太田述正コラム#10238(2018.12.8)
<皆さんとディスカッション(続x3915)/江戸時代の選良教育–後半(その負の遺産)(その2)・朝鮮論III–朝鮮亜文明>

<太田>(ツイッターより)

 「医者は稼げない? 医学部より工学系<の、とりわけ、>…情報系の学部・学科…が人気、大学選びの新基準…」
http://www.msn.com/ja-jp/money/personalfinance/%e5%8c%bb%e8%80%85%e3%81%af%e7%a8%bc%e3%81%92%e3%81%aa%e3%81%84%ef%bc%9f-%e5%8c%bb%e5%ad%a6%e9%83%a8%e3%82%88%e3%82%8a%e5%b7%a5%e5%ad%a6%e7%b3%bb%e3%81%8c%e4%ba%ba%e6%b0%97%e3%80%81%e5%a4%a7%e5%ad%a6%e9%81%b8%e3%81%b3%e3%81%ae%e6%96%b0%e5%9f%ba%e6%ba%96/ar-BBQy1dI?ocid=ientp#page=2
 その限りにおいては大変結構なことだが、いつになったら、「稼げない」か稼げるか、なーんて貧しかった時代の代物が「大学選びの…基準」であり続けるんだろうねえ。

 「逮捕のファーウェイCFO、…孟容疑者は、秘密子会社を通じて対イラン制裁に違反する取引を行っていた…禁固30年超も…」
http://news.livedoor.com/article/detail/15709091/
 ゴーンみたいな大転落だが、ゴーンは私腹を肥やそうとしたのに対し、孟は国策遂行の一端を担ったわけで、「…米政府が卑劣なならず者の手法に訴え<た。>…」
https://www.msn.com/ja-jp/news/world/%e3%83%95%e3%82%a1%e3%83%bc%e3%82%a6%e3%82%a7%e3%82%a4%e5%b9%b9%e9%83%a8%e9%80%ae%e6%8d%95%e3%81%af%e3%80%8c%e5%8d%91%e5%8a%a3%e3%81%aa%e3%81%aa%e3%82%89%e3%81%9a%e8%80%85%e3%81%ae%e6%89%8b%e6%b3%95%e3%80%8d-%e4%b8%ad%e5%9b%bd%e3%83%a1%e3%83%87%e3%82%a3%e3%82%a2/ar-BBQCoGN?ocid=ientp
と、中共当局が(国営メディアを通じて)取敢えずの第一声を放ったところ、習ちゃんが本件をどう落着させるのか、興味津々。
 「…中国が報復のためにアメリカ人を人質に取るのではないか…」
http://news.livedoor.com/article/detail/15706138/
 触らぬ神に祟りなしだねえ。
http://news.livedoor.com/article/detail/15707014/

<太田>

 それでは、その他の記事の紹介です。

 ワシントンポストもお取り上げに・・。
 controversialなのは、この法案というより、外国人労働者の現状なんだけどね。↓

 Japan passes controversial new immigration bill to attract foreign workers・・・
https://www.washingtonpost.com/world/japan-passes-controversial-new-immigration-bill-to-attract-foreign-workers/2018/12/07/a76d8420-f9f3-11e8-863a-8972120646e0_story.html?utm_term=.a942fd3f7f34

 これをお手盛りと言う。↓

 「日産取締役会、ゴーン元会長に報酬額一任・・・」
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO38703880Y8A201C1CC1000/?n_cid=DSTPCS001

 能力と「人格」を買われて引く手あまた。↓

 「貴ノ岩に格闘技団体が早くも熱視線 年末に向け「オファーの可能性、十分ある」・・・」
https://news.infoseek.co.jp/article/20181207jcast20182345551/

 朝鮮日報、腰が据わっとらんで。↓

 「「強制徴用者」を「戦時中の労働者」と記載、ジャパンタイムズが社告で釈明–圧力に屈したとの見方は「断固否定」・・・」
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2018/12/08/2018120880007.html

 中共官民の日本礼賛(日本文明総体継受)記事群だ。↓

 <日中交流人士モノ。↓>
 「日本の「エコプロ2018」に中国改革開放40周年を記念した中国館設置・・・」
http://j.people.com.cn/n3/2018/1207/c94473-9526488.html
 <人民網の邦字紙化シリーズ。↓>
 「80歳でエベレスト登頂成功した三浦雄一郎さん、86歳で南米最高峰に挑戦・・・」
http://j.people.com.cn/n3/2018/1205/c94473-9525568.html
 <ここからは、サーチナより。
 客観記事。↓>
 「中国の非効率な住宅設計に、日本人が「困惑しているらしい」・・・中国メディアの快資訊・・・」
http://news.searchina.net/id/1672636
 <これもだ。↓>
 「中国メディアの快資迅は・・・日本の若者達を観察し、「家も要らない、結婚も望まないという姿は、中国の最近の若者達に非常に似ている」と主張する記事を掲載した。・・・」
http://news.searchina.net/id/1672652
 <これもまたそうだ。↓>
 「海外に労働力を求める日本、その背後で進む「東京への人口一極集中という問題」・・・中国メディアの一点資訊・・・」
http://news.searchina.net/id/1672679
 <これもまたまただ。(表現がオカシイが・・。)↓>
 「列に並ぶという行為を見れば国民性が見える! 日本は怠惰、中国は?・・・中国メディアの快資訊・・・」
http://news.searchina.net/id/1672646
 <しばらく前の記事の使いまわし。↓>
 「日本人は時間に正確な国民? 日本人が時間に厳しいのは「遅刻」だけ・・・今日頭条・・・」
http://news.searchina.net/id/1672681
 <鰹節の話だが、やはり、しばらく前の記事の使いまわし。↓>
 「さすがは四方を海に囲まれた日本、海の食べ物に対する造詣とこだわりの深さが半端ない・・・中国メディア・東方網・・・」
http://news.searchina.net/id/1672680
 <定番だが、よくこんだけ書いたねえ。↓>
 「・・・今日頭条は・・・日本がきれいな7つの理由を紹介する記事を掲載した。
 記事はまず、日本人がいかにきれい好きかを紹介。サッカーワールドカップのロシア大会でも、日本のサポーターが試合後きれいに掃除したことが報じられたが、日本チームのサポーターは試合結果に関わりなく毎回掃除してから去ると感心した。
 日本人がきれい好きなのにはいろいろな理由が考えられるが、記事は理由を分析し、7つにまとめて紹介している。1つ目は、雨や森林の多い「気候と地理」のため、2つ目は、「毎日風呂に入る習慣」、3つ目には、「江戸時代から衛生のシステムが構築されていたこと」を挙げた。ヨーロッパではナポレオンの時代にようやく汚水システムができたのに対し、日本では江戸時代という昔からリサイクルのシステムができていて街はきれいだったとしている。
 続いて4つ目は、「宗教と言葉」。神道では、参拝前に手を洗う習慣があり、日本語の「綺麗」という漢字からも分かるように、日本人にとってはきれいにするのは美しいことだという意識があると分析。きれいという言葉で「ごみがない状態を指す他の言語とはレベルが違い、美意識にまで昇格させている」と感心している。
 記事は残りの3つに、「戦後の公害問題から学んだ教訓」、「他人に迷惑をかけない文化」、「家庭や学校での教育」を紹介した。そして、結論として、日本人のきれい好きは潔癖レベルで、世界でもトップレベルであると称賛した。」
http://news.searchina.net/id/1672658
 <これもだ。↓>
 「・・・今日頭条はこのほど、日本の教育はメンタルを強くさせているとする記事を掲載し、子どもを持つ中国の親に日本の教育方法から学ぶように勧めた。
 記事はまず、日本と中国の教育には理念に大きな違いがあると紹介。中国では、「子どもをスタートラインから負けさせない」と口癖のように言われているが、日本にはこの言い回しはない。そもそも、目指すものが違うと言えるだろう。中国で目指すのは「成績で他人に勝つ」ことだけで、勉強以外何もさせず、より高いランクの大学に入りさえすれば将来は安泰だと思われている。しかし、日本は「総合教育」を重視し、社会人になった後の生活力に重きを置いていると言える。
 具体的な日本の教育方法について記事は、「自立、自律、自強」の6文字に集約されると紹介。例えば、日本では1歳から自分で食事をするので、子ども用の食器が1歳用から販売されていると紹介。中国では家庭によって違うとはいえ、小学生になっても自分で箸を持たず親や祖父母に食べさせてもらう光景を目にするのとは大きく異なっていると言えるだろう。勉強以外のことは何でも大人がやってあげるのが愛情だと思い込んでいる中国人は少なくない。
 ほかにも、小学校では給食の配膳と片付けを子どもたちがすることで、また家庭では家事をして欲しい物を買ってもらうなどにより「労働の対価として何かを得る」ことを学ばせていると紹介。メンタル面でも、褒めるばかりでなく改善点も指摘することで程よい自尊心を持たせ、泣いても甘やかさず我慢する強さを教えるのも日本の教育の特徴だと指摘している。」
http://news.searchina.net/id/1672664
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一人題名のない音楽会です。
 再びのロシア歌謡の2回目(最終回)です。
 ロシア抑止とアジア解放を二大主要目的とした大東亜戦争開戦記念日にふさわしい、と思った次第です。
 例によって、キリル文字の壁に阻まれ、解説抜きです。

? 歌唱:Maxim Fadeev and Nargiz
https://www.youtube.com/watch?v=3s-bGfPG1QQ

Grape Seed 歌唱:Sevara
https://www.youtube.com/watch?v=VOSDujf6604

The land is empty without you 歌唱:Anna Herman
https://www.youtube.com/watch?v=0JSDUNNZCTo

Take Paradise 歌唱:Ani Lorak
https://www.youtube.com/watch?v=DUf__0Mf_88

I did not think of you 歌唱:Alsou
https://www.youtube.com/watch?v=4C2QfNbrNw8

The Raspberry Blossoms 歌唱:Sofia Rotaru & Nikolai Baskov
https://www.youtube.com/watch?v=cUctG1lngq8

What a Woman 歌唱:Frustyle
https://www.youtube.com/watch?v=Ggyk9tx3OMY

(注)作詞・作曲:Michael Cretu(上掲)

Tenderness 歌唱:Maya Kristalinskaya
https://www.youtube.com/watch?v=FevA9n_5ZRE

The Girl From Nagasaki 歌唱:Gemma Khalid
https://www.youtube.com/watch?v=z_lmltGXuEU

(完)
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        –目次–

江戸時代の選良教育–後半(その負の遺産)(その2)

0 始めに
1 東大ができるまで
[京大の方が東大より学術生産性が高い理由]
[東大における武官のための実学の「復活」]
2 勝海舟通奏低音
[「やせ我慢をせぬもの」論]
3 維新後日本における唯一の武士的集団であり続けた帝国陸軍
 (1)序
 (2)上澄み中の上澄みを擁した帝国陸軍
[戦前の歴代首相]

朝鮮論III–朝鮮亜文明

0:始めに
1 日本文明からの離脱
 (1)縄文性の放棄
  ア 仁政の消滅
[仁政抜きの「名君」達]
●世宗
●英祖
●正祖
[朝鮮の「実学」について]
[火田民と禿山]
[参考:世界の主要諸文明に於ける仁政の欠如]
  イ 労働の蔑視
 (2)弥生性の放棄
  ア 外交・安保音痴
  イ 軍事の蔑視
[例外としての武臣政権時代]
[「名将」陳舜臣の実相]
[天照大神と八幡神]
  ウ 民衆の過収奪・農民反乱の日常化
  エ ガバナンスの喪失
2 支那文明のタテマエ論継受–儒教「国教」化
 (1)宗教の弾圧
  ア 土俗信仰の弱体化
[小中華思想と小中華思想「改」]
  イ 普遍的倫理の否定
[韓国の性犯罪率は高いか]
 (2)工・商の発展阻害
[日本の工・商]
[支那の工・商]
[朝鮮の陶磁器]
 (3)女性虐待
[火病]
[太極旗]
 (4)想像力の貧困
  ア フィクション作品の貧困
[朝鮮演劇における悲劇の不在]
  イ 音楽における貴族と庶民の断絶
[アリランとトラジ]
  ウ 科学的精神の貧困
3 恨の文化–日本文明からの離脱と支那文明のタテマエ論継受の化合物
4 終わりに代えて–朝鮮民族の超優秀性?

      –江戸時代の選良教育–後半(その負の遺産)(その2)–

0 始めに

 「江戸時代の選良教育–アジア復興の原点–前半-」(コラム#9692)に引き続き、「江戸時代の選良教育–後半(その負の遺産)(その1)」(コラム#10042)を、前回のオフ会「講演」で取り上げたことになって一応なっているわけですが、その内容を後知恵も加えて総括すれば、次のような感じになるのではないでしょうか。↓

 幕府の昌平坂学問所における研究の伝統は、幕府の洋学所にも基本的に受け継がれた、と言ってよかろう。
 その伝統とは、次の通りだ。

・兵学(安全保障学)の欠落・・但し、洋学所に関しては、兵学の核心的部分の欠落
・国学(日本研究)の欠落
・基本的に翻訳学
・官僚向け実学志向

 もとより、昌平坂学問所と洋学所とでは違いもあった。

・漢学 v. 洋学 ⇒ 明治維新後、東大はほぼ洋学一辺倒になってしまった。
 この結果、非欧米地域研究が弱体なまま推移することになってしまった。
・文系 v. 理系 ⇒ 明治維新後、東大はこの両系を備えることにはなった。
・実学ユーザーが文官 v. 実学ユーザーが武官 ⇒ 東大は基本的に前者を受け継いだ。
・実学ユーザーとの関係が相対的に密 v. 実学ユーザーとの関係が相対的に疎
 すなわち、象牙の塔度は洋学所の方が高かったところ、明治維新後、東大はそうなってしまった。

 以上、いささか、先回りして、東大・・国公立の高等教育研究諸機関の原型・・のことまで触れてしまいましたが、これから、私が東大に言及した部分の一応の裏付けをご披露することにしましょう。

1 東大ができるまで

 「慶応4年4月(1868年5月)、新政府の江戸入城・占領にともない、江戸幕府直轄の教学機関であった儒学中心の昌平坂学問所(昌平黌)、洋学中心の開成所、医学(西洋医学)中心の医学所は接収され、6月から9月にかけて3校を再開し、それぞれ昌平学校・開成学校・医学校と改称された。

⇒幕府の三つの最高教育研究機関を事実上存続させ、しかも、それらを、看板を挿げ替えただけで、明治新政府の最高教育研究機関としてしまったわけです。
 衆知を集めて、非幕府系の諸藩校や島津斉彬の教育研究機構構想を踏まえた、革新的な最高教育研究機関を発足させてしかるべきであったというのに・・。(太田)

 [<同じ年である、>明治元年<の>・・・十二月に・・・知学事(山内豊信)・・・がおかれた。
http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1317579.htm ]
 翌明治2年(1869年)6月、新政府は直轄の教育機関、および全国府藩県の学校行政を統括する官庁の設立をはかりその制度を定め、先述の3校を統合し7月8日(新暦8月15日)「大学校」として設立、長官(学長)に相当する「大学別当」には松平春嶽が任じられた。

⇒語感だけからは、知学事の方が大学別当より上位のように響きますね。
 それにしても、広義の倒幕に貢献のあった勇藩の旧藩主であったというだけで、山内豊信のような人物(コラム#省略)を、事実上の初代の文部大臣にしたことは、明治新政府の維新の元勲達が、その職位を「軽易」で名誉職的なものと見ていたからだと思えてなりません。
 春嶽についても、橋本佐内や横井小楠といった当時の最高の知識人達を重用したことでは知られるものの、本人が学術について、見識があったり好きであったりした形跡はない
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E6%98%A5%E5%B6%BD
、ということもあり、やはり、維新の元勲達が、かかる職位を「軽易」で名誉職的なものと見ていた疑いが一層強くなります。
 豊信はすぐ変わっているのでともかく、春嶽は、私に言わせれば、日本の明治維新以降の高等教育研究諸機関に対し、拭い去ることのできない、大きな負の遺産を残すことになるのです。(太田)

 この大学校は、昌平学校を改編し国学・漢学を講じる「本校」と、開成学校・医学校兼病院(医学校の後身)・兵学校の「分局」から構成されるものとした。当時の組織は、先述の「大学別当」と次官たる「大少監」「大少丞」、教官はそれぞれ大・中・少の「博士」「助教」から構成されており、集議院と弾正台の間の席次に位置する官庁とされた。明治2年12月17日(1870年1月18日)、大学校が「大学」と改称されると、大学本校の南に所在していた旧開成学校は「大学南校」、東に所在していた医学校は「大学東校」と改称された。
 教授される学科については、「大学校」設立時に昌平学校に下された「達」によると、教育内容について(明治維新の指導理念となった)国学・神道(皇学)に優位を置きつつも、必ずしも国学至上主義ではなく漢学・洋学も講究すべきであるとし、とくに実学重視の立場から科学・兵学・医学を中心とする洋学が重要としている。だがその後明治3年2月(1870年3月)に制定された「大学規則」「中小学規則」では、国学・神道重視の姿勢は後退し、従来のような「国学・儒学・洋学」という国別の教科区分ではなく、「教科・法科・理科・医科・文科」という洋学的な教科区分が採用された。

⇒これは、松平春嶽にとっての最後のご奉公でした。↓
 「明治2年(1869年)・・・8月24日、大学別当・侍読に異動<した春嶽は、>・・・明治3年(1870年)7月13日、大学別当と侍読を辞任し、麝香間祗候<(注1)>となる。以降、公職から引退。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E6%98%A5%E5%B6%BD

 (注1)じゃこうのましこう。「明治維新の功労者である華族または親任官の地位にあった官吏を優遇するため、明治時代の初めに置かれた資格。職制・俸給等はない名誉職。宮中席次等では<親任官の下の>勅任官に準じた待遇を受けた。・・・「麝香之間」は、京都御所内の部屋の名称であ<り、>・・・隔日出仕<する。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BA%9D%E9%A6%99%E9%96%93%E7%A5%97%E5%80%99

