太田述正コラム#9875(2018.6.9)
<『西郷南州遺訓 附 手抄言志録遺文』を読む(その10)>(2018.9.23公開)
三六条:聖賢に成らんと欲する志無く、古人の事跡を見、迚(とて)も企て及ばぬと云ふ様なる心ならば、戦に臨みて逃るより猶ほ卑怯なり。
朱子も白刃を見て逃る者はどうもならぬと云はれたり。<(注21)>
(注21)『中庸(朱熹章句)』において、『中庸』の「子曰く、天下國家をも均しうしつ可し。爵祿も辭しつ可し。白刃をも蹈んず可し。中庸をば能くす可からず。」のところに、朱子は、「均は平治なり。三つの者は亦知・仁・勇の事、天下の至難なり。然れども皆一偏に倚る。故に資の近くして力能く勉むる者は、皆以て之を能くするに足れり。中庸に至っては、能くし易きが若きと雖も、然も義精しく仁熟して、一毫の人欲の私無き者に非ざれば、及ぶこと能わざるなり。三つの者は難くして易く、中庸は易くして難し。此れ民の能くすること鮮き所以なり。」という註を付けている。
http://www.1-em.net/sampo/sisyogokyo/sisyo/chuyou/index.htm
⇒朱子は、科挙に合格し、行政官もやっていますが、その事績の中に、武芸や軍事に関わるものは皆無です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%B1%E7%86%B9
そんな朱子が、だからこそ(?)註記の中では言及を避けているにもかかわらず、西郷が、本文中の「白刃」を引っ張り出してあえて引用したという点からも、「武術」コンプレックスを持っていた(後述)ところの、「武士」たる西郷が、いかに朱子を贔屓のひき倒ししていたかが垣間見えてきます。
なお、朱子は書家としても知られていますが、朱子は特に曹操と王羲之の書を学んだとされており(上掲)、私としては、曹操の万能人ぶりに、改めて、感嘆措く能わずといったところです。
朱子学に入れ込んだ挙句、そんな曹操を無視し、孔明だけを持ち上げた西郷。
まことにもって情けない人物です。(太田)
誠意を以て聖賢の書を読み、其の処分せられたる心を身に体し心に験する修業致さず、唯个様(かよう)の言个様の事と云ふのみを知りたるとも、何の詮無きもの也。
予今日人の論を聞くに、何程尤もに論ずるとも、処分に心行き渡らず、唯口舌の上のみならば、少しも感ずる心之れ無し。
真に其の処分有る人を見れば、実に感じ入る也。
聖賢の書を空く読むのみならば、譬へば人の剣術を傍観するも同じにて、少しも自分に得心出来ず。
自分に得心出来ずば、万一立ち合へと申されし時逃るより外有る間敷也。
⇒西郷は、子供の時の怪我で「刀を握れなくなったため武術を諦め、学問で身を立てようと志した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E9%83%B7%E9%9A%86%E7%9B%9B 前掲
ところ、「剣術を傍観」というのは、彼自身の小さい時からのやるせない気持ちの吐露なのでしょう。
しかし、残念ながら、「学問で身を立てようと志した」のも空しく、いや、別に学問で身を立ててもらわなくても結構なのですが、西郷は、それどころか、ついに、ただただ、「聖賢の書を空く読む」だけに終わったようです。(太田)
三七条:天下後世迄も信仰悦服せらるるものは、只是れ一箇の真誠也。
古へより父の仇を討ちし人、其の麗(か)ず挙て数へ難き中に、独り曽我の兄弟のみ、今に至りて児童婦女子迄も知らざる者の有らざるは、衆に秀でて、誠の篤き故也。
⇒「江戸時代には、敵討(仇討ち)の中でも曾我兄弟の仇討ち(1193年、『曽我物語』)、鍵屋の辻の決闘(1634年)、赤穂事件(1702年、『忠臣蔵』)は「三大仇討ち」と呼ばれ・・・た。ただし、赤穂事件は、主君・浅野の代わりに、その家臣が、吉良を討った事件であるため、「仇討ち」とみなすか単なる「復讐」とみなすか、その意義をめぐっては論争がある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%B5%E8%A8%8E
とまあ、こういうことなのですから、西郷は、「父の仇討」に限定することで、あえて赤穂事件をはずしたとも考えられるところ、いずれにせよ、彼の赤穂事件観を聞きたかったですね。
(蛇足ながら、鍵屋の辻の決闘も「父の仇討」ではありません。「弟の仇討ち+上意討ち」です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8D%B5%E5%B1%8B%E3%81%AE%E8%BE%BB%E3%81%AE%E6%B1%BA%E9%97%98 )(太田)
誠ならずして世に誉らるるは、僥倖の誉也。
誠篤ければ、縦令当時知る人無くとも、後世必ず知己有るもの也。
三八条:世人の唱ふる機会とは、多くは僥倖の仕当てたるを言ふ。
真の機会は、理を尽して行ひ、勢を審かにして動くと云ふに在り。
平日国天下を憂ふる誠心厚からずして、只時のはづみに乗じて成し得たる事業は、決して永続せぬものぞ。
三九条:今の人、才識有れば事業は心次第に成さるるものと思へども、才に任せて為す事は、危くして見て居られぬものぞ。
体有りてこそ用は行はるるなり。<(注22)>
(注22)「<支那>の哲学・思想・レトリック運用のための概念範疇。その基本形式は〈甲は丙の体,乙は丙の用〉または〈甲は乙の体,乙は甲の用〉つまり〈甲は体なり,乙は用なり〉という風に体用が対挙されることである。因果概念がたとえば風と波の関係をいうのに対して,体用は水と波の関係を示す。しばしば実体とその作用(または現象)と解されるが,もっとゆるやかに〈体とは根本的なもの,第一次的なもの,用とは従属的なもの,二次的なもの〉としておく方がよい。・・・
<支那>の六朝以後,仏教において頻繁に用いられた概念であるが (したがって,元来は「たいゆう」と読む) ,宋以後には,いわゆる宋学や明学の儒者にも多用された。基本的な意味は,本体と作用 (または現象,属性) で,両者は表裏一体とされる。宋学では,「理」を体,「気」を用として,その理気説の重要な概念としている・・・
存在の本質を「本体」(たとえば性)といい、その発現を作用(たとえば情)という。これが「未発」「已発(いはつ)」の時間論と結合して、存在と時間の関係をめぐる論議が実践論の主要課題となった。・・・朱子学では実存者の背理可能性を考察して、本体と作用、未発と已発を分けて、まず未発の本体を涵養して已発の作用を制御することを説いた。」
https://kotobank.jp/word/%E4%BD%93%E7%94%A8-92130
⇒西郷は、「誠」を「体」、「才」を「用」、に準えているわけですが、私見では、この場合、「誠」も「才」も「用」なのであって、「戦略」こそが「体」でしょう。
島津斉彬は、西郷について、「身分は低く、才智は私の方が遥かに上である。しかし天性の大仁者である」「私、家来多数あれども、誰も間に合ふものなし。西郷一人は、薩国貴重の大宝なり。・・・」と評しています
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E9%83%B7%E9%9A%86%E7%9B%9B 前掲
が、戦略は西郷にはなく、才(=才智)、誠(≒仁)、とも、自分の方が上だが、比較優位の見地から、才を備え、誠は大いに備える、この西郷を自分の分身として重用した、というのが斉彬の気持であった、というのが私の見方です。(太田)
(続く)