太田述正コラム#9869(2018.6.6)
<『西郷南州遺訓 附 手抄言志録遺文』を読む(その7)>(2018.9.20公開)
五 天と人として踏むべき道
一九条:古より君臣共に己れを足れりとする世に、治功(ちこう)の上りたるはあらず。
自分を足れりとせざるより、下下の言も聴き入るるもの也。
己れを足れりとすれば、人己れの非を言へば忽(たちま)ち怒るゆゑ、賢人君子は之を助けぬなり。
二一条:道は天地自然の道なるゆゑ、講学の道は敬天愛人<(注12)>を目的とし、身を修するに克己(こつき)を以て終始せよ。
(注12)「敬天愛人」という四字成語は、康熙帝が扁額に揮毫したのが初出で、この「敬天」は「天子を敬う」ことである。
https://keiai.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=2799&file_id=22&file_no=1
⇒西郷が、いかなる経緯でこの成語、というか、「天」の意味がズレた後のこの成語、に出会ったのかは定かでありませんが、西郷の偽善性を、薩摩藩邸焼き討ち事件を引き起こさせたところの、西郷が命じた、江戸テロ・・放火や、掠奪・暴行などを繰り返して幕府を挑発・・を持ち出して鋭く批判しているのが、大阪学院大学経済学部の森田健司教授です。
西郷は、この「テロで苦<まされることになる>江戸の庶民に思いを致すことはできなかった」上、この事件の謀議に参加した「薩摩藩士の四人、西郷隆盛、大久保利通、益満休之助(1841-1868)、伊牟田尚平(1832-1868)、それに・・・小島四郎(1839-1868)」のうち、実際に江戸に赴いてこの計画を実行した、益満、伊牟田、小島の3名、が、それぞれ、ほぼ同じ時期に非業の死を遂げていることから、彼らが西郷によって、口封じのために殺された可能性を示唆し、どうやら、西郷の「愛人」の対象はごく限られた「人」だけであったらしい、と。
https://thepage.jp/detail/20180122-00000019-wordleaf?page=2
但し、強いて、西郷のために弁じれば、この江戸テロの首謀者は西郷ではなく、大久保であった可能性がないわけではありません。
大久保が非情であったことが、「佐賀の乱で江藤が死罪となった際には日記に「江藤の醜態笑止なり、今日は都合よく済み大安心」と江藤への罵倒ともとれる言葉を残」したり、(西郷の関与が明らかになっていない時点でしたが、)「鹿児島<の私学党>が暴発したときには、伊藤博文に対して「朝廷不幸の幸と、ひそかに心中には笑いを生じ候ぐらいにこれあり候」と鹿児島の暴徒を一掃できると」述べたりした
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%B9%85%E4%BF%9D%E5%88%A9%E9%80%9A
点から伺えるからです。
いずれにせよ、西郷が、「敬天愛人」という成語を西郷の意味で使い始めたのは、この江戸テロへの反省の念も込めてのものであった、と私は解するに至っています。
というのも、仮に、「西郷が、坂道で苦しむ車夫の荷車の後ろから押してやったところ、これを見た若い士官が西郷に「陸軍大将ともあろう方が車の後押しなどなさるものではありません。人に見られたらどうされます」と言いました。すると、西郷は・・・「馬鹿者、何を言うか。俺はいつも人を相手にして仕事をしているのではない。天を相手に仕事をしているのだ。人が見ていようが、笑おうが、俺の知ったことではない。天に対して恥じるところがなければ、それでよい」・・・<と>言い放った」
http://www.ichijyo-shinya.com/message/2013/11/post-629.html
というのが事実であるならば、少なくとも「晩年」の西郷は、この成語に背馳しない「余生」を送ったことになるからです。(太田)
己れに克(か)つの極功(きよくごう)は「毋意毋必毋固毋我(いなしひつなしこなしがなし)」<(注13)>と云へり。
(注13)論語の「孔子様は若い頃、うぬぼれ屋で欲張りで頑固で強情な性格であったが、三十才の時、老子様さまに「それじゃあいつまでたっても立派な人物になれないぞ!」と注意されてから自己改造に取り組み、〈謙虚で・控めで・素直で・相手を思いやる〉性格に変わって行った。人は変われる!性格は変えられる!!人間どこまで大きな人物になれるか?は、本人の努力と心掛けしだいなんだね。」
