太田述正コラム#9881(2018.6.12)
<『西郷南州遺訓 附 手抄言志録遺文』を読む(その13)>(2018.9.26公開)

 その手掛かりは、「天皇の輔弼を行い、内閣総理大臣の奏薦など国家の重要事項に関与した重臣」である「元老」、に任ぜられた者は、伊藤博文、黒田清隆、山縣有朋、松方正義、井上馨、西郷従道、大山巌、西園寺公望、の8名であるところ、その中、薩摩藩出身が、黒田、松方、西郷、大山、と半分の4名もおり、しかも、そのうち、西郷従道は隆盛の弟、大山巌は西郷の従兄弟だった点にあります。
 従道は、「内閣総理大臣候補に再三推されたが、兄・隆盛が逆賊の汚名を受けたことを理由に断り続けた(大山巌も同様)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E9%83%B7%E5%BE%93%E9%81%93 前掲
にもかかわらず、大山もそうですが、元老に任ぜられています。
 総理を経験せずに元老に任ぜられたのは、この2人以外は、長州藩出身の井上馨だけです。
 いかに、この2人に対して、明治天皇の信認が篤かったか、ということです。
 ちなみに、大山については、「西南戦争では政府軍の指揮官(攻城砲隊司令官)として、城山に立て籠もった親戚筋の西郷隆盛を相手に戦ったが、大山はこのことを生涯気にして、二度と鹿児島に帰る事はなかった。ただし西郷家とは生涯にわたって親しく、特に西郷従道とは親戚以上の盟友関係にあった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B1%B1%E5%B7%8C 前掲
とされているところです。
 銘記すべきは、この信認の理由としては、2人が西郷の近親者であったことが大きい、と容易に想像できる点です。
 というのも、「西郷の人柄を愛した明治天皇の意向や黒田清隆らの努力があって<、西郷隆盛は、>明治22年(1889年)2月11日、大日本帝国憲法発布に伴う大赦で赦され、正三位を追贈された<ところ、そもそも、>明治天皇は西郷の死を聞いた際にも「西郷を殺せとは言わなかった」と洩らしたとされるほど西郷のことを気に入っていたようである」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E9%83%B7%E9%9A%86%E7%9B%9B#死後
からです。
 もう一つ、付け加えておきましょう。
 「昭和天皇<は、>・・・生後70日の・・・1901年〈明治34年〉・・・7月7日、御養育掛となった枢密顧問官の川村純義(海軍中将伯爵)邸に預けられた<が、>1904年(明治37年)11月9日、川村伯・死去を受け弟・淳宮(後の秩父宮雍仁親王)と共に沼津御用邸に移った」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%AD%E5%92%8C%E5%A4%A9%E7%9A%87
のですが、これは、当然、明治天皇の意向による、と思われるところ、この川村(注25)は、「薩摩藩士<であった彼の>・・・妻の春子は椎原国幹の娘で、椎原の妹は西郷隆盛の母であり、川村は西郷に実弟のように可愛がられたとい<い、この>・・・西郷との縁もあって<薩摩藩で>重用され<た>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E6%9D%91%E7%B4%94%E7%BE%A9
という人物です。

 (注25)「戊辰戦争では・・・各地、特に会津戦争に奮戦した。 戊辰戦争から薩摩に凱旋すると、門閥排斥の先頭に立った。純義は藩主・島津忠義の面前で藩主の弟の島津久治を詰問し・・・ている。
 明治維新後は、明治政府の海軍整備に尽力、明治7年(1874年)には海軍ナンバー2である海軍大輔、海軍中将に任ぜられる。
 主要ポストを薩長閥が握る中で、川村は海軍の実質的指導者として諸事を取り仕切り、海軍創始期を担った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E6%9D%91%E7%B4%94%E7%BE%A9
 「鹿児島藩内で・・・倒幕派が主流とな<ると>、孝明天皇の基本方針に沿った公武合体派の論調をとっていた<島津>久治は窮地に立たされることとなる。慶応3年(1867年)には・・・強硬論に対して、重職では慎重論を唱えただ一人反論した。明治元年(1868年)の戊辰戦争では私領4番隊を会津藩攻撃に向かわせたものの、久治本人は参加しなかった。これが若手藩士からは「軟弱」行為と映り、川村純義らに藩主の目前で詰問されるという屈辱的な目に遭う。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E4%B9%85%E6%B2%BB

 以上から、明治天皇は、文字通りの西郷隆盛心酔者であった、と言っていいでしょう。
 (どうして、明治天皇がそこまで西郷に心酔したか、までは立ち入りませんでした。)
 これでは、明治天皇の絶大な人気からしてだけでも、西郷隆盛「伝説」が成立しない方が、むしろ、おかしかったというものです。

