太田述正コラム#9955(2018.7.19)
<松本直樹『神話で読みとく古代日本–古事記・日本書紀・風土記』を読む(その30)>(2018.11.2公開)
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[太田仮説の補足]
1 タカミムスヒについて
まず、タカミムスヒが弥生人の手で、「誕生」し、自分達の祖神に同定された、との私の仮説について、補足説明をしておこう。
私は、弥生人長江文明起源説をとっている。↓
「長江文明(ちょうこうぶんめい)とは中国長江流域で起こった複数の古代文明の総称。黄河文明と共に中国文明の代表とされる。文明の時期として紀元前14000年ごろから紀元前1000年頃までが範囲に入る。・・・稲作を行っていた事からその住居は高床式であった。 ・・・長江文明の発見から稲(ジャポニカ米)の原産が長江中流域とほぼ確定され、稲作の発祥もここと見られる。日本の稲作もここが源流と見られる。 ・・・
弥生時代に日本へ水稲耕作をもたらした人々(弥生人)は、長江文明が起源とする説もある。・・・
長江文明・四川文明とも体系化された文字は見つかっていない。ただし、文字様の記号は見つかっており、その年代は紀元前2000年から紀元前600年とされている。現在出土している最古の甲骨文字が紀元前1300年くらい(武丁期)のものなので、これが文字だとすれば甲骨文字に先んじた文字ということになる。・・・
本格的な発掘が始まってより30年ほどしか経っておらず、発見されたものの量に対して研究が追いついていないのが現状である。 」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E6%B1%9F%E6%96%87%E6%98%8E
しかし、長江文明については、詳しいことは分かっていない。↑
ただ一つだけ確かなのは、同文明が、メソポタミア文明、エジプト文明、インダス文明、同様、大河の流域に、それぞれ独立して、興った文明であることだ。
そこで、これらの文明に手掛かりを求めてみよう。
残念ながら、インダス文明については、長江文明同様、詳しいことは分かっていない。↓
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%80%E3%82%B9%E6%96%87%E6%98%8E
エジプト文明だが、その天地創造神アトゥムは、男神色の強い両性具有神(独神)だ。↓
「天地創造の神<たる>・・・アトゥム<は、>・・・基本的には人間の姿をしており、・・・両性具有とされる。後年、アトゥムの妻となる存在が与えられたが、この妻・・・」は、アトゥムと完全に切り離された存在ではなく、アトゥムの女性的な部分、即ち「アトゥムの手」を象徴し、彼の一部に神格を与えた存在とされる。・・・アトゥムは、「朝の太陽」として世界を照らす神であるとも信じられていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%88%E3%82%A5%E3%83%A0
そして、メソポタミア文明だが、神については、最初の両神のうち、アプスーが淡水の神で男神、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%97%E3%82%B9%E3%83%BC ※
ティアマトが海の神で女神
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%83%9E%E3%83%88
だ。
メソポタミア文明にとっての農業の最重要性を考えれば、アプスーが主神であったと考えられる。
つまり、どちらの文明においても、天地創造神/最初の主神、は、男神色ないし男神、であった、ということになる。
さて、アトゥムもアプスーも、山に降臨したという神話は伴っていない。
それもそのはずであり、ナイル川はもちろんのこと、チグリス・ユーフラテス川でさえ、水源が、当時、まだ、どこにあるか、知られていなかったからだろう。
川は、勾配に従って、どこからかは分からねど、海に向かって流れ続ける存在だったわけだ。
(メソポタミア文明の場合、水源は地下にあると想像されていた。(※))
ここから、長江文明においても、天地創造神/最初の主神、のイメージは似たようなものであったと想像される。
長江の水源であるチベット高原の奥地の情報が、長江文明のあたりまで、当時、既に伝わっていた、とは考えられないからだ。
しかし、長江文明を起源とする人々は、水稲稲作文化を引っ提げて、日本列島に渡来した時に出会った日本の河川の水源が山であること、しかも、その水の源が山に降った雨であること、を容易に見て取ることができたはずだ。
そこで、彼らは、同時に、自分達弥生人を同定させたところの、(男神色の)タカミムスヒ(高皇産霊尊/高御産巣日神)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%9F%E3%83%A0%E3%82%B9%E3%83%93
・・「高」に注目。これを「山」と解する・・と先住民たる縄文人を同定させたところの、(女神色の)カミムスヒ(神産巣日神/神皇産霊尊)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%9F%E3%83%A0%E3%82%B9%E3%83%93
を「誕生」させた、と、私は見るわけだ。
(ちなみに、日本書記の本文には言及がないが、古事記では、この両神と同時に、いかなる意味においても両性具有神(独神)たるアメノミナカヌシノカミ(天之御中主神)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E4%B9%8B%E5%BE%A1%E4%B8%AD%E4%B8%BB%E7%A5%9E
・・「天」に注目。これを「雨の素、雲、の所在する場」と解する・・も「誕生」した、とされているところだ。)
2 オホクニヌシについて
「オホクニヌシが男神であるのは、彼の祖神で女神色のカミムスヒの他の子供達・・オホクニヌシの姉妹達・・にして女神たる地神達」と太田は言うが、そもそも、カミムスヒはオホクニヌシの母ではないのだから、『出雲国風土記』でカミムスヒの子供達とされるキサガイヒメやウムギヒメ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%82%B5%E3%82%AC%E3%82%A4%E3%83%92%E3%83%A1%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%83%A0%E3%82%AE%E3%83%92%E3%83%A1
のような「女神たる地神達」はオホクニヌシの姉妹ではないではないか、という批判が上がることが予想されるので、前もって弁明しておく。
確かに、オホクニヌシは、スサノヲの子ないしは六~七世の孫
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%9B%BD%E4%B8%BB
で、このスサノヲがその父イザナキから遥か、男神色のタカミムスヒへと遡るところの、れっきとした弥生系の神だが、他方で、『古事記』が、「たくさんの兄神たちである八十神から嫉視された大国主神が、八十神が猪と偽って山上より転がした焼ける岩を抱き止めて焼け死んだところへ、神産巣日之命<(カミムスヒ)>の命令によって・・・派遣され<た>・・・ウムギヒメ・・蛤貝比売・・が「持ち承(う)けて、母(おも)の乳汁(ちしる)を塗り」て治療を施すと大国主神は蘇生したとある」ところ、「蛤の汁が母乳に見立てられた」との説をとることとする
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%82%B5%E3%82%AC%E3%82%A4%E3%83%92%E3%83%A1%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%83%A0%E3%82%AE%E3%83%92%E3%83%A1 (「」内。前掲)
と、これは、私としては、カミムスヒが、オホクニヌシとウムギヒメの両者の母であること、より端的に言えば、都合により、タカミムスヒ系とされたオホクニヌシが、実は、ウムギヒメらと同じく、カミムスヒの子であること、を暗に示している、と解したいのだ。
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