太田述正コラム#9853(2018.5.29)
<眞壁仁『徳川後期の学問と政治』を読む(その82)>(2018.9.12公開)
「・・・老中水野忠邦によって・・・仏閣や神社と併称される孔子廟としての「聖堂」と映っていた同時代の人びとの昌平黌の印象を、その本来的な役割である「学問所」に改めるよう再認識を促した・・・「御書付」(天保14<(1843)>年8月7日)・・・<が>発せられた・・・
⇒この「書付」は、一体いかなる人々が主たる対象として忠邦の念頭にあったのかがよく分かりませんが、昌平坂学問所が「聖堂」であるとの印象を抱いていたらしい「同時代の人びと」の「誤解」を根っこから絶とうというのであれんば、「聖堂」、すなわち、「孔子廟」での祭典を止めるとともに、「孔子廟」を別の場所に移転するか、更に過激に、破壊・除去すべきなのに、そうした形跡はないのですから、竜頭蛇尾もいいところです。
(蛇足ながら、儒教には、そもそも、聖職者がおらず、従って、組織化された教団も存在しません。
https://books.google.co.jp/books?id=_rg_DwAAQBAJ&pg=PT84&lpg=PT84&dq=%E6%98%8C%E5%B9%B3%E9%BB%8C%EF%BC%9B%E8%81%96%E5%BB%9F&source=bl&ots=Vh3Lybj22q&sig=s1TyW5irw3yl8VyodEymLxy8_zs&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwinn8ei_6fbAhVBP5QKHRMrDn4Q6AEIbDAJ#v=onepage&q=%E6%98%8C%E5%B9%B3%E9%BB%8C%EF%BC%9B%E8%81%96%E5%BB%9F&f=false )(太田)
<さて、>三宅雪嶺<(前出)>の云う「気」の頼山陽に代表される、「皇祖皇宗」を中心とする「儒教」主義<が>教育勅語<(注184)>に盛り込まれ・・・1890年10月の発布以降、1945年8月に至るまでの55年間、初等・中等の学校教育を通して、・・・<それが、>帝国臣民としての馴致された精神を再生せんする機能を果たしたこと・・・は、贅言を要さないであろう。
(注184)「教育勅語は、山縣内閣の下で起草された。その直接の契機は、<元長州藩士の>山縣有朋・内閣総理大臣の影響下にある地方長官会議が、同年2月26日に「徳育涵養の義に付建議」を決議し、知識の伝授に偏る従来の学校教育を修正して、道徳心の育成も重視するように求めたことによる。また、明治天皇が以前から道徳教育に大きな関心を寄せていたこともあり、<元幕臣の>榎本武揚・文部大臣に対して道徳教育の基本方針を立てるよう命じた。ところが、榎本はこれを推進しなかったため更迭され、後任の文部大臣として山県は腹心の<元徳島藩士の>芳川顕正を推薦した。これ対して、明治天皇は難色を示したが、山県が自ら芳川を指導することを条件に天皇を説得、了承させた。文部大臣に就任した芳川は、天皇による箴言編集の命を請け、女子高等師範学校学長の中村正直に、道徳教育に関する勅語の原案を起草させた。・・・
[<中村>原案・・・は、敬天尊神こそが教育の根源であり、忠孝が人倫の大本とはされていているものの、滅私・国に奉じるよりも人間としての個人の完成に力点が置かれていた。また草案は長文で、宗教的・哲学的な調子であった。]
この中村原案について、山県が井上毅・内閣法制局長官に示して意見を求めたところ、井上は中村原案の宗教色・哲学色を理由に猛反対した。山県は、政府の知恵袋とされていた井上の意見を重んじ、中村に代えて井上に起草を依頼した。井上は、中村原案を全く破棄し、「立憲主義に従えば君主は国民の良心の自由に干渉しない」ことを前提として、宗教色を排することを企図して原案を作成した。井上は自身の原案を提出した後、一度は教育勅語構想そのものに反対したが、山県の教育勅語制定の意思が変わらないことを知り、自ら教育勅語起草に関わるようになった。この井上原案の段階で、後の教育勅語の内容はほぼ固まっている。
一方、天皇側近の儒学者である元田永孚は、以前から儒教に基づく道徳教育の必要性を明治天皇に進言しており、1879年(明治12年)には儒教色の色濃い教学聖旨を起草して、政府幹部に勅語の形で示していた。元田は、新たに道徳教育に関する勅語を起草するに際しても、儒教に基づく独自の案・・[儒教主義を基本としながら日本固有の教育大旨を求めようとしていた。天皇の祖先が国を開き、以来、皇統無窮である国体こそが教育の進む道である。五倫の道をもって皇祖皇宗の教えとし、日本人を養成することが重要であると述べている。]・・を作成していたが、井上原案に接するとこれに同調した。井上は元田に相談しながら語句や構成を練り、最終案を完成した。
1890年(明治23年)10月30日に発表された「教育ニ関スル勅語」は、国務に関わる法令・文書ではなく、天皇自身の言葉として扱われたため、天皇自身の署名だけが記され、国務大臣の署名は副署されなかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%99%E8%82%B2%E3%83%8B%E9%96%A2%E3%82%B9%E3%83%AB%E5%8B%85%E8%AA%9E
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B3%E5%B7%9D%E9%A1%95%E6%AD%A3 (〈〉内)
