太田述正コラム#653(2005.3.8)
<再び日立問題について>
1 始めに
 私は、常にフィールドワーカー的に物事を見ているところ、日立シリーズへの
読者の反応に、新鮮な驚きを覚えたので、今度はこれを分析してみようと思いた
ちました。
 何が新鮮な驚きかと言いますと、約一名の読者を除き、全員が、私の問題提起
と無関係なコメントをお寄せになったことです。
 私は、日立シリーズを、ビジネススクールの「ケース」に倣って書いたつもり
です。(MBA教育におけるケースメソッドについては、コラム#507、 509参照。)
 大昔、私自身がMBA教育を米国で受けた時、細部のシチュエーションを変えた
り、登場人物に仮名を使ったりはしているけれど、ケースで取り扱われる企業
が、よくこんな赤裸々な話がオープンになって平気なものだ、と感心したことが
あります。これも企業の社会貢献の一つなのでしょう。
 ですから、日立にも社会貢献してもらうことにしました。これは、日立のため
に費やした私の時間と労力などを無にしないことでもある、と考えた次第です。
2 日立シリーズにおける問題提起
 既に、日立シリーズを受けた私のHP(http://www.ohtan.net)の掲示板上での
やりとりで、口を酸っぱくして私が繰り返し申し上げているように、日立シリー
ズで私が読者の皆さんに問題提起をしたかったのは、「どうして日立という大企
業は利益追求(損失回避)を忘れているのか」です。
 一般に「ケース」では、何がその「ケース」で問われているのかは、ぼかされ
ていることが多いのですが、日立シリーズでは、ぼかしたつもりはありません。
ところが、読者の皆さんには伝わらない。
 これには、まいりました。
 何が問題提起されているか分からないから、私が随所に埋め込んだヒントに誰
も言及しようとしないのでしょうね。
 第一に、(大企業の社員たる読者には常識なのであえて書きませんでしたが)
日立には全社的営業部局があります。それなのに、どうして私のような個人に営
業を委嘱したのでしょうか。わけの分からぬ第三世界の外国に売り込むのではな
く、日本国内の営業ですよ。
 これは、全社的営業部局が機能していない、(と少なくとも製品そのものを所
管する部局が見ている)ことを意味します。これは全社的営業部局に無駄なコス
トをかけている、ということでもあります。
 この問題を解決するためには、全社的営業部局そのものを抜本的に改革する
か、営業部局を廃止し、個々の製品所管部局に移す、という二つの方法がありま
す。しかし、どちらも官公需依存型大企業にあっては困難なのです。(なぜかは
考えて下さい。)ですから、無駄なコストの垂れ流しが続くことになります。
 第二に、例のセクションが、既に発足してしまっているというのに、そのコン
セプトづくりを私の友人aに依頼し、(ここも当たり前だから書きませんでした
が)多額のコンサル料を彼に支払ったことです。
 これは、コンセプトがないのに新しい現業部局を発足させてしまったか、発足
直後にコンセプトを変える必要が生じたことを意味し、いずれにせよ、IT部門の
総括部局が現業部局に対し、最低限のコントロールすら行っていないことが分か
ります。
 セクションが大幅に業務を縮小するはめになった結果、上記コンサル料はどぶ
に捨てたことになり、それどころか、セクションの運営にかけた経費の殆ども回
収不能に陥ったわけです。
 恐るべき無駄遣いではありませんか。
 第三に、企業人なら真っ先に問題にすべきであったのは、売れない商品を私に
売らそうとしたことです。
 売れない(問題)商品(=買うに買えない商品)をかつがせるということは、
口利き先に対して、私と日立の信用を落とすどころではありません。口利き先に
対する侮辱です。
 もちろん、一般論としては、そんなことはどこにでもある話でしょう。
 しかし、今回の私の口利き先の社会的地位を考えれば、TPOをわきまえないこ
と甚だしい愚行である、と言わざるを得ません。
 このことにより、日立は全社的大損害を蒙ったのです。
 更に目も当てられないのは、技術者ばかりのセクションが、私にかつがせた商
品が売れない商品である、という認識を持っていなかったフシがある点です。
(この可能性は、読者に指摘して欲しかったですね。)
 技術にも営業にも素人の私ですら、あの主力商品の弱点を事前に知っておれ
ば、この商品の口利きは躊躇したことでしょう。
 結局、営業的センス・常識のある人間が配置されていなかったセクションの人
的構成に問題があるのであって、この点でもIT総括部局は責められるべきです。
3 本題
 以上、いかに日立がコスト感覚のない、つまりは利益を追求していない会社
か、少しはお分かりいただけたと思います。
 その上で、ようやく本題です。
 以前(コラム#630で)、公立小学校の実態をご紹介したことがあります。
 読んでおられない読者は、ぜひ読んでください。
 実は、あの話には続きがあります。
 私が息子に、私の「分析」を話したところ、息子は、「お父さんの言う通りだ
けど、そんなこと、言っちゃダメだよ」と私をたしなめようとしたのです。
 なぜか。
 学校は息子にとっては、楽しいゲームの場なのであり、授業は建前上はゲーム
の場ではないだけに、そこで行われるゲームはとりわけ楽しいからです。しかも
楽しんでいるのは彼一人ではありません。そんな楽しいことのからくりを暴いて
何が面白いのか、ということでしょう。
 しかし、あの授業がゲームであることが分かり、かつそのゲームを楽しめるの
は、息子が、あの教室の多数派に属するところの、分数を既に知っている強者だ
からです。
 分数を知らない、少数派の弱者は、楽しむどころではありません。しかも、実
態がゲームであるところの授業は授業ではないのですから、弱者にとってその
「授業」に出ている時間は、無駄な時間に近い、ということになります。しか
も、ゲームであることがうすうす分かる弱者にとっては、その屈辱感はどんなに
大きいことでしょうか。
 もう一つの問題は、そもそもわれわれ納税者としては、学校の行事や総合学習
の時間ならともかく、通常の授業の時間にゲームで暇つぶしをしてもらっては困
る、ということです。
 そして最大の問題は、当時私が書いたように、あのような「授業」は、社会性
を過度に子供に身につけさせることになるのであって、「もっと面白いゲームを
やりましょう」とか、「ゲームをやらずに授業をやってください」、と異議申し
立てができる人物がこれら子供達の中から将来出てこなくなる懼れがある、とい
う点です。既に息子は、過度の社会性に毒されつつある、と私は慄然としたもの
を覚えました。
 何を私が言いたいかお分かりですか。
 私のコラムの読者の大部分は、(公教育が今ほどはひどくはなかったとはい
え)戦後日本教育の産物であり、かつ日本社会における強者だ、ということです。
 だから、私が日本の社会のからくりを指摘すると、私の息子と同じく、訳知り
顔に、「なぜそんな話をするのか」と私を教え諭されるのです。
 皆さんの側らで無数の弱者がいて呻吟しており、その一方で皆さんが猛烈に無
駄遣いを続けながら人生を謳歌されており、しかしだからこそ日本の社会全体が
深刻な閉塞状況に陥っている、という事実に、皆さんはお気づきになっていない
か、あえて目をつぶっておられるのです。