 ここに、文武両道の非幕府系藩校群の伝統や国学(日本学)と儒学(支那学、ひいては非欧米学)と洋学(欧米学)、の三つの柱からなる、島津斉彬の教育研究機構構想は、春嶽によって葬り去られ、ほぼ、洋学だけ、の東大(帝大)が発足する基盤が整った、と言っていいでしょう。
 しかも、発足した東大の姿(省略)から逆投影すれば、この洋学は、斉彬の思い描いたところの、理系の軍事科学としての洋学(注2)・・武官のための実学・・ではなく、幕府の洋学所に由来する、但し、洋学所とは違って文系理系双方にわたるところの、文官のための実学としての洋学であった、と思われます。

 (注2)「薩摩藩の洋学校として元治元年(1864年)に設置された「開成所」があり、講師には中濱万次郎・前島密などがいる。・・・教科は、英語、蘭語のほか海陸軍砲術、兵法、数学、物理、医学、地理、天文学、測量術、航海術などの西洋の進んだ技術や学問の修得であった。 薩摩藩は慶応元年(1866年)、<英国>へ・・・留学生を送りこ<む>・・・が、その人選にあたっては、開成所出身の優秀な人物を中心に選出した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%8B%E6%88%90%E6%89%80

 これは、春嶽が島津斉彬コンセンサス信奉者ではなかったことを、決定的な形で示すものであるとともに、当時、明治新政府全体を、事実上牛耳っていたところの、旧薩摩藩士達を中心とする島津斉彬コンセンサス信奉者達たる維新の元勲達が、(何度も繰り返しますが、)かかる職を「軽易」な名誉職的なものと見て、春嶽を大学別当に任じたのは、私見では、島津斉彬コンセンサス信奉者達が犯した最大の過ちであって、やがて、日本の選良達の中の島津斉彬コンセンサス信奉者達及び横井小楠(のみ)信奉者達の減少という形で、彼らの首を絞めていくことになるのです。
 ちなみに、春嶽は、かつて斉彬の盟友であったこと、戊辰戦争の時に、彼の越前藩は親藩筆頭であったにもかかわらず、中立を保ったこと、から、彼は、慶応4年/明治元年(1868年)以降、内国事務総督・内国事務局輔・民部卿(注3)・民部卿兼大蔵卿、という要職に、次々に任じられています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E6%98%A5%E5%B6%BD

 (注3)律令制下の民部省は、戸籍、田畑、山川、道路、租税のことを司っており、明治維新後、この民部省が復活した。「明治3年・・・(1870年・・・)に殖産興業を推進する工部省が民部省から分離され、明治4年・・・(1871年・・・)に・・・民部省は大蔵省に合併されて廃止された。<その後>・・・、1873年(明治6年)・・・に徴税以外の国内行政部門は再度分離されて、新しく内務省が創設されることとなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%91%E9%83%A8%E7%9C%81

 なお、同じくかつて斉彬の盟友であった伊達宗城の宇和島藩については、戊辰戦争の時には単に中立を保った外様の小藩に過ぎなかったけれど、「本家」の伊達藩の降伏を促したりした功績があったこともあり、伊達宗城は、外国掛・外国事務総督・外国官知事に任じられています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%92%8C%E5%B3%B6%E8%97%A9 
 春嶽の後を襲って民部卿兼大蔵卿に任ぜられたのは、この宗城です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E9%81%94%E5%AE%97%E5%9F%8E 
 島津斉彬コンセンサス信奉者達から見て、完全用済みとなったこの二人の円満引退を期し、彼らは、春嶽には大学別当、宗城には欽差全権大臣(清国に派遣)(上掲)、という、「軽易」かつ名誉職的な色合いの最終ポストをそれぞれに用意した、というわけです。(太田)
 
 しかし大学本校で紛争(後出)が生じたため、本校は明治3年7月12日(1870年8月8日)に閉鎖、洋学系の大学南校・大学東校は独立し、この頃より次第に洋学者が国学者・漢学者を圧倒するようになった。

⇒これぞ、歴史の歪曲的公定解釈、というやつであり、実態は、徳川家連枝の春嶽の敷いたところの、旧幕府高等教育研究機関の継承方針・・但し、洋学振興のために漢学は抑圧する・・が貫徹され始めた、ということでしょう。
 なお、春嶽には、斉彬に強いコンプレックスを抱いていて、こういう職位に就いた機会を捉え、せめて、斉彬の教育研究機関構想くらいは葬り去ろうとした部分もあったのではないか、と、私は勘ぐっています。(太田)

 ついで明治4年7月18日(1871年9月2日)文部省設置とともに「大学」自体が廃止され、7月21日(新暦9月5日)文部省の管轄下に入った大学南校・東校はそれぞれ「南校」・「東校」と改称、明治5年8月(1872年9月)の学制により両校は「中学校」ついで「専門学校」と規定された。その後南校は「開成学校」(のち東京開成学校)、東校は「東京医学校」と改称され、1877年(明治10年)10月に発足する(旧)東京大学(東京帝国大学の前身)の構成母体となる。
 大学本校<は、>・・・御茶の水の旧昌平黌(現・湯島聖堂)に設置された。国学・漢学講義を担当したが、建前上は国学(皇学)第一とされていたため、江戸幕府以来の旧昌平黌出身の漢学教官と、京都にあった旧皇学所出身の国学教官の間に対立が絶えず、丸山作楽などの国学派がその地位を誇って儒学派を排斥したのに対し、水本成美ら儒学派は儒教は必ずしも外来思想ではないと主張し、明治2年8月2日(1869年9月7日)大学校で挙行された「学神祭」において、国学派が従来の孔子に代えて「八意思兼命」<(注4)>を祀ったことを発端に「学神祭論争」が起こった。

 (注4)オモイカネ(思兼)は、・・・知恵を司る神である。・・・『古事記』では思金神、常世思金神、『日本書紀』では思兼神、『先代旧事本紀』では思金神、常世思金神、思兼神、八意思兼神、八意思金神と表記する。高皇産霊尊の子とされる。
 最も有名な話では、岩戸隠れの際に、天の安原に集まった八百万の神に天照大神を岩戸の外に出すための知恵を授けたこととされている。葦原中国平定では、葦原中国に派遣する神の選定を行っている。その後の天孫降臨で瓊々杵尊に随伴した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%A2%E3%82%A4%E3%82%AB%E3%83%8D

 さらに学内対立は、上記「大学規則」(明治3年2月制定)をめぐる洋学派・反洋学派(国学・儒学両派)間の論争など、深刻な派閥紛争に発展したため、明治3年7月12日(1870年8月8日)には学制改革を名目にして当分休校となり、再開されることなくそのまま廃校となった。これにより旧幕時代以来の昌平黌による漢学・儒学教育は断絶した。

⇒それどころではないはずの時期における、非洋学2派間のこの低次元の「内」ゲバ生起をもっけの幸いと、いやけしかけて、春嶽路線の新政府当局は、両派ともどもゴミ箱行にした、といったところですね。
 斉彬がこれを知ったら、どんなに呆れ、悲しんだことでしょうか。(太田)

 高等教育の中で大きく後退をよぎなくされた国学者・儒学者が<細々とではあるが(太田)、>復権するのは、(旧)東京大学<(注5)>発足にともなう、文学部「和漢文学科」および「古典講習科」の設置以降のことである。

 (注5)1877年~1886年。「東京開成学校と東京医学校の統合により発足し、当時の日本においては唯一の「大学」であった。組織的には専門課程として修業年限4年の法理文医4学部(のち工芸学部が新設され5学部)、および学部進学課程たる予備門(修業年限4年)から構成され、のちに今日の大学院に相当する学士研究科も設置された。
 当初は上記2学校の連合体に過ぎなかったが、1881年以降全学部を統括する「総理」職(今日の学長に相当)が新設された前後から組織的統合が進み、4学部の校地も現在の東大本郷キャンパスへと統合された。学部制・評議会(当時は「諮詢会」)など、東大のみならず現在の日本の大学組織の原型がこの時期に形づくられた一方で、日本人教官の養成が未だ進んでいなかったため、主だった教官は欧米人教師によってまかなわれていた(このため予備門の授業の大半は授業で使用される外国語の修得に費やされていた)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E5%A4%A7%E5%AD%A6_(1877-1886)
 「1877年(明治10年)創立の東京大学が、1886年(明治19年)に帝国大学令に基づいて「帝国大学」(略称:帝大)に改称された。
[それ以降、1807年までの30余年にわたって、帝国大学以外の大学の設置は認められなかった。(天野郁夫『帝国大学–近代日本のエリート育成装置』※5頁)
 それから約10年は同校を指す名称であった。1897年(明治30年)に「京都帝国大学」が創立されると、従前の「帝国大学(旧東京大学)」は「東京帝国大学」に改称された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E5%A4%A7%E5%AD%A6 ]

⇒つまり、少なくとも、1870年から1877年までの7年間、日本学と支那(アジア)学の高等教育研究機関は日本から姿を消した、というわけであり、「復活」後も、その規模がそれぞれ学科でしかなかったことが、尾を引いて、かつまた、この二つの研究が相互補完的側面があることとも相まって、現在の日本の、日本研究、支那(アジア)研究の低迷をもたらしている、と思うのです。(太田)

 大学南校<は、>・・・神田一ツ橋(錦町)の旧開成所跡に設置された。洋学教育を担当し、明治3年7月の「本校」閉鎖後に制定された「大学南校規則」によれば、外国人教師による外国語の課程である「正則」、日本人教師による日本語の課程である「変則」から構成され、外国語学・西洋地歴・数学などを科目とする「普通科」修了ののち法理文の各「専門科」に進学することになっていた。また、同年以降、各藩からの貢進生募集(259藩より300余名)や海外への官費留学生派遣(日本最初の欧米留学生は南校からの派遣である)などの施策も行った。明治6年には明六社へ参画。
 その後、文部省への移管と「南校」への改称(明治4年7月)をへて、9月25日(新暦11月7日)に南校は一時閉鎖され10月に再開された。この時「変則」課程は廃止されて「正則」のみとなり、また貢進生制度も廃止され新たに学生が募集され入学試験により入学が許可された。当初予定されていた「専門科」の設置は、それを修める程度の学力に達する生徒がほとんどいなかったため放棄され、「普通科」すなわち外国語教育に重点がおかれることになった。この結果南校はフルベッキの指導下で、中等学校相当の学校となった。 
 明治5年(1872年)の学制により南校は「第一大学区第一番中学」、1873年(明治6年)専門学校(後年の専門学校令に準拠した旧制専門学校とは異なる)となって開成学校と改称し、1874年ついで「東京開成学校」に改称された。
 [東京開成学校、それに医学校は、将来設置されるべき「大学」の教員養成機関とされていたのであり、明治10年に統合されて「<旧>東京大学」になったのちも、その性格は基本的に変わらなかった。((※)18頁)]
 開成学校への改称後、校地は東京大学法理文3学部に継承された(その後現在地の東大本郷校地に順次移転)。

⇒大学南校は、文官のための実学としての洋学、の教育研究機関として発足したところ、当時の日本人教官達や学生達の語学力不足から、欧米語学教育機関たらざるをえなかった、ということから、発足当時は、幕府の洋学所を引き継いだというよりは、欧米語と漢語と違いこそあれ、中心的業務が漢語教育機関であった昌平坂学問所を引き継いだ格好になってしまった、というわけです。
 すなわち、昌平坂学問所は、漢語の教育・・漢文和訳と漢文作文能力の付与・・がその中心的業務たる教育の大宗を占めたのに対し、大学南校においては、欧米語の教育・・欧米文和訳と欧米文作文能力の付与・・がその中心的業務たる教育の大宗を占めた、ということです。
 東大(帝大)発足の頃には、日本人教官達や学生達の語学力も相当程度向上していたことでしょうが、昌平坂学問所が、結局のところは、支那朱子学(一部陽明学等)の祖述に終わったように、東大(帝大)も長らく、いや、相当程度、現在の東大も、欧米学術文献の祖述に毛が生えた程度のことしかしていない、・・それは、文系においてとりわけ甚だしい、・・と言わざるをえない、と私は考えています。(太田)

 大学東校<は、>・・・下谷御徒町の旧医学所跡に設置された。西洋医学教育を担当し、「本校」閉鎖後に制定された「大学東校規則・舎則」によると普通教育を履修する「予科」と、予科を修了した学生が進学する専門課程の「本科」からなり、両科はさらに正規課程を履修する「正則」と短期速修の「変則」に分けられていた。東校では<英>公使館附医師W・ウィリスを教師としていたこともあって当初は<英>医学を中心としていたが、設立当初からドイツ医学採用を求める学内の声が高まり<(注6)>、明治4年(1871年)7月、「東校」への改称後、プロイセンよりミュレル・ホフマンらが招聘され教授として着任した。

 (注6)「明治2年(1869年)、松平慶永(春獄、福井藩主)が大学別当(長官職)に任命され<ると>同時に<、かつて>佐賀藩医<であった、>・・・相良知安<ら2名が>・・・大学東校・・・の管理者である大学権大丞に就任し<た。>・・・
 戊辰戦争(1868年)で傷病兵の治療に活躍した<英国>人医師ウイリスへの恩義から、新政府内の西郷隆盛や山内容堂などは、将来<英>医学を日本医学の規範にすることを決めていた。しかし知安は、ドイツ医学こそ世界最高水準であり、日本のとるべきはドイツ医学と強く主張した。
 この根拠として、
1.オランダ医学書は、ドイツ医学書の翻訳が大半で、当時のドイツ医学は基礎医学で世界的発見が相次ぎ発展していた
2.致遠館時代の恩師フルベッキ(大学南校学監)の「ドイツ医学が世界に冠たるもので日本はドイツを範とすべき」との証言
3.日本とドイツは、国情・民族性などに類似性がある
等<を>あげ<た>。・・・
 知安は・・・<当時、>文教の責任者で大学知学事<であった>山内容堂を訪問し、ドイツ医学採用を強く建議した<が、>・・・容堂<は>・・・知安の建議を退けようとした。
 ・・・政府・・・は、明治2年7月太政官代九条道孝邸で、知安<ら>を呼び・・・意見を聞くことにした。
 ・・・知安は、三条実美太政大臣はじめ、岩倉具実、木戸孝允、大久保利通、後藤象二郎、松平春獄、秋月種樹、鍋島直正ら政府要人の廟議の席で・・・自説を主張した。
 まず知安は、<英国>人医師ウイリスを雇用し医学校総教師に取り立てるとの約束が、・・・自分に何の相談もなく、山内容堂知学事の一存で約定されているのは、正式な廟議の手続を経ずの私事である<、と指摘>した。・・・
 やがてフルベッキに親しい政府要人や、同郷で佐賀藩出身の大蔵大輔兼民部大輔の大隈重信、議定の鍋島直正と参議の副島種臣、会計官判事の江藤新平らも同調するようになり、次第に政府部内の空気も知安に有利となり、ついにドイツ医学採用が正式に決定した。これが契機となり山内容堂は免職となる。」
http://sagarachian.jp/main/89.html

⇒この方針転換の背景として、「オランダ医学を学んでいた当時の医師たちは、オランダ語の医学書の多くがドイツ語からの翻訳であり、オランダの書物を通じてドイツ医学を学んでいたこと」
https://cms.passnavi.evidus.com/medical/01/11_16/
があげられるでしょう。
 この方針転換の結果として、「当時のドイツ医学はコッホの活躍に象徴されるように、学問としての医学を重んじて<おり、英仏>の医学がどちらかというと病人やケガ人の治療に力を注ぐ臨床重視だったのに対し、感染症の病原菌をつきとめるといった研究主体で学問としての医学に重きを置いていた<ことから、>・・・その風潮は<日本の>今の医学界でも少なからず続いており、特に大学病院で臨床より研究を重んじるという傾向が強い」
https://cms.passnavi.evidus.com/medical/01/11_16/
とも言えそうです。(太田)

 <なお、>慶應義塾医学所では<英>医学<も続けられ>た。

⇒島津斉彬コンセンサス信奉者である福澤諭吉を塾長に戴いていた慶應義塾の面目躍如であり、西郷隆盛の思いを尊重した、といったところでしょうか。(太田)

 その後9月25日(新暦11月7日)、東校は南校と同様にいったん閉鎖したのち学則を改正して10月に再開、入学試験を実施して学力優秀者の再入学を許可した。さらに明治5年(1872年)7月、変則の全廃とともに予科・本科における学科・課程の改定が行われ、これ以後はドイツ医学への転換が進行することとなった。8月の「学制」制定により東校は「第一大学区医学校」ついで「東京医学校」と改称されたが、ドイツ医学重視の流れは東京大学医学部に継承された。
 下谷の校地は東京医学校に継承されたが、その後、病院の所在地であった神田和泉町へ、ついで1876年(明治9年)に東大医学部の現在地である東大本郷校地に移転された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E6%A0%A1_(1869%E5%B9%B4)

⇒結局のところ、大学東校、ひいては帝大医学部についても、臨床の軽視、そして、研究の重視ならぬ、ドイツ、ひいいては欧米の医学書の翻訳、そして、その翻訳内容の教育、が旨とされた、ということです。
 つまり、大学東校もまた、大学南校同様、昌平坂学問所の「伝統」を受け継ぐことになったのです。
 なお、大学南校(と大学東校)から、(旧)東京大学の成立までの経緯は(これまでの説明と一部だぶっていますが、)以下の通りです。↓(太田)

