太田述正コラム#10001(2018.8.11)
<井上寿一『戦争調査会–幻の政府文書を読み解く』を読む(その19)>(2018.11.26公開)
「渡辺幾次郎<(注33)>(元京都帝国大学教授、日本史専攻)委員も馬場と同様の観点からつぎのように述べている。
(注33)『明治外交史話』(1940年)
https://www.amazon.co.jp/%E6%9C%AC-%E6%B8%A1%E9%82%8A%E5%B9%BE%E6%AC%A1%E9%83%8E/s?ie=UTF8&page=1&rh=n%3A465392%2Cp_27%3A%E6%B8%A1%E9%82%8A%E5%B9%BE%E6%AC%A1%E9%83%8E
『大熊重信』(1942年)
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『明治天皇』(1958年)
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といった著書があること以上のことは分からなかった。
「この回では結論は後にして、どうして国粋主義<(注34)>、国家主義のようなものが勃興したかというようなことをあらゆる方面から文書によって調査することを第一にしなければならない」。・・・
(注34)Japanese nationalism。「近代の日本における国家主義の一形態で、・・・志賀重昂が1888年に雑誌『日本人』にて発表した論文「国粋保存旨義」の中で使用された用語。明治維新に始まる極端な西欧文化の流入による近代化に警笛を鳴らし、当時の明治政府の政策を欧化主義として非難したもので、日本人の本来の文化や歴史、その長所を尊ぶことを主張している。即ち天皇を頂点とする日本の国家体制を支持し、その優越性と長久性を強調する国体論が主となっている。 」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E7%B2%8B%E4%B8%BB%E7%BE%A9 ※
志賀重昂(しげたか。1863~1927年)。「岡崎藩の藩校の儒者・志賀重職の長男として、三河国岡崎康生町(現・岡崎市康生町)に生まれた。・・・札幌農学校を卒業・・・
明治19年(1886年)、再び筑波に便乗して南太平洋の諸島(カロリン諸島、オーストラリア、ニュージーランド、フィジー、サモア、ハワイ諸島)を10ヶ月にわたって巡り、翌年に出版した『南洋時事』で、列強の植民地化競争の状況を報じて警世した。・・・
明治21年(1888年)4月、同人らと政教社を組織し、編集人として、機関誌『日本人』を創刊した。国粋主義を標榜したが、それは、日本のすべてを讃え外国のすべてを退ける排他的な思想ではく、重昂によれば次のようなものであった。「宗教・徳教・美術・政治・生産の制度は「国粋保存」で守らねばならぬが、日本の旧態を守り続けろとは言わない。ただし西欧文明は、咀嚼し消化してから取り入れるべきだ」(『日本人』第2号所載、『「日本人」が懐抱する処の旨義を告白す』の一節の大意)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%97%E8%B3%80%E9%87%8D%E6%98%82
⇒渡辺幾次郎も国粋主義のウィキペディア(※)も、国粋主義と国家主義を等値視していますが、少なくとも、元祖国粋主義者たる志賀の主張を見る限り、排外主義的ではなく、しかも、アジア諸植民地原住民に同情を寄せ、(彼らの解放を希求しているらしい、国家主義者ならぬ)国際主義者でもあることから、そのような等値視は誤りです。
(志賀は、自生的アジア主義者であった、というのが、取敢えずの私見です。)
それだけではなく、渡辺幾次郎・・そして、引用しませんでしたが、この「国粋主義者や国家主義者によるテロとクデタ事件」として、血盟団事件、五・一五事件、天皇機関説排撃運動、二・二六事件、等、を挙げている井上寿一は、国粋主義に否定的烙印を押していることになるところ、これまた志賀の主張に関しては、私見では否定すべき部分など皆無であることから、甚だ遺憾です。
テロやクーデタを基本的・・あくまで基本的にですが・・に否定視することに私も異論はないけれど、跳ね上がりが出現したことをもって、彼らの抱いていた思想・・アジア主義ないしそれを包摂していたところの島津斉彬コンセンサス・・を、即、ディスってはいけません。(太田)
青木も渡辺の考えに同調する。・・・」(82~83)
⇒青木は、あくまでも、渡辺発言の後段、「あらゆる方面から文書によって調査することを第一にしなければならない」に同調した、と受け止めることにしましょう。(太田)
(続く)