http://kivitasu.cocolog-nifty.com/blog/2013/01/post-0581.html ([]内)
元田永孚(もとだながざね。1818~91年)。「熊本藩士・・・藩校時習館に学<ぶ>・・・藩命および大久保利通の推挙によって宮内省へ出仕し明治天皇の侍読<を>・・・20年にわたって・・・進講を行<った。>・・・
明治19年(1886年)9月7日に・・・宮中と府中(政府)・・・間に機務六条が取り交わされ、天皇は普段は政治関与を控え緊急事態に際しての調停役のみを求められる君主機関説を受け入れ、元田ら<が推進してきた>天皇親政<論>は完全に否定され、宮中の政治介入も排除された。・・・
<しかし、>朱子学的な大義名分論を日本の現実社会に徹底化して、修身と治国の一体化を図ると共に皇室への崇敬を一種の「国教」として確立することを目指した元田の「政教一致」路線は、教育勅語を通じた天皇制国家の確立によって実現されていく。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E7%94%B0%E6%B0%B8%E5%AD%9A
井上毅(1844~95年)。「<熊本藩士で>藩校時習館に学<ぶ。>・・・大久保利通に登用され、その死後は岩倉具視に重用される。明治十四年の政変では岩倉具視、伊藤博文派に属する。・・・
議院内閣制を導入することの不可を説いて、ドイツ式の国家体制樹立を説き、国学等にも通じ、伊藤と共に大日本帝国憲法や皇室典範、教育勅語、軍人勅諭などの起草に参加した。法制局長官、枢密顧問官、第2次伊藤内閣の文部大臣を歴任。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%B8%8A%E6%AF%85
教育勅語の公定現代語訳(更に新仮名遣いに改めてある):「 朕が思うに、我が御祖先の方々が国をお肇めになったことは極めて広遠であり、徳をお立てになったことは極めて深く厚くあらせられ、又、我が臣民はよく忠にはげみよく孝をつくし、国中のすべての者が皆心を一にして代々美風をつくりあげて来た。これは我が国柄の精髄であって、教育の基づくところもまた実にここにある。
汝臣民は、父母に孝行をつくし、兄弟姉妹仲よくし、夫婦互に睦び合い、朋友互に信義を以って交わり、へりくだって気随気儘の振舞いをせず、人々に対して慈愛を及すようにし、学問を修め業務を習って知識才能を養い、善良有為の人物となり、進んで公共の利益を広め世のためになる仕事をおこし、常に皇室典範並びに憲法を始め諸々の法令を尊重遵守し、万一危急の大事が起ったならば、大義に基づいて勇気をふるい一身を捧げて皇室国家の為につくせ<※>。かくして神勅のまにまに天地と共に窮りなき宝祚(あまつひつぎ)の御栄をたすけ奉れ。かようにすることは、ただに朕に対して忠良な臣民であるばかりでなく、それがとりもなおさず、汝らの祖先ののこした美風をはっきりあらわすことになる。
ここに示した道は、実に我が御祖先のおのこしになった御訓であって、皇祖皇宗の子孫たる者及び臣民たる者が共々にしたがい守るべきところである。この道は古今を貫ぬいて永久に間違いがなく、又我が国はもとより外国でとり用いても正しい道である。朕は汝臣民と一緒にこの道を大切に守って、皆この道を体得実践することを切に望む。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%99%E8%82%B2%E3%83%8B%E9%96%A2%E3%82%B9%E3%83%AB%E5%8B%85%E8%AA%9E
しかも、<その後も、>道徳教育・愛国心教育が課題となれば<、その都度、>「忠」「孝」の儒学的理念が盛られた「勅語」内容への積極的評価が持ち上が<ってい>る・・・」(500、505)
⇒旧幕臣による(欧米事大主義に立脚した)原案が棄却され、旧薩摩藩士/旧熊本藩士による(「この道は古今を貫ぬいて永久に間違いがなく、又我が国はもとより外国でとり用いても正しい道である」という、日本文明至上・普遍主義に立脚した)新案が採用された、ということです。
(旧薩摩藩士とは、もちろん、旧熊本藩士の元田、井上両名を「登用」した、大久保利通のことを指しています。
また、この両名は、熊本藩校の時習館で学んだ先輩・後輩の間柄です。
なお、元田の天皇親政論は、草創期と建武の新政時を除き、天皇制の根幹であり続けたところの、天皇無答責、を否定するものであり、論外です。)
ところが、こうして、初等・中等教育で日本文明至上・普遍主義に立脚した教育がなされることとなったものの、天皇制の教育以外は、もっぱら縄文性の教育が行われたにとどまり、弥生性(※)の教育は引き続き選良子弟に対してすら行われないまま推移することになります。
この話は、次々回のオフ会「講演」で、可能であれば、もう少し詳しく取り上げたいと考えています。
それはともかく、一体、この教育勅語のどこに、眞壁言うところの、「儒学的理念が盛られ」ているのか、私は理解に苦しみます。
というのも、それが謳っている日本文明至上・普遍主義だけとっても、教育勅語は、およそ、儒学・・支那文明至上・普遍主義に立脚している!・・的ではないからです。
もう一点。
現在の中共官民も同意するはずですが、天皇制の教育に係る部分以外は、教育勅語以後の日本の教育は、「1945年8月に至るまでの55年間」以降も、日本において堅持されているところです。(太田)
(続く)