太田述正コラム#9959(2018.7.21)
<松本直樹『神話で読みとく古代日本–古事記・日本書紀・風土記』を読む(その32)>(2018.11.4公開)
「出雲国風土記は、大和王権の<建国神話>を受け入れながら、そこに独自の主張を盛り込む形で、出雲の<神話>世界の再構築を目指したのではないだろうか。・・・
土地ごとに伝えられていた神話や地名起源伝承では、時間としてはイニシヘとイマがあるだけで、連綿と続く歴史的な時間軸など存在しないのである。
「いにしえ神がこうした」→「だから今、この村や人はこうなのだ」という時制しか持ち得ないのだ。・・・
風土記の神話世界があるとするならば、それは空間的な広がりを持つ世界であろう。
ある郷にはこのような神話があり、北の川は某神が支配していて、東の山の頂上には某神が鎮座している。
このように郷ごと土地ごとの神話を合せて見えてくるのは空間的神話世界に他ならない。・・・
ここで国引き<(注75)>について<振り返っ>てみたい。
(注75)「縄文時代、島根半島の部分は海であったとする説もあ<る。>」
https://www.izumo-kankou.gr.jp/1156
「島根半島と中国山地の間には、出雲平野が広がり、ここは縄文時代は内湾<だっ>た。
ところが、三瓶山が噴火した5000年前と4000年前に火山噴出物によって海が一気に埋められて、広い平野が出現すると共に、島根半島は陸続きにな<っ>た。」
http://nkurabay645.blog.jp/archives/25185052.html
「「国引き」神話では四回の国引き毎に確かに「引き来縫へる」行為を四回繰り返している点である。島根半島の形状を念頭に置くと、海上から引っ張ってきた「地塊」同士を次々と西から東へと縫いつけたと考えることができよう。すなわち「支豆支の御埼」の東に「狭田国」、そしてさらに東に「闇くら見み国」、その「闇見国」に「三穂の埼」を縫いつけたという作業、そして地勢を思い浮かべることができよう。
問題は四つの地塊を縫いつける行為は三回であるという事実である。では初発の「栲衾志羅紀の三埼」から「国引き」した「去豆の折絶より八穂爾支豆支の御埼」は何処と「引き来縫へる」としたのであろうか。その縫合の先の地は「八雲立つ出雲の国は、狭布の稚国なるかも」の何処に求めることができるのであろうか。
「支豆支の御埼」が「杵築」であることをおさえると地形的に見てその地が出雲郡伊努郷域であることが浮かんでこよう。・・・
<また、>『播磨国風土記』逸文が大変興味深い伝承を提供する。神功皇后が新羅国の併合を神々に祈ったという。」(関和彦)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/tits/20/10/20_10_58/_pdf/-char/ja
関和彦(1946年~)。「早稲田大学文学部卒業。・・・同大学院文学研究科日本史学専攻修士課程修了。・・・國學院大學博士(歴史学)。共立女子第二中学校・高等学校校長、国学院大学文学部兼任講師、島根県古代文化センター客員研究員。専攻・日本古代史。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E5%92%8C%E5%BD%A6
⇒松本ならぬ私による引用ですが、初めて関和彦という歴史学者の登場です。
関の説が正しければ・・正しそうです・・、杵築大社(出雲大社)の祭神たるオホクニヌシ(オホナムチ)を祖神とするところの、かつて出雲地方を支配していた一族は、ほぼ同じ文明を共有こそすれ、日本列島出身ではなく、朝鮮半島南部出身の(広義の)弥生系人達であることを示唆している、と言えそうです。
なお、「356年・・・が新羅の実質上の建国年とも考えられている」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%BE%85
ところ、それ以降に、新羅出身者が出雲地方を支配するに至っていたとすると、そのことは、神話ではなく、歴史として語り継がれるはずですから、支配するに至った時点は新羅の建国よりもはるかな昔である、と考えるべきでしょうね。(太田)
・・・出雲の本土に島根半島を結びつけたという、いわば空間を扱った話である。・・・
・・・オミヅヌの国引きは、イザナキ・イザナミの国生みを前提に行われたことになる。
つまり、「国生み」と「国引き」という別個な国土造成の話が時間軸上に配置されて、「国生み→国引き」という展開が一つの国作りとして再構成されたということである。
これによって、出雲国風土記は何を言おうとしているのだろうか。
古事記や日本書紀の<国生み神話>を認め、その上で、出雲の神が作った出雲独自の空間があることを主張しているように思うのだ。
そして、・・・オホナムチの鎮座する杵築(きつき)大社(出雲大社)は、その国引きされた土地の内に築かれることになるのである。
地方の神話を利用しながら、大和王権の<建国神話>が作られた。
たとえば、「確かにオホナムチは国作りの神であったが、実はその国を皇祖に譲ったのだ」という具合に。
そしてまた風土記の<神話>が<建国神話>の享受の上に創造されてゆく。
たとえば、「確かにオホナムチは皇祖に国譲りをしたが、実は出雲一国だけは守ったのだ」という具合に。
新しい<神話>は、既存の神話や<神話>に拘束されながら、その代償として「神話力」を維持し、常に再生されてゆくのである。」(240、242~244)
(続く)