 「大学南校は富国強兵・日本の近代化のため、全国から優秀な人物として推薦を受けた貢進生を集め、御雇い外国人から英語・フランス語・ドイツ語を学ばせ、その中の更に特に成績優秀な者を<英仏独>等の外国へ留学させ、これを洋学教育に生かすための役割を担った。明治4年7月18日(1871年9月2日)の「大学」廃止と文部省設置により、7月21日(新暦9月5日)同省管轄となった大学南校は「南校」と改称され、同年9月25日(新暦11月7日)、文部省は一時これを閉鎖して貢進生制度廃止などの改革を行い、翌10月に再開した。これらの結果、南校は外国人教師による「普通科」教育に重点をおく機関となったが、そのレベルはなお外国語修得を中心とする中等教育相当に止まっていた。
 大学南校は、明治5年8月3日(1872年9月5日)の学制公布により「第一大学区第一番中学校」(学制における中学校)へと改編されたが、この頃には外国語による「普通科」の課程を修了する学生が出てくるようになった。このため、1873年(明治6年)4月10日には「専門学校」に転換され、再び「(第一大学区)開成学校」と称した。この際、教授言語は原則として英語に統一されることとなり、8月、従来の「語学課程」(普通科)に加えて新設された「専門学課程」(専門科)では法学・化学・工学・鉱山学・諸芸学の五科が設置されたが、法学・化学・工学が英語で教授されたのに対し、鉱山学はドイツ語、諸芸学はフランス語で授業が行われ、残留していた独仏語専修の学生に対する移行措置とし、この2学科については学生の卒業にともなって順次廃止した。同年11月には学制二編追加に基づき、語学課程が東京外国語学校(旧外語)(東京外国語大学などの前身)として分離独立した。残る専門学課程は、翌1874年5月「東京開成学校」への改称により、法学・化学・工学三科よりなる修業年限3年ないし4年の「本科」に再編され、さらに修業年限3年の「予科」が設けられた。またこの年、工業関係の実務者を簡易速成するための「製作学教場」が設けられた(1877年まで)。1875年、本科生・予科生から11名が選抜され、文部省派遣による第一回の海外留学生となった。
 1877年2月、東京開成学校綜理(校長)に就任した加藤弘之は開成学校を「開成大学校」に昇格させるべきとした意見書を文部省に提出、これにより4月12日には、東京開成学校本科は、東京医学校と・・・統合し、法・理・文・医4学部よりなる(旧)東京大学に改編された。また予科は、同じく官立東京英語学校との統合により東京大学予備門(第一高等中学校、のちの一高の前身)となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%8B%E6%88%90%E5%AD%A6%E6%A0%A1 

 参考まで。↓

 「「東京大学」創立までに、文部省雇い入れ外国人の約20パーセントが「傭外国人教師」として受け入れられ、その数は約50人に達していたが、「東京大学」では次第に減少し、「帝国大学」発足とともに幾分増加したが、やがて20人前後に定着した。この変化は、帰国した日本人留学生が大学教授陣を占めるに従って外国人による教育分野が必要最小限の範囲に限定された結果である。」
http://umdb.um.u-tokyo.ac.jp/DPastExh/Publish_db/1997Archaeology/03/31500.html

 「<旧>東京大学では、主として<英国>人・<米国>人が英語で法・理・文の三分野の学問を教え、医学部ではドイツ人教師が独語で医学・薬学を教えていた。他省立の学校でいえば、司法省法学校はフランス人がフランス法を、工部大学校は<英国>人が工学を、札幌農学校は<米国>人が農学を、東京農林学校はドイツ人が農学をというように、学校によって教師と学問の「国籍」が違い、教授用語ももちろん異なっていた。・・・
 明治19<(1886)>年、<旧>東京大学を核に司法省方学校、工部大学校を統合して・・・帝国大学<が>・・・発足し・・・<、>その帝国大学には、法・医・工・理の各分科大学(のちに学部)が置かれ、研究の役割を担う大学院も設置され<た。>
 明治23<(1890)>年にはこれに農商務省の東京農林学校が農科大学として加えられ、札幌農学校を除いてかつての<フランス流>「グランゼコール」は姿を消す。
 こうして東京大学は、新興日本帝国の、唯一最高の学府としての「帝国大学」へと変身を遂げた。・・・筆頭分科大学とされた法科大学の卒業生には、高級官僚への無試験任用の特権が認められた。文部省予算の半分近くが、帝国大学一校につぎ込まれていた時期もある。・・・
 近代化・産業化を急ぐ「国家ノ須要」に応える、いわばキャッチアップ型・途上国型の大学、それが帝国大学であった。」((※)20、22~23頁)

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[京大の方が東大より学術生産性が高い理由]

 規模比を勘案すれば一層、表記が言えそうなのだが、それは一体どうしてなのか、を考えてみた。
 初代京大総長の木下広次(1851~1910)は、「肥後国飽田郡坪井(現在の熊本県熊本市)に熊本藩儒の木下犀潭<(注7)>の四男として生まれる。・・・

 (注7)木下犀潭(さいたん。1805~67年)。「肥後国菊池郡の農家に生まれる。幼少より聡明で、22歳の時に苗字帯刀を許され、木下姓を名乗る。藩校時習館で学んだ後、天保6年(1835年)に中小姓、藩主伴読となる。同年江戸の昌平黌、また佐藤塾にて佐藤一斎に学ぶ。同じ熊本生まれで農民出身である松崎慊堂にも教えを受ける。ここで塩谷宕陰、安井息軒と知り合い、終生の親交を結ぶ。
 帰国後、時習館助教に就任すると共に木下塾も開いた。犀潭宅を訪れた河井継之助は犀潭を非常に気に入り「100日や半年も一緒にいて学んでみたいと思った」と述べている。 後に幕府より昌平黌教官への話があったが、未だ藩公の恩に報いていないとして、これを辞した。

⇒例によって(コラム#省略)、昌平坂学問所(における教育研究)の敬遠、典型的藩校(における教育研究)へのコミットメント、というやつだ。(太田)

 儒学者としては、朱子学、陽明学何れにも偏しなかった。また、唐・明・清の律に詳しく、熊本藩刑法方の役人は、難しい事案については犀潭に問い合わせた上で結論を出したという。
 門下には横井小楠、甲申政変時の朝鮮弁理公使であり、後に漢学者として活躍した竹添進一郎、漢学者の元田永孚、教育者の木村弦雄、衆議院議員、群馬県知事、三重県知事を歴任した古荘嘉門、大日本帝国憲法起草者の1人である井上毅など。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E4%B8%8B%E7%8A%80%E6%BD%AD

⇒木下犀潭の門下には、漢学者(竹添、元田、横井)や国学者(木村)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E6%B7%BB%E9%80%B2%E4%B8%80%E9%83%8E
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E7%94%B0%E6%B0%B8%E5%AD%9A
https://kotobank.jp/word/%E6%9C%A8%E6%9D%91%E5%BC%A6%E9%9B%84-1070421
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%AA%E4%BA%95%E5%B0%8F%E6%A5%A0
が多く・・ちなみに、古庄、井上は、政治家・行政官・・、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E8%8D%98%E5%98%89%E9%96%80
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%B8%8A%E6%AF%85
かつまた、木下は昌平坂学問所の朱子学偏重教育、そして恐らくは、文偏重教育が嫌いであったと思われるところ、彼の息子の広次も、帝大の行政官養成教育・政府ニーズ充足研究、そして、欧米偏重教育研究、に反撥していた可能性が大だ。
 恐らく、旧熊本藩出身の木下広次は島津斉彬コンセンサス信奉者であったことだろうが、このことも、彼のアジア重視、すなわち、欧米偏重教育研究への反撥の原因だったと思われる。(太田)

 <明治30(>1897<)>年の京都帝国大学発足にともない、木下は専門学務局長を兼任のまま同年6月28日、初代総長に就任(8月2日には専門学務局長を退任)、ドイツ流の大学システムを採用し京都大学のいわゆる「自由の学風」の基礎を作った<(注8)>とされる。

 (注8)「ドイツでは・・・学問の自由(Akademische Freiheit)の観念が発展してきた。<英米に比して>市民的自由の保障が不十分であったドイツでは、大学教授に対する学問研究の自由を保障することが不可欠だったためである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%A6%E5%95%8F%E3%81%AE%E8%87%AA%E7%94%B1

⇒このように、京大の初代総長が、(その根底には、昌平坂学問所的なものへの嫌悪の念があったのだろうが、)政府の統制、政府のニーズ、から自由な校風を確立した、ということは大きい。(太田)

 <また、>京都帝国大学寄宿舎(吉田寮の前身)を設置し、舎生に管理と運営(自治)をさせた。」<(注9)>
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E4%B8%8B%E5%BA%83%E6%AC%A1

 (注9)恐ろしく詳細な紹介がなされている。↓
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E5%90%89%E7%94%B0%E5%AF%AE

⇒上掲のウィキペディアを読んでも、この寄宿舎設置に余り意味があったとは思えないが・・。(太田)

 「京都大学・・・創設時の計画では1898年にまず法科大学から設置する予定であったが、工科志望者の急増により1年前倒しという形で、創設と同年の1897年に京都帝国大学理工科大学が設置された<が、>・・・「研究・教授・学修の自由を重んじるドイツ式」を採用・・・<した結果か、>法科大学の卒業生の高等文官試験での不振を招いた。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%A4%A7%E5%AD%A6

⇒文理の官僚予備軍の養成に「失敗」したことが、逆説的ではあるが、京大の政府ニーズ離れを促進することになった、と、私は見ている。(太田)

 ちなみに、いささか矮小化した形でだが、下掲のような同工異曲の指摘がなされているところです。

 両帝大の発足当時については下掲。↓
 「法学教育は、試験づくめで知られていた。厳格な学年制で履修科目は学年ごとに配分され、学年末の試験で全科目に合格しないと次の学年への進級が認められない。しかも不合格が1~2科目でも、次の年はまた全科目の試験を受けなければならない。落第を2年続ければ自動的に退学という厳しさであった。・・・明治25(1892)年を最後に・・・高級官僚への無試験任用の特権が・・・廃止になっていたから、卒業後に難関で知られる高等文官試験が待ち構えていたことも、付け加えておくべきだろう。
 それに対して京都帝大の科目制では、学生は科目ごとに履修登録をし、試験に不合格の科目だけを再履修すればよく、全科目に合格すればいつでも卒業試問を受けて卒業できる。修業年限も東京帝大では4年と決められていたが、京都帝大では「3年以上6年以内」と緩やかに定められていた。・・・
 <また、京都帝大文科大学設立直前の>明治36(1903)年<の記事には>次のように書<かれ>ている。
 「活動的」で「世俗的なる東京」と「静止的、出世間的なる西京」という違いが、「東西両京の大学の上に影響を及ぼし、東京大学をして、実用的人物輩出をその特徴となさしむると同時に、西京大学をして学者的人物に傾かしめんとするの勢い」がある。「故に東京大学はむしろパリ大学の学風に類し、京都大学は大いにベルリン大学の面影を映せり。・・・」・・・。「他日、京都大学設備の完成を告げて、法文医工の四大学<(学部)>の設立を見るに至らば、もっとも異彩を放つのは文科大学」であり、「東京大学は法科を以て鳴り、京都大学は文科を以て聞え」ることになるだろう・・・。
 京都帝大文科大学大学の発足は明治39年である。・・・その後の哲学や東洋史学を中心とした、いわゆる「京都学派」の形成と発展を考えれば、的を射た予言であったというべきだろう。」((※)27~29頁)
 更に、現状については下掲。↓
 「・・・京大生の平均的学力レベルは、東大生と比べると、一部のスーパー勉学者を除けば、惨憺たる有様だと思う(少なくとも筆者が在籍した当時は)。東大では、2年生から3年生になるときに進学振り分けが行われるため、多くの学生が入学してからもかなり勉学に励まなくてはならないと聞く。したがって、東大生の平均学力レベルは、京大生よりはるかに高いと思われる。<(注10)>・・・

 (注10)文一生と理三生は、落第しない限り、それぞれ、法学部、医学部医学科に進学できるので進学振り分けの埒外だが、法学部に関しては、国家公務員試験や司法試験(や現在では法科大学院進学)があるので、成績底辺者以外は「かなり勉学に励まなくてはならない」。
 なお、文二生については、下掲参照。
https://todai.info/shinfuri/economics.php

 結局のところ、京大の特徴は、「ほとんど拘束がなく自由」「学科間の移動も自由」「徹底的な少数精鋭主義」にあるといえる。
 圧倒的な自由な環境の中で、才能があるものが、自力で能力を伸ばし、その結果としてノーベル賞級の<自然科学>研究者が誕生する。その頻度が(結果として)だいたい10年に1人になるのではないか──と筆者は考えている。・・・」
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/54305?utm_source=editor&utm_medium=mail&utm_campaign=link&utm_content=list
(10月10日アクセス)

 なお、東大と京大以外の戦前の「帝国大学・・・は「総合大学」というより、理系の「複合大学」だった」((※)9頁)こと、換言すれば、以上のような京大が例外的な名実ともの総合大学であった、ことも重要な要素だろう。
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[東大における武官のための実学の「復活」]

 最初のこれは、復活と言っても、本格的なものではなかった。↓

 1883(明治16)年に旧東京大学に船舶工学科開設されたらしいのだが、軍艦にどれくらい比重を置いていたのかよく分からなかった。 
http://zousen-siryoukan.com/item/genre05/category05-07/item-062010/

 1886年になって、ようやく、武官のための実学の一部が本格的に復活したのだが、18年間のブランクは致命的に大きかったのではなかろうか。↓

 1886(明治19)年3月の帝国大学設置(後出)の際、東京大学工芸学部と工部大学校の合併により工科大学(後の工学部虎ノ門)が設置されるが、翌1887(明治20)年9月、造兵学科,火薬学科が設置される。
http://www.pe.t.u-tokyo.ac.jp/dousoukai/history.html

 なお、更にその32年後にもなって、武官のための実学の追加がなされている。↓

 「1918年に東京帝国大学工科大学に航空学講座が設置され、続く1920年に航空学科が開設」
http://www.aerospace.t.u-tokyo.ac.jp/overview/outline.html

 この間、船舶工学科も、武官のための実学化していたようだ。↓

 「戦前の東京大学工学部船舶工学科は、航空学科と並んで人気トップの学科だった。船舶工学科の学生は3年生になると成績上位の5人ほどが当時の海軍に選抜されて海軍委託学生になる。様々な軍艦を設計し、軍事面の国際競争力を高めたのは彼らだった。・・・
 <とはいえ、>明治20年代の学科開設以来、昭和初期まで、論文になるような研究成果は皆無だという・・・。
 ようやくまともな論文が現れたのは、昭和12年になってからだった。だから、日本における造船関係の研究成果が日本の軍艦の設計に役立った例はほとんどないのだ。
 日本の軍艦の設計に用いられた技術のほとんどは、欧州から輸入したり真似をしたりしたものだった。・・・

⇒これは、やや意外だ。

 零戦や大和に代表されるように、戦前の軍事技術のレベルはかなり高い。しかし、それは科学技術のレベルが高かったからではないのだ。つまり要素技術力は高くなかった一方で、「総合化(シンセシス)力」または「システム工学の力」が高かったのだ。」
https://business.nikkeibp.co.jp/article/tech/20081117/177428/

⇒これは、更に意外だが、考えてみれば、現在の中共が、科学力はダメだが技術力においては多くの分野で最先端に達していることと同じことなのかもしれない。
 いずれにせよ、以上は、工学系の中で細々と武官のための実学が復活した、という域にとどまるし、文系の中では、一切復活しなかったこと、つまりは兵学(安全保障学)の核心部分が復活しなかった、というか、欠けていたこと、は、戦後日本のことを考えれば致命的だったとも言える、と私は思う。
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2 勝海舟通奏低音

 勝海舟通奏低音とは、明治維新以降の日本人の大半にとっての選良観であって、良い学校を出て大組織に就職し、何をやるかではなく、もっぱら出世を目指す者、です。
 この通奏低音が、以上、申し上げてきたところの、明治維新後の日本の高等教育研究の主流を形成したのです。
 私見では、この通奏低音の起源こそが、勝海舟という人なのであり、その生きざまなのです。

 「勝海舟は,16歳の時に,剣術の修業に励み出し,21歳で免許皆伝になっている。父親の小吉も,海舟同様剣術の修業をしている。その時の先生の名前が,平山行蔵であった。・・・ 
 勝小吉にとって,物を書くという馴れぬ仕事を始めた時,最優先的にしておかなければならなかったことは彼の尊敬して師事した平山行蔵という武芸者,兵法者の姿を,忘れぬうちにできるだけ詳しく生き生き書き遺しておくという仕事だったのである。・・・
 勝小吉が平山行蔵から聞いた話を,海舟に伝えたかった意欲がよくあらわれているといえよう。」
https://www.jstage.jst.go.jp/article/budo1968/13/1/13_38/_pdf

⇒海舟の父小吉・・町民の子で旗本の養子になった・・が、海舟を昌平坂学問所には入所させず、青年になってから、剣術を習わせた、というのは、なまくら武士であった小吉の武士のイメージが、剣客だったということなのでしょうが、そんな、幕臣としては異色の「教育」を受けた海舟が、私見では、結局は、幕末幕臣の理念型になってしまうのですから、面白いと言うべきか、それとも、棲息環境がいかに人を規定してしまうか恐ろしいと言うべきか・・。(太田)

 「平山行蔵<は、>・・・軍学を斎藤三太夫(長沼流)・・・に・・・学んだ」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%B1%B1%E8%A1%8C%E8%94%B5
 長沼澹斎(たんさい)(1635―90)は、「孫呉など<支那>古兵法のみならず、明代につくられた『紀効新書(きこうしんしょ)』<(注11)>や『武備志(ぶびし)』<(注12)>など新しい兵書を駆使し、甲州流、越後(えちご)流などの既存の兵学とは異なる斬新な兵法の体系を打ちたて<た。>」
https://kotobank.jp/word/%E9%95%B7%E6%B2%BC%E6%B5%81-1572039

 (注11)「嘉靖39年(1560年)に初版され、これを十八巻本という。また、後に手を加え万暦16年(1588年)に出版されたものを、十四巻本という。・・・
 簡明・明快な著述で、戦略、武器及び徒手での格闘、兵員の選抜、訓練、武器、陣法、軍律、行軍、旅営、兵法など多方面に及ぶ。倭寇の討伐などに従った戚継光の生涯の戦事に関する心得が記されている。実際の対倭寇戦術として、刀を払うための狼筅と、六人一組で敵に当る戦法は、大きな功績を挙げたという。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%80%E5%8A%B9%E6%96%B0%E6%9B%B8
 (注12)天啓元年(1621年)、明の茅元儀により編纂、刊行された。全240巻に及び、膨大な図譜を添付する。
以下の5項目からなる。
「兵訣評」18巻 「孫子」「呉子」など過去の兵書の要点と評論
「戦略考」33巻 春秋から元代までの膨大な戦争の実例を挙げての戦略論
「陣練制」41巻 布陣と実戦的訓練について
「軍資乗」55巻 営、戦、攻、守、水、火、餉、馬の八項目から軍事技術、兵器、築城など
「占度載」93巻 天文気象と卜占について
 更に方輿、鎮戌、海防、江防、四夷航海などの地誌航海図を掲載し、「鄭和航海図」「航海天文図」などが含まれる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%82%99%E5%BF%97

