太田述正コラム#9859(2018.6.1)
<『西郷南州遺訓 附 手抄言志録遺文』を読む(その2)>(2018.9.15公開)

 「初版本には、巻頭に副島種臣<(注5)>が記した序文と、赤沢経言<(注6)>が起草し菅実秀<(注7)>が検討して作成した序文と跋文が掲載されている。」(上掲)

 (注5)1828~1905年。「佐賀藩士・・・の二男に生まれる。父は藩校である弘道館の教授を努める国学者で、兄は同じく国学者の枝吉神陽。・・・父と兄の影響により、早くから尊皇攘夷思想に目覚める。弘道館で学び、この間に江藤新平や大木喬任と交わる。
 嘉永3年(1850年)、兄・神陽が中心に結成した楠公義祭同盟に加わる。嘉永5年(1852年)、京都に遊学、漢学・国学などを学ぶ。・・・さらに、神陽の命を受けて大原重徳に将軍廃止と天皇政権による統一を進言する意見書を提出して青蓮院宮朝彦親王から藩兵上洛を求められるが、<島津斉彬の従兄弟であった(コラム#9805)ところの>藩主・鍋島直正に退けられた上、藩校での国学教諭を命じられた。・・・元治元年(1864年)、長崎に設けた藩営の洋学校・致遠館の英学生監督となって英語等を学ぶ。慶応3年(1867年)、大隈重信と脱藩するが、捕らえられて謹慎処分を受ける。
 明治維新後は慶応4年(1868年)、新政府の参与・制度取調局判事となり、福岡孝弟と『政体書』起草に携わる。明治2年(1869年)に参議、同4年(1871年)に外務卿となり、・・・明治6年(1873年)2月には・・・清の首都北京へ派遣され、日清修好条規批准書の交換・同治帝成婚の賀を述べた国書の奉呈および交渉にあたった。・・・同年10月、征韓論争に敗れて下野し、明治7年(1874年)には板垣退助らと共に愛国公党に参加、同年には民撰議院設立建白書を提出したものの、自由民権運動には参加しなかった。・・・
 明治25年(1892年)には第1次松方内閣において内務大臣を務めた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%AF%E5%B3%B6%E7%A8%AE%E8%87%A3
 (注6)旧庄内藩士。菅実秀から命ぜられ、三矢藤太郎と共に、「西郷生前の言葉や教えを集めて遺訓を発行」した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E6%B4%B2%E7%BF%81%E9%81%BA%E8%A8%93 前掲
 著作に、『臥牛宣誓行状』がある。
https://books.google.co.jp/books?id=NzA7BAAAQBAJ&pg=PT47&lpg=PT47&dq=%E8%B5%A4%E6%B2%A2%E7%B5%8C%E8%A8%80&source=bl&ots=toGm2qpPta&sig=NvhDA1NW8VjtnrGDx8_4KIt5MZU&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwiZj7v_tK_bAhXHU7wKHTIlAkQQ6AEIPzAF#v=onepage&q=%E8%B5%A4%E6%B2%A2%E7%B5%8C%E8%A8%80&f=false
 (注7)すげさねひで(1830~1903年)。「庄内藩(山形県)中老,酒田県権参事。号は月山の異名臥牛。・・・出羽国鶴岡に生まれた。文久3(1863)年藩主酒井忠篤のもと,松平親懐と江戸市中取り締まりに当たる。戉辰の戦後処理では,新政府に移封命令を撤回させる敏腕を発揮。・・・<その後、>西郷に師事し鹿児島藩の諸政策を参考にした<。>・・・明治2(1869)年大泉藩(酒田県)権参事,同7年辞任。・・・西郷隆盛没後『南洲翁遺訓』を編集<させる>。士族救済のための松ケ岡開墾をはじめ銀行,米取り引き,製糸などの事業を興す。」
https://kotobank.jp/word/%E8%8F%85%E5%AE%9F%E7%A7%80-1083884

⇒ここで、注目すべきは、第一に、副島種臣、すなわち旧佐賀藩、と、西郷隆盛、すなわち旧薩摩藩、との間に、「旧」より前から深い紐帯があった気配が伝わってくること、そして、第二に、菅実秀、すなわち旧庄内藩、と、西郷隆盛、すなわち旧薩摩藩、との間に、明治維新以降、新たに深い紐帯が形成されたこと、です。
 どうして、西郷と他の個人との話を、藩と藩の話にしたかというと、後者で言えば、西郷への私淑は、旧薩摩藩の「薩摩藩<時代>の諸政策」への傾倒へと発展した、というか、かかる傾倒が西郷への私淑をもたらした、とさえ言えそうだからです。
 それは、とりもなおさず、この「諸政策」を発案し、その多くを推進し、弟の久光にそれらを継承・推進させたところの、(西郷のメンターたる)島津斉彬、への傾倒を意味する、ということに論理的にはなるはずなのです。(太田)

3 『西郷南州遺訓』より

 (1)分類

 「大阪大学名誉教授の猪飼隆明は南洲翁遺訓を次のような六つのグループに分類している。
『南洲翁遺訓』の構成 グループ 通し番号 内容
1 一条~七条、二〇条 為政者の基本的姿勢と人材登用
2 八条~一二条 為政者がすすめる開化政策
3 一三条~一五条 国の財政・会計
4 一六条~一八条 外国交際
5 二一条~二九条、追加の二条 天と人として踏むべき道
6 三〇条~四一条、追加の一条 聖賢・士大夫あるいは君子」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E6%B4%B2%E7%BF%81%E9%81%BA%E8%A8%93 前掲

 そこで、以下、この分類に従って、『西郷南州遺訓』の内容をご紹介し、私のコメントを付していこうと思います。
 「ただし、一九条はどこにも分類されていないので、第5グループに入れ」(上掲)ました。

(続く)