太田述正コラム#0659(2005.3.14)
<モンゴルの遺産(その9)>

 (3)モンゴルの遺産の第二:オスマントルコ
  ア 欧州の病人?
 欧州の病人(Sick man of Europe)(注15)、と呼ばれながらも、先の大戦後戦乱が吹きすさんだレバノン・ボスニア・コソボ、戦乱が間歇的に続いているパレスティナ・イラク、などを含むところの大帝国を、約500年にわたって平和裏に治めることができたオスマントルコ(Ottoman Empire)の政治体制は高く評価されてしかるべきでしょう。
 オスマントルコの瓦解だって、決して必然であったわけではありません。
 第一次世界大戦でどちらの陣営につくかを間違えただけです。
  間違えた結果、英国(当時は大英帝国)によって無理矢理瓦解させられたのです。
 実際、アラブ人達はオスマントルコによる支配におおむね満足していました。そこに、英国がアラビアのロレンス等を利用してアラブ民族主義なるものをでっちあげて、トルコとアラブを反目させた形にしつつ、アナトリア半島以外を占領し、オスマントルコを瓦解に導いたわけです(注16)。
(以上、http://books.guardian.co.uk/reviews/history/0,6121,1360457,00.html(2004年11月27日アクセス)による。)

 (注15)「中東」の病人、とは呼ばれなかったことからしても、オスマントルコは、歴とした「欧州」の国だった。この伝で行けば、新生トルコは当然EUに加盟する権利がある(ワシントンポスト上掲)。
 (注16)これこそが、その後の中東の停滞・混乱をもたらした最大の原因である、と見ることができる。

  イ オスマントルコの政治システム
チンギス=ハーンは、それまでモンゴルの部族連合的政治を排し、自分の一族による政治すら排し、部族・民族を越えて優秀な人材を集め、ハーン独裁体制を確立しました。
結局、モンゴル自身は、このチンギス=ハーン「革命」を永続させることができず、元の黙阿弥になってしまうのですが、このような政治体制は、理想の政治体制として、モンゴルに支配された人々、とりわけ、モンゴルと最も密接に関わり、混淆したトルコ系民族の間で仰ぎ見られて行ったのではないでしょうか。
(以上、チンギス=ハーンの独裁政治については、http://www.mongolianculture.com/2002%20Mongol%20conference%20pa.htm(3月13日アクセス)による。)

この「理想の政治体制」を極限まで推し進め、それを約500年間にわたって堅持したのがオスマントルコでした。
オスマントルコの政治体制は、次のようなものでした。
ア 正義の政治
 端的に言えば、弱者である小作農が違法な税金を課されたり、腐敗した地方官に収奪されたり、不公正な裁判に苦しめられたりすることのないようにする政治、ということです。
 このためにこそ、スルタンは絶対権力を保持しなければならない、と考えられていました。17世紀の欧州における絶対王制は、そのマネです。
イ 監察の政治
 スルタンは、自ら変装して地方官や裁判官の仕事ぶりを見て歩く習わしになっていました。
 もちろん、それだけでは十分ではないので、巨大な諜報機構が、帝国すみずみまで目を光らせ、情報をスルタンの下に集めました。20世紀になるまで、これだけ国全体の情報を中央政府が掌握していた国家は世界に存在しませんでした。
ウ 峻厳の政治
 悪徳地方官や裁判官に対する処罰は峻厳そのものでした。
 小作人に対し違法な税金を課したり、彼らを強制労働に従事させたり、許可なく軍隊を彼らの家に宿泊させたり、彼らから無理矢理軍隊のための食糧を徴発したりした者は、すべて死刑に処せられました。
エ 法治の政治
 勅令や税金の内容は、帝国内の随所の公共の場に貼り出されていました。
オ 直訴の政治
 スルタンその人を除き、どんな政府高官のところにも、帝国内のすべての臣民が直接請願を行うことができました。また、地方官や裁判官の非違行為の訴えを受理する専門機関があり、訴えは、厳正に処理されました。
カ 軍規の政治
 軍隊が一般民衆を苦しめないように、最大限の配慮がなされました(峻厳の政治参照)。オスマントルコ勃興期においては、外征は食糧を外征路の要点に集積することを含め、何年も前から周到に計画されました。おかげで、新しい領土を獲得しても、比較的容易に被征服民を手なずけることができたのです。
キ 世論の政治
 オスマントルコのモスクでは、金曜礼拝の際に、スルタンの健康と長寿を祈る習わしでした。
しかし、それは義務づけられているわけではないので、帝国内のどれだけのモスクでこの祈りが行われなかったかの情報がスルタンの下に集められ、世論の動向が把握されました。
(以上、http://www.allaboutturkey.com/ottoman2.htm(3月13日アクセス)による。ただし、筆者は、オスマントルコのスルタン継承順位が確立していなかったことや、オスマントルコ支配下の領土がスルタンの家族の私有財産とみなされていた(スルタンが代わるごとに新スルタンの個々の家族に再分配された)、といった非「近代的」側面を論ずる時にだけモンゴルの影響を強調しており、チンギス=ハーン一族のモンゴル帝国に対するかつての偏見を引きずっているように見受けられる。)
 なるほど、こんな「近代的」な政治体制を持っていたからこそ、オスマントルコ帝国が長持ちしたわけですね。
 しかし、その最大の弱点が、スルタンに人を得なければ、オスマントルコの政治体制全体が機能障害を起こしてしまうところにあったことは、容易に推察できます。
 継承順位がはっきりしていなかったとはいえ、スルタンは世襲制であり、スルタンの資質は時代を経るに従って次第に低下して行きました。その結果、オスマントルコは19世紀にもなると、「病人」と称されるようになってしまうのです。

 (4)総括
 以上見てきたように、昔モンゴル系民族と共有していたアニミズム/シャーマニズムの習俗、そしてチンギス=ハーンのモンゴル帝国から受け継いだ「理想の政治体制」観、こそ新生トルコが、イスラム世界の中で自由・民主主義の先駆けたりえた理由である、と私は考えています。

(特別篇としてはこれで終わりですが、「モンゴルの遺産」シリーズはまだ続けたいと思っています。)