⇒前者も後者も、『孫子』等とは異なり、戦術論が中心である印象であり、前者は、火器登場以前に、倭寇・・多国籍犯罪組織といった趣の代物・・討伐等の経験を明の武将の戚継光(1528~88年)が書にしたもの
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%9A%E7%B6%99%E5%85%89
であって、まともな兵書とは言えず、また、後者は、後金(後の清)との戦争の過程において茅元儀(1594~1640?年)によって著されたもの
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8C%85%E5%85%83%E5%84%80
であり、火器・・当時、火縄銃・・が導入されていた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%81%AB%E7%B8%84%E9%8A%83#中国における火縄銃
ものの、「注」を一瞥した感じでは、それを正面から取り上げているとは思えず、しかも、明は、この後金(清)に滅ぼされてしまうわけですから、ある意味実戦によって否定された代物であり、かかる「兵書」群に拠った長沼の「兵学」にも、また、疑問符を付けざるをえません。
 そんな長沼から学んだ平山について、父から学んだ海舟の兵学観が、戦術に偏った、しかも、物の役に立たない、的なものになったとしても私は驚きません。(太田)

 「長沼流<は、>・・・兵義なきなれば<(ママ(太田))>人心和し、天心応ず」という義兵論に主張の中心があった。山鹿素行と異なるのは、根底に朱子学的理念が流れている点<だ。>・・・勝海舟の父・小吉、乃木希典の父・十郎、男谷精一郎も兵原<(平原?(太田))>の講義を受けた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E6%B2%BC%E6%B5%81

⇒「朱子学では公・私と並び、義と利の弁別を重視する」
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2012/02/2218.html
ところから、どこをとっても、長沼流の兵学は、明・清の兵学の直輸入的継受であったところ、随・唐或いは宋の文化の継受とは違って、明・清の文化の継受など、日本にとってもはや意味がなくなっており、こんなものは、オタク的兵学でしかなかった、と言うべきでしょうね。(太田)

 「勝海舟<は、>・・・剣術は、実父・小吉の実家で従兄の男谷信友の道場、後に信友の高弟・島田虎之助の道場で習い、直心影流の免許皆伝となる。師匠の虎之助の勧めにより禅も学んだ。兵学は窪田清音の門下生である若山勿堂から山鹿流を習得している。蘭学は、江戸の蘭学者・箕作阮甫に弟子入りを願い出たが断られたので、赤坂溜池の福岡藩屋敷内に住む永井青崖に弟子入りした。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%9D%E6%B5%B7%E8%88%9F

⇒兵学への入り口を(父親のせいで)間違えた海舟は、学問なるものを蔑視する人間になった、と私は想像しており、爾後の海舟の「勉強」は、単にネットワーキング目的の手段でしかなかった、と、私は見ています。
 箕作阮甫に弟子入りを断られたのは、海舟のそんな魂胆を見抜かれたからだ、と私は想像しています。(太田)

 佐久間象山は、「嘉永4年(1851年)には、再び江戸に移住して木挽町に「五月塾」を開き、砲術・兵学を教えた。ここに勝海舟、吉田松陰、坂本龍馬[、河井継之助、橋本左内、・・・加藤弘之]ら後の俊才が続々と入門している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E4%B9%85%E9%96%93%E8%B1%A1%E5%B1%B1
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E4%B9%85%E9%96%93%E8%B1%A1%E5%B1%B1 ([]内)

⇒「勝海舟の妹、順が嘉永5年(1852年)に象山に嫁いだので勝は義兄となったが、・・・象山を『氷川清話』の中で・・・「あれはあれだけの男で、ずいぶん軽はずみの、ちょこちょこした男だった。が、時勢に駆られて」云々と・・・けなし<、また、>「「佐久間象山は物識りだったよ。学問も博し、見識も多少持っていたよ。しかし、どうも法螺吹きで困るよ。あんな男を実際の局に当らしめたらどうだろうか・・・。何とも保障ができない。顔つきからして既に一種奇妙なのに、平生緞子の羽織に古代模様の袴をはいて、如何にもおれは天下の師だというように、厳然と構えこんで、元来覇気の強いおとこだから、漢学者が来ると洋学を以て威しつけ、洋学者が来ると漢学を以て威しつけ、一寸書生が尋ねてきても、直きに叱り飛ばすという風でどうも始末にいけなかったよ」<とけなしたこともある>。だが、象山暗殺の報を聞いたときは「蓋世の英雄」と評価し「この後、吾、また誰にか談ぜむ。国家の為、痛憤胸間に満ち、策略皆画餅。」とその死を悼んでおり、西郷隆盛や山岡鉄舟を「殿」「氏」と付けていたのを、象山だけに「先生」と敬称をつけていた。また自らの号とした、象山揮毫の「海舟書屋」の扁額を掲げ続けた」(上掲)ことを踏まえれば、佐久間は、そんな勝を見抜いたうえで、自分に似ていると可愛がり、勝はこのケレン味たっぷりの佐久間を自分のロールモデルにした、ということではないでしょうか。(太田)

 「1860年の咸臨丸太平洋横断などで知られる勝海舟は,幕末において尊皇攘夷思想と対立したが,その対立は<支那>と朝鮮に対する認識にも及んでいた。尊王攘夷派は日本を特別な国とみなし,吉田松陰は,「朝鮮・満州・支那を切り随へ」と論じた。それに対して海舟は1863年の日記に,日本・朝鮮・<支那>の東アジア三国が同盟して欧米の侵略に抵抗する構想を記しているのである。

⇒「安政5年(1858年)3月と5月に海舟は薩摩を訪れて斉彬と出会う。2人は初対面ではなく[、1851年に]藩主になる前の斉彬が江戸で海舟と交流していたが、後の海舟の行動に大きな影響を与えることとなる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%9D%E6%B5%B7%E8%88%9F (☆)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E6%96%89%E5%BD%AC ([]内)
というわけで、この段階では、勝は、斉彬の持論の一部を、斉彬の思想の総体の中にきちんと位置付けることをしないままオウム返しに述べていただけ、ということでしょう。
 その勝は、「西洋兵学を修め、田町に私塾(蘭学と兵法学)を開いた<が、>開塾は嘉永3年(1850年)とされている<ところ、>・・・安政2年(1855年)1月18日、異国応接掛附蘭書翻訳御用に任じられて念願の役入りを果たし、海舟は自ら人生の運を掴むことができた」(☆)わけですが、その後、勝は、斉彬から借りた衣を脱ぎ捨て、幕府に過剰適応していく、というのが私の見解です。(太田)

 尊皇攘夷運動は倒幕運動へと発展し,明治維新によって明治政府が成立したが,明治政府の首脳は攘夷ではなく,文明開化の名のもと,欧米にならった近代国家建設を目指し,欧米の文化導入に努めた。その一方で,尊皇攘夷思想は欧米伝来のナショナリズム思想と奇妙に融合し,大日本帝国を神国とする極端なナショナリズム思想の源流となっていく。
 しかし,海舟はそのような近代国家建設のあり方と,その手本となった欧米の近代文明のあり方にも批判の目を向けている。

⇒これは、即、勝が、軍事音痴の典型的旧幕臣に成り下がっていたことを示すものです。
 (欧米は、軍事国家群であり、それに対抗するためには、日本も軍事国家になる以外にない、という単純かつ冷厳な事実から目を逸らしている、という意味で・・。)(太田)
 それが明確になるのは,日清戦争をめぐってであった。
 日清戦争直前の1894年6月2日,李氏朝鮮への派兵決定と同時に当時の伊藤博文内閣は,<英国>との不平等条約改正案に反対する衆議院を解散し,7月16日に改正条約に調印し,その2週間後に清朝に対して宣戦を布告した。
 宣戦布告後に行われた総選挙で選出された衆議院は,戦争のための政府協力でまとまり,改正条約調印を追認した。従って日清戦争開始は,当時の伊藤博文内閣にとって改正条約調印のための手段という側面を持っていた。
 また,日清戦争直前に日本が改正条約調印に成功し,<英国>から欧米的な近代国家として認められたことは,戦争遂行にとっても有利に作用した。
 日本は欧米的国際法さえ遵守すれば,帝国主義的侵略を行っている欧米諸国と同様に,「文明」国の一員として,「野蛮なる支那」と戦うことが可能となったのである。

⇒ここは、ウィキペディア執筆者の筆が滑っている、というか、お定まりの認識不足です。(太田)

 『学問のすゝめ』で知られる文明開化の旗振り役であり,既に「脱亜論」を発表して「亜細亜東方の悪友を謝絶せよ」と主張していた福沢諭吉は,「『文明』の『野蛮』に対する戦争」として日清戦争を正当化した。
 また,伊藤博文も「文明」国の一員として清朝との講和に臨んだ。
 清朝全権の李鴻章が,日本の領土要求は将来の日本と清朝の協力を困難にしてアジアに対する欧米列強の侵略を激化させるから撤回して欲しいという趣旨の覚え書きを送ったのを無視して領土要求を貫徹し,さらに1871年に締結された日清修交条規を改正して,欧米が清朝に押しつけた条約と同様な不平等条約としたのである。
 後の日露戦争で決定的になる,欧米の帝国主義列強の側にみずからを位置づける姿勢が,早くもここであらわれている。

⇒同上。(太田)

 幕末以来の東アジア三国同盟論者であった勝海舟は,日清戦争を「不義の戦争」として終始一貫して批判し,日清戦争勝利後も,領土要求は欧米列強の新たな侵略をまねくとする立場からこれに反対した。

⇒勝には、日清戦争が、対露抑止・無害化を目的とした戦争であった、という認識すらなかった、ということであり、勝は、島津斉彬コンセンサス信奉者どころか、横井小楠コンセンサス信奉者ですらなくなっていた、すなわち、軍事(安全保障)音痴になりさがってしまっていた、いや、もともとの自分に回帰していた、ということが、よく分かります。(太田)

 しかし,事態は李鴻章や海舟が憂慮した方向に向かっていった。
 日本公使の首謀した1895年の閔妃暗殺事件で,日本の大陸浪人に王宮で妃を暗殺された朝鮮国王の李太王は,翌1896年に日本の圧力を避けてロシア公使館に移った。
 この結果,日本が日清戦争の戦争目的に掲げた「朝鮮の独立」は,ロシアの朝鮮への影響力増大という,日本にとって最悪の形で破綻した。
 同年ニコライ2世の戴冠式に出席した李鴻章はヴィッテと協議し,日本の攻撃に対する共同防衛を密約してロシアに東清鉄道の付設権を認めたため,日本は東アジア三国の中で孤立した。
 そして1897年のドイツの膠州湾武力占領を皮切りに1899年にかけて,列強の<支那>分割競争が激化したのである。
 1898年勝海舟のもとを,戊戌政変で敗れ日本に亡命した康有為と梁啓超が訪れた。
 海舟は忠告書を渡し,性急な改革の失敗の必然と,外国の援助に頼って自国の改革を行うことの愚を説き,日本の真似をするのではなく,<支那>の社会に即した改革を行う必要性を強調した。

⇒勝は、自分の国のことも分かっていなかったということなのでしょうが、「欧米文化を継受した明治維新以降の日本の諸制度だけを真似するのではなく、かかる継受を可能にしたところの、日本文明の総体を継受すべきだ」と助言すべきなのに、「日本の真似をするのではなく・・・」などと、誤った助言を与えてしまっているわけです。(太田)

 その数ヶ月後,海舟は「コレデオシマイ」という有名な臨終の言葉を残してこの世を去るが,その後の日本を含む東アジアの歴史は,おそらく海舟がもっとも望まなかった形で展開していくことになる。」
http://www.koubourico.natsu.gs/_tE5g9xj.html

⇒かくして、軍事を放擲した、識者・・斜に構えたジレッタント的風体を帯びることが多い・・の理念型を近代日本に残して、勝はあの世へと旅立ったわけです。
 なお、「その後の日本を含む東アジアの歴史は,おそらく海舟」の想像を絶する「形で展開していくことになる」のを我々は知っています。(太田)

 「長崎の海軍伝習所で航海術を教えていたオランダ人・カッティンディーケは、勝海舟や官軍伝習所練習生たちを引き連れ、練習艦・咸臨丸で航海演習を兼ねて薩摩を訪問(<1858年>3月15日)、薩摩の山川港に入りますが、島津斉彬は自ら咸臨丸に出向いて、艦上で勝海舟と面会しています。
 勝海舟と島津斉彬は開国や国防について語り合い意気投合したといいます。島津斉彬は側近の西郷隆盛に「幕臣にも人あり」と語ったといわれます。
 なおこの遠洋航海は薩摩から琉球に向かう予定でしたが、島津斉彬は勝に琉球行きの中止を要請(薩摩は奄美大島や琉球で密貿易を行っていたため、これが幕府に知れると藩を揺るがす大問題になるため)、勝はこの計画の裏に幕藩体制の先を見据えるという見識があることを知り、天候悪化を口実に琉球行きを取り止めました。」
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1299256767

⇒前から知っていた勝について、斉彬が、まるで初対面であるかのような人物評を語ったのは、勝の口封じのために、西郷を通じて、勝に、自分の勝への(いかにも勝が喜びそうな内容の)高評価が伝わるように仕組んだのでしょう。
 斉彬が、勝の薄っぺらさ↑↓に気づいていなかったわけがない、と私は考えています。(太田)

 「勝海舟がアメリカから江戸に帰ったとき、老中の一人が勝に質問しました。「勝、わが日の本とかの国とは、いかなるあたりがちがう」と。勝は「左様、わが国とちがい、かの国は、重い職にある人は、そのぶんだけ賢こうございます」と大面当てを言って満座を鼻白ませたと」
http://www.ny.us.emb-japan.go.jp/150th/html/kanrin6.htm

⇒「重い職にある人」に自分を入れていないことが明白ですが、勝は、お目出度いと言うべきか、抜けていると言うべきか。(太田)

 「・・・海舟の出世のきっかけは代表作『海防意見書』の提出にある。
 1853年の黒船来航に際し、開国や貿易で富を得て軍備を増強することを提案したこの意見書が、数ある建白書の中でひときわ目を引いたことで海舟は幕府に登用された。7年後に咸臨丸でアメリカに渡るきっかけを作り“進歩人”のイメージを決定づけたこの意見書だが、その内容はある書物を“コピペ”したとの疑惑がある。

⇒勝は、日本の受験秀才の元祖のような人間だったということです。
 日本が「開国や貿易で富を得て軍備を増強すること」になど・・とまで言うと言い過ぎだとしても・・、ここまでの私の勝理解が正しければ、少なくとも、「軍備を増強すること」になど何の関心もないに違いないのに、合格答案を書いてしまうんですからね。
 何も関心がないからこそ、コピペで答案を偽造せざるをえない、いや、これも言い過ぎだとすれば、答案を平気で偽造する、というわけです。(太田) 

 それは海舟を支援した豪商・竹川竹斎が著した『護国論』である。そこには「貿易で国を富ませて国防に充てる」という発想が記されており、まさに海舟の主張と同じ。しかも『護国論』は黒船来航の2年前に書き上げられ、海舟にも献呈していることが判っている。さらには竹川のほか、恩師である佐久間象山の考えをまとめたとの指摘まである。決して先見性による海舟ひとりの手柄でなく、今で言う「コピー&ペースト」「リライト」によって成された可能性が高いのだ。・・・
 1860年に咸臨丸で渡米したとき、海舟は『氷川清話』でこう書いている。〈おれが咸臨丸に乗って、外国人の手を少しも借りないで、アメリカへ行ったのは、日本の軍艦が、外国へ渡航した初めだ〉〈サンフランシスコ港へ着くと、『日本人が独りで軍艦に乗ってきたのは、これが初めてだ』といって、アメリカの貴紳たちもたいそう誉めて(後略)〉くれた、と勇ましい記述がある。
 別著『航米日誌』で自身も認めているが、実際は咸臨丸にはアメリカ人士官と部下が乗船し、海舟は船酔いで37日間の航海のほとんどを床に伏していた。同乗したジョン・ブルック大尉も日誌で「日本人は全員船酔だ」とし、操船はアメリカ人船員によって行われた。海舟が述べたように、日本人だけで航海を成し遂げた事実はない。・・・」
https://topics.smt.docomo.ne.jp/article/postseven/trend/postseven-499840

⇒そんな勝が、事実を捻じ曲げてでも自分を大きく見せることを躊躇しなかったとしても、これまた、誰も驚かないでしょうね。(太田)

 「蕃書調所を創設した勝海舟<(まさか。( 太田))>・・・<だったが、>長崎伝習所も、・・・勝海舟の提言(建議)でできた。・・・
 「御一新(維新)後の太政官政府(明治政府)は、まさしく蕃書調所で学んだ旗本直参と譜代の旧幕臣たちが動かしたのである。・・・」
http://www.snsi.jp/tops/kouhouprint/1920

⇒勝との関係はともかく、後段はまさにその通りであり、勝海舟通奏低音に共鳴するところの、旧幕臣達ないしその類の人々が、明治維新以降の、日本の官僚達となり、また、東大を始めとする国立大学教育研究者達となった、のです。(太田)

 「幕府公認の「神戸海軍操練所」となったのは,1864(元治元)年5月のことである。
 勝海舟の神戸海軍操練所の設立目的は,我策は,当今アジァ州ヨーロッパ人に抵抗する者なし。これ皆規模狭小,彼が遠大の策に及ばざるが故なり。今,我邦より船艦を出だし,弘くアジァ各国の主に説き,横縦連合,共に海軍を盛大し,有無を通じ,学術を研究せずんば,彼が蹄繭を遁がるべからず。先ず最初,隣国朝鮮よりこれを説き,後,支那に及ばんとする。からわかるように,目本・中国・朝鮮の三国が合縦連衡して,西洋諸国に対抗するだけの人材を養成することであった。・・・
 魯国の西睡を押止する・・・すなわち,ロシアの侵略に対する防ぎょ策として,神戸海軍操練所を設立したといっても過言ではない・・・」
https://www.jstage.jst.go.jp/article/budo1968/13/1/13_38/_pdf 前掲

