太田述正コラム#9863(2018.6.3)
<『西郷南州遺訓 附 手抄言志録遺文』を読む(その4)>(2018.9.17公開)
四条:万民の上に位する者、己を慎み、品行を正しくし驕奢(きようしや)を戒め、節倹を勉め、職事に勤労して人民の標準となり、下民其の勤労を気の毒に思ふ様ならでは、政令は行はれ難し。
然るに草創(そうそう)の始(はじめ)に立ちながら、家屋を飾り、衣服を文(かざ)り、美妾(びしよう)を抱へ、蓄財を謀りなば、維新の功業は遂げられ間敷(まじき)也。
今となりては、戊辰の義戦も偏(ひと)へに私を営みたる姿に成り行き、天下に対し戦死者に対して面目無きぞとて、頻(しき)りに涙を催(もよ)されける。
五条:或る時「幾歴辛酸志始堅。丈夫玉砕愧甎全。一家遺事人知否。不為児孫買美田。」との七絶を示されて、若し此の言に違ひなば、西郷は言行反したりとて見限られよと申されける。
⇒この四条と五条は、西郷の、新政府批判、元同志・同僚達批判、と読むことができます。(太田)
六条:人材を採用するに、君子小人の弁酷に過ぐる時は却て害を引き起すもの也。
其の故は、開闢以来世上一般十に七八は小人なれば、能く小人の情を察し、其の長所を取り之れを小職に用ゐ、其の材芸を尽さしむる也。
東湖<(注10)(コラム#98、8302、9663、9692、9807、0829)>先生申されしは「小人程才芸有りて用便なれば、用ゐざればならぬもの也。
去りとて長官に居ゑ重職を授くれば、必ず邦家を覆すものゆゑ、決して上には立てられぬものぞ」と也。
(注10)「海江田信義が藤田東湖と面会したのは嘉永6年だった。・・・
東湖は、「大事業をなす人物が必要だ。薩摩の人物はどうであるか」と海江田に訊いている。
海江田信義は、西郷隆盛と大久保利通のことを語<った。>・・・
そして翌年、島津斉彬が江戸にのぼり、西郷も参府した。
島津斉彬は、諸藩の大名および有志に、「家来に西郷吉之助という者がある。これは追々役に立つ者であるから、何分よろしく頼む」と伝え、東湖にも西郷のことを紹介し、東湖は西郷に会うことを楽しみにしていた。
西郷が藤田東湖に会ったのは嘉永七年(1854年)・・・、樺山三円とともに小石川の水戸邸へ行き、藤田東湖と面会している。このとき西郷は28歳で、東湖は49歳だった。・・・
水戸邸を辞した西郷は、「東湖先生は山賊の親分のようである」と樺山三円に感想を述べている。
また叔父へ宛てた手紙ではつぎのように書いている。
(東湖のもとを訪れると)清水を浴びたようであり、一点のくもりすらない清澄な心になり、帰路をわすれてしまうほどであります。(中略)自画自賛となりますので人には言えませんが、東湖先生も私のことを嫌っているようすはなく、いつも丈夫と呼ばれ、過分の至りでございます。(中略)もし水戸の老公(徳川斉昭)が鞭を挙げ、先駆けて異国の船と戦うならば、一目散に駆けつけ殉じてしまいたいほど心酔しています。どうぞ笑ってください。(以下略)――・・・
なにより西郷を感激させたことは、東湖は師弟の交わりではなく、同志として西郷を重んじていたことであろう。
・・・東湖は、西郷を・・・自らの後継者として目し、「天下の事を信任すべきは西郷氏ひとりか」と語っていたという。」
http://hikaze.hatenablog.com/entry/2015/07/18/133708
海江田信義(かいえだのぶよし。1832~1906年)。「幕末期は有村俊斎の名で活動。・・・嘉永2年(1849年)、薩摩藩の内紛(お由羅騒動)に巻き込まれ・・・一時藩を追われ家は貧困の極みに陥るが、嘉永4年(1851年)、新藩主・島津斉彬によって藩に復帰、このとき俊斉は西郷吉之助(のち西郷隆盛)、大久保正助(のち大久保利通)、伊地知龍右衛門(のち伊地知正治)、税所喜三左衛門(のち税所篤)、吉井仁左衛門(のち吉井友実)・・・らと・・・いわゆる「精忠組」を結成、幕政改革や日本の近代化を考えるようになった。嘉永5年(1852年)、樺山三円(のち樺山資之)とともに江戸藩邸に勤め、多くの勤王家と知り合う。・・・
