太田述正コラム#9993(2018.8.7)
<井上寿一『戦争調査会–幻の政府文書を読み解く』を読む(その15)>(2018.11.22公開)
「第三部会委員の3人の経済学者は、戦争調査会が始まる前の時期に、別の調査委員会(外務省特別調査委員会)のメンバーでもあった。
敗戦によって外交権を失った日本の外務省は、調査業務だけが認められた。<(注23)>
(注23)「外務省調査局の前身である外務省調査部は、1933年(昭和8年)12月に外相広田弘毅が提出した「外務省所管事項ニ関スル調査及資料整備ノ事務ヲ掌ラシムル為」の調査部設置案に基づき1933年12月28日に設置された部局である。その後調査部は1942年(昭和17年)11月1日に大東亜省が設置されるに伴って外務省内の調査局に昇格したが、大東亜省内にも総務局調査課が置かれたため、大東亜省管轄地域は管轄外となった。調査局には3課が置かれ、第1課が外交史実調査、第2課がソ連および西アジア、第3課が外務省管轄地域での対外宣伝啓発を担当した。終戦後の1947年(昭和22年)4月15日の機構改革で調査局は大きく機構拡充され管轄地域を回復した。すなわち第1課が局内事務の総合調整・一般国際情勢・外交文書編集、第2課が米州関係の調査、第3課が東欧関係の調査、第4課が西欧関係の調査、第5課が東亜関係の調査をそれぞれ担当するとされた。サンフランシスコ平和条約調印後の1951年(昭和26年)12月1日に行われた機構改革では、調査局は廃止され、調査局の機能は情報文化局が担うようになったとされる。」
https://www.jacar.go.jp/glossary/term1/0110-0010-0080-0010-0070.html
外務省はこの委員会をとおして、日本再建策をまとめようとする。
委員会は敗戦の年に始まり、翌年3月までに約40回、開催されている。
委員会は中間報告(1945年12月)を経て翌年3月に報告書「日本経済再建の基本問題」<(注24)>をまとめる。
(注24)「中心になってまとめたのは後に外務大臣や海外経済協力基金(OECF)の総裁も務められた大来佐武郎氏。戦後、経済安定本部に異動するまでの間、外務省の調査部におり吉田茂のブレーンとしてこの報告書をまとめたのだ。
その時の委員の顔ぶれ<だが、>・・・中山伊知郎、東畑精一などの近代経済学者とともに、マルクス経済学の宇野弘蔵・大内兵衛・有沢広巳などが名前を連ねている。また、都留重人なども討議に参加していた。・・・
前半は日本の世界経済の中での位置づけ(比較優位)を分析し、後半では各セクター毎に分析がなされている。特に比較優位が失われた繊維・農業から工業化の必要性が説かれており、その経済構造転換のためにはある程度の政府の介入が必要であると議論されている。
委員のうち、有沢広巳は数年後に傾斜生産方式など戦後の日本経済の復興を支えた政策の提案者となるが、この報告書にも随所にその主張が垣間見られる。
また、当時のGHQの民主化政策を受けてか「日本の政治経済の民主化」についてもかなり議論されている点も興味深い。当時、GHQの民生局にいたビッソンなどはかなり明確に経済再建の青写真を持っていたようだが、それに対応して日本側の青写真を提示している」
https://researchmap.jp/joluxnsp4-2210831/
⇒この報告書は、外務省調査局名で上梓されている(上掲)ところ、1946年当時の外務省調査局の所管(「注23)参照)、というか、外務省そもそもの所管、に照らし、どうして、このような委員会を設置し、報告書を上梓することが許されたのか、不思議でなりません。
(もとより、外務省には、戦前、ずっと通商局があり、
https://www.jacar.go.jp/glossary/term1/0090-0010-0080-0020-0100.html
現在も経済局がある
https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/sosiki/keizai.html
とはいえ、それらが担当したのは、渉外経済業務であり、国内経済業務ではなかったのですからね。)
