太田述正コラム#10013(2018.8.17)
<井上寿一『戦争調査会–幻の政府文書を読み解く』を読む(その25)>(2018.12.2公開)

「対日理事会は・・・ジョージ・アチソン<(注48)を代表とする>・・・米<と>ソ<の>対立を基調としながら、英連邦諸国(より正確にはオーストラリア)代表がソ連に接近していた。

 (注48)George Atcheson Jr.(1895~1947年)。「カリフォルニア大学バークレー校を卒業・・・1943年から中国の重慶大使館で参事官となり、1945年に代理公使に昇任。1945年、アチソンは上長であったパトリック・ジェイ・ハーリー駐華大使の業務命令に違反したとの嫌疑をかけられた。当時の<米>連邦議会では、中国国民党政府を支持する勢力が強かった。しかしながらアチソンはそれに反発し、中国共産党に対する武器貸与援助を提言した。アチソンは同様の考えを持っていた極東局長ジョン・カーター・ヴィンセントと手を組み、<米国>は中国共産党と良好な関係を築くべきであると勧奨した。アチソンは国務長官ジェイムズ・バーンズの擁護を受けたものの、最終的にはハーリー駐華大使の要求により自宅謹慎となった。
 1945年9月7日、アチソンは連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーの政治顧問として、国務省から派遣された。バーンズ国務長官はアチソンに対して、マッカーサーの動きを監視する役割も期待した。・・・1946・・・年4月18日、連合国軍最高司令官総司令部内に外交局が設置されたことに伴い、外交局長に就任。加えて大使の地位も与えられた。1946年4月22日からは、マッカーサーの代理として対日理事会議長も務めた。・・・
 <搭乗航空機墜落により死亡。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%81%E3%82%BD%E3%83%B3

 このような米対ソ英の対立の構図に対して、朝海の観察によれば、中国の態度は中立的だった。・・・
 欧州においては、外相会議などで米英仏の民主主義国とソ連が対立していた。
 しかしアジアの対日理事会では「不思議に現在のところその空気がない」状況だった。
 それどころかアメリカ主導の対日占領政策にソ英中が連携して批判することさえあった。
 朝海は傍聴席のイギリス人女性の批評を記録している。
 「どうして皆で米国をああいう風に攻撃するのであろう。
 又米国も譲らずどんどん頑張って貰いたい」。・・・

⇒井上が紹介していないので、恐らく、朝海の報告書の中に、この女性の素性が記されていないのでしょうが、そうである以上、これは一人の野次馬の発言に過ぎず、朝海はもちろん、井上も引用すべきではありませんでした。
 とまれ、朝海は、この女性が彼の気持ちを代弁していたので引用したであろうことからも分かるように、彼には、そして井上にも、(米国は自分が対日戦争では敗北したとは全く思っていなかったでしょうが、)英国が、対独戦では勝利したが対日戦では敗北した、という意識を抱いていたはずであることに気付いていないわけです。
 米ソ冷戦が既に事実上始まっていて、米国が事実上占領統治している日本の庇護者的姿勢もとっていたのに対し、当然、ソ連は厳しい態度をとる、という背景の下、英国は、日本に含むところがあったからこそ、日本に対して厳しい態度をとったのでしょうし、中華民国は、中国共産党に宥和的な米国が、まさにそれを絵に描いたような人物であるアチソンを代表として対日理事会に送り込んできたことで、やはり、米国に対して不快感を表明すべく、日本に対して往々にして厳しい態度をとったのでしょう。(太田)

 もっとも多くの犠牲を払った戦勝国が敗戦国に対するもっとも強い発言権を持つ。
 日本に対してはアメリカだった。
 ところがドイツに対してはソ連である。
 ソ連の対独戦がなければアメリカの勝利は危うかった。
 アメリカは同じ連合国としてソ連に配慮せざるをえなかった。
 対日占領政策の場合もそうである。」(94~95)

⇒この井上の論理は無茶苦茶です。
 「多くの犠牲を払った」かどうかと「勝利」への貢献度とは、本来、何の関係もないからです。
 大東亜戦争に関して、人命や財産において「もっとも多くの犠牲を払った」のは中華民国です
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E6%B4%8B%E6%88%A6%E4%BA%89
が、「勝利」への貢献度は極めて小さかった(コラム#省略)ことを想起してください。
 また、領土面において、「もっとも多くの犠牲を払」うことが既に明白になっていたのは英国であったことも銘記すべきでしょう。
 更に、太平洋戦争での勝利へのソ連の貢献は、対独戦争においてより、実は大きかった的なことを、ハセガワが指摘しています(コラム#省略)。
 もちろん、対日理事会当時は、米国、とりわけ、米国による原爆投下、が日本の降伏の最大の要因であったとの認識が欧米においては一般的であったでしょうが、ソ連の貢献度も決して小さくないと考えられていたはずです。
 1945年2月のヤルタ会談において、ローズベルトがスターリンに頼み込んで、ドイツ敗戦後90日後のソ連対日参戦を約束させた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%AB%E3%82%BF%E4%BC%9A%E8%AB%87
くらいなのですからね。(太田)

(続く)