太田述正コラム#10011(2018.8.16)
<井上寿一『戦争調査会–幻の政府文書を読み解く』を読む(その24)>(2018.12.1公開)

 「GHQ<(注43)>の最高司令官の意思決定を拘束する組織として、極東委員会<(注44)>がワシントンに設置される。

 (注43)General Headquarters, the Supreme Commander for the Allied Powers。「日本では、総司令部 (General Headquarters) の頭字語であるGHQや進駐軍という通称が用いられた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%A3%E5%90%88%E5%9B%BD%E8%BB%8D%E6%9C%80%E9%AB%98%E5%8F%B8%E4%BB%A4%E5%AE%98%E7%B7%8F%E5%8F%B8%E4%BB%A4%E9%83%A8
 (注44)Far Eastern Committee。1945年12月設立。米英ソ中4か国のみに拒否権があった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%B5%E6%9D%B1%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A ([]内も。↓)

 極東委員会は英米中ソ仏・オランダ・カナダ・オーストラリア・ニュージーランド・インド・フィリピンの11ヵ国[・・1949年11月から、ビルマとパキスタンも加わった・・]で構成される組織だった。
 もう一つ連合国軍最高司令官に対する諮問・勧告機関として、米英ソ中四ヵ国による対日理事会<(注45)>が東京に設置される。

 (注45)Allied Council for Japan。1945年12月設立。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BE%E6%97%A5%E7%90%86%E4%BA%8B%E4%BC%9A
 極東委員会と対日理事会設置の前後のインド亜大陸情勢は次の通り。↓
 「終戦後、<英国>は元インド国民軍将兵約20,000人を、<英>国王に対する反逆罪で裁こうとした(11月5日の発表では起訴の対象は約400名)。しかし、この裁判を機にインド民衆の間に独立の気運が一気に高まった。次々とゼネストや暴動が起きる中、国民会議派も「インド国民軍将兵はインド独立のために戦った愛国者」として即時釈放を要求、1946年2月には英印軍の水兵たちも反乱を起こし、ボンベイ、カラチ、カルカッタで数十隻の艦艇を占拠し「インド国民軍海軍」を名乗った。水兵たちは市民に混じって官憲と市街戦を展開、英印軍の将兵たちは<英国>人上官の発砲命令を拒否した。また、人々は<英国>の植民地政府による日本への戦勝記念日に弔旗を掲げて抗議の気持ちを表している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%B5%E6%9D%B1%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A

 対日理事会は1946年4月から2週間に一度、明治ビルで開催されることになった。
 極東委員会の場合とは異なって、対日理事会の会議は公開だった。
・・・
 毎回出席して詳細な会議記録を取る日本人がいた。
 終戦連絡中央事務局総務部の朝海浩一郎<(注46)>である。

 (注46)1906~95年。「栃木県足利郡北郷村(現足利市)田島出身[1]。開成中学校卒、1929年東京商科大学(一橋大学の前身)卒。・・・1929年外務省入省。・・・エディンバラ大学留学・・・第二次大戦後には、1946年終戦連絡中央事務局総務部長、1948年外務省総務局長、連絡調整中央事務局長官、1951年ロンドン日本政府在外事務所長、1956年外務審議官、再開初代駐フィリピン特命全権大使、1957年駐<米>特命全権大使、1963年外務省顧問、・・・1969年ジュネーヴ軍縮委員会(のちのジュネーブ軍縮会議)日本政府代表等を歴任。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E6%B5%B7%E6%B5%A9%E4%B8%80%E9%83%8E

 終戦連絡中央事務局とは外務省の外局で、GHQと日本政府との連絡業務を担当していた。・・・
 通説的な理解によると、対日占領政策に重要な影響を及ぼしたのは極東委員会である。
 対日理事会の役割は「名目的」だったことになっている。
 しかし朝海報告書を読むと、戦争調査会問題をめぐる対日理事会は、影響力を持っており、実質的な役割を果たしていたことがわかる。・・・
 <その>英連邦諸国代表の・・・オーストラリアのメルボルン大学政治学教授・・・マクマホン・ボール<(注47)>であり、<1946年(昭和21年)5月3日から1948年(昭和23年)11月12日にかけて行われた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%B5%E6%9D%B1%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E8%BB%8D%E4%BA%8B%E8%A3%81%E5%88%A4 >東京裁判の裁判長<も>オーストラリア人のウェッブ卿<(注48)>だったことは、偶然ではない。

 (注47)William Macmahon Ball(1901~86年)。オーストラリア生まれ。英LSE及びメルボルン大学で学ぶ。
https://kotobank.jp/word/%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%AB%20%E3%83%9E%E3%82%AF%E3%83%9E%E3%83%9B%E3%83%B3-1654645 等
 (注48) William Flood Webb(1887~1972年)。オーストラリア生まれ。「クイーンズランド大学(法学)で学ぶ。・・・1943年 オーストラリア政府により、第二次世界大戦における日本の戦争犯罪の調査担当に任命される。1944年 ロンドンで国際連合戦争犯罪委員会にレポートの報告。1946年・・・オーストラリア高等裁判所裁判官に就任。以降12年間在任した。1948年11月12日 極東国際軍事裁判・・・開始から2年以上を経て、全員に有罪判決を下す。なお、この裁判でウェブが裁判長を務めたことに対し、前記オーストラリア政府から日本の戦争犯罪の調査担当に任命されたことを理由として弁護団より裁判官忌避の申し立てがなされている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%96

 対日占領政策において重要な地位を求めつづけたオーストラリア政府の働きかけの結果だった。
 ふたりが日本の戦争犯罪に峻厳な態度を示していたことはよく知られている。・・・
 朝海の見るところ、マクマホン・ボールは英連邦諸国ではなく、オーストラリアの代表だった。」(90~94)

⇒朝海は、英エディンバラ大学留学やその後の外務官僚生活で、英国について何を学んだのか、寝ぼけた感想を記したものです。
 英連邦諸国代表は、即、英本国代表です。
 英本国は、極東裁判が始まった1946年(昭和21年)5月までにはもちろんのこと、対日理事会が設置された1945年12月までにおいても、インド亜大陸の独立、つまりは、大英帝国の崩壊を必至と覚悟しており、それをもたらした日本への怒りを、英本国のように日本との歴史的なしがらみを抱えていないが故に、最も反日意識の強かったところの、オーストラリアの識者2人に、ストレートに代弁させる意図をもって、彼らをこれら任務に就けたに決まっているからです。(太田)

(続く)