⇒まさに、島津斉彬の考え方・・アジア主義とロシア抑止・・の受け売りです。
 しかし、勝は、儒学の勉強をしていなかったことに加え、幕臣時代に、支那や朝鮮を訪問したことがないだけでなく、(前出の、康有為らとの面会を除けば、)支那人識者とも朝鮮人識者と交流したこともなかったと考えられることから、支那についても朝鮮についても無知であった点が、支那を熟知していたはずの斉彬とは大違いでしたし、欧米に関する実知識に関しても、(上述した)この後の1860年(万延元年)に咸臨丸で訪米した経験しかなく、フランスを熟知していたはずの斉彬には到底及びませんでした。
 そして、何よりも致命的だったのは、斉彬とは違って、勝が、国学に全く関心を持った形跡がないことです。
 これは、勝が、自国について、俯瞰的な知識を全く身に着けていなかったであろうことを示唆しています。(太田)

 「「支那(シナ)を日本と同じように見るのが、大間違いだ。日本は立派な国家だけれど、支那は国家ではない。あれはただ人民の社会だ」
 勝はそう喝破します。勝は日清戦争には終始反対し、日清韓三国合従策を持論としましたが、一方で清国の人々の気質と国家の本質を冷静に見抜いていました。
 「支那人は帝王が代わろうが、敵国が来たり国を取ろうが、ほとんど馬耳東風で、はあ帝王が代わったのか、はあ日本が来て、我国を取ったのか、などいって平気でいる。風の吹いた程も感ぜぬ。感ぜぬのも道理だ。 一つの帝室が滅んで、他の帝王が代わろうが、誰が来て国を取ろうが、一体の社会は、依然として旧態を存して居るのだからノー」
 「政府などはどうなっても構わない。自分さえ利益を得れば、それで支那人は満足するのだ・・・
 支那は、流石に大国だ。その国民に一種気長く大きなところがあるのは、なかなか短気な日本人などは及ばないョ」」
https://shuchi.php.co.jp/rekishikaido/detail/4727

⇒勝のこの浅薄な支那人観は、彼が1850年から足掛け5年にわたった長崎時代(☆)に長崎港に出入りしていた支那商人達から聞いた話、ないし、支那商人達から受けた印象、をそのまま語ったものではないでしょうか。
 この支那人観には二つ大きな問題点があります。
 一つは、要は、支那人達の阿Q性を歪曲することで、むしろ美化していることです。
 もう一つは、支那人達を蔑視し、その可塑性を否定していることです。
 それに対し、島津斉彬は、(恐らくは、彼らの阿Q性を直視しつつ、)支那人達の可塑性を信じていたからこそ、辱め策を採る(コラム#9902)ことで、彼らを奮起させようとしたのです。(太田)
 
 「明治維新後も海舟は旧幕臣の代表格として外務大丞、兵部大丞、参議兼海軍卿、元老院議官、枢密顧問官を歴任、伯爵に叙された。しかし明治政府への仕官に気が進まず、これらの役職は辞退したり、短期間務めただけで辞職するといった経過を辿り、元老院議官を最後に中央政府へ出仕していない。枢密顧問官も叙爵も政府からの求めに応じただけで度々辞退していた。・・・
 ただ、政府に対しては不満はあったが、提出した意見書は説教に止まり、藩閥協力を呼びかける程度の物で、政治的安定を願う海舟には体制批判は見られない。また、民権運動には無関心だった。
 徳川慶喜とは、幕末の混乱期には何度も意見が対立し勝はその存在自体を慶喜に疎まれていたが、その慶喜を明治政府に赦免させることに維新直後から30年の間尽力した。この努力が実り、慶喜は明治2年9月28日に謹慎解除され、明治31年(1898年)3月2日に明治天皇に拝謁を許され特旨をもって公爵を授爵し、徳川宗家とは別に徳川慶喜家を新たに興すことが許されている。これに先立つ明治25年(1892年)に海舟は長男小鹿を失い、友人の溝口勝如を通して慶喜に末子精を勝家の養嗣子に迎え、小鹿の娘伊代を精と結婚させることを希望し慶喜と和解した。
 他にも旧幕臣の就労先の世話や資金援助、生活の保護など、幕府崩壊による混乱や反乱を最小限に抑える努力を新政府の爵位権限と人脈を最大限に利用して維新直後から30余年にわたって続けた。」(☆)

 一見、勝の晩年は、天璋院篤姫の晩年を彷彿とさせます。
 しかし、それは似て非なるものです。
 篤姫が旧大奥の女性達等に手を差し伸べたのは、私の見るところ、信仰心に基づくとともに、旧幕府と旧薩摩藩の恩讐の軽減を図るためであったところ、それは、旧幕府とか薩摩藩とかの次元を超えた、公への奉仕であったのに対し、勝が慶喜以下の旧幕臣達に手を差し伸べたのは、公職を受けては離れることを繰り返す一方で受爵を歓迎することで、公を標榜しつつ、その威光を手段として用いたところの、私(わたくし)、すなわち、旧幕臣達の福利追求、そして、そのことによる、旧幕臣間のボスたる自分の地位の確立・維持、更には、ここが肝要なのですが、自分の子孫達の繁栄(注13)、のためであった、と、私は見ています

 (注13)「三女:逸子<に、幕臣の子で俊秀の>目賀田種太郎<を娶せ(コラム#10125)、>・・・嫡男の小鹿は海舟の最晩年に40歳で急逝したため、小鹿の長女・伊代に旧主徳川慶喜の十男・精を婿養子に迎えて家督を継がせ<た。>」(☆)
 もっとも、勝の子孫に著名人の名に値する者がいない点は、西郷隆盛のケースと似ている。
 
 勝は明治元年時点でまだ45歳だったのですから、与えられた公職に全力を傾注すべきなのにそうしなかったのは、西郷ら同様、馬脚が現れるのを回避したかったということもあったでしょうが、勝の場合、一番大きかったのは、公に奉仕する、という観念そのものを彼が持ち合わせていなかったからではないか、と私は思うのです。
 以上、申し上げてきたことを踏まえれば、勝評(☆掲載)としては、

栗本鋤雲 「羞恥心を知らない者」
小栗忠順 「勝は有害な人間である。我は彼を除かんと欲す」
福澤諭吉 「やせ我慢をせぬもの」

が正しく、

西郷隆盛 「勝氏へ初めて面会し候ところ実に驚き入り候人物にて、どれだけ知略これあるやら知れぬ塩梅に見受け申し候、英雄肌で、佐久間象山よりもより一層、有能であり、ひどく惚れ申し候」
坂本龍馬 「今にては日ノ本第一の人物勝麟太郎という人に弟子になり・・・」

は間違っている、ということになりそうです。
 西郷は、斉彬による心にもない勝評を、そのまま信じ込んでいただけなのでしょうし、坂本の勝評は、坂本に人を見る目などなかったことを暴露したものだと言わざるをえません。

——————————————————————————-
[「やせ我慢をせぬもの」論]

 勝のウィキペディア執筆者達が、福澤諭吉の勝評として紹介した「やせ我慢をせぬもの」について、 瘠我慢の説のウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%98%A0%E6%88%91%E6%85%A2%E3%81%AE%E8%AA%AC
を援用しつつ、私見を記しておく。
 福澤が、島津斉彬コンセンサス信奉者である、という認識を持った上で、私の日本文明論を援用しないと、この説の正しい理解はできない。

 「「瘠我慢の説」(やせがまんのせつ)は、福澤諭吉の著書のひとつ。1891年(明治24年)11月27日に脱稿され、1901年(明治34年)1月1日<(注14)>の『時事新報』紙上に掲載された。

 (注14)この時点では、勝は既に亡くなっていたが、「著者」の福澤はかろうじて、そして榎本は元気に、まだ存命していた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E6%BE%A4%E8%AB%AD%E5%90%89
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A6%8E%E6%9C%AC%E6%AD%A6%E6%8F%9A
及び、☆

 さらに、1901年(明治34年)5月に『丁丑公論』と一緒に一冊の本に合本されて時事新報社から出版された。
 なお、石河幹明が序文を記し、掲載の経緯を説明している。また付録として、1901年(明治34年)2月に福澤が勝海舟と榎本武揚に送った書簡と両名の答書および、石河幹明の「瘠我慢の説に對する評論に就て」と木村芥舟の「福澤先生を憶ふ」が掲載されている。・・・
 冒頭で「立国は私なり、公にあらざるなり」と述べて、国家は必要悪であって忠君愛国の情は私情にすぎないと続ける(以上から福沢諭吉は古典的自由主義に影響されているといえよう)。しかしながら、現在の時点では国家は必要であって、たとえ小国であっても忠君愛国の情を持つことは「瘠我慢」として認める。

⇒「私/非人間主義(立国)」は「弥生性」、と置き換えて読まれなければならず、福澤がそれと対置しているところの、「公」は「公/人間主義(エージェンシー関係の重層構造(コラム#40)=広義のアナキズム(コラム#省略))」であり、「縄文性」、と捉えられなければならないのです。(太田)

 そして、勝海舟は講和論者であって、江戸城を開城し、内乱を避けた功績は認めるにしても、幕府に対する「瘠我慢」の情がなかったと非難する。さらに、王政維新の際に徳川家が薩長に降参して自ら解体するに至ったことは、「立国の要素たる瘠我慢の士風を傷(そこな)うたるの責は免かるべからず」と述べて、維新の時に「瘠我慢」が損なわれたことを非難する。
 また、榎本武揚も「飽くまでも徳川の政府を維持せんとして力を尽し、政府の軍艦数艘を率いて箱館に脱走し、西軍に抗して奮戦したれども、ついに窮して降参したる者なり」、つまり「一旦は幕府を維持するために戦ったにもかかわらず、最期には降参してしまった」ため、降参した後に東京に護送されて、新政府に協力したことは感服することではあるものの、やはり「瘠我慢」の情がなかったと非難する。」

⇒福澤は、弥生性(立国)とは、武力の行使や威嚇による権力の確保、維持、ないしは、権力への参画である、という認識なのであり、それを行わなかった徳川慶喜/勝海舟、と、それを中途半端にしか行わなかった榎本武揚、の、弥生性の欠如ないし不十分さ、をこき下ろしているわけだ。
 だから、「福沢諭吉は古典的自由主義に影響されている」(上出)、も、「旧幕臣でありながら、維新後新政府に出仕して栄達を遂げた勝海舟と榎本武揚の出処進退をきびしく批判した」(内田樹)
http://blog.tatsuru.com/2009/02/23_1102.html
も、(互いに次元を異にしているけれど、)瘠我慢の説の解釈としては、的外れなのだ。(太田)
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 「勝は日本海軍の生みの親ともいうべき人物でありながら、海軍がその真価を初めて見せた日清戦争には始終反対し続けた。連合艦隊司令長官の伊東祐亨<(注15)>や清国の北洋艦隊司令長官・丁汝昌<(注16)>は、勝の弟子とでもいうべき人物であり、丁が敗戦後に責任をとって自害した際は勝は堂々と敵将である丁の追悼文を新聞に寄稿している。

 (注15)ゆうこう / すけゆき(1843~1914年)。「薩摩藩士・・・の四男として鹿児島城下・・・に生まれる。飫肥藩主伊東氏に連なる名門の出身である・・・。<薩摩藩の>開成所にて<英国>の学問を学んだ。・・・江川英龍のもとでは砲術を学び、勝海舟の神戸海軍操練所では塾頭の坂本龍馬、陸奥宗光らと共に航海術を学ぶ。薩英戦争にも従軍。鳥羽・伏見の戦い前の薩摩藩邸焼き討ち事件で江戸から脱出し、戊辰戦争では旧幕府海軍との戦いで活躍した。
 明治維新後は、海軍に入り、・・・明治26年(1893年)に常備艦隊長官を拝命し、明治27年(1894年)の日清戦争に際し、・・・連合艦隊司令長官を拝命した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E6%9D%B1%E7%A5%90%E4%BA%A8
 (注16)ていじょしょう(1836~95年)。「家が裕福ではなかったため、3年ほど私塾に通っただけで10歳の頃には学問の機会を失ってしまった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%81%E6%B1%9D%E6%98%8C

⇒勝が好きでそのウィキペディア執筆陣に加わるような人々は、勝的なほら吹きになる、ということなのかもしれませんが、たまたま海軍操練所でも学んだとはいえ、伊東が勝の「弟子とでもいうべき人物である」とするのは、伊東に失礼というものでしょう。
 丁に至っては、勝との接点すら定かではありません。
 なお、日清戦争における海上戦を、伊東対丁の戦いと見れば、高度の一般教養教育と高度な技術教育を受けた名門武士と無学の庶民との戦いであり、そんな戦いの帰趨は、装備や部隊練度を論ずる以前に定まっていたようなものだ、と私は思うのです。(太田)

 勝は戦勝気運に盛り上がる人々に、安直な欧米の植民地政策追従の愚かさや、<支那>大陸の大きさと<支那>という国の有り様(ありよう)を説き、卑下したり争う相手ではなく、むしろ共闘して欧米に対抗すべきだと主張した。三国干渉などで追い詰められる日本の情勢も海舟は事前に周囲に漏らしており予見の範囲だった。李鴻章とも識り合いであり、「政府のやることなんてぇのは実に小さい話だ」と後に述べている。・・・

⇒ここは、思わず失笑してしまう箇所です。
 話は真逆であり、「政府」が遂行していたことは、世界史を転換させるという雄大この上もない、島津斉彬コンセンサスに基づく諸対外政策だったのですからね。(太田)
              
 ・・・新政府の中に近代日本の戦争の始まりとも言える日清戦争に反対した人がただ一人いたんですね。
 首相の伊藤博文に漢詩を届け「日清戦争は大義のない戦争でロシアとイギリスを利するだけと批判し、「氷川清話」には「一回勝ったぐらいでうぬぼれるな」「日本が逆運に会うのも相当遠くはない」と警告したといいます。
・・・ 以下引用・・・
 日清戦争はおれは大反対だったよ。なぜかって、兄弟喧嘩だもの犬も食わないじゃないか。たとへ日本が勝ってもどーなる。支那はやはりスフィンクスとして外国の奴らが分らぬに限る。支那の実力がわかったら最後、欧米からドシドシ押しかけてくる。つまり欧米人が分らないうちに、日本は支那と組んで商業なり工業なり鉄道なりやるに限るよ。
 いったい支那五億の民衆は日本にとって最大の顧客さ。また支那は昔時から日本の師ではないか。それで東洋の事は東洋だけでやるに限るよ。
 おれは維新前から日清韓三国合従の策を主張して、支那朝鮮の海軍は日本で引受くる事を計画したものさ。 略
勝海舟(江藤淳。松浦玲編)『氷川清話』講談社学術文庫、269頁。
 ・・・引用終了・・・

⇒勝は江戸で世子時代の斉彬と交流があったようであり、勝は、斉彬が偉い人物である、ということぐらいこそ分かっていたけれど、斉彬の思想の全体像も核心も、理解できるほどの知力は持ち合わせていなかった、ということでしょう。(太田)

 また、日本の公害の原点とも言われる足尾鉱毒事件の田中正造とも交友があり、「鉱毒問題は、直ちに停止のほかない。今になってその処置法を講究するは姑息だ。先ず正論によって打ち破り、前政府の非を改め、その大綱を正し、しかして後にこそ、その処分法を講ずるべきである。」と語り、海舟没後に田中正造に「知徳の臣、真の大忠」と言わしめている。

⇒ここだけはコメントを控えます。(太田)

 幕末の尊王攘夷思想は、日本を特別な国(神の国)とみなし、排他的ナショナリズムへ向かう危険を孕んでいたのだと思うが、勝さんは1863年すでに“日本・朝鮮・中国の東アジア三国が同盟して欧米の侵略に抵抗する”という構想を日記に記している。

⇒前にも記したように、勝のは、斉彬の思想のつまみ食いに過ぎませんでした。(太田)

 「脱亜入欧」の福沢諭吉は「『文明』の『野蛮』に対する戦争」として日清戦争を正当化したが、欧米の在り方そのものに批判的な勝さんは、晩年フィリピン独立をめざす活動家とも交流していたようだが、アジアはアジアとして生きる道を探るべきと考えていたようだ。

⇒斉彬も、そして、もちろん、福澤も、「欧米の在り方そのもに批判的」でした。
 なお、勝とアジア主義者達との決定的な違いは、彼が、アジアの識者達と儀礼的「交流」を行うだけで、直接現地を知ろうとはせず、「援助」を行うこともなかった点です。(太田)

 幕臣出身の勝さんが明治新政府の政策決定権を持つ立場ではなかっただろうが、どちらの考えが良かったのかは現在の私達には明らかなことだと思う。
 無血開城や公害への発言を見ても、国民の生命・生活をまず第一に考えるのが政治家の役割と思っていたのだろうし、外交に関する構想力も当時としてはかなり進んでいたのでは、と思う。

⇒勝による典型的な縄文人的発想であり、縄文人が最も弱いのが、軍事的素養と「外交に関する構想力」であることは、皆さん、ご承知の通りです。(太田)

 また、慶喜や旧幕臣のための活動を終生行う人格者でもあったようだ。

⇒勝は、私を公より重視した、と前に記したところです。(太田)

 その後、勝さんの心配した通りの道を日本は進んでしまい、アジアばかりでなく世界でも孤立してしまった感もあるが、ここらで日本開国を是非やり直してもらいたい!」
https://blogs.yahoo.co.jp/satomikimuraoffice/18463707.html

⇒その正反対なのであり、その後、日本は、(韓国を除き、)全非欧米地域で、タテマエにおいてもホンネにおいても、感謝され敬意を払われる存在となって現在に至っています。
 (御多聞に漏れず、司馬遼太郎史観に汚染されてしまってはいます(コラム#省略)が・・。)
 但し、日本が、その後、一種の鎖国モードに入ってしまっていて、開国をやり直す必要に迫られているのは、まぐれ当たりながら、この筆者の指摘通りです。(太田)

