太田述正コラム#9979(2018.7.31)
<井上寿一『戦争調査会–幻の政府文書を読み解く』を読む(その8)>(2018.11.15公開)
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[大西洋憲章第3項について]
「憲章の第3条・・政府形態を選択する人民の権利・・については、<ロ>ーズベルトとチャーチルの間で見解の相違があった。<ロ>ーズベルトがこの条項が世界各地に適用されると考えたのに対し、チャーチルはナチス・ドイツ占領下の<欧州>に限定されると考えた。つまり、<英国>はアジア・アフリカの植民地にこの原則が適用されるのを拒んでいた。<ロ>ーズベルトも実際には、「大西洋憲章は有色人種のためのものではない。ドイツに主権を奪われた東欧白人国家について述べたものだ」と側近に語った。同年9月24日にはソ連など15ヵ国が参加を表明した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%A5%BF%E6%B4%8B%E6%86%B2%E7%AB%A0
⇒米国にとって、第4項で、自由貿易の拡大を謳ったのは、自国が、農業製品でも工業製品でも当時既に世界一の競争力を持っていたことから、自国に有利であったからだだし、この第3項は、大英帝国瓦解による、米国の全球的覇権国化の確実化を期したものだったわけだが、それが、必然的に「有色人種のため」にもなってしまうことに不快感を禁じえなかった、といったところだ。
面白いのは、この第4項の入った大西洋憲章にソ連まで賛同したことだ。
これは、その34年後に、第7項で人権尊重、第8項で民族自決、を謳っていたところの、1975年8月1日のヘルシンキ宣言(Helsinki Accords)
https://en.wikipedia.org/wiki/Helsinki_Accords
にソ連が賛同したことと併せ、1991年12月のソ連崩壊
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E9%80%A3%E5%B4%A9%E5%A3%8A
の理論的根拠を提供してしまったところの自傷行為であった、と言えよう。
このように見てくると、アメリカ・ファースト的な立場から先の大戦に臨んだ米国、と、人間主義的な立場から先の大戦に臨んだ日本、とは、形の上では共闘関係にあったと言えるのであって、日本が、戦後、米国の属国になったのは、その限りにおいては自然な成り行きだった、とも言えそうだ。(太田)
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「・・・第二回総会は4月4日に開催され<た>。・・・
敗戦の原因の追究を戦争調査会の目的とする考えに対して、馬場は挑発する。
「敗戦の原因と云うのは、戦争を始めたから敗戦したのだろう」。
馬場は疑問を投げかける。
「戦争を始めた其事自身が間違って居るのではないか」。
このような立場からすれば、敗戦の原因を調査するということは、「死んだ子の年を数えるようなこと」で、無意味になりかねなかった。
⇒馬場が、こんな、戦争否定論(非武装論?)者的な発言を行うことが分かっておれば、いくらなんでも、幣原や事務局は、委員に馬場を選んでいなかったでしょうね。(太田)
幣原は反論する。
「戦争をすれば必ず負けると決まったものではない」。
幣原は現実主義者である。
⇒幣原が、本当に、戦争肯定論(軍備保有論)者であったならば、「マッカーサー憲法」の武装放棄部分を拒否するか、その後、その部分の是正に向けて努力したはずですが、その形跡はありません。
(幣原は、1952年4月28日の主権回復
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%BB%E6%A8%A9%E5%9B%9E%E5%BE%A9%E3%81%AE%E6%97%A5
より一年ちょっと前の、1951年3月10日、衆議院議長在任中に急死しており、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%A3%E5%8E%9F%E5%96%9C%E9%87%8D%E9%83%8E
主権回復後も長く生きた吉田茂に比べれば、斟酌する余地はありますが・・。)(太田)
敗戦直後であればだれでも不戦の誓いを立てる。
しかし20年、30年経てば、「もう一遍戦争をしよう」と考えるようになるかもしれない。
その時、なぜ日本は戦争に敗けたのかを調査した記録があれば、その記録は「非常に価値のある有益なる参考書類」になるだろう。
幣原はそう考えた。」(42~44)
⇒この時点では、日本の三つの戦争目的中の、ブロック経済の打破を除き、アジア解放も対ソ抑止も達成したことが、まだ、一般には明白にはなっていなかった点は割り引かなければなりませんが、繰り返しになるけれど、敗戦自体を疑ってかかる人間がこの調査会に一人もいなさそうであったことは情けない、と言ってみたくなります。
ちなみに、「終戦直前に元帥として天皇に意見を求められた杉山は、同じく元帥で開戦時の軍令部総長である永野修身とともに「国軍は尚余力を有し志気も旺盛なれば、なおも抗戦して<米>軍を断乎撃攘すべき」と奏上したという」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E5%B1%B1%E5%85%83
のですが、(永野が杉山に追随した理由までには立ち入らないことにしますが、)彼の判断では、その時点で、ブロック経済打破は達成済み、アジア解放はほぼ達成済み、そして、対ソ抑止についても達成する見込みだったけれど、米ソ対立が顕在化するまで、もう少し、戦争終結を先延ばしにしたい、というものだったのではないか、というのが私の想像です。(太田)
(続く)