 さて、宿題であるところの、どうして西郷隆盛が「盲判を捺す能力しかなかった・・・と見る」のか、ですが、弟の従道が、「井上馨から海軍拡張案のことで尋ねられた際、「実はわしもわからん。部下<で官房主事>の山本<権兵衛>ちゅうのがわかっとるから、そいつを呼んで説明させよう」と言<った>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E9%83%B7%E5%BE%93%E9%81%93 前掲
という一挿話からも、隆盛のこの弟が「盲判を捺す能力しかなかった」のは明らかであり、兄も同様であった可能性が高い、というのが第一点です。
 もう一点は、西郷隆盛、従道、大山巌、それぞれの子孫を見ると、いずれも、才色兼備の配偶者を自由に選べたと想像されるにもかかわらず、大山と違って、隆盛と従道の子孫、とりわけ隆盛の子孫、には、自力で名士・・何をもって名士と見るかを論じ始めるときりがないので立ち入りません・・になった者が皆無と言える(それぞれのウィキペディア参照)ことです。
 いくら畑を選んでも元の種が悪過ぎた、と思わざるを得ないですよね。

5 エピローグ

 三島由紀夫は、『蘭陵王』に収められている『銅像との対決──西郷隆盛』の中で、西郷について、次のように書いています。↓

 「〈西郷さん。明治の政治家で今もなお“さん”づけで呼ばれている人は貴方一人です。その時代に時めいた権力主義者たちは、同時代人からは畏敬の念で見られたかもしれないが、後代の人たちから何らなつかしく敬慕されることはありません。あなたは賊として死んだが、すべての日本人は、あなたをもっとも代表的な日本人と見ています。〉
 〈恥ずかしいことですが、実は最近まで、あなたがなぜそんなに偉いのか、よくわからなかったのです。……

⇒それは、第一に、西郷のメンターである島津斉彬が偉かったからであり、第二に、明治天皇が西郷の心酔者だったから、に過ぎません。
 「よくわからなかった」のが正しかったのです。(太田)

 私にはあなたの心の美しさの性質がわからなかったのです。それは私が、人間という観念ばかりにとらわれて、日本人という具体的問題に取り組んでいなかったためだと思われます。私はあなたの心に、茫漠たる反理性的なものばかりを想像して、それが偉人の条件だと考える日本人一般の世評に、俗臭をかぎつけていたのです。〉

⇒そもそも、「日本人」こそが最も「人間という観念」に合致した存在であることに三島が全く気付いていないことにはここで立ち入りません。
 その上でですが、江戸テロ企画者が大久保利通だったとすれば、ですが、西郷が人間主義者であった可能性は高いでしょう。
 しかし、西南戦争に、島津斉彬コンセンサス中のアジア解放・復興の過早な実行を期したものであった側面があることは「美しい」し、武士ノスタルジアに囚われていた壮年の頭の固い人々をこの世から一掃した必要悪であった側面もあるけれど、この戦争が、少なくとも多数の若者達まで死に至らしめた点は、西郷が偉大な人間主義者とまでは言えない人物であったことを示しています。(太田)

 〈しかし、あなたの心の美しさが、夜明けの光のように、私の中ではっきりしてくる時が来ました。時代というよりも、年齢のせいかもしれません。とはいえ、それは、日本人の中にひそむもっとも危険な要素と結びついた美しさです。この美しさをみとめる時、われわれは否応なしに、ヨーロッパ的知性を否定せざるをえないでしょう。

⇒人間主義が知性と両立しないなどということは断じてありません。
 また、知性にヨーロッパ的も日本的もありますまい。(太田)

 あなたは涙を知っており、力を知っており、力の空しさを知っており、理想の脆さを知っていました。それから、責任とは何か、人の信にこたえるとは何か、ということを知っていました。知っていて、行ないました。〉・・・

⇒西南戦争を防止できなかったこと、西南戦争の盟主に祭り上げられたこと、は西郷の人間主義性並びに知性の不足の帰結に他なりません。(太田)

〈<西郷の銅像語る:>三島君。おいどんはそんな偉物(えらぶつ)ではごわせん。人並みの人間でごわす。敬天愛人は凡人の道でごわす。あんたにもそれがわかりかけて来たのではごわせんか?〉」
https://38news.jp/column/11205

⇒人間主義が「凡人の道」であることは確かですが、三島に、それが本当の意味で分かっていたとは思えません。(太田)

 三島が、知力において傑出した人物であり、かつ希代の美文家ではあっても、大した知性など持ち合わせていなかったことが、この一駄文からだけでもはっきりと見て取れます。
 しかも、前に指摘したように、彼は、自裁の際に有為の若者を道連れにした点で人間主義者でもなかったわけです。
 西郷は、とにもかくにも、亡き島津斉彬が授けた戦略に基づき、倒幕・明治維新を、見事に成し遂げているのですから、三島は、そんな西郷の足元にさえ及ばぬ小人物であった、と言っていいでしょうね。

(完)