太田述正コラム#10005(2018.8.13)
<井上寿一『戦争調査会–幻の政府文書を読み解く』を読む(その21)>(2018.11.28公開)
「5月13日は、第一・第二・第四部会の連合部会がおこなわれている。・・・
渡辺幾次郎委員が発言する。
渡辺によれば日米開戦の回避の機会は二度あった。
第一は1941年10月に近衛(文麿)内閣が倒れた直後である。
もしもこの時、「陛下もその方に御傾きあらせられた」ように、東久邇宮(稔彦)<(注35)>内閣が成立していれば、「戦争にはならなかったであろう」。
(注35)1887~1990年。「久邇宮朝彦親王第九王子として1887年(明治20年)に誕生。・・・明治天皇の第九皇女泰宮聡子内親王の降嫁先・・・香淳皇后(昭和天皇后)は姪、今上天皇は大甥に当たる。・・・
貴族院議員、・・・第二師団長・第四師団長・・・陸軍航空本部長(第10代)、・・・<日支戦争>では第二軍司令官として華北に駐留・・・防衛総司令官(第2代)、内閣総理大臣(第43代)、陸軍大臣(第34代)などを歴任した。・・・
陸士、陸大。「1926年(大正15年)まで、フランスに留学した。サン・シール陸軍士官学校で学び、卒業後はエコール・ポリテクニークで、政治、外交をはじめ幅広く修学した。・・・東久邇宮は、<欧州>への・・・7年間<という>・・・長期に渡る滞在に至った理由について一、山縣有朋元帥陸軍大将と上原勇作元帥陸軍大将ら陸軍上層部から「なるべく永く外国に滞在し、向こうの知名の人と親しくなるように」言明されたこと、二、滞在地フランスで、「はじめて自由を味わい、また人間としての個人的自覚を獲得した」ことを挙げている<が、二が正しく、その実態は、>・・・愛人との生活に耽溺し、たびたびの帰国命令を拒み続けた<もの。>・・・
日米開戦直前の1941年(昭和16年)10月、第3次近衛内閣総辞職を受け、後継首相に名が挙がった。皇族であり対米戦争回避派である東久邇宮を首相にして内外の危機を押さえようとする構想で、日米交渉妥結を志向する近衛文麿、広田弘毅、海軍ら穏健派以外にも、強硬派の東條英機も東久邇宮が陸軍出身であることから賛成した。しかし皇室に累を及ぼさぬようにということで木戸幸一内大臣の反対によりこの構想は潰れ、東條英機が首相に抜擢された。
・・・1941年(昭和16年)9月には頭山満に蒋介石との和平会談を試みるよう依頼し、蒋介石からも前向きな返事を受け取るが、新しく首相に就任した東條英機に「勝手なことをしてもらっては困る」と拒絶され、会談は幻となった・・・。
ポツダム宣言受諾(降伏予告)の3日後に当たる1945年(昭和20年)8月17日に、東久邇宮が内閣総理大臣に任命された。日本の降伏予告に納得しない陸軍の武装を解き、ポツダム宣言に基づく終戦にともなう手続を円滑に進めるためには、皇族であり陸軍大将でもあった東久邇宮がふさわしいと考えられたためであり、昭和天皇もこれを了承した。東久邇宮は最初、総理拝命を固辞しようと考えていたが、敗戦にやつれた天皇に懇願されて意思を変えたという。・・・
GHQは10月4日に「政治的、公民的及び宗教的自由に対する制限の除去の件(覚書)」(人権指令)を指令し、治安維持法などの国体及び日本政府に対する自由な討議を阻害する法律の撤廃、特別高等警察の廃止、内務大臣以下、警保局長、警視総監、道府県警察部長、特高課長などの一斉罷免を求めた。・・・東久邇宮と副総理の緒方は対応を協議し、GHQの指令の不合理に対する抗議の意思を明らかにするために辞職するとの結論に至り、翌日内閣総辞職した。・・・
1950年(昭和25年)4月15日に禅宗系の新宗教団体「ひがしくに教」を開教・・・
1950年フリーメイソンに入会(=initiated)。1957年6月、東京の友愛ロッジにて「メイソン」になる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%B9%85%E9%82%87%E5%AE%AE%E7%A8%94%E5%BD%A6%E7%8E%8B
⇒東久邇宮は、故三笠宮寛仁親王
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%9B%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B
に通じるところのある、皇族に往々にして見られる、軽躁な人柄の人物であり、陸軍にせよ、重臣達にせよ、そんな人物をよくもまあ重要ポストに着け続けたものだと呆れます。)(太田)
渡辺は伝聞推定を交えて指摘した。・・・
しかし皇族内閣といえども、対米開戦を回避できるとは限らなかった。・・・
皇族内閣が軍部をコントロールできる保証<も>なかった。」(84~85)
⇒ここも、井上の合いの手は、そのとおりです。
私なら、東久邇宮の人格、能力に照らし、そもそも、首相が務まるような人物ではなかった、と書くところです。
人格、能力において、東久邇宮に近衛文麿とどれほどの違いがあったのだ、と言われると、苦笑せざるをえませんが・・。(太田)
(続く)