太田述正コラム#9965(2018.7.24)
<井上寿一『戦争調査会–幻の政府文書を読み解く』を読む(その1)>(2018.11.8公開)
1 始めに
表記の本の著者の井上寿一(1956年~)は、「1974年(昭和49年)東京都立戸山高等学校卒業、1981年(昭和56年)一橋大学社会学部卒業、1983年(昭和58年)一橋大学大学院法学研究科修士課程修了、1986年(昭和61年)同博士課程単位取得退学、1988年(昭和63年)法学博士(一橋大学、学位論文『1930年代日本外交の史的分析-日中戦争に至る対外政策の形成と展開』)、1986年(昭和61年)一橋大学法学部助手、1989年(平成元年)学習院大学法学部助教授、1993年(平成5年) 同教授・・・、2005年・・・学習院大法学部長、2014年(平成26年)~学習院大学学長・・・
主な受賞歴–吉田茂賞(1995年(平成7年))、政治研究櫻田会奨励賞(1995年(平成7年))、正論新風賞(2011年(平成23年))・・・
2014年(平成26年) 内閣府公文書管理委員会委員、国家安全保障局顧問」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%B8%8A%E5%AF%BF%E4%B8%80
という人物です。
高校を卒業してから大学を卒業するまでの7年間中の3年間の彼の浪人/留年/海外歴を知りたいところです。
また、受賞歴や政府との関わりからして、御用御用、の響きがしますね。
2 井上寿一『戦争調査会–幻の政府文書を読み解く』を読む
「1945(昭和20)年10月30月、幣原内閣は「敗戦の原因及び実相調査の件」を閣議決定する。
⇒我々は、「敗戦」が戦争目的に照らせば必ずしも正しくないことを知っていますが、井上は、せめて、「敗戦」ではなく「大東亜戦争」とすべきでしたし、我々はまた、「原因及び実相調査」が、占領下の日本人にとって、関係諸国への出張や、当該諸国からの史料収集が事実上不可能であったことに照らせば、出張や史料収集の対象が日本、しかも、戦前におけるいわゆる内地、に限られることから、著しく偏頗なものにならざるをえなかったであろうことに留意すべきでしょう。
私は、そのような問題意識を持って、この本を読んでいこうと思います。(太田)
この閣議決定に基づいて、ふたたび戦争の過誤を犯さないように、政治、外交、軍事、経済、思想、文化などの多角的な視点から、敗戦の原因と実相を明らかにする政府機関として、戦争調査会が設置されることになった。
⇒「戦争の過誤」という言葉が突然登場して、戸惑ってしまいます。(太田)
委員・職員は総勢約100人が予定された。
ここに戦争を検証する国家プロジェクトが始まる。・・・
戦争調査会の資料に注目する理由は三つある。
第一は資料の歴史的な価値である。・・・
これらの資料は全15巻の刊行図書として誰でも参照できるものの、活用されているとは言い難い状況である。・・・
⇒この部分は同意です。(太田)
第二は、再解釈の可能性である。
戦争はなぜ起きたのか。・・・
⇒お、井上もまともなことを、と一瞬思ったのですが・・。(太田)
敗戦直後と平和が70年以上続いている今日とでは、「不戦の誓い」の意味も異なる。
⇒ここでガックリです。(太田)
どちらが正しいかどうかの問題ではない。
なぜ、道を誤ったのか。
⇒更に、ガックリです。(太田)
昭和戦前史から学ぶ教訓は人それぞれである。・・・
⇒そう言った瞬間に、戦争のルーツを幕末に求める発想等が排除されてしまうわけです。(太田)
第三は戦争の自立的な検証の重要性である。・・・
東京裁判の結果に基づく歴史観(東京裁判史観)の是非が争われている。
「文明の裁き」と肯定するのか、「勝者の裁き」と否定するのか。
このような二者択一の対立図式は戦争責任論を歪める。
「文明の裁き」論の過剰な規範意識は、戦争の現実を見失わせる。
⇒ここはまあいいとして・・。(太田)
「勝者の裁き」論の発想は、戦前日本の無批判な肯定につながる。
⇒完全に非論理的なセンテンスです。(太田)
問うべきは別の問題である。
なぜ戦後日本の政府と国民は自らの手で戦争原因を追究しなかったのか。」(4~7)
⇒え、「戦争調査会」は何だったの、と思わず、井上に問い返したくなりますね。(太田)
(続く)