3 維新後日本における唯一の武士的集団であり続けた帝国陸軍

 (1)序

 「帝国陸軍」ではなく、「帝国陸軍と帝国海軍」の間違いではないか、というご指摘を受けることが予想されますが、日本で明治維新以降、勝海舟通奏低音とは対蹠的な、島津斉彬コンセンサスないし横井小楠コンセンサス(のみ)を信奉するという、高い志を維持し、勝海舟通奏低音ならぬ、主旋律を先の大戦の終戦まで奏で続けた集団は、帝国陸軍(だけ)であったというのが、私の見解です。
 (先の大戦における帝国海軍の判断ミスの連続や不甲斐ない戦いぶりを想起してください。
 海軍は、通奏低音を奏でる、ワンオブゼム諸集団の一つに堕してしまっていた、とさえ、私は言いたいくらいです。)

 (2)上澄み中の上澄みを擁した帝国陸軍

 既に何度か引用してきたけれど、岩畔豪雄が、「当時の陸軍士官学校のレベルは、海兵と東大よりも高かった。陸大での戦術の授業は全てゼミナール形式で、1週間に朝まで宿題にかかることが2~3日あった・・・。」
https://ameblo.jp/tsuyoshiwatanabe/entry-12158306860.html
と言っているところ、この「高」い「陸軍士官学校のレベル」は、陸軍幼年学校によって確保されたものである、というのが私の見立てです。

 今と違って、具体的入試データが殆ど存在ないのが残念ですが、証言、伝聞による、一高、陸士、海兵、の入学難易度に関する指摘には以下のようなものがあります。↓

一、「戦前は旧制中学卒業後海軍兵学校>陸軍士官学校>第一高等学校と進学人気がありました。」
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11135530821
 「「入るための難易度」なら、昭和初期の受験雑誌を見てみると、やや海兵の方が上かなと。・・・旧制第一高校(今の東大教養学部)、陸士、海兵、東京高等師範(今の筑波大学)が、大正後期〜昭和初期の難関ビック4です。
 ちなみに、この4つの学校すべてに合格することを「グランドスラム」と当時言ったらし<い。>」
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13165293078
二、「兵学校68期(昭和11年入校)の場合、288名中100名が中学校首席だったそうです。・・・
 昔は、成績一番の人は帝大、プラス体力一番で海軍兵学校、または陸軍士官学校でしょう。」
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1228878947
三、「昭和10年ごろまでは難関でした。しかし、軍備拡張につれ、受験生の質は下がりました。田舎の中学では、学年200人のうち、上位20人か30人までが合格圏だったという証言があります。一高、三高は5番ぐらいまでかな。昭和10年以降は50番、100番と急降下したようです。都市部では、軍人の子弟以外には志望者はほとんど居なかったと思います。」
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13165293078 前掲

 以上の最大公約数は、次のような感じです。
その一:海兵>陸士
その二:一高の位置付けはむつかしい。
その三:戦前昭和中期から、(採用数の増加、及び、所得の増加/縄文化更には戦死可能性の増大(太田)により、海兵、陸士の平均はもとより、恐らくは上澄みも、一高に比べて低くなったと思われる。
 岩畔の念頭には「その三」はなかったと想像されるところ、「その一」、「その二」、にもかかわらず、岩垂が陸士が一番であると言い切れたのは、体感的に、かつまた、データのある陸士の卒業成績から、彼が、(同列での比較の対象たりえないところの、)幼年学校出身者が陸士の中で突出的に成績が良かったことを知っていたからではないか、と、いうのが私の推測です。
 さて、その陸軍幼年学校では、一体、いかなる教育が行われていたのでしょうか。↓

 「・・・陸軍幼年学校とは一口で言えば「陸軍の中学校」である。陸軍将校を養成する陸軍士官学校(予科士官学校)へ入学するためには、旧制中学(4年終了もしくは、5年卒業)を経るか、陸幼(3年)を卒業する必要があった。そして陸幼に入学するには、旧制中学の1年もしくは2年終了の資格が必要であった。つまり年限から言えば、旧制中学卒業と陸幼卒業は同じである。・・・
 明治3年11月築地の海軍操練所が海軍兵学寮に改称、大阪兵学寮を陸軍兵学寮に改称し東京に移転。同5年6月に士宮学校と幼年学校を設置した。明治8年兵学寮幼年学校は「陸軍幼年学校」となる。しかし明治10年1月廃止され、士宮学校の幼年生徒(年限3年) となる。明治20年独立して陸軍幼年学校となる。(その間、戦死将校の子弟などの官費生徒とその他の自費生徒の制度などできる。)これは後の幼年学校と区別して旧幼年学校 (15才以上18才未満の高等小学校卒程度志願者を選抜し、3年間教育)と呼ばれる。・・・
 この時点で幼年学校は軍人遺族の子弟を官費で教育する性格に、軍人の家計を考慮した半官費による軍人子弟の育英機関という性格を加え、陸軍自前の特殊な尋常中学となった。そこでは、普通学が優先され、軍事教育は専ら精神を鍛錬し軍人たる志操と器量を具備することを基本とした。この制度は明治32年まで続く。
 明治29年(1896.515)の勅令により、旧幼年学校(3年)の中央幼年学校(2年)への改組と、 六つの地方幼年学校〈3年)の新設の大改革が行われた。すなわち東京に陸軍中央幼年学校、東京、仙台、名古屋、大阪、広島、熊本に陸軍地方幼年学校の設置である。開校は明治30年、前者は大正9年に陸軍士官学校予科に、また昭和12年陸軍予科士官学校として独立した。後者は、大正9年(1920)に陸軍幼年学校に改組されるが、軍縮等の理由で大正11年大阪をはじめ順次廃校となり昭和8年には東京一校のみとなった。
 昭和6年の満州事変以降は1期50名の体制から順次増員され、昭和9年には150名体制となった。廃校となった五校も昭和11年以降順次復興され同17年には六校にもどるが、昭和20年に敗戦とともにその歴史を閉じた。・・・
 五校の廃校などは単に軍縮だけが原因ではなかった。明治末期から大正前期にかけ士官学校内での陸幼出身者と中学出身者の反目が屡々問題となり、陸幼の存廃論争に拍車をかけたようである。存続を主張する意見の代表的なものに次の陸幼の必要性の主張がある。大正11年7月(1922)に教育総監部の通牒「幼年学校ノ必要ニ就テ」・・・の中に記載された第一の理由は次のとおりである。
 「陸軍将校たるの薫陶は之を幼少時代より行ふを要す古来わが国の武士道の教養は其家庭教育より始まれり即ち武門に生まれたるものは三尺の童稚にして既に忠孝仁義の道を開き廉恥名誉質素等の観念を深刻に教養せられ成童に至る前早くも一廉の武士的精神を扶植せ将校は軍られたり・・・そもそも 隊の禎幹にして指揮官たり将た教官たり故に之に要する徳望識量なかるへからす殊に尽忠報国の至誠並に高潔なる品性の如きは純潔無垢の幼時より之に適応する環境内に於て根本的に之を教養するの有利なることは 何人と錐も首肯する所にして是れ我陸軍に幼年学校を必要とする所以なり」陸軍幼年学校の必要の理由については、この通牒に更に延々と続くのであるが、その最後の方・・・で、廃止論への反論を次のように三つあげている。その要点を紹介する。
一、我国には古来特有の大和魂あるが故に、長年月の薫陶不要の説
 欧州大戦に於ける欧米の諸国民就中貴族富豪並に知識階級の発揮した旺盛な愛国心犠牲的精神をみると我大和魂の唯我独尊的自負を許さずと事例を多数あげて反論している。
二、海軍に幼年学校はなく、しかも所期の目的を達成しているとの説
 海軍士官は任官後はほとんど艦内勤務で社会と隔絶し、常に艦艇と運命を共にして、平戦を間わず戦時同様の緊張下にありかつ常に先輩上級者の指導薫陶に裕し得るので、その徳操の鍛錬陶冶に効果あること陸軍の比にあらず。陸軍は任官後は常に社会恩瀬の影響を受けやすく平時の環境でも海軍とは比較できず、まして戦時は広範な地域に屡々孤立して勤務し、離散して活動し常に敵火にさらされ、赤裸々の身で戦場を馳駆する故に、往々未練に陥り易きことあり。また海軍は戦時動員<体制>のため平時教養せる精鋭な将卒だが、陸軍は大部分が在郷軍人であるため、骨幹たる現役将校は十分な精神修養を必要とする。
三、幼時より実社会と隔絶、軍人予備教育をするのは心身の発達を限害しないかの説
 軍人予備教育即ち軍隊式教育とみなすのは誤りである。実社会との接触も訓育者が適当に監督指導できるし日常の常識なども教えられる。教育当事者の能力も向上しているし、教育も適度な規律のもと、専ら心身の発達を期して寛厳よろしきを得ている。・・・
 学校生活・日課の概要は、前掲書「我が武寮」の例示を要約・追記すると次のとおり。
6.00 起床、日朝点呼、神社参拝、遥拝、軍人勅諭奉読(5.30も)
6.45 朝礼、朝食(3年2年1年混合食卓)7915 自習 7.50 服装検査
8.00 学科一 9.00 学科二 10.00 学科三 10.50 休憩 1110 学科四
1210 昼食、休憩・診断
13.00 学科五(学科は教授部第一~五授業と称す)
14.05 術科一 15.10 術科二(剣道、柔道、教練、体操などの術科を訓育部授業と称す)
16.00 随意運動 16.50 手入又は第一入浴
17.30 夕食 18.00 休憩(号令調声・軍歌演習)又は第二入浴
18.40 第一自習又は第三入浴
19.30 第二自習 20.20 第三自習
21.00 五誓、日記、日夕点呼
21.30 消灯(2100や22.00も)・・・

⇒術科↑とは、要するに体育(スポーツ)であること↓を銘記すべきでしょう。(太田)

 教育総監部の通牒「幼年学校ノ必要ニ就テ」大正11年7月〉に、「作戦上並びに軍事上必要なる独、仏、露語等の外国語は幼少の時機より其所要人員を陸軍に於て教育するを要す」・・・とあり、ほとんどの中学で英語を教えているがこれら諸外国語を教えていないので、陸軍としてはこれら諸外国語を幼時より教育する必要がある<。なお、英語は中学卒業の<要件>だとしている。つまり<中学卒の>生<徒>が既習して<陸士に入って>くるので陸幼では別の外国語の教育をするとの考えであった。<し>かし、・・・英語を中学卒業者にまかせたのは、明らかに間違いだったと思われる。・・・
 訓育部授業と称された軍事上の教育は武官である生徒監が担当された。内容は剣道、柔道、教練、体操などであり、これは中学校の教科と変わりは無かった。むしろ陸幼の方がゆっくりしていた。たとえば銃の所持は1年生には無かった(銃剣のみ兵器として交付)し、武道は先ず基本の型(剣術は防具をつけ、竹刀を使ったのは素養検査の時一回のみ)だけであった。なお教練は意外に少なく初歩的だったが、生活そのものが教練であったからか。

⇒全寮制であったこと、体育の授業が多かったこと、体育の教官や舎監が軍人であったこと、を除けば、陸幼は、一般の旧制中学と何ら変わりがなかった、ということです。(太田)

 以上の二つの授業に加えて全寮制を通じての軍事上の教育すなわち「軍人精神の涵養」が第三の精神教育の授業として大きな特徴として存在した。・・・

⇒何ということはない、陸幼は、(最も優秀な生徒達が集まったということを含め、)英国のパブリックスクールと生き写しだった、換言すれば、陸幼こそ、明治維新以降の日本において、唯一存在したパブリックスクールであった、ということです。
 また、陸幼は、明治維新以降の日本における、唯一の藩校(武士養成機関)でもあった、とも言えそうです。
 陸士や海兵だけで教育を受けた者は、せいぜい、(非アングロサクソン世界における)近代軍人にしかなりえなかった、と、私は思います。(太田)

 <ところで、>栗林忠道、今村均、本間雅晴・・・の三人の将軍が良識派であり、陸軍大学卒業でありながら、軍の中枢では遇されていないのは、陸幼出身ではないからだ<、との意見がある>。

⇒「良識派」は意味不明ですが、それはともかく、今村に関しては、陸大首席卒の後、軍務局歩兵課、参謀本部員、軍務局徴募課長、参謀本部作戦課長、陸軍省兵務局長、教育総監部本部長、を歴任しており、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E6%9D%91%E5%9D%87
また、本間雅晴は、陸大3位卒の後、参謀本部支那課、陸軍省新聞班長、参謀本部第二部長、を歴任しており、「軍の中枢で遇されていない」とは言えないので、そもそも、議論の前提が間違っています。
 (但し、この3名中、栗林忠道だけは、陸大次席卒業の割には、「軍の中枢では遇されていない」と言えそうですが・・。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%97%E6%9E%97%E5%BF%A0%E9%81%93 )(太田)

 また本間、今村はイギリス、栗林はアメリカと、三人とも英米を見ている。陸幼は大正期まで英語を教えていないから、陸幼出身のエリートは英米に行っていない。陸軍の中枢に英米を知る人がいなかったのは大問題だった<、という意見もある。>・・・

⇒一般論としては、土地勘がない国や地域について的確な理解をすることは困難なのですが、島津斉彬や杉山元や原嘉道(コラム#10081)らの例を見れば明らかなように、知力が日本のトップクラスともなると、土地勘などなくても、どこの国や地域であれ、少し知識を仕入れれば、的確な理解をすることが可能なのであって、このような意見は、必ずしも成り立ちません。(太田)

 英語を中学出身者<・・彼等には陸幼でも教えたし、更に陸士でも教えた(太田)・・>にまかせず、陸幼でも<全員に>教えるべきであったし、陸幼出身者も英米の駐在武官にすべきであったのである。

⇒繰り返しますが、私は必ずしもそうは思いません。(太田)

 しかし、明治期後半から大正初期に連続して起きる陸軍幼年学校廃止論(中学校でよいのではないか)に対抗するには、陸幼の独自性、必要性の強調として、英語以外の諸外国語の幼年期からの教育を特徴化せざるを得ない陸軍の立場もあったであろう。この立場もあって、陸幼に英語の教科の新設が遅れてしまったのではないかと思う・・・」
http://www.geocities.jp/shonan_fuminokai/kituwa.pdf

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[戦前の歴代首相]

 戦前は、途中まで、武士、または、武士教育を受けたものばかりが続いた・・西園寺は武士もどき・・ところ、高橋是清からそうではなくなったけれど、今度は陸海軍出身者が首相に就任するようになった。
 このうち、陸軍出身者の大部分は武士的教育を受けた者達であったのに対し、海軍出身者は単なる近代軍人教育を受けた者達であったところ、いずれにせよ、明治維新以降、終戦までの日本の首相の大部分が武士または武士教育を受けた者、ないしは武士的教育をうけたか近代軍人教育を受けた者であったわけだ。
 (ちなみに、あくまで主観的な目見当だが、戦前の全首相のうち、島津斉彬コンセンサス信奉者は17代、横井小楠コンセンサス(のみ)信奉者は22代、その他が1代、といったところか。)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E9%96%A3%E7%B7%8F%E7%90%86%E5%A4%A7%E8%87%A3%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7
 これは、彼らが日本の選良中の上澄みだったからこそだが、海軍出身者達に関しては、陸軍出身者達に並びで引き上げてもらった、という見方もできそうだ。
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             –朝鮮論III–朝鮮亜文明–

0 始めに

 「朝鮮論I–羈縻国–」(改題)(コラム#9202)、「朝鮮論II–朝鮮半島史の分水嶺–」(コラム#9510)、に引き続き、「「757年12月に」<新羅の>景徳王(?~765年。在位:742~765年)<が、>「<新羅>全国各地の地名を固有語から<支那>風の漢字2文字に変更した」結果として生まれたところの、日本文明でも支那文明でもない、さりとて、独立した文明と言えるほどの実態のない、朝鮮の「文明」を「朝鮮亜文明」と名付けることとし、いわゆる、朝鮮半島の住民達の「国民」性を、この亜文明によって説明することを試みたいと思います。(注1)

 (注1)過去コラムの関連個所を振り返っておく。
 「両班精神とは、李朝時代の支配階級の精神であり、「文を尊び武を卑しむ気風、激しいイデオロギー闘争、政敵との容赦ない闘い、それに実務軽視・・等々」・・・を特徴としていました。これは、アングロサクソン的スタンダードに合致した「戦前」の日本的精神である「文武両道を尊ぶ気風、事実と論理による議論、和の精神、それに実務重視・・等々」とは対照的な精神でした。
 戦後の韓国では、日本の朝鮮半島統治の間ずっと海外で独立運動に携わり、両班精神をそのまま抱き続けていた李承晩が、1948年から12年間もの長期にわたって大統領として君臨したことによって、「政治・経済・社会の危機ないし歪み」が復活してしまうのです。
 李政権は、ついに一度も経済計画を立てようとせず、このこともあって韓国の経済は低迷を続け、しかも防衛努力も怠ったため、北朝鮮に侮られ、北朝鮮が韓国併合のための朝鮮戦争を起こし、韓国民は塗炭の苦しみを味わいます。
 このような韓国の状況に危機意識を抱いていた旧日本帝国陸軍士官であった軍人朴正熙は、1961年にクーデターを起こし、1963年には大統領となり、爾来1993年までの30年有余にわたって、全斗煥、盧泰愚と日本的精神を身につけた軍人達の政権が続き、この間、日本との国交回復に伴う日本からの経済援助や日本との経済交流のおかげもあり、韓国経済は奇跡的な高度成長をとげるのです。
 他方、李承晩政権が路線を敷いた両班的教育の影響を強く受けた人々は野党に結集し、軍事政権批判を続けました。
 韓国が、またもおかしくなるのは、1993年に野党勢力が政権を奪取し、文民政権が復活してからです。」(コラム#404)
 「朴正熙・・・は、・・・次のように言っています。
 わが・・歴史は、一言でいって、退嬰と粗雑と沈滞の連鎖史であった。・・・
第一に、われわれの歴史は・・常に他人に押され、それに寄りかかって生きてきた歴史である(「事大主義」及び「文尊武卑」のこと(太田))。
第二に、・・李朝は・・党争・・に明け暮れているうち、亡国の悲運を味わうことになった・・
第三に、われわれは自主、主体意識が不足していた。われわれの・・哲学・・文化・・といえるものがあるか・・ハングル<と>高麗磁器<しかない。しかも高麗磁器は、>貴族達の趣味にとどまっているだけであった<し、>途中から命脈が切れ<てしまった。>
第四に、経済の向上に少しも創意的な意欲がなかった・・・
 <また、>朴は、韓国人や韓国社会の特徴として、利己主義・傍観主義・虚勢・党派意識・特権意識・自主精神の欠如・民族愛の欠如・開拓精神の欠如・企業心の不足・アイデアの不足・退廃した国民道徳・怠惰と不労所得観念・奴隷的な屈従の固まり・法よりも腕力の強い者が勝つ世の中・弱く金もコネもない者は生きていけない不平等社会・「姑息」「怠惰」「安逸」「日和見主義」に示される小児病的な封建社会・「情実人事」「猟官運動」「貪官汚吏」「不正蓄財」が当然と考えられる価値が転倒した社会・等々、罵倒に近い言葉を書き連ねています」(コラム#405)