http://www.niigata-ogawaya.co.jp/rongo3/s-09-212.htm
(現代日本語訳)というくだりの〈〉内の原文をそのまま引用したもの。
総じて人は己れに克つを以て成り、自ら愛するを以て敗るるぞ。
能(よ)く古今の人物を見よ。
事業を創起する人其の事大抵十に七八迄は能く成し得れども、残り二つを終り迄成し得る人の希(ま)れなるは、始は能く己れを慎み事をも敬する故、功も立ち名も顕(あら)はるるなり。
功立ち名顕はるるに随ひ、いつしか自ら愛する心起り、恐懼(きようく)戒慎の意弛(ゆる)み、驕矜(きようきよう)の気漸(ようや)く長じ、其の成し得たる事業を負(たの)み、苟(いやしく)も我が事を仕遂(とげ)んとてまづき仕事に陥いり、終(つい)に敗るるものにて、皆な自ら招く也。
故に己れに克ちて、睹(み)ず聞かざる所に戒慎するもの也。
二二条:己に克つに、事事物物時に臨みて克つ様にては克ち得られぬなり。
兼(かね)て気象(きしよう)を以て克ち居れよと也。
二三条:学に志す者、規模を宏大にせずばある可からず。
去りとて唯ここにのみ偏倚(へんい)すれば、或は身を修するに疎(おろそか)に成り行くゆゑ、終始己れに克ちて身を修する也。
規模を宏大にして己れに克ち、男子は人を容れ、人に容れられては済まぬものと思へよと、古語を書て授けらる。
恢宏其志気者。
人之患。
莫大乎自私自吝。
安於卑俗。
而不以古人自期。
古人を期するの意を請問(せいもん)せしに、尭舜を以て手本とし、孔夫子を教師とせよとぞ。
二四条:道は天地自然の物にして、人は之れを行ふものなれば、天を敬するを目的とす。
天は人も我も同一に愛し給ふゆゑ、我を愛する心を以て人を愛する也。
二五条:人を相手にせず、天を相手にせよ。
天を相手にして、己れを尽て人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬ可し。
二六条:己れを愛するは善からぬことの第一也。
修業の出来ぬも、事の成らぬも、過を改むることの出来ぬも、功に伐(ほこ)り驕謾(きようまん)の生ずるも、皆自ら愛するが為なれば、決して己れを愛せぬもの也。
二七条:過ちを改むるに、自ら過つたとさへ思ひ付かば、夫れにて善し、其の事をば棄て顧みず、直に一歩踏み出す可し。
過を悔しく思ひ、取り繕はんとて心配するは、譬へば茶碗を割り、其の欠けを集め合せ見るも同にて、詮もなきこと也。
二八条:道を行ふには尊卑貴賤の差別無し。
摘んで言へば、尭舜は天下に王として万機の政事を執り給へども、其の職とする所は教師也。
孔夫子は魯国を始め、何方へも用ゐられず、屡々困厄に逢ひ、匹夫にて世を終へ給ひしかども、三千の徒皆な道を行ひし也。
⇒このあたり、堯舜だの孔子だのが登場するところ、西郷は、教学(イデオロギー)面では、儒教の世界を一歩も出ることができなかったということであり、西郷の知的世界の狭さが露呈しています。(太田)
二九条:道を行ふ者は、固より困厄(こんやく)に逢ふものなれば、如何なる艱難の地に立つとも、事の成否身の死生抔(など)に、少しも関係せぬもの也。
事には上手下手有り、物には出来る人出来ざる人有るより、自然心を動す人も有れども、人は道を行ふものゆゑ、道を踏むには上手下手も無く、出来ざる人も無し。
故に只管(ひたす)ら道を行ひ道を楽み、若し艱難に逢ふて之れを凌がんとならば、弥弥(いよいよ)道を行ひ道を楽む可し。
予壮年より艱難と云ふ艱難に罹りしゆゑ、今はどんな事に出会ふとも、動揺は致すまじ、夫れだけは仕合せ也。
追加二条:漢学を成せる者は、弥漢籍に就て道を学ぶべし。
道は天地自然の物、東西の別なし、苟も当時万国対峙の形勢を知らんと欲せば、春秋左氏伝を熟読し、助くるに孫子を以てすべし。
当時の形勢と略ぼ大差なかるべし。
⇒兵学(『孫子』)を勉強し、それを政治軍事史(『春秋左氏伝』)の勉強を通じて血肉化せよ、と言っているわけであり、その限りにおいてはまっとうな指摘ではあるものの、欧米兵学と欧米政治軍事史の勉強が必須の時代に既になっていたところ、ここでも西郷の知的世界の狭さが露呈しています。
なお、蛇足ながら、この『孫子』
https://kanbun.info/shibu02/sonshi00.html
の中に、私の知る限り、江戸テロのヒントになるような記述はありません。(太田)
(続く)