太田述正コラム#10019(2018.8.20)
<井上寿一『戦争調査会–幻の政府文書を読み解く』を読む(その28)>(2018.12.5公開)

 「戦争調査会問題は労働立法問題の論争の過熱によって、かき消されたに等しかった。
 アチソンの対ソ連イデオロギー批判は激しい調子のものだった。
 「日本に於ける共産主義もしくは共産主義的勢力の問題が、再びここで持ち出されたことは遺憾とするところである」。
 アチソンはつづける。
 「日本に於て共産主義を進めることを吾人は約束しているものではない。
 アチソンの憂慮には根拠があった。
 この年(1946年)、東宝、東芝、日本鋼管をはじめとして、各社で大争議<(注50)>が展開されていた。・・・」(104)

 (注50)東宝争議:「1946年から1948年にかけて三次にわたり、日本の大手映画製作会社、東宝で発生した労働争議を指す。特に1948年の第3次争議は大規模なもので、最終的には撮影所の接収に警視庁予備隊および連合国軍の一員として日本の占領業務にあたっていた<米>軍までもが出動した。戦後最大の労働争議と言われる。・・・
 1946年(昭和21年)3月に第1次争議、同年10月に第2次争議が起こった。・・・同年11月、ストも反対だが、会社側にもつかないと表明した大河内伝次郎に賛同した長谷川一夫、入江たか子、山田五十鈴、藤田進、黒川弥太郎、原節子、高峰秀子、山根寿子、花井蘭子の十大スターが「十人の旗の会」を結成して組合を離脱。渡辺邦男監督なども組合を脱退し、方針を巡って対立した配給部門の社員は第二組合を結成して離脱した。
 1947年(昭和22年)3月、「十人の旗の会」のメンバーと、同時に組合を脱退した百数十名の有志が中心となり新東宝を設立した。
 東宝は健全な運営は難しくなっていたが、当時の経営陣は巨大な従組と直接対決を避けるため、従組を「第一製作部」、従組離脱組を「第二製作部」として、あえて離脱組を冷遇した。また、離脱したスターの穴を埋める為、三船敏郎、久我美子、若山セツ子、岸旗江、伊豆肇などの新人若手俳優を積極的に起用した。彼らは「東宝ニューフェイス」と呼ばれた。
 1947年(昭和22年)12月、・・・GHQ/SCAP・・・は東宝に追放令を発し、経営陣が入れ替わった。社長の田辺加多丸が会長に就任し、新社長には外部から元日本商工会議所専務理事・衆議院議員の渡辺銕蔵を招聘した。予てから「反共の闘士」で鳴った渡辺は労務担当重役や撮影所長に強硬派を据え、年が改まった1948年(昭和23年)4月8日に東京砧撮影所従業員270名を突然解雇した。さらに、人員整理のため1200名の解雇計画を発表した。
 これを受けて4月15日に従組は生産管理闘争に突入、東京砧撮影所を占拠して資機材を管理下に置き、正面入口にバリケードを作って立てこもった。これによって第3次争議の始まりとなる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%AE%9D%E4%BA%89%E8%AD%B0
 渡辺銕蔵(てつぞう。1885~1980年)について、改めて詳しく紹介しておく。
 一高・東大法。「文部省特派海外留学生として英国・ドイツ・ベルギーに留学。
 大正2年(1913年)帰国し東京帝国大学法科大学助教授となる。・・・大正5年(1916年)教授、大正6年(1917年)法学博士。大正8年(1919年)経済学部設立に携わり同教授に就任し今日の経営学の一つの源流を形成した。大正6年に起こったロシア革命の影響は直ちに日本に現れた。大正9年(1920年)、同学部の助教授・森戸辰男が機関誌にクロポトキンの論文を掲載(森戸事件)。渡辺はこれを論理も学術的価値もないと批判したが、東大新人会が森戸を擁護し、これをきっかけに学生の赤化思想に拍車がかかった。これは渡辺が後の東宝争議に際し不退転の勇猛心を与える事件となったが、さらに経済学部のマルクス派の助教授の結束が現われ始めたことや、国立大学教授の停年制採用反対に賛同者が無かったこと等で職を辞し、昭和2年(1927年)、強く要請のあった東京商業会議所に転じ書記長に就任した。翌昭和3年(1928年)、商工会議所法により東京商工会議所専務理事。また日本商工会議所設立に伴いその専務理事も兼務し、郷誠之助会頭らの下で実力者として才腕を振るった。昭和8年(1933年)ジュネーヴの国際労働会議に日本使用者側代表として出席。同年より政府・軍部が経済統制に着手すると反対の立場をとったため、昭和9年(1934年)理事辞職を余儀なくされた。
 昭和11年(1936年)、東京府第1区に立憲民政党から衆議院議員総選挙に立候補し当選。政務調査会副会長を務めるが、翌昭和12年(1937年)の衆議院議員総選挙では落選。
 昭和13年(1938年)~昭和17年(1942年)全国無尽集会所(全国相互銀行協会)理事長。他に都市計画中央委員会委員・帝都復興審議会評議員・東京特別都市計画委員会委員、日本米穀会副会頭などのポストに就いた。
 同年、「渡辺経済研究所」を開設。世界各国の財政・物価・国防資源などの調査研究を元に論文・著作を多数刊行。日独伊三国同盟反対や対米戦争を批判、昭和19年(1944年)、「戦争はやめるべき」との発言が憲兵に密告され、流言蜚語の罪で投獄された。
 戦後昭和22年(1947年)、反共の信念を見込まれ強力な労働組織を持つ東宝社長に就任。昭和23年(1948年)4月、経営再建のため、砧撮影所の約半数にあたる600人余りいたといわれる共産党員のうち、組合活動員を主とした社員270人の解雇を断行。しかし労組の強い反発で争議は泥沼化した。同年8月、東京地裁が争議団のこもる砧撮影所占有解除の仮処分を執行した際、GHQに協力を要請し腕ずくで解決。警視庁予備隊1800人に加え米軍の戦車や装甲車、飛行機も出動させ「こなかったのは軍艦だけ」といわれた東宝争議で、組合員を強制排除した。この争議をきっかけに名だたる大スターらとスタッフが新東宝を設立し、有名監督らもこぞって移籍してしまったため、東宝は制作をやめ配給専門の会社にするしかないといわれるほどの未曾有の危機に陥った。昭和24年(1949年)東宝会長に就任。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A1%E8%BE%BA%E9%8A%95%E8%94%B5
 東芝争議:ネット上では1949年のものしかすぐには出てこない。
https://books.google.co.jp/books/about/%E6%9D%B1%E8%8A%9D%E4%BA%89%E8%AD%B0_1949%E5%B9%B4.html?id=mzoeAAAAMAAJ&redir_esc=y
 日本鋼管争議:ネット上では1959年のものしかすぐには出てこない。
http://www3.grips.ac.jp/~oral/Japanese/Summary/kunimoto.htm

⇒戦後すぐの頃、日本型政治経済体制が既に確立しており、日本は、まだ相対的に豊かな社会でこそなかったけれど、世界で唯一の、効率的にして効果的な社会主義社会・・マルクスが理想とした社会・・であったと言ってよかったにもかかわらず、ソ連やマルクスレーニン主義が青い鳥に見えた、目の不自由な(?)人々にかき回された時代だったわけです。
 それにしても、新東宝や東宝ニューフェイスが出現した背景に東宝争議があったとは、迂闊にも知りませんでしたね。
 なお、井上が、東芝や日本鋼管をここで上げたのは、勘違いが誇張か、どちらかであった可能性があります。(太田)
 
(続く)