 ちなみに、中共当局・・と言ってよいでしょうが・・は、韓国の「国民」性について、以下のように記しているところです。↓

 「・・・今日頭条は・・・「韓国特有の国民性はどうやって形成されたのか」とする記事を掲載した。
 記事は、韓国の国民性を「無恥自己卑下型で横柄」としたうえで、4つの点を挙げてその性質の背景について論じている。
 まず「韓国の歴史研究を行ううえで、中国の歴史を参考にしないわけにいかず、自国に対する強い独立感を持っていない。
 それゆえに焦りを持っているのである」とした。・・・
 次に、中国が急速に発展して韓国を軽々と超えていき、無視すらできるようになったことに対する焦りを挙げている。・・・
 続いて「韓国は古代より小さな属国だったため、自信がない。
 そして、歴史、資源、世界的な地位などあらゆるものが不足するなかで、手段を選ぶことなく自分の物であることを主張する。
 小国は永遠に大国になる方法を理解できない」と論じた。
 そして最後に「韓国は歴史的にいじめられ続けてきたため、またいじめられるのではないかと常にビクビクしている」としている。」
http://news.searchina.net/id/1633202?page=1
(2017年4月10日アクセス)

1 日本文明からの離脱

 (1)縄文性の放棄

  ア 仁政の消滅

 757年12月に地名の支那化という、(人間主義の)日本文明から(非人間主義の)支那文明への意識的乗り換えを新羅(朝鮮)が行った(コラム#9510)結果、朝鮮亜文明が成立し、何が起こったかを集約的に示しているのが、仁政の欠落です。

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[仁政抜きの「名君」達]

 対象を李氏朝鮮に絞ると、「名君といえるのは世宗・英祖・正祖」と相場が決まっている
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12184789932
ようなので、話をこの3名に絞り、彼らが、到底、「名君」の名に値しないことを説明しよう。

●世宗

 「儒教の理想とする王道政治を展開したとして、朝鮮王朝における最高の聖君と評価されている」李氏朝鮮の第4代国王の世宗(セジョン。1397~1450年。在位:1418~50年)の最大の正の事績は「ハングル(訓民正音)の創製」だが、日本で言えば、漢字を元にした平仮名や片仮名の自然発生
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E4%BB%AE%E5%90%8D
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%87%E4%BB%AE%E5%90%8D
が仁政と直接関係がないことと同様、そんなことは、仁政とは直接関係のない事績に他ならない。
 (ハングルの「創製」に対するに平仮名/片仮名の「自然発生」の違い、や、成立時期の違い、そのものも興味深いのですが、立ち入らない。)
 また、「女真族の土地を奪って朝鮮族を入植させて版図を広げ、国威を高めた」ことについても、仁政とは直接関係がなかろう。
 他方、苛政と評価すべき事績は、以下のように数多ある。↓

 「貢女の黙認<(注2)>、日本への侵略である応永の外寇<(前出)の失敗や仏教の統制・弾圧、李氏朝鮮の朝鮮朱子学への極端な傾倒<の開始>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E5%AE%97_(%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E7%8E%8B)
 (↑世宗に係る事実関係はこれに拠った。(以下、各国王についてもそれぞれのウィキペディアに拠った。))

 (注2)「<支那>から貢女を選抜する使臣が訪れると、朝鮮では選抜機関を設置して、巡察使が各地を物色したが、民衆は激しく抵抗し、貢女候補になるや、娘の顔に薬を塗り傷を付けケースや出家させるケースもあり、幼児を嫁がせることまであったという。そのため、李氏朝鮮時代には「12歳以下の女子については婚姻を禁ずる」法令を下した。李氏<世宗の父たる先代>朝鮮王の太宗8年には、処女30人が選抜されたが、<支那>の使臣は「美しい女がいない」として罰しようとし、娘たちも指名を避けるため、障害があるかのように装い、太宗は「処女を隠した者、針灸を施した者、髪を切ったり薬を塗ったりした者など、選抜から免れようとした者」を罰する号令を下した。世宗は、「国内の利害のみならず、外国にも関係することなので、ただ(<支那>皇帝の)令に従うのみ」と述べた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%A2%E5%A5%B3

 応永の外寇は、まだ存命で実権を握っていた「上王である太宗<が>、・・・対馬遠征を決定<し、>世宗に出征を命じた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%9C%E6%B0%B8%E3%81%AE%E5%A4%96%E5%AF%87
ものではあっても、あくまでも世宗の事績であるところ、彼が、部下の軍人達の情勢把握の甘さと作戦の拙劣さに衝撃を受け、その改善に取り組んだ形跡はない。
 また、世宗が亡くなる前年の1449年には、親征を行った、明の正統帝(英宗)が、オイラトのエセン率いる軍勢に大敗し、捕虜になるという土木の変が起こっている
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E6%9C%A8%E3%81%AE%E5%A4%89
が、世宗が、この宗主国の体たらくに危機意識を抱いた、という気配もまたない。
 こんな「名君」を理想化した、彼の後継諸王が、世宗同様、仁政とは無縁でかつ軍事に無関心であり続けたために、次の世紀後半に、日本の朝鮮侵攻(文禄・慶長の役)の時に人民達はそっぽを向き、朝鮮の国土と人民達は蹂躙されてしまう(典拠省略)のだ。

●英祖

 「李氏朝鮮の歴代国王の中で最長の在位期間(52年)であった」、第21代国王の英祖(1694~1776年。在位:1724~1776年)<は、>・・・民が兵役の代わりに税金として納める布帛を2疋から1疋に減らす均役法を実施して国民の税負担を大きく減らし、国家に対する義務を身分に応じた負担とした。また朝鮮通信使・・・が<日本から>持ち帰ったサツマイモを、凶年の際には主食の代用とできるようにした。
 学問を好んだ英祖は自ら書籍を執筆するだけでなく、印刷術を改良して多くの書籍を刊行・頒布させ・・・た。・・・数多くの書籍を編纂した他、『・・・著書<も二つあ>る。英祖のこのような実際的政策の影響で、朝鮮は・・・実学が育ち始め、正祖の代には「朝鮮のルネサンス」と呼ばれるほど<実学が>大きく成長することとなる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%B1%E7%A5%96_(%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E7%8E%8B)
 彼は、「国防の強化や苛酷な刑罰の禁止、減税や庶民の官吏登用試験などで、どんどん成果を上げていった。朝鮮王朝では厳しい身分制度が続いていたが、その中で少しでも人権に配慮した政策が行なわれるようになったのは英祖の功績だ。
 彼のような博愛主義的な王は今まで存在しなかった。」
http://syukakusha.com/2016/04/27/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E7%8E%8B%E6%9C%9D%E3%81%8A%E3%82%82%E3%81%97%E3%82%8D%E4%BA%BA%E7%89%A9%E5%88%97%E4%BC%9D%EF%BC%88%EF%BC%94%EF%BC%89/ 

 上の記述を読んで、仁政を行った国王が、少なくとも1人はいたではないか、と思った人がいたかもしれないが、私の見解は異なる。

 「英祖の健康悪化のため、<英祖の息子の>荘献世子は1749年から代理聴政をとるようになったが、・・・2人は対立した。
 遂に1762年、英祖は荘献世子を廃世子するとともに自決を命じ、世子は米櫃に閉じこめられ餓死した(壬午士禍)。
 ・・・英祖<は、>・・・のちにこれを<ひどく>悔やんだ」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%B1%E7%A5%96_(%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E7%8E%8B) 前掲

 しかし、この悲劇の種は、そもそも、英祖自らが蒔いたものだ。↓

 「荘献世子<には>・・・兄がいたが、早くも逝去し、弟という理由で2歳で王世子に冊立され<たのだが>、・・・<反主流>派の学者たちから学問を学び、朝廷を掌握し<ていた主流>派と対立した。1749年 に世子が英祖の代理として政務を処理するようになると、<主流>派は貞純王后(英祖の妃)とともに英祖に讒言し、世子を陥れた。英祖との葛藤で世子の李愃は精神を病むようになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%98%E7%8C%AE%E4%B8%96%E5%AD%90

 こんな英祖が名君などとは到底言えまい。
 私の見立ては、英祖は、物心ついた時から、一貫して、生命の危険を感じ続けるという、究極的ストレスに晒され続け(下掲参照)、あらゆる人に対して八方美人的に接することで、この究極的ストレスを緩和する、という生き様を続けた、というものだ。↓

 「生母・淑嬪崔氏は宮廷のムスリ出身(雑事を担当する下女)とされる説もあるが、針房(チムバン・・・)に所属していた。 生母が賎しい身分のため、<後の英祖>は同じ王子ながらも世子である異母兄<(後の)>景宗・・・とは全く違う周りの慇懃な蔑視を受けながら育った。
 王世子<(後の景宗)>は14歳の時に母禧嬪張氏が賜薬を受けて殺されたのを見た後、病気となり、粛宗からも冷遇されていた。
 王世子に子がなかったこともあり、粛宗は景宗の跡を<後の英宗>に継がせるよう左議政 李頤命に命じた。
 これにより王世子を支持する少論<(後の少数派)>と<後の英宗>を支持する老論<(後の多数派)>の間の権力争いが激しくなった。
 1720年に王世子が即位した後、<後の英宗>を王世弟に冊立しようという建議が出されたが、<後の英宗>は王世弟位を繰り返し辞退した。
 結局1721年に王世弟に冊立され、1724年8月に病弱だった景宗が薨去するとそのまま王位を継ぐこととなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%B1%E7%A5%96_(%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E7%8E%8B) 前掲
 <自分にとって、唯一、心を許すことができた実母に対し、父王が晩年冷たい仕打ちをしたことは、英祖のストレスを一層高じさせたことだろう。↓>
 「粛宗37年(1711年)6月22日、粛宗は淑嬪崔氏を淑嬪房から息子<である後の英宗>の居所へと移し、母子で暮らすよう御命を下す。<彼女は、>1716年ごろから急に病がちになり、私邸で療養していたが、 1718年3月<後の英宗>の私邸で亡くなる。享年49。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%91%E5%AC%AA%E5%B4%94%E6%B0%8F

 英祖が仁政もどきを行ったのも、民衆に対しても八方美人的に、その歓心を買い、一揆等の頻発による世情の不安定化を利用した、クーデタ等を防止するために過ぎなかった、のではなかろうか。
 こうして、溜まりに溜まったストレスが、実子に対して八つ当たり的に噴出した結果が、上掲の虐殺死であった、と。
 その英祖の治世の間にも、ロシアという、従来の中華世界にとっての夷狄とは質の全く異なる、外敵が、大中華と小中華に向ってひたひたと迫ってきていたわけだ(注3)が、当然のことながら、そんなことに英祖が関心を示した形跡は皆無だ。

 (注3)ネルチンスク条約(1698年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8D%E3%83%AB%E3%83%81%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%AF%E6%9D%A1%E7%B4%84
    キャフタ条約 (1727年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%95%E3%82%BF%E6%9D%A1%E7%B4%84_(1727%E5%B9%B4)

●正祖

 正祖(1752~1800年。22代国王:1776~1800年)は、次のような人物だ。↓

 「封建的特権を弱体化し中央政府の地方統制力を高め、王権を強化するための政治・経済改革に着手した。・・・、党争を避け<させ>るよう努力し、外戚勢力をはじめとする既得権勢力・・・を排除、弱体化し、親政体制の構築に努力した。
 また・・・自らは超越的な統治者として君臨しつつ、師として臣下を養成、再教育した。1776年4月には首都漢城に文芸、学問の振興のための奎章閣を設置した。ここには、<支那>、朝鮮の典籍が収蔵され、正祖を支持する文官の精鋭を選んで親衛勢力を形成し、・・・文化政治を標榜するとともに、朋党の肥大を抑制し、人君を補佐できる強力な政治機構として育成した。・・・
 先代王であり祖父である英祖の頃から、思弁的な朱子学から現実的な実学<・・後出[実学 (朝鮮)について]参照・・>重視の風潮が高まり、「実学派」と呼ばれる人々が登用されるようになった。・・・
 従来は官吏になれない庶子も官吏として認められるという新しい動きもあった。
 このような治世の雰囲気は中人(両班と常民の間の中間層)以下の平民まで影響を与え、正祖時代は両班はもちろんのこと、中人、庶子とその子孫(庶孼)、平民層に至るまで文化に関心を持ち、文化が大きく花開いた時代となり、正祖はハングルを創始した世宗と並ぶ好学の王としての誉れが高い。
 正祖は暗行御史をしばしば派遣して地方の問題点の直接把握、解決に努め、これをもって地方士族の郷村支配力を抑制し、百姓<に>対する政府統治力の強化を図った。
 また王室直属の親衛隊である壮勇営を新設し、党争で堕落してしまった「五軍営」の各軍営の独立性を弱体化させて兵権を掌握することで、王の最高統帥権を実質的に行使することができるようにした。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E7%A5%96

 この正祖・・島津重豪とほぼ同世代人
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E9%87%8D%E8%B1%AA
・・、日本の蘭癖大名ならぬ、清洋日癖国王、といった趣ですが、いかに、この時点で、朝鮮の選良達が日本の選良達に比して、関心の焦点を絞り切れていなかったかが分かろうというものだ。
 そのことが一層はっきり分かるのが、正祖の安全保障への無関心ぶりだ。
 日本では、早くも、「工藤平助<が、>・・・<朝鮮ではこの正祖の治世中の>天明元年(1781年)4月<に、>、・・・『赤蝦夷<(ロシア)>風説考』下巻を、天明3年(1783年)には同上巻を含めてすべて<、>完成させ<ているというのに・・>。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%A5%E8%97%A4%E5%B9%B3%E5%8A%A9
 しかも、正祖の晩年には、清で白蓮教徒の乱(1796~1804年)が起こっており、これは正祖の死後の話ですが、乱を「鎮圧はしたものの<清>政府がこの反乱に費やした巨額の費用は国庫を空にしてまだ足りず、増税へと繋がり、社会不安を醸成していった。また満州族の軍隊である八旗が弱体化を露呈し、漢民族の軍隊である郷勇・団練に頼らざるを得なかったことは、清朝の威信を失墜させ、少数派である満州族による多数派の漢民族支配への不安を抱かせた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E8%93%AE%E6%95%99%E5%BE%92%E3%81%AE%E4%B9%B1
という体たらくからして、正祖の存命中にも、宗主国たる清の弱体化が見て取れたはずなのに、彼が何の問題意識も持った気配がない、ときている。
 ところで、下掲のような指摘がある。↓

 「・・・1863年に高宗が王位を継ぎ、父の<興宣>大院君が権力を握った。10年後に大院君が失脚して高宗が親政した後、最初に取った措置が、父の政策を一つ残さず全て覆すことだった。こうした措置について、江華島の守衛を担当していた鎮撫(ちんぶ)営長官が「国防の弱体化を招きかねない」と主張したところ、即座に辞めさせられてしまった。その結果、丙寅(へいいん)の役(1866年)、辛未の役(1871年)による外侵にも耐え抜いた江華要塞が、日本の侵略(1875年)にもろくも崩れ去ってしまったのだ。ある海外の研究者は、朝鮮王朝亡国の原因の一つに前政権の政策をいとも簡単に覆してしまう無残な行為を挙げた。
 韓国大統領の不幸は、憲法と法律、制度と運営方式、政治文化と慣行、大統領の人格などの要因が複合的に作用した結果だ。一挙に改善できるなら、これ以上望むことはないが、それは不可能だ。「一気に」が難しければ、「段階的にでも」進めていくべきだろう。・・・」
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2017/04/07/2017040701672_3.html
(2017年4月9日アクセス)

 正祖は、この端緒を作った、とも言えるのではなかろうか。
 「正祖<が>・・・封建的特権を弱体化し中央政府の地方統制力を高め、王権を強化するための政治・経済改革に着手した<のは、>・・・父の死を招いた仇であり、与党でもあった<多数>派を極度に嫌悪した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E7%A5%96 前掲
からこそだったのだから・・。
 ちなみに、正祖(22代)と、李氏朝鮮最後の元首たる高宗(26代)、との関係は、下図の通りだ。

荘献世子━━━┳懿昭世孫

    ┣22代正祖━23代純祖━孝明世子(翼宗)━24代憲宗
       ┃
       ┣恩彦君━全渓大院君━25代哲宗      閔妃
       ┃                     ┃
       ┣恩信君━南延君(養子)━興宣大院君━26代高宗
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%94%E7%A5%96

 正祖から高宗、つまりは、李氏朝鮮滅亡まで、一瀉千里、という感じではないか。

 結論的に申し上げれば、朝鮮では、仁政が、真の意味で政治システムの目的となったことがなく、その政治システムの目的は、政治システムの上層部に位置する者達の権力、または、富、の維持・増進、に堕したまま推移した、ということだ。
 もっとも、そうではない、文明など、日本文明以外ではアングロサクソン文明だけと言ってもいいくらいなので、朝鮮亜文明について、この点であげつらうのは、いささか気の毒なのかもしれない。

