太田述正コラム#10023(2018.8.22)
<井上寿一『戦争調査会–幻の政府文書を読み解く』を読む(その30)>(2018.12.7公開)
「・・・マッカーサーの占領政策といえども、対日理事会と極東委員会に監視されていた。
とくに公職追放のような戦争責任に関連する問題はそうだった。・・・
松本潤一郎<(注54)>参与(法政大学教授、社会学の体系化を進めた著名な社会学者)は、対日理事会側の誤解を招かないようにすべきとの趣旨の発言をする。
(注54)1893~1947年。「千葉県出身。東京帝国大学社会学科卒。大阪毎日新聞記者、法政大学教授。1938年、東京高等師範学校教授。理論社会学を専門とした。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%9C%AC%E6%BD%A4%E4%B8%80%E9%83%8E
「今日の戦争が如何にして敗けたのであるか、今次の戦争をして将来の戦争の断念へのものにしなければならぬ」。
尾佐竹猛(おさたけたけき)<(注55)>参与(元大審院判事、史料実証主義に基づく明治憲政史研究者でもあった)も賛成する。
(注55)1880~1946年。「1880年1月20日、石川県金沢に旧加賀藩の儒者の子として生まれる。上京後、明治法律学校(現明治大学)に学び・・・卒業。・・・第1回判事検事登用試験に合格し、・・・1924年から1942年まで大審院判事。
判事の地位に留まらず、憲政史や刑罰史など法制史の研究を手がけた。研究姿勢は、史料を重視した実証主義、洒脱な着眼点、談話調で達意な文章を特徴とする。一方で、1924年に吉野作造・宮武外骨らとともに明治文化研究会を設立し、『明治文化全集』などを編集、後に吉野の後を継いで第2代会長に就任した。1918年以後執筆活動を活発化させ、1920年に日本の新聞の先駆者の1人である柳川春三を論じた論文・・・これにより1928年8月20日法学博士となる。1930年出版の『日本憲政史』では、幕末から帝国議会開設に至る立憲政治の確立過程を描いた。1936年から『法律及政治』にて「帝国議会史前史」を連載、大政奉還・五箇条の御誓文・自由民権運動などに関して新たな視点を提起した(1939年『(維新前後に於ける立憲思想』として刊行)。1938年、貴族院五十年史編纂会と衆議院憲政史編纂会の委員長に就任。・・・
作家の松本清張は・・・尾佐竹の論文には明白な事実誤認が散見され、確たる証拠の提示や、綿密な調査を行わず、推論での批判を展開していると指摘<し>ている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BE%E4%BD%90%E7%AB%B9%E7%8C%9B
⇒井上が上掲ウィキペディアと同じ「史料・・・実証主義」というフレーズを、上と下とで2度も使っていることが気になります。
その理由ですが、そもそも、史料に基づく実証主義でない史学など存在しえない、というのが第一点であり、松本清張・・小説家、にして、とりわけ、いささか私が読んで知っている彼、の言の信憑性には疑問符がつくけれど、・・による尾佐竹批判があることが第二点です。(太田)
「飽迄平和国家建設を言う目的にもって行き度(たし)」。・・・
もう一つ尾佐竹は指摘する。
「主観のない歴史はあり得ない」。
史料実証主義に基づく歴史研究者の発言であることを考慮すれば、重要性は自ずと知れる。
松本<潤一郎>も同調する。
「如何なる歴史家と雖も主観論を入れずに書く事は出来ぬ」。・・・
⇒形の上ではその通りですが、つきつめれば、このような、一応のスクリーニングは経ているとはいえ、それぞれの「主観」が微妙に異なるところの、委員達による、かかる共同での歴史分析の試み自体を否定しかねない指摘です。(太田)
8月14日の定例部会長会議では、青木からこれまでの経緯の報告があった。・・・
青木は「本調査会の前途は必ずしも楽観を許さぬ情勢に立至っておる」との認識を示す。・・・
渡辺銕蔵第三部会委員が的確に状況を言い当てる。
「<対日理事会において、>アメリカではこの委員会の本質は十分認めておるが、他がやかましいからいかぬというわけですか」。
渡辺の言うとおりだった。・・・
⇒この「状況」も、朝海メモに基づくもの(109)ですが、そもそも、本件でも朝海が状況を的確に把握した上でメモにしたかどうか、疑ってかかる必要があります。
私は、最初から、米国も、戦争調査会に疑義を抱いていた、と想像しています。
同調査会が前提とした、或いは、結論として打ち出す史観が、GHQ/SCAPのそれと同じであれば不必要ですし、異なったものであれば問題だからです。(太田)
青木は8月24日に今度は幣原に呼ばれる。
吉田首相を交えて善後策を協議した3人は、マッカーサーが戦争調査会廃止の意向であることを確認する。
廃止までの猶予期間は、1、2ヶ月程度だった。
廃止は9月末が想定された。・・・
こうして「なぜ戦争は起きたのか」を追究する国家プロジェクトは未完に終わった。」(108~110、113、115~116)
(続く)