太田述正コラム#10021(2018.8.21)
<井上寿一『戦争調査会–幻の政府文書を読み解く』を読む(その29)>(2018.12.6公開)
「1946年・・・6月初旬に・・・<自分が>社長を務める読売新聞社<で>・・・勃発した争議<(注51)>に出くわした馬場<・・>戦争調査会の第四部会長<・・>は、同月7日に、辞表を提出している。・・・
(注51)「第2次大戦後読売新聞社で起きた争議。1945年10月同社従業員は組合を結成し,社長正力松太郎ら戦争責任幹部の退陣と社内の民主化を要求。これが拒否されたため組合は生産管理闘争に入った。12月正力が戦犯として逮捕されたため,組合の勝利に終わった。その後1946年7月占領軍から紙面左翼化を理由にプレスコード違反の警告があり,会社は編集幹部の解雇や左遷を強行。このため第2次争議が起こったが,組合が分裂し第二組合が成立。日本新聞通信放送労働組合は第一組合を支援したが,10月新聞ゼネストに失敗し,組合側は31名の退職者を出し惨敗した。・・・
総司令部は・・・〈新聞・映画・通信に対する一切の制限法令を撤廃の件〉を指令し,戦争中のいっさいの法令を廃止させたので,以後6年半にわたる占領期間中を通じて<1945年9月>のプレス・コードとラジオ・コードが日本のマス・メディアを支配したほとんど唯一の言論統制法規であった。」
https://kotobank.jp/word/%E8%AA%AD%E5%A3%B2%E4%BA%89%E8%AD%B0-876489
「プレスコード<は、>・・・正式名称は「日本に与うる新聞遵則」。占領軍批判の禁止を主な内容とする。講和条約発効により失効。」
https://kotobank.jp/word/%E3%83%97%E3%83%AC%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%89-622248
⇒これ、委員(とそれに伴い部会長)の辞表だと思われますが、理論上は、部会長の、或いは、社長の、辞表であった可能性もあるので、井上には、きちんと書いて欲しかったところです。
なお、「6月初旬に」は、井上の誤記の可能性があります。
とまれ、東宝の渡辺と讀賣の馬場が、それぞれ歴史に残る大争議の渦中の人物になるとは、戦争調査会の委員の人選を褒めるべきか、くさすべきか、といったところですね。(太田)
<こういう次第で、>労働立法問題をめぐって、ソ連は急進的な労働運動、アメリカは穏健な労使協調の運動<(注52)>をそれぞれ支持して、対立がつづいた。・・・
(注52)これに関連し、東宝争議のウィキペディアで興味深い箇所があったので、紹介しておく。↓
「1947年に計画されていた二・一ゼネスト・・・の際、最高司令官マッカーサーは翌年の大統領選挙に共和党から出馬するつもりで、<米>国民の目線を非常に気にしていた。当時共和党は労働組合が大きな支持基盤となっており、日本の労働運動を露骨に弾圧して評判を落としたくなかったため、スト決行の直前まで、直接動くことはなかった。まして、軍を出動させることはもってのほかであった(マッカーシズム及び赤狩りの時代を除き、<米>国でも共産党は合法であり<米>共産党が政党として存在する。なお、かつてマッカーサーは、ワシントンD.C.に集まった退役軍人のデモを、共産党に操られているとして武力で解散させたことがある)。しかし、1948年6月の共和党大統領候補の予備選挙でマッカーサーは惨敗してしまい、候補に選出されなかった。このときからマッカーサーは<米>国民の目を気にせずに済むようになり、東宝争議はその時期に重なって強制解散させられたとするものである。
<但し、>1948年(昭和23年)8月20日の朝刊各紙では、米軍介入が日本国民に知れ渡り、評判を落とすことを恐れたGHQ/SCAPの検閲によって、東宝争議の「解決方法」が報じられることはなかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%AE%9D%E4%BA%89%E8%AD%B0 (上掲)
この中に出てくる、「共和党は労働組合が大きな支持基盤」には首を傾げた。
「<米国>の労働組合は,・・・ビジネス・ユニオニズム【business unionism】<といって、>・・・<欧州>の労働組合のように労働者階級の究極的解放についてのビジョンをもたず,またいかなる意味においても社会主義を志向せず,もっぱら労働者の労働諸条件を改善し,その経済的・社会的地位の向上を目ざすものが大多数である。・・・また上記目的を達成するための政治闘争にしても,独自の労働者政党を樹立したり,あるいは継続的にある政党と支持関係を結ぶようなことはせず,親労働組合的な候補者のみを支持するという無党派的院外活動を行うだけである」
https://kotobank.jp/word/%E3%83%93%E3%82%B8%E3%83%8D%E3%82%B9%EF%BD%A5%E3%83%A6%E3%83%8B%E3%82%AA%E3%83%8B%E3%82%BA%E3%83%A0-1198408
上、「1940年代、民主党大統領・副大統領候補であったフランクリン・ルーズベルトとハリー・トルーマンの大統領選を強力に支持した労働組合は、1950年代初頭には、民主党内部で重要な役割を果たすようにな<ってい>た」
http://www.crosscurrents.hawaii.edu/content.aspx?lang=jap&site=us&theme=work&subtheme=UNION&unit=USWORK022
のだから・・。
<この頃、>国内政治の変動をもたらしたのは、・・・公職追放<(注53)>である。」(104~105、107)
(注53)「日本<では、>太平洋戦争に降伏後、<GHQ/SCAP>の指令により、特定の関係者が公職・・・<すなわち、>政府の要職や民間企業の要職・・・に就くことを禁止され・・・1945年(昭和20年)9月<から>・・・1948年5月までに20万人以上が追放され<た。(ハード・ピース路線)。・・・それ>によって政財界の重鎮が急遽引退し、中堅層に代替わりすること(当時、三等重役と呼ばれた)によって日本の中枢部が一気に若返った。しかし、この追放により各界の保守層の有力者の大半を追放した結果、学校やマスコミ、言論等の各界、特に啓蒙を担う業界で、労働組合員などいわゆる「左派」勢力や共産主義のシンパが大幅に伸長する遠因になった・・・
逆に、官僚に対する追放は不徹底で、裁判官などは旧来の保守人脈がかなりの程度温存され、特別高等警察の場合も、多くは公安警察として程なく復帰した。また、政治家は衆議院議員の8割が追放されたが、世襲候補や秘書など身内を身代わりで擁立し、議席を守ったケースも多い。その後、二・一ゼネスト計画などの労働運動が激化し、さらに大陸では国共内戦や朝鮮戦争などで共産主義勢力が伸張するなどの社会情勢の変化が起こり、<GHQ/SCAP>の占領政策が転換(逆コース)され、追放指定者は日本共産党員や共産主義者とそのシンパへと変わった(レッドパージ)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E8%81%B7%E8%BF%BD%E6%94%BE
⇒対象になった人々中、ごく少数の戦争犯罪者に関しては、一方的かつ片面的な指定であった点はともかく、それなりに理屈は通るけれど、それ以外の全員に形式上あてはまるところの、軍国主義者・超国家主義者など、日本には殆ど存在しなかった(典拠省略)ことから、公職追放は、ナンセンス極まりない愚行であった、と言うべきでしょう。(太田)
(続く)