太田述正コラム#9929(2018.7.6)
<松本直樹『神話で読みとく古代日本–古事記・日本書紀・風土記』を読む(その17)>(2018.10.20公開)
「・・・国作り<の>司令神<二柱中>のカミムスヒ・・・の事跡を追ってみよう。
A カミムスヒはスサノヲに命じて、オホゲツヒメ<(注41)>の死体に生じた五穀を取らせ、それを穀物の種子とした。(穀物起源条)
(注41)オオゲツヒメノカミ=大宜都比売=大気都比売神=大宜津比売神=大気津比売神。「名前の「オオ」は美称である「大」の意味、「ゲ」は「ケ」即ち食物の意味で、穀物・食物・蚕の女神である。・・・
高天原を追放されたスサノオは、空腹を覚えてオオゲツヒメに食物を求め、オオゲツヒメはおもむろに様々な食物をスサノオに与えた。それを不審に思ったスサノオが食事の用意をするオオゲツヒメの様子を覗いてみると、オオゲツヒメは鼻や口、尻から食材を取り出し、それを調理していた。スサノオは、そんな汚い物を食べさせていたのかと怒り、オオゲツヒメを斬り殺してしまった。すると、オオゲツヒメの頭から蚕が生まれ、目から稲が生まれ、耳から粟が生まれ、鼻から小豆が生まれ、陰部から麦が生まれ、尻から大豆が生まれた。・・・
殺害された者の屍体の各部から栽培植物、とくに球根類が生じるという説話は、東南アジアから大洋州・中南米・アフリカに広く分布している。[(ハイヌウェレ型神話)]芋類を切断し地中に埋めると、再生し食料が得られることが背景にある。オオゲツヒメから生じるのが穀物であるのは、日本では穀物が主に栽培されていたためと考えられている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%AA%E3%82%B2%E3%83%84%E3%83%92%E3%83%A1
「よって、日本神話に挿入されたのは、東南アジアから一旦中国南方部を経由して日本に伝わった話ではないかと考えられている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%8C%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%AC%E5%9E%8B%E7%A5%9E%E8%A9%B1 ([]内も)
B カミムスヒは赤貝と蛤の女神を派遣し、死んだオホナムチを復活させた。(八十神迫害条)
C カミムスヒは、スクナビコナを自分の子供と認め、オホクニヌシとスクナビコナに国作りを命じた。(国作り条)
いっぽうの・・・タカミムスヒの活動の履歴を・・・たどってみ<ると、>・・・統治者の決定は、けっしてアマテラスの独断ではなく、タカミムスヒの判断によるのである。
しかもその子孫には、タカミムスヒ自身の血統も流れ込んでいた。・・・
「別天つ神」たるタカミムスヒに、アマテラス以前の、あるいはアマテラスとは別系統の至上神の姿を見る説(吉井巌<(注42)>・・・、溝口睦子<(注43)>・・・)がある。」(98~99、105~106)
(注42)1922~95年。「大阪に生まれる。京都大学文学部を卒業。国文学を専攻。帝塚山学院大学教授。・・・、継体天皇の父系の祖であるホムタワケが通常応神天皇とされるところを、垂仁天皇の子・誉津別命と解釈した・・・。また王朝交代説において応神天皇が始祖的な大王とされたのに対し、いち早く応神天皇の始祖性を否定する見解を示した・・・。『ヤマトタケル』においては、ヤマトタケルの伝承のそれぞれがヤマトタケルの別名と密接に結びついていることに注目し、その名前に関連して述べられた伝承を1人の英雄像として統合する形で生まれたのが・・・ヤマトタケルであると論じた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E4%BA%95%E5%B7%8C
(注43)1931年~。「長崎県生まれ。・・・東京大学文学部国文学科卒業。・・・学習院大学大学院人文科学研究科博士課程修了。2000年3月まで十文字学園女子大学教授を務める。」
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784004311713
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[溝口睦子のタカミムスヒ至上神説]
「四〇〇年頃、新羅を占拠していた<(より正しくは・・以下同じ・・新羅と文明を共有していた倭の(太田))>倭軍が高句麗に大敗したことと、それからも高句麗と倭<(/新羅(太田))>とが敵対関係にあり、かなりの緊張状態にあったことは確かだろうと・・・。
そして考古学の知見に拠ればこのころ、日本では大きな文化的変動があったと言われている。大まかに言えば、倭国独自の文化<(文明(太田))>から、朝鮮半島<(高句麗文化(太田))>の影響を強く受けた文化<(文明(太田))>への変化だと・・・。例えばそれまでまったく見られなかった馬具が副葬されるようになり、武器も騎馬戦向きのものに変わ<り、>同時に「王墓とみられる巨大古墳の設営地が、この間に奈良盆地から大阪平野へと移動した」ことが挙げられる<ところ、>これを王権の交代と見るかどうかは別としても、この頃、政権内部に大きな変動が起きたことは明らかだと・・・。
この変動・・・は黒船来航や白村江の敗北などの日本史上の画期と似た事態が起こったのではないか<、すなわち、>黒船も白村江も、敗北後の危機感から政権の強化、国家統一への動きが起こり、その際には相手国からの文物の輸入という方法で対応したことが共通した点<であり、>高句麗との戦いでの敗北から後の文化変動もまた、そのような歴史的な画期だったのだろうと・・・。
当時の政権ではいまだ豪族の連合というような緩いつながりでしかなく、そこから強力な国家を立ち上げるには、専制的な統一王権を支える新しい政治思想が是非とも必要とな<り、>そこで求められたのが、「天」の王権思想だと・・・。
・・・王の出自が天に由来することを語る「天孫降臨神話」は、この時期に、当時朝鮮半島きっての先進国であり、かつ、先述のように、日本が主敵としてつよく意識していた、当の相手の高句麗の建国神話を取り入れる形で導入されたのではないかと・・・
・・・<(>カミのすみかは“海(あま)から天(あま)へ”と変化していったと折口博士は説<いたが、<)>そのような変化は、大和においては六世紀の半ばごろ進行したと・・・思<われる>(そのころから天皇の名に「天」という字が付けられるようになることから、天つカミ信仰の確立が推定される・・・)・・・と。・・・
<ところが、>律令国家形成にあたって、タカミムスヒのかわりにアマテラスが召喚され<ることになったわけだが、それ>は、<「外来」の>タカミムスヒが宮中と一部の氏だけが祭るマイナーな神<にとどまってい>た<のに対し>・・・アマテラスは・・・伊勢の土着信仰であり、また広く親しまれていたため、統一国家形成<(完成(太田))>のためにはアマテラスの方が有利だという考えが働いたのだろうと・・・」
http://d.hatena.ne.jp/CloseToTheWall/20090223/p2
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⇒吉井巌説の方は調べることができませんでしたが、溝口睦子説、なかなか説得力がありますね。
なお、この本の中でこれまで登場した学者達が、ことごとく、奉職した大学に余り恵まれていない印象を持ちます。
逆に言うと、東大や京大等では、記紀の、とりわけ、記紀に盛り込まれている神話の、研究は盛んではない、ということなのでしょうか。(太田)
(続く)