太田述正コラム#10009(2018.8.15)
<井上寿一『戦争調査会–幻の政府文書を読み解く』を読む(その23)>(2018.11.30公開)
「二つのチャンスを逃しても、馬場に言わせれば、戦争回避の可能性は残されていた。
馬場は指摘する。
「岩畔(豪雄)少将がワシントンで日米交渉試案の成立談判に御尽力なさり、私共はあの試案が本当にまじめに採上げられて談判の基礎となったならば、日米開戦ということは避けられたと思う。
⇒前回の私のコメントも、当時、充分な情報が与えられていなかった馬場に対して厳し過ぎるのかもしれませんが、そういうことを慮って、慎重な発言を行わなかった馬場は、やはり批判されるべきでしょう。
とまれ、やはり、ここにも、前回の私のコメントが当てはまります。
それに付言すれば、チャーチルからの要請も奇貨としつつ、ローズベルトとしては、何がなんでも日本を対米開戦させて、(ドイツもそれに追随することを期待しつつ、)米国の第二次世界大戦への参戦を期していたのですから、「日米交渉」の「談判」の「成立」など、望むべくもなかったのです。(コラム#省略)
1946(昭和21)年5月3日<の時点で、>・・・第二部会(軍事)の飯村穣・・・部会長・戸塚道太郎<(注37)>(元横須賀鎮守府長官、海軍中将)からは「未だ部会開催に至らず」との報告があった。
(注37)1890~1966年。「東京府南豊島郡千駄ヶ谷村(現在の東京都渋谷区)に生まれる。・・・海軍兵学校・・・卒業、・・・海軍大学校乙種学生。・・・海軍大学校専修学生。・・・海軍航空本部長。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%B8%E5%A1%9A%E9%81%93%E5%A4%AA%E9%83%8E
⇒海大(甲)卒でない中将が確かにいた、ということですね。(太田)
第二部会委員に予定されていたのは、飯村と戸塚以外に、矢野志加三(しかぞう)<(注38)>(元海軍総隊参謀長、海軍中将)・宮崎周一<(注39)>(元参謀本部第一部長、陸軍中将)・上月(こうづき)良夫<(注40)>(元第一七方面軍司令官、陸軍中将)・三戸寿(みとひさし)<(注41)>(元海軍次官、海軍中将)・前田稔<(注42)>(元第一0航空艦隊長官、元<(ママ)>海軍中将)である。
(注38)1893~1966年。「陸軍大尉・・・の長男として生まれる。・・・海軍兵学校・・・96名中4番の恩賜で、また海軍大学校甲種学生・・・を次席の恩賜で卒業した。・・・教育局長・・・終戦後の1945年(昭和20年)11月1日の定期人事で・・・海軍中将に進級した。戦後の進級であったため、「ポツダム中将」と呼ばれた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%A2%E9%87%8E%E5%BF%97%E5%8A%A0%E4%B8%89
(注39)1895~1969年。「長野県下伊那郡飯田町(現飯田市)出身。警察官・・・の長男として生れる。」陸士、陸大。「参謀本部第4部長・・・帝国陸軍最後の参謀本部第1部長・・・本土決戦準備に入る事を決意する。宮崎部長主導のもと本土決戦に必要な兵力を参謀本部が見積もったところ、50個師団という驚くべき数になり陸軍省軍務局との間で論争が起こったが、最終的には3回の大動員で師団44個、旅団16個、戦車旅団6個等合わせて150万人の動員を実行することになった。この宮崎部長の本土決戦主義は沖縄作戦にも影響し、第9師団の台湾抽出後代わりに沖縄へ充当される予定であった姫路第84師団の派遣を、船舶輸送の不安定を理由に独断で中止してしまい、戦後、「沖縄の現地軍を見捨てた」と批判されることになる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E5%B4%8E%E5%91%A8%E4%B8%80
(注40)1886~1971年。「熊本県出身。」陸士、陸大。「陸軍省整備局統制課長・・・陸軍省整備局長・・・第17方面軍司令官兼朝鮮軍管区司令官」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9C%88%E8%89%AF%E5%A4%AB
(注41)1891~1967年。「現在の広島県広島市出身。村長・・・の長男として生れる。」海兵、海大。「海軍省人事局長。・・・第四特攻戦隊司令官・・・年11月1日にいわゆる「ポツダム昇進」によって海軍中将に昇進。11月20日に海軍次官に就任」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%88%B8%E5%AF%BF_(%E6%B5%B7%E8%BB%8D%E8%BB%8D%E4%BA%BA)
(注42)鹿児島県出身?
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1299997177
海兵41期恩賜、<海大については不明、>軍令部第三<(情報)>部長、大本営海軍報道部長、南京政府軍事顧問兼支那武官
http://www.geocities.co.jp/WallStreet/2687/jinji/jinji-nma.html
情報が乏しいので挿話をいくつか。↓
「前田稔海軍中将、大尉のころ。大正10年の末、ポーランド駐在を命ぜられベルリン経由ワルシャワに赴任することになった。その頃米内は、ベルリンにいた。・・・露国出張、帰国して翌年又々欧州出張を命ぜられ、三度目の海外在勤中であった。海外在勤といっても、正規の在外武官と少しちがう。兵学校恩賜の成績優秀組は、三期上の小林躋造大佐(のち大将)が<英>大使館付武官、一期上の永野修身大佐(のち大将)も先年英国駐在の武官補佐官をつとめたし、それぞれ日のあたる道を歩いている。米内も同じく大佐になっていたけれども、出張の名目で戦敗国のドイツにとどまってソ連の革命進行状況観望という仕事は、やはり外国ドサ廻りの感があった。・・・米内<と>・・・前田は・・・ベルリンでも、ワルシャワでも、二人<で>よく飲んだ。・・・<1930>年の暮れ、米内は中将に昇級し、鎮海要港部司令官という浮世離れのした閑職に転勤させられた。…鎮海と聞けば、「首5分前」、大体それで行き止まりであった。…そのころ、米内にとっては旧知の士官がふたり鎮海にいた。一人は先任参謀前田稔中佐<だった。>」
https://blog.goo.ne.jp/norilino1045/e/9f8da224a522ffbf5b1b397c26715819
軍令部第三部長当時の1941年4月、南方視察し、帰国後、近衛首相に早期南部仏印進駐をすべきと報告。
https://books.google.co.jp/books?id=mG4dDgAAQBAJ&pg=RA1-PA57&lpg=RA1-PA57&dq=%E5%89%8D%E7%94%B0%E7%A8%94;%E6%B5%B7%E8%BB%8D&source=bl&ots=K-4L6g5QW8&sig=tMW965PPOP0ugrib8FXzwv6AZO0&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwje0J7B_-7cAhWJw7wKHWbACYg4ChDoATAEegQIBhAB#v=onepage&q=%E5%89%8D%E7%94%B0%E7%A8%94%3B%E6%B5%B7%E8%BB%8D&f=false
東京裁判が始まるなかで、陸海軍関係者を委員とする第二部会の開催は困難だった。・・・
第二部会(軍事)は結局のところ一度も開催されなかった。」(50、86~87)
⇒第二部会、なかなか面白いメンバー達だったのですね。
彼らの声を聞くことができなくて残念です。
開催されていたとしても、陸軍のメンバー達が、中身のあることをしゃべったかどうかは知りませんが・・。
なお、「注39」の「姫路第84師団の<沖縄>派遣」中止は、杉山元/牛島満の意思です。(後日、説明)(太田)
(続く)