太田述正コラム#9911(2018.6.27)
<>(2018.10.11公開)
「・・・海さち山さち<(注14)>の一節は、インドネシア起源の「釣針探求型(失われた釣針型)」と呼ばれる神話を素材としている。<(注15)>
(注14)海幸山幸。「弟の山幸彦(彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと))は兄の海幸彦(火照命(ほでりのみこと))に漁猟の道具をとりかえてもらい、漁に出たが釣り針をなくしてしまう。釣り針を返せと責められた山幸彦は塩土老翁(しおつちのおじ)に助けられて海神(わたつみのかみ)の宮へ行き、釣り針と潮盈瓊(しおみつたま)・潮涸瓊(しおひるたま)を得て帰り、兄に報復した話。天孫族が、隼人(はやと)族を屈服させたことを神話化したともみられ、仙郷滞留説話・神婚説話・浦島説話の先駆と考えられている。」
https://kotobank.jp/word/%E6%B5%B7%E5%B9%B8%E5%B1%B1%E5%B9%B8-441493
(注15)「学習院大学の名誉教授で芸能史学者の諏訪春雄氏・・・によると、海幸山幸神話のみならず日本神話の源流を東南アジアに求める傾向があり、その理由を2つ挙げている。第1の理由は、<支那>神話の調査が不十分だったということ。<支那>は幾度も王朝が交替したが、そのたびに新しい歴史が作り直され、前王朝の遺制が破壊されて体系的な神話や伝承が後世に残されなかったということ。第二の理由は、それに比べて東南アジアの研究がはるかに進んでいたということ。しかもその研究のほとんどは欧米の学者によるものだという。欧米の研究者による東南アジア研究が先行し、<支那>少数民族社会の研究は文献資料を欠くために著しく立ち遅れていた。これによって日本神話の原型を東南アジアに求める傾向が強くなったという。」
https://blog.goo.ne.jp/himiko239ru/e/00c1636e1c904cfe1241e6c4017993ad
諏訪春雄(1934年~)。「1956年新潟大学国文学科卒業、1961年東京大学大学院国文科博士課程単位取得退学、1958年中・高等科教諭、1970年学習院女子短期大学教授、1979年学習院大学教授。1966年「元禄歌舞伎の研究」で東京大学文学博士。2005年定年退職、名誉教授。・・・1985年、丸谷才一が『忠臣蔵とは何か』を発表した際、これを厳しく批判し、丸谷と論争になった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%8F%E8%A8%AA%E6%98%A5%E9%9B%84
⇒海幸山幸神話中の釣針探求の部分だけは東南アジア起源ということでよいのかもしれませんが、松本には、一言、諏訪説に言及して欲しかったものです。(太田)
そこに、大和王権による隼人(南九州にいた民族で、最後まで大和朝廷に反撥した民族)<(注16)>の支配を正当化するという政治的な意味をのせて作ったものである。・・・
(注16)「隼人(はやと)とは、古代日本において、薩摩・大隅・日向(現在の鹿児島県・宮崎県)に居住した人々。・・・帰化したのは7世紀末頃とされるが、6世紀末や7世紀初め説もある。・・・服属後もしばしば朝廷に対し反乱を起こし<たが、>・・・720年(養老4年)に勃発した隼人の反乱と呼ばれる大規模な反乱が、征隼人将軍大伴旅人によって翌721年に征討された後には完全に服従し<、>800年(延暦18年)には班田収授法が初めて実施され・・・法的意味での「隼人の消滅(=公民化・百姓化)」<が>完成・・・したと考えられる。・・・
日本神話では、海幸彦(火照(ホデリ)命または火闌降命)が隼人の・・・祖神とされ<る。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%BC%E4%BA%BA
⇒幕末の戊辰戦争が、どちらも、かつて、朝廷にまつろわぬ人々が住んでいたところの、旧隼人居住地域(薩摩藩)に対するに旧蝦夷居住地域(奥羽越列藩同盟)の戦いの様相を呈した、というのは、誰かが言っていたのではないかと思いますが、面白いですね。(太田)
〈建国神話〉を一から創作したら、それは「聞いたこともない奇抜な神々のお話」になりかねない。
民衆が伝承し、よく知られた神話だからこそ、それを用い、そこに新しい意味を乗せて、新しい〈神話〉にしつらえ直すことが有効だったのである。」(44~45)
(続く)