太田述正コラム#9967(2018.7.25)
<井上寿一『戦争調査会–幻の政府文書を読み解く』を読む(その2)>(2018.11.9公開)
「・・・しかし自立的な戦争原因の追究はむずかしい。
敗戦国は責任回避に走り、証拠の隠滅を図る。
日本も例外ではなかった。
陸軍は早くも8月14日の午後から機密書類の焼却を始めている。
翌日正午の「玉音放送」後、中央官庁街を見渡すと、外務省・内務省・大蔵省から公文書の焼却による煙が立ち上がっていた。<(注1)>」(4~5)
(注1)「「総理(鈴木貫太郎首相)は戦争の終結を固く決意している。ついては内務省で戦争終結方針をまとめてもらいたい」。1945年8月10日朝、迫水久常・内閣書記官長から、内務省に極秘の要請があった。
そこで、灘尾弘吉内務次官の命を受け、内務省地方局戦時業務課の事務官(現在の課長補佐クラス)だった私・・奥野誠亮・・が各省の官房長を内務省に集め、終戦に向けた会議をひそかに開いた。
⇒↑↓当時までの内務省の地位がよく分かる、というものです。(太田)
もう一つ決めたことは、公文書の焼却だ。ポツダム宣言は「戦犯の処罰」を書いていて、戦犯問題が起きるから、戦犯にかかわるような文書は全部焼いちまえ、となったんだ。会議では私が「証拠にされるような公文書は全部焼かせてしまおう」と言った。犯罪人を出さないためにね。
会議を終え、公文書焼却の指令書を書いた。ポツダム宣言受諾のラジオ放送が15日にあることも聞いていたので、その前に指令書を発するわけにはいかないが、準備は整っていた。・・・
昭和20年(・・・1945年)8月14日、日本政府は閣議でポツダム宣言受諾を決定するとともに重要機密文書の焼却を決定した。・・・
私・・広瀬豊作・・・大蔵大臣・・もご承知のとおり終戦直後、資料は焼いてしまえという方針に従って焼きました。これはわれわれが閣議で決めたことですから、われわれの共同責任のわけですが、あの当時、当然アメリカだけが来て今日のような態度でやってくれるということがわかっておれば問題はなかった。なにもそれほど用心する必要はない。
その当時の予想としては交戦国のいずれが来るか、全然わかっていなかった。おそらく中国、アメリカ、ソ連と皆来るであろう。もっともソ連も満州でやったようなあんなむちゃをやるとは、当時は思わなかった。ソ連とは最近まで、条約によって戦争はなかった。逆に中国は満州事変、支那事変で先方において恨みを抱いておることが相当あって、中国が来たら相当の仕返しをするだろうということを一番懸念していた。そういうことが一番の恐れであった。
そういうわけで資料は全部焼くという大方針が決まったわけであるが、閣僚各自、自分の持っているものを焼こう。軍の関係あるいは各省関係の書類についても同様の措置を採ろうというので、それぞれ所管大臣から命令を出して、できるだけ早く焼いてしまえと通達したわけですから、残ったものはあまりないであろうと思う。・・・」
http://www.wayto1945.sakura.ne.jp/APW/APW-destroy_evidence.html
広瀬豊作(とよさく。1891~1964年)。「元加賀藩士広瀬嘉次馬の5男として生まれる。金沢一中、第一高等学校を経て、1917年に東京帝国大学独法科を卒業する。同年7月大蔵省に入省。・・・理財局長・・・主計局長・・・次官・・・1941年に退官して弁護士を開業するが、太平洋戦争が開戦すると陸軍の要請を受けて南方軍軍政顧問としてシンガポールに赴任する。1945年、鈴木貫太郎は組閣に際して広瀬の義父で財政のベテランである勝田主計に大蔵大臣就任を要請するが、勝田は高齢を理由にこれを辞退して娘婿の広瀬を推挙」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E7%80%AC%E8%B1%8A%E4%BD%9C
⇒井上のような書き方ですと、いかにも陸軍が独断で証拠隠蔽を始め、それに諸他省が追随したかのような印象を与えます。
彼には、「注1」で紹介したような経緯を、多少なりとも書いて欲しかったですね。
もっとも、書いてしまうと、「敗戦国は責任回避に走り、証拠の隠滅を図る。日本も例外ではなかった。」と言い切るほど事態は単純ではなかったことが分かることを、彼は「恐れた」のかもしれませんがね。
なお、そのこと以前に、そもそも、井上は、「敗戦国は責任回避に走り、証拠の隠滅を図る」ものであることの「証拠」(典拠)をあげるべきでしたね。
蛇足ながら、大蔵官僚出身でも、終戦当時、内閣書記官長であった迫水久常
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%AB%E6%B0%B4%E4%B9%85%E5%B8%B8
こそ知られているものの、大蔵大臣であった広瀬豊作は殆ど知られていませんが、反東條工作ないし終戦工作に当たった者がいなかったこともあり、戦時中は、大蔵官僚出身者は、外務や商工官僚出身者に比べて、存在感が希薄でしたね。
もっとも、大蔵官僚出身で開戦時の大蔵大臣だった賀屋興宣はA級戦犯になっています
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B3%80%E5%B1%8B%E8%88%88%E5%AE%A3
が・・。(太田)
(続く)