太田述正コラム#9973(2018.7.28)
<井上寿一『戦争調査会–幻の政府文書を読み解く』を読む(その5)>(2018.11.12公開)

 「・・・幣原は<、総会の>冒頭、・・・戦争犯罪者の責任追及を回避しようとした<ものではない、と言明した。>・・・
 当時の政府には戦争犯罪者を処罰する立法措置(「戦争責任裁判法」)の検討が「宿題」になっていた。・・・
 政府がこのような立法措置を考えなければならないほど、国民世論は戦争責任の追及に急だった。
 なかでも軍人が非難された。<(注10)>・・・

 (注10)「阿部<信行首相>は<、1940年1月16日の>総辞職の際に原田熊雄に「今日のように、まるで二つの国、陸軍という国とそれ以外の国とがあるようなことでは、到底政治がうまくいくわけはない。自分も陸軍出身で前々から気になってはいたがこれほど深刻とは思っていなかった。認識不足を恥じざるをえない」と語っている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E9%83%A8%E4%BF%A1%E8%A1%8C

⇒「注10」の二つの「国」は、重臣達を含めた広義の軍事・非軍事の官僚達に限定された話であって、当時までは、陸軍軍事官僚達(の過半)が世論(の過半)の支持を得ていたからこそ、陸軍主導の対外政策が基本的に国策となってきていたところ、対米英戦争が、日本の降伏という形で、しかも、日本側に一方的な死傷者や財産上の損害をもたらして終了したことで、世論(の大部分)が陸軍離れを起こした、ということでしょう。
 もとより、私見では、陸軍内の、上澄みであった杉山元らは、そのような結果になることも覚悟の上で、戦争目的は達するであろうと踏んで、対米英戦争開戦を決断したわけですが・・。(太田)

 青木は・・・渡辺銕蔵<(注11)>に発言を促す。・・・

 (注11)1885~1980年。東大法卒、法学博士。東大経済学部教授、1928年日本商工会議所理事、1944年反ナチス運動で投獄、「一方で、反共主義者として知られ、戦後の<19>48年に東宝の社長に担ぎ出される。」
https://books.google.co.jp/books?id=lJRwDgAAQBAJ&pg=PT292&lpg=PT292&dq=%E6%B8%A1%E8%BE%BA%E9%8C%AC%E8%94%B5&source=bl&ots=ypCtar2GRX&sig=99RXErczGOlUR5ytQ6SlrRFDrQk&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwigrI6Em8HcAhXFi7wKHVLIC7oQ6AEwBnoECAEQAQ#v=onepage&q=%E6%B8%A1%E8%BE%BA%E9%8C%AC%E8%94%B5&f=false

 1936年には立憲民政党の国会議員になって、軍部と右翼勢力を批判する論陣を張った。
 しかし翌年の総選挙で落選する。・・・
 渡辺は戦争が起きたのは「約10年も前から薄々感付いて居りました」と言う。・・・
 さらに・・・「私は此の戦は理由のない、なすべからざる戦を致したと思うのであります。」<と>・・・断言する。・・・
 「斯様な誤った戦を強い、国民を塗炭に苦しめ、隆々たる国運を失墜致したのみならず、世界に対して大変な迷惑を与えたと思うのであります」。
 渡辺は「指導階級は勿論、国民」も反省すべきとの立場だった。
 政府から追及を免れている「戦争の真の責任者」がいるとも指摘している。・・・」(30~31、33)

⇒渡辺の批判は、(もとより私は不同意ですが、)それなりに筋が通っています。
 「戦争の真の責任者」について、渡辺の念頭にあった人々とは違うと思いますが、私なら、大昔に亡くなった島津斉彬から始まり、最後は前年に自裁していた杉山元に至るところの、陸軍内外の島津斉彬コンセンサス信奉者達、をあげるところです。(太田)

(続く)