕に従って陸奥国三厩に滞在の折りに、急遽箱館へ出張して、遊歩区域協定を迫るペリーの主張に対して不当<と>してこれを退けた。・・・安政4年(1857年)・・・貿易事項取調のため長崎奉行水野忠徳らに従い長崎へと赴いて日露追加条約を審議した。だが、将軍継嗣問題では一橋派とされた為、安政5年(1858年)安政の大獄で免職となり、差控を命ぜられた。しかし、慶応元年(1865年)二ノ丸留守居より目付となり、翌慶応2年(1866年)第二次長州征討において老中小笠原長行の小倉口陣営にあって、小倉藩からの援兵の要求を時期はすでに逸したとして却下したため、小倉城落城を招いてしまう。のちに将軍徳川慶喜の側近としてこれを補佐した。・・・慶応3年(1867年)若年寄並兼帯外国惣奉行となるが、慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦いで幕軍が惨敗した後、薩長勢力に対し強硬論を主張したために免職となり逼塞の処分を受けてしまう。
明治維新後は慶喜に従って静岡に移ったが、その後は神道家として活動を開始<した。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%B1%B1%E7%9C%81%E6%96%8E
「徒目付<は、>・・・江戸幕府の場合は交代で江戸城内の宿直を行った他、大名の江戸城登城の際の監察、幕府役人や江戸市中における内偵などの隠密活動にも従事した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%92%E7%9B%AE%E4%BB%98
⇒無役の旗本ないし御家人の養嗣子となったものの、35歳を過ぎていた時点で、恐らく筆算吟味にも学問吟味にも合格していなかったというのに、平山が幕府に登用され、しかも、「出世」できた理由をぜひ知りたいところです。
それにしても、国内情勢が極めて危うい時節に、海軍力がないに等しいというのに、幕府も、隣国のこととはいえ、余計なお節介に乗り出したものです。
このことにも、呆れてしまいます。(太田)
(続く)