大蔵省/日銀はインフレや歳入不足対処に大童(典拠省略)で、また、商工省は、軍需省から「復帰」する大組織改編(1945年8月26日)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%8D%E9%9C%80%E7%9C%81
の余波で調査研究どころではなかったのかもしれませんが・・。(太田)
同年9月には改訂版を出している。
この委員会には労農派だけでなく、講座はマルクス主義経済学者の山田盛太郎<(注25)>や近代経済学者の中山伊知郎<(注26)>なども参加していた。
(注25)もりたろう(1897~1980年)。愛知県出身。東大経済卒、同学部副手、助教授、1930年 共産党シンパ事件で東大を追われ・・・1945年 ・・・教授<として>復職、・・・1950年に「再生産過程表式分析序論」により東京大学から経済学博士の学位を授与される。経済学部長などを務め、定年退官後は、専修大学教授、龍谷大学教授を歴任。・・・野呂栄太郎、平野義太郎と並びいわゆる講座派マルクス経済学の理論的主柱として活躍した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%94%B0%E7%9B%9B%E5%A4%AA%E9%83%8E
(注26)1898~1980年。福島県出身。「東京商科大学(現一橋大学)本科を卒業し、同年4月、東京商科大学大学助手に就任。・・・1927年ボン大学に留学し東畑精一とともにシュンペーターに師事する。1939年経済学博士(東京商科大学)・・・
東京商科大講師嘱託、・・・同助教授、・・・同教授を経て、1949年同学長となる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B1%B1%E4%BC%8A%E7%9F%A5%E9%83%8E
⇒日本の当時までの経済学者など、マルクス経済学者にせよ、「近代」経済学者にせよ、ヨコ文字で書かれたものをいタテ文字に翻訳してそれに若干の自分好みの味付けをしただけの業績しかなく、日本の実態に即した実証研究など碌にしていない、香具師に毛が生えた程度の代物、というのが、いささか辛辣過ぎるかもしれませんが、私の見解です。(太田)
委員のひとり大内兵衛はこの報告書を「日本の経済学上記念すべきパンフレット」と呼んだ。
GHQの経済顧問もこの報告書の有用性を認めている。
「日本経済再建の基本問題」は戦後日本再建のバイブルのような存在になる。
⇒欧米史、ひいては世界史に、よかれあしかれ大きな影響を与えた本物のバイブルとは違って、日本の戦後経済史に殆ど影響を与えたとは思えない以上、そんなものはバイブルの名に値しません。
戦後の日本経済の再建/成長を担った著名企業人達の誰も、「日本経済再建の基本問題」を参考書として挙げていないのではないでしょうか。(太田)
ふたつの委員会は構成メンバーの重複が示すように、類似した歴史観を持っていた。
第一回・第三部会が取り上げた5つの戦争原因は、「日本経済再建の基本問題」の分析枠組みから導きだされたといえなくもない。」(73)
⇒戦後の日本経済の再建/成長をもたらしたのは、繰り返しますが、1930年に商工省に設けられた臨時産業合理局が日本商工会議所日本工業協会などと呼応して推進した経済体制
https://kotobank.jp/word/%E8%87%A8%E6%99%82%E7%94%A3%E6%A5%AD%E5%90%88%E7%90%86%E5%B1%80-1437859
が満州国で陸軍との連携の下で先駆的に実施に移され、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%80%E5%B7%9E%E7%94%A3%E6%A5%AD%E9%96%8B%E7%99%BA%E4%BA%94%E3%82%AB%E5%B9%B4%E8%A8%88%E7%94%BB
それが内地にフィードバックされる形で、先の大戦の戦中にかけて、結果として構築されたところの、日本型政治経済体制(コラム#省略)なのであって、その構築に経済学者は何の役割も果たしていないのです。(太田)
(続く)