弟・有村次左衛門<は>井伊直弼を桜田門外にて水戸浪士とともに襲撃(桜田門外の変)し自刃・・・している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E6%B1%9F%E7%94%B0%E4%BF%A1%E7%BE%A9
樺山三円(かばやまさんえん。?~?年)。「薩摩藩士。・・・藩主島津斉彬の茶坊主として機密の用を務め・・・安政・・・6年(1859年)には・・・精忠組に加入。桜田門外の変の計画にも当初関与するが、決行には加わらず帰国し、以後は主に在国にて他藩との連絡活動に従事した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%BA%E5%B1%B1%E4%B8%89%E5%86%86
⇒この本の中には、斉彬への言及が全く出てきません。
これは、西郷が、斉彬について語らなかったということではなく、既に明治17年(1884年)に『島津斉彬言行録』が編述されていた(岩波版25頁)ことから、菅実秀が、この本を編纂させるにあたって、斉彬関連は収録する必要なしとの方針を立てていた、と私は見ています。
さて、この第六条は、西郷が自分自身を批判しているのではないか、という気が段々してきました。
改めて調べてみたところ、西郷は、「もともと極めて真面目で神経が細かく、気配り型の性格<で、>・・・倒幕軍を率いた際も臨時雇いの「車夫」の手当や軍馬への食糧供給まで、部下へこまごまと指示していた」
https://bizgate.nikkei.co.jp/article/DGXMZO2841607022032018000000?page=2
という、超有能下級官吏型の人間・・そういう人間は、えてして大局観を持てない・・であるだけでなく、人を見る目も余りなく、人事も下手くそだったよう(上掲)であったところ、西郷が、戊辰戦争の最中、また、岩倉使節団の留守を預かっている時に守旧派たる旧主久光を宥めるためとして(上掲)、更には、征韓論に敗れた時、の三度、その都度仕事を投げ出した形で薩摩に「逃避」したのは、彼自身、自分が日本政府を切り盛りできるような器ではないことを自覚していたため、間歇的に鬱状態になってそうせざるをえなかったからではないか、とも。(太田)
七条:事大小と無く、正道を踏み至誠を推し、一時の詐謀を用う可からず。
人多くは事の指支(さしつか)ふる時に臨み、作略を用て一旦其の指支を通せば、跡は時宜次第工夫の出来る様に思へども、作略の煩ひ屹度(きつと)生じ、事必ず敗るるものぞ。
正道を以て之れを行へば、目前には迂遠なる様なれども、先きに行けば成功は早きもの也。
⇒そういう目でこの第七条を読むと、これは、西郷が、薩摩藩邸焼き討ち事件を謀略の限りを尽くして引き起こした自分自身を、それによって死に至らしめた人々への謝罪の念を込めて鞭打っているのだ、という気がしてきました。
(そもそも、彼が、この事件を引き起こすことを、何によって思いついたのか、は依然として謎です。)(太田)
二〇条:何程制度方法を論ずるとも、其の人に非ざれば行はれ難し。人有りて後ち方法の行はるるものなれば、人は第一の宝にして、己れ其の人に成るの心懸け肝要なり。
⇒これもまた、西郷による、自分の人を見る目のなさ、人事の下手くそさ、への慙愧の念の表明、と解すればいいのでは?(太田)
(続く)