太田述正コラム#9999(2018.8.10)
<井上寿一『戦争調査会–幻の政府文書を読み解く』を読む(その18)>(2018.11.25公開)
「・・・第四部会(思想文化)・・・は第三部会やその他の部会の議論をまとめる役割も荷うことになった。
議論を主導したのは部会長の馬場恒吾である。・・・
馬場には発言しないではおられない気がかりなことがあった。
それは4月4日の第二総会における幣原との論争だった。・・・
馬場と比較すれば、幣原は絶対平和主義者であるかのようだった。・・・
⇒ここの井上の解説はまさにその通り。(太田)
馬場は戦前日本を擁護しつつ、戦争回避の可能性を探ろうとする。
⇒馬場が国際情勢音痴であることを告白しているような話です。(太田)
「満州や支那辺で日本人も悪いことをしたかも知れないが、支那人にもひどい目に遭わされた。
⇒ここだけは、馬場はあっています。(太田)
張作霖なんかの時は日本人はひどい目に遭っている。
私は考えるのに、満州事変を起す前に、むしろ延々と国際連盟なんかに訴えて、如何に日本人が圧迫されているかということを明かにしたら、或は満州事変を起さないでも何かもっとよい分別があったのではないかと思う。
或は支那事変も避けられたかも知れない。
馬場はここで1920年代後半の中国ナショナリズムと日本の対立のことを言っている。
清朝中国崩壊後、蒋介石の国民党が軍事力によって中国の統一を進める。
その過程で日本を含む列国の居留民の生命・財産が脅かされる。
このような中国の不法行為を国際連盟に訴えれば、満州事変のようなかたちで問題を軍事的に解決しないで済んだ。
満州事変が起きなければ、日中戦争も起きなかった。
馬場はそう指摘している。
<しかし、>国際連盟に訴えても問題は解決しなかっただろう。・・・
⇒井上でさえ・・失礼!・・馬場の甘ちゃんぶりを叱らざるをえなかったということです。(太田)
馬場は第四部会が調査すべき項目として、軍部による「言論抑圧とかその他非合法事件」を挙げる。
「非合法事件」とは1932(昭和7)年の五・一五事件や1936年の二・二六事件事件のことである。
同時に馬場は1933年の荒木(貞夫)陸相による「軍民離間に関する陸相談話」<(注32)>に言及する。
(注32)これに「海軍省も追随」した。
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/rekishi/kindaishico/2.26zikenco/history4.html
「荒木陸相に代った林新陸相と大角海相とは・・・軍民離間を強調した内容の印刷物を配布した者があったから、容易ならぬ事態と考えて声明書を出すことにした、というように説明して除けたが、<海軍出身の>斎藤<実>首相は・・・「軍部の声明書発表について私は何等相談にもならねば発表後報告にも接して居らぬ」と答弁した」
http://yourei.jp/%E8%BB%8D%E6%B0%91%E9%9B%A2%E9%96%93
馬場はこの談話の言論抑圧効果をつぎのように表現している。
「あれで新聞記者はびっくりしてしまった。
あれは五・一五事件の翌年だが、それで黙ってしまった。・・・
⇒戦前における、讀賣を含む、新聞界による戦争熱扇動に、内心忸怩たる思いがあったのか、荒木貞夫のウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%92%E6%9C%A8%E8%B2%9E%E5%A4%AB
にさえ出てこない、マイナーは挿話を、馬場は、あえて仰々しく持ち出した、といったところでしょうか。
なお、この荒木の談話の主たる標的は、二大政党を念頭に置いたところの、諸政党であって、新聞界ではなかったと想像されますし、また、さほど、おかしいことを言っているわけでもない、と私は思います。
ところで、斎藤は、五・一五事件を経て、ようやく実現した日本の挙国一致内閣の初代首班となった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E8%97%A4%E5%AE%9F
にもかかわらず、自分の出身の海軍を含め、軍部にえらく冷たい姿勢をとったものです。 こういったことが、その後、内大臣を務めていた斎藤が、二・二六事件の時に虐殺される(上掲)事態を招いたのでしょうね。(太田)
1933年5月に日中停戦協定が成立する。
ここに満州事変にともなう対外危機は沈静に向かう。
対外危機の沈静は国内で政党勢力の復活をもたらす。
政党は軍事予算の削減を求めて軍部を批判するようになった。
対する陸軍は、荒木陸相が12月9日付でさきの談話を発表した。
「この種軍民分離の運動は国防の根本をなす人心の和合結束を破壊する企図であって、軍部としては断じて黙視し得ざるところである。
馬場はこのように五・一五事件から1936年の二・二六事件へと軍部の政治介入が可能になった原因を探ろうとしていた。」(78~82)
⇒軍部が政治介入をした、というよりは、民主主義日本の民意が、軍部、就中、陸軍に、日本の針路のかじ取りを委ねた、と見るべきでしょう。
(続く)