太田述正コラム#10007(2018.8.14)
<井上寿一『戦争調査会–幻の政府文書を読み解く』を読む(その22)>(2018.11.29公開)
「・・・渡辺によれば、もう一つの分岐点は、1939(昭和14)年の平沼(騏一郎)<(注36)>内閣の退陣にともなう米内光政海相と山本五十六海軍次官の交代の時だった。
(注36)1867~1952年。「津山藩士・・・の次男としてうまれる。1872年に上京して同郷・箕作秋坪の三叉学舎(さんさがくしゃ)にて英語・漢文・算術を学び、1878年に東京大学予備門入学。・・・1888年帝国大学法科大学(のちの東京帝国大学法科大学、戦後の東京大学法学部)を卒業・・・
東京控訴院部長や大審院検事局検事を務めたのち、司法省にて民刑局の局長などを経て次官に就任した。その後、大審院検事局にて検事総長に就任し、さらに、大審院の院長を務めた。・・・
きわめて保守的かつ国粋主義的であり、民主主義や社会主義、またナチズムやファシズム、共産主義といった外来思想を、常に危険視していた。・・・国本社の創設者・・・
1936年3月に枢密院議長に就任して国本社を解散するなど、親英米派と妥協することで首相の座に就いたという。・・・
1939年1月に発足した平沼内閣は、基本的に第1次近衛内閣の後継内閣としての性格がつよく、政策・人事の大部分を引き継ぐとともに、枢密院に転じた近衛文麿自身も班列(無任所大臣)として残留してこれに協力した。・・・
第2次近衛内閣で平沼を無任所国務相として閣内に迎えた後、新体制推進派を閣外に追放、皇道派軍人の大物である柳川平助を司法相、平沼を内相とした。これは近衛の観念右翼への屈服、新体制運動からの後退を意味するものであった。・・・
1941年の第3次近衛内閣においては平沼は内閣参議・無任所国務大臣となり、・・・対米関係修復を目指す第3次近衛内閣での実力者と目され、右翼団体勤王まことむすびから狙撃される。弾丸6発を被弾する重傷だったが一命をとりとめた。開戦の賛否を討議する開戦直前の重臣会議では、平沼は開戦に消極的な見解を表明した。
戦時下では重臣として岡田啓介・近衛文麿・若槻禮次郎らとともに東條内閣倒閣に活躍・・・
A級戦犯として終身刑が言い渡されるが、1952年病気仮釈放。直後に死去した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%B2%BC%E9%A8%8F%E4%B8%80%E9%83%8E
⇒平沼は、武士の子でありながら、武とは全く縁のない教育歴、官僚歴を重ね、後に、島津斉彬コンセンサス信奉者達の雇われマダムとなったところ、ついに、心そこにあらざる雇われマダムのまま、その生涯を閉じた、といったところでしょうか。
なお、国本社については、次のオフ会「講演」原稿で、改めて触れる予定です。(太田)
平沼内閣の下で日独伊防共協定強化問題が争点になっていた。
1936年の日独防共協定に翌年イタリアが加わる。
この防共協定を同盟へと強化することを求める陸軍に対して、外務省が反対していた。
米内海相と山本次官も外務省を支持して防共協定強化に反対の立場だった。
このことを踏まえて渡辺は言う。
「この海軍の大臣と次官がもう少し続いていたならば日独伊三国同盟は出来なかったと思う。
「三国同盟が出来なければ米国の感情もあれほどに悪化しないで、戦争を避ける機会があった」。・・・
なぜチャンスを逃したのか。
渡辺は言う。
「山本さんが次官になっていれば生命が危なかったか。
こういうところにいわゆる私共の言う当時の情勢というものがあった」。
当時はテロとクーデタの時代だった。・・・」(85~86)
⇒これまで、当調査会の流れ、というか、井上によるこの調査会次第紹介の流れ、を忠実に要約紹介してきたわけですが、そもそも、日米間で、「戦争を避ける機会があった」どころか、日本が米国に開戦さえしなかったならば、日米戦争など起きるはずがなかったのですから、渡辺的な主張は、ナンセンスです。
かねてより指摘してきたこと(コラム#省略)ですが、外務省や海軍が、職務怠慢にも、英米一体論という謬論を信じ込んでいて、1940年頃の時点での陸軍の対英のみ開戦論に反対してこれをつぶす・・杉山元がつぶさせたわけですが・・とともに、同じ論理から、1941年末に対英米開戦に外務省も海軍も賛成せざるをえなくなったことで、日米戦争は始まったところ、この時点においてすら、対英(及び蘭)のみ開戦しておれば、米国は参戦しなかったと考えられるのです。(太田)
(続く)