太田述正コラム#10015(2018.8.18)
<井上寿一『戦争調査会–幻の政府文書を読み解く』を読む(その26)>(2018.12.3公開)

 「・・・対日理事会におけるこのような対立の構図はアメリカに不利だった。
 米対ソ英中ではアメリカの思いどおりにはいかなかった。
 それでも朝海はアメリカに期待した。
 ところがアチソンは朝海に苦言を呈している。
 「自分の考えを言うに日本政府は余りに総司令部に頼り過ぎて居るのではなかろうか」。
 敗戦国日本は、対日理事会で孤立しがちなアメリカからも冷淡に扱われた。

⇒朝海も井上も、何となさけない面々なのでしょうか。。
 大東亜戦争(太平洋戦争)における米国は日本の最大の敵であり、日本の軍人のみならず民間人も夥しく殺害し、しかも、(すぐ後に出てくるように)それだけ惨禍を与えた日本の主権の相当部分を半永久的に奪おうとしていた国なのに、そんな米国に縋る気持ちが朝海、ひいては当時の日本の外務省、ひいては政府にあったことは、異常・・マゾ?・・としか私には形容できないのですがね・・。(太田)
 
 対日理事会の第一回会議におけるマッカーサーの発言を耳にすれば、対立の構図が米対ソ英中になるのも無理はなかった。
 会議の冒頭、マッカーサーは問答無用とばかりに言い放った。
 「理事会の権限は飽くまで諮問に止まり最高司令官が唯一の官吏行政の権限ある責任者である」。
 続けて対日理事会は公開すると一方的に宣言したあと、マッカーサーは自信満々に言った。
 「日本の占領目的は順調に達せられつつあって、ポツダム宣言の原則に適応すべき一切の措置が講ぜられて居る」。・・・
 マッカーサーは・・・日本政府が・・・発表する直前<であったが、日本の憲法>・・・改正案の戦争放棄条項を称揚する。
 「戦争放棄の条項は、戦力を完全に喪失した日本としては当然の論理的帰結であるが、主権の一要素である交戦権の放棄は、一段と進歩した国際道義の確立を要請する極めて画期的企図といい得るであろう」。
 マッカーサーは言いたいだけ言うと、直ちに退場した。
 <そして、>二度とふたたび対日理事会に出席することはなかった。・・・
 当時の日本は大きな危機に見舞われていた。
 危機とは食糧危機のことである。

(注49)「終戦直後の日本では、兵役からの復員や外地からの引揚げなどで都市人口が増加したが、輸入が途絶えた状態で政府の統制物資がほぼ底を突き、物価統制令下での配給制度は麻痺状態に陥っていた。爆撃による交通網・流通網の損壊により農村部の抱える食料も流通が鈍化し、都市部に居住する人びとが欲する食料や物資は圧倒的に不足していた。食料難は深刻を極め1945年(昭和20年)の東京の上野駅付近での餓死者は1日平均2.5人で、大阪でも毎月60人以上の栄養失調による死亡者を出した。1947年(昭和22年)には法律を守り、配給のみで生活しようとした裁判官山口良忠が餓死するという事件も起きている。・・・ユニセフや占領軍の主体となった<米国>による援助もあったものの、不足を埋めるには到底至らず、配給の遅配が相次ぐ事態となっていた。このため人びとは満員列車に乗って農村へと買出しに出かけ、米やサツマイモのヤミ物資を背負って帰ったが、依然都市部の人びとの食事は雑炊が続き、米よこせ運動が各地で勃発した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%97%87%E5%B8%82
 既に食糧不足は戦中から始まっていた。↓
 「明治期から、日本は主食であるコメを列島外に依存。日米開戦の1941年度には総需給量約1200万トンのうち、約6.6%を朝鮮・台湾、約12.2%を東南アジアなどに頼っていた。・・・対米開戦後は連合国軍による輸送船団への攻撃激化で、海外から物資を運ぶシーレーンは壊滅。国内では▽重化学工業の軍需優先による肥料の減産▽徴兵強化による男性農業従事者の減少−−などで、生産効率が低下していった。漁業においても、漁船の徴用や燃油不足などが影響。日本国民の食料事情は悪化するばかりだった。・・・
 <その結果、>1948年度<の>・・・14歳男子は146.0センチで、戦前最後の検査だった1939年度に比べ、6.1センチも低下していた。これは大正期のレベル<に戻ったということ。>」
https://mainichi.jp/articles/20150226/mog/00m/040/003000c

 前年の敗戦の年は大凶作だった。
 米の収穫量は平年の3分の2にまで下がった。
 同時代における成人ひとり1日に必要なカロリー量2400キロカロリーに対して、配給だけでは1000キロカロリー、「ヤミ」を入れても、1900キロカロリーに過ぎなかった。
 その食糧の配給も翌年の春から夏にかけて、ほとんどなくなる。・・・」(96~98)

⇒日本国民は、先の大戦に、大変な犠牲を払い、総力を挙げて取り組んだわけです。
 心から敬意を表さざるをえません。(太田)

(続く)