参考:世界の主要諸文明に於ける仁政の欠如

〇支那

 「貞観政要(じょうがんせいよう)は、唐代に呉兢が編纂したとされる<、>唐の太宗[(598~649年。皇帝:626~649年)]の政治に関する言行を記録した書で、・・・貞観の治という非常に平和でよく治まった時代をもたらした治世の要諦が語られている」のだが、その内容の例示を読んでも、仁政的な話は出てこない。
 例えば、創業と守成の困難性を比較した箇所で、守成について、ある重臣が、「人民が平穏な生活を欲していても、労働の義務を課せられ<ると>、休むことができなくなります。<こうして、>人民が弱り衰えても、国の無駄な仕事のために安息はありません。国の衰退は常にこのようなことに起因します。」と述べたという
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%9E%E8%A6%B3%E6%94%BF%E8%A6%81
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%AE%97_(%E5%94%90) []内
が、これは、単に、労役・・税と言い換えてもよかろう・・は重すぎると国を衰退させてしまう、と言っているだけのことであり、彼らにとって、人民の福利は国政の手段であって国政の目的とはされていないことが明らかだ。

〇イスラム

 「『千夜一夜物語』などで全盛期のアッバース朝に君臨した偉大なる帝王として語り継がれている・・・ハールーン・アッ=ラシード<(Harun al-Rashid。763~809年)>」については、「文化の面では学芸を奨励し、イスラム文化の黄金時代の土台を築いた」とは言えても、仁政に係る話は全くない。
 それどころか、「対外的に絶頂を極めた影で、帝国の内部は地方の反乱に悩まされ、アッバース朝は分裂に向かい始めていた。さらに、バルマク家の追放後はカリフの側近の軍人たちが権力を握り始め、のちのマムルークによる支配体制の端緒が見られるなど、この時代はアッバース朝の統一とカリフの支配力が緩み始め、衰退の兆候があらわれた時期でもあった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%83%EF%BC%9D%E3%83%A9%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%89
というのだから、「偉大なる帝王」と呼ぶことさえミスノーマーではないか、と言いたくなる。。
https://en.wikipedia.org/wiki/Harun_al-Rashid <>内

〇欧州

 「スイスの歴史家ヤーコプ・ブルクハルト<が>・・・「王座上の最初の近代人」と評した<ところの、>中世で最も進歩的な君主と評価され、同時代に書かれた年代記では「世界の驚異」と称賛された」フリードリヒ2世(Friedrich II。1194~1250年。皇帝:1220~1250年)に、仁政に係る話は全くない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%922%E4%B8%96_(%E7%A5%9E%E8%81%96%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E7%9A%87%E5%B8%9D)—————————————————————————————————————————————————————
[朝鮮の「実学」について]

 朝鮮の実学なるものについて詮索してみても、その実態は空しいようだ。↓

 「実学という名称は1920年代から1930年代になってつけられたもので、18世紀当時に使われていたわけではない。実学とは近代になって作られたフィクションにすぎないとする金容沃による批判<さえ>ある。・・・
 <いずれにせよ、>実学<的なもの>は<、>英祖から正祖の時代に盛んになったが、その後は弾圧され・・・<、とりわけ、せっかく「実学」者達が関心をそれについても持ったというのに、>西洋科学は禁止され<てしまった結果、>・・・ほとんど後世に影響を及ぼさなかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9F%E5%AD%A6_(%E6%9C%9D%E9%AE%AE)

 とはいえ、もう少しだけ紹介しておこう。↓

 「李瀷(りよく、1682-1763・・・)・・・は西学(漢訳された西洋の学問)研究を主導し、リッチ『天主実義』、ディアス『天問略』、アレーニ『職方外紀』に対する跋を書いた。・・・
 李瀷の門弟<の>・・・安鼎福(1712-1791)<は、>・・・山崎闇斎の尊皇思想を李瀷への手紙の中で評価した。・・・
 この学派でもっとも有名な人物は<李瀷の孫弟子の>丁若鏞(1762-1836)である。
 丁若鏞は・・・キリスト教に入信したが、1791年にキリスト教徒が祖先祭祀を廃止する事件(珍山事件)が起きるとキリスト教から離れた。・・・<彼は、>「日本考」を著して日本の古学を高く評価し、自らの『論語古今註』に伊藤仁斎、荻生徂徠、太宰春台らの説を引用した。1792年に上疏して城制の改革を主張し、正祖は『古今図書集成』に収録したヨハン・シュレック『奇器図説』を与えて研究させた。水原華城の築城のときに、挙重機と滑車を使って銭四万緡を節約したという。」(上掲)
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[火田民と禿山]

 朝鮮における仁政の消滅を象徴しているのが、火田民の存在とその結果としての禿山化の進行だ。↓

 「李氏朝鮮の苛歛誅求によって生活が困難になった農民が、管理の手薄な山間部に分け入り、焼畑を行ったのが火田民の起源である。
 朝鮮では、古来より山野は「無主公山」と呼ばれ、地元住民による一種の入会権が認められていたため無断開墾は罪とならず、森林破壊の害が顧みられることもなかった。
 19世紀末期までに、朝鮮半島南部にあった森林はオンドルの薪供給源として過剰伐採され、大半が禿山と化していた。そのため火田民は、それほど森林破壊が進行していなかった朝鮮半島北部の山林を中心に活動していた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%81%AB%E7%94%B0%E6%B0%91
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  イ 労働の蔑視

 仁政観念の消滅とコインの表裏の関係にあるのが、政治システムの中下層部に位置するところの、苛斂誅求の対象たる、概ね労働行為に従事している者達、への侮蔑意識であり、「両班<が>、李氏朝鮮の国教になった儒教の教えのもとに労働行為そのものを忌み嫌うようになった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%A1%E7%8F%AD
ということになってしまうのは、「儒教の教え」云云かんぬんに関わらず、ある意味必然であったとも言えるでしょう。
 これについては、欧州文明においても労働はバカンスや年金生活を享受するために必要となる苦役に過ぎないこと、また、アングロサクソン文明においてすら、戦争以外の期間における必要悪と見なされていたこと(コラム#省略)、を想起してください。
 この点では、労働を貴ぶ日本文明は、世界の全諸文明の中で、仁政観念が存在することと並ぶ、いやそれ以上の、例外中の例外なのです。

 (2)弥生性の放棄

  ア外交・安保音痴

 日本文明から支那文明に乗り換えたからといって、(縄文性と分かち難く結びついた、日本文明独特の弥生性こそ維持できないとしても、)裸の弥生性そのものが失われるとは限らない、というか、むしろ、裸の弥生性が強化されても不思議はないのですが、あろうことか、朝鮮は自ら弥生性を放棄してしまうのです。
 新羅が朝鮮半島初の統一王朝となった時点において、既に支那の冊封体制下に入っていた(注4)ところ、それ以来、高麗時代も李氏朝鮮時代も、その状態が、実に1000数百年にわたって続き、挙句の果てには清の時代に支那の羈縻国化してしまい(コラム#9202)、朝鮮が支那の完全家畜化したことによって、選良層が脳死状態になって、ガバナンスが失われるとともに、弥生性の放棄が完成した、というのが私の考えです。

 (注4)新羅の武烈王(602~661年。国王:654~661年)は、「即位直後に唐からは開府儀同三司・新羅王に封じられ、あわせて楽浪郡王を増封され」、唐の軍事的支援の下で百済の併合を成し遂げた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%83%88%E7%8E%8B
 ちなみに、これは、「高句麗と百済が唐と敵対したことで、唐は新羅を冊封国として支援」したもの。
 「武烈王<は、>・・・即位すると、たびたび朝見して唐への忠誠心を示し<、>・・・660年、百済が唐軍(新羅も従軍)に敗れ、滅亡する」が、武烈王の死(661年6月)の直前から、(広義の)白村江の戦いが日本との間で始まっている。(至663年)
 新羅は、その後、唐に反旗を翻しつつも再び冊封を受ける形で、唐が滅ぼした高句麗の旧地の一部を675年に併合する形で朝鮮半島統一(但し、現在の北朝鮮の南半分まで)を成し遂げている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E6%9D%91%E6%B1%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

 弥生性放棄の直接的帰結が、外交・安保音痴です。
 韓国の識者達も、この点に対する問題意識を抱いてはいます。↓

 「・・・日本ほど嗅覚と触覚が発達している国はない。世界の変化を迅速に感知し、細やかに接触して有利な方向に導く。殊に西洋人の心理を扱うことにかけては、驚くほど才覚がある。・・・」
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2017/05/04/2017050400469.html
(5月4日アクセス)
 「韓民族の統治エリートの遺伝子に「楽観のDNA」が刻み込まれているのは間違いない。危機を前にして、対策もなしに楽観論に酔う習性がある。壬申(じんしん)倭乱(文禄・慶長の役)の前、日本へ行ってきた通信使らから正反対の報告書が上がってきた。当時の朝鮮国王・宣祖は、侵略の可能性はないという方の報告書を採択し、国難を招いた。丙子胡乱(1636-37年の清による朝鮮侵略)のときも、6・25(朝鮮戦争)の前もそうだった。常に兆候はあった。なのに、いつも危険を無視して滅びの道を進んだのだ。・・・
 思い浮かぶのもまた「太陽政策」の楽観論だ。2001年に平壌を訪れた金大中(キム・デジュン)大統領は、北朝鮮には「核開発の意思も、能力もない」と語った。北朝鮮が核を開発したら、自分が責任を取ると断言した。盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領は、北朝鮮の核・ミサイルを「交渉用」だと弁護した。韓国を狙ったものではなく、攻撃用でもないと言った。・・・」
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2017/04/21/2017042101639.html
(4月24日アクセス)

 それが、日本との比較において、劇的なまでの違いとなって現れたのが、前にも取り上げましたが、17~19世紀にかけてのロシアの東漸に対する鈍感さであり、ここで改めて取り上げたいのは、19世紀後半におけるそれです。↓

 「1858年<の>・・・アイグン条約<で、>・・・ウスリー川以東の外満州(現在の沿海州)は<露、清>両国の共同管理地とされた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%82%B0%E3%83%B3%E6%9D%A1%E7%B4%84
 「1860年<の>・・・北京条約<で、>・・・アイグン条約では清とロシアの共同管理地となった地域・・・が、・・・ロシア領と確定された」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E4%BA%AC%E6%9D%A1%E7%B4%84
 ところが、哲宗(1831~64年。25代国王:1849~63年)の事績中にこの両条約への言及すらない!
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%93%B2%E5%AE%97_(%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E7%8E%8B)

 朝鮮は、支那に安全保障をぶん投げた結果 国内で「安んじて」放伐ごっこに興じ続けることになってしまいました。↓

 「日本では、国の最高権威。権力の源泉に位置する人物、が強制的に、武力によって廃位されるということは、基本にはなかった。
 <朝鮮>では、<支那とは違って、王朝そのものが転覆されることこそ少なかったけれど、>これが何度も<起き>るのである。」
http://rekisitan.hatenablog.com/entry/2016/04/17/184219

  イ 軍事の蔑視

 もともと、縄文文化的なものを日本列島の原住民達と共有していた人々が朝鮮に住んでいたと私は見ているわけであり、そうである以上、彼らは、おしなべて軍事が得手ではなかったはずで、そこに支那から弥生文化的なものを身に着けた、軍事が得手の人々が朝鮮と日本にやってきたけれど、その中でも、より探検心に富み軍事に秀でた人々が日本にまで赴いた可能性が高いことから、この時点で縄文性と弥生性からなる日本文明的なものを、日本と朝鮮とで共有するに至ったと考えられるところではあっても、そもそも、朝鮮の弥生性は日本のそれよりも弱かった可能性があります。
 (後出の囲み記事、[天照大神と八幡神]参照。)
 そんな朝鮮が、その後、支那式統治制度を継受したこと、と、支那の属国、ひいては羈縻国になったこと、とが相まって、朝鮮の人々の弥生性は、一層萎えることになったのではないでしょうか。↓

 「李朝国家の政治システムは、<支那>歴代の制度に由来するもので、頂点に絶対権力者としての王をいただき、その下に文官・武官の両官僚群が合議で政務をとり行う、高麗朝の儒教的な官僚体制を踏襲したものだった。ただ、文治主義と中央集権制が<支那におけるよりも>極度に徹底されていた点に大きな特徴があった。・・・
 官僚には文官(文班)と武官(武班)があり、合わせて両班(ヤンバン)と呼ばれた。しかし李朝は極端な文治主義をとっており、武官は文官に対してはるかに劣位な状態におかれていた。全軍の指揮権を司る責任機関の長にも、地域方面軍の指揮将官たちにも高級文官が就任し、その他の高位の武官職もことごとく高級文官によって兼任されていた。・・・
 武官には事実上政府要人への道が閉ざされていた。そして儒教的な文治主義の立場から、外国との間に生じる諸問題の解決は、可能な限り政治的な外交によって処理することがよしとされ、国土の防衛は宗主国である<支那>に頼る方向で考える傾向を強めた。」
http://hinode.8718.jp/korea_military_power.html

⇒支那を米国に置き換えれば、戦後日本の状況と酷似していますが、そのことは、今は忘れて、話を先に進めます。(太田)

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[例外としての武臣政権時代]
 「武臣<達は>・・・、つねに差別的な待遇に甘んじてきた<が、>すでに11世紀初頭の段階で、文臣に対する武臣の反撥が金訓の乱(1014年)という形で噴出している。・・・
 1170年8月、・・・武臣らの不満が暴発。・・・<彼等>は多数の文臣を殺害し、<国王>と王太子を廃して、<国王>の弟・・・を擁立した。この事件をその年の干支から庚寅の乱という。この事件で、実名が判明する人物だけで46名、その他40名以上の文臣が殺害されている。
 1173年には、文臣<が、>・・・<前国王>の復位をねらい、武臣政権打倒を目指して決起する。武臣政権側はこれを文臣をさらに殲滅する好機と捉え、再びクーデターを起こして前国王・・・や文臣らを捕殺した。この一連の事件を癸巳の乱と呼ぶ。
 この二つの事件によって武臣たちの権力基盤は強化され、以後100年にわたる武臣政権が続くこととなる。・・・
 <この武臣政権時代は、勃興したモンゴルの干渉によって終焉を迎える。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E8%87%A3%E6%94%BF%E6%A8%A9
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 その帰結が、軍事力の、支那に輪をかけた弱体化でした。
 例えば、日本に奇襲をかけた応永の外寇(己亥東征。応永26年(1419年)がどうなったかを見てみましょう。↓

 「対馬に侵攻<した>朝鮮軍は三軍(右軍・中軍・左軍)で編成され李従茂を司令官とし、軍船227隻、兵員17285人の規模であり、65日分の食糧を携行していた。・・・
 朝鮮軍は彼らが「島賊」と称した宗氏武士団・・戦力<は>不明・・の抵抗に手こずり、台風の接近もあって、漁村と船を焼き払ったのち10日余りで対馬から撤退した。・・・
 損害<(戦死者?(太田))は、日本側>123人<、朝鮮側>180~2,500人・・・
 糠岳での戦闘に関して朝鮮では「・・・護衛し共にいた11人の<支那>人が、我が軍の敗れる状況を見てしまったので、彼らを<支那>に返還できない」という左議政(高位官吏)の主張があった<ほどだ>。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%9C%E6%B0%B8%E3%81%AE%E5%A4%96%E5%AF%87

 日本による侵攻の予兆が十分過ぎるほどあったところの、文禄・慶長の役の頃の状況は以下の通りでした。。↓

 「朝鮮の軍人は軍事的知識よりも社会的な人脈によって昇進が決定されていたといわれ、軍隊は組織が緩み、兵士はほとんど訓練されておらず、装備も貧弱で、普段は城壁などの建設工事に従事していた。・・・
 <そして、>一般的に朝鮮の城塞は山城で、山の周りに蛇のように城壁をめぐらせるものであった。城壁は貧弱で、(日本や西洋の城塞のような)塔や十字砲火の配置は用いられておらず、城壁の高さも低かった。・・・
 朝鮮の歩兵は刀、槍、弓矢などの武器を装備していた。主力武器は弓であったが、当時の・・・朝鮮の弓の最大射程は120メートル程度であり、日本の火縄銃に威力と命中率で数倍劣り、さらに日本の弓の140メートル余よりも短かった。さらに・・・、兵士が弓を効果的に使いこなすためには、火縄銃よりも長く困難な訓練が必要であった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E7%A6%84%E3%83%BB%E6%85%B6%E9%95%B7%E3%81%AE%E5%BD%B9

 これでは、明の軍事介入がなければ、朝鮮はひとたまりもなかったことでしょう。
 その明自身、文禄・慶長の役への軍事介入で国力を蕩尽し、滅亡が避けられなくなる、という体たらくでしたが・・。(上掲)

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[「名将」陳舜臣の実相]

 「文禄・慶長の役で朝鮮の水軍を率いて日本軍と戦い活躍したとされる李舜臣。特に文禄の役における閑山島(かんざんとう)海戦(1592年)では脇坂安治率いる水軍を海上で撃破した、あるいは慶長の役の鳴梁(めいりょう)海戦(1597年)では藤堂高虎ら日本の武将を苦しめ海戦に勝利した-とされるが、朝鮮側と日本側の記録では戦果が異なり、朝鮮側では大勝利の評価が、日本側ではわずかな被害であったりする。
 <例えば、>戦役中最大の海戦とされる鳴梁海戦でも、日本側の被害は数十人が戦死というレベル。この戦闘では朝鮮水軍が撤退し、鳴梁海峡の制海権は日本のものとなって終了している。「大海戦で朝鮮圧勝」とは言い難いが、後世、名将との評価が一人歩きしていく。・・・
 李舜臣<は、>・・・海上で日本=豊臣軍の進攻を防ぐことはできず、あっさり橋頭堡(拠点)構築を許した結果、大軍が上陸。海上の補給線を脅かすことも叶わず、大量の補給物資輸送や援軍の増派も妨害できなかった。当時日本にいた宣教師・・・は、膨大な補給物資を海路運搬できる豊臣秀吉の力を高く評価する文書を本国に送っている・・・。
 国王は逃亡、王子は朝鮮の一般人に捕まり豊臣側の武将に差し出され人質とされる始末。首都開城(ケソン)も制圧された。海軍も積極的な攻勢をかけることはほとんどなく、これといった戦術もなかった。
 こうして朝鮮は当時の中国の王朝の明に救援を要請。以後戦争は日本と明の戦いとなった。戦争の流れを俯瞰して見ると、李舜臣も朝鮮海軍も戦局に寄与していない。」
https://www.sankei.com/premium/news/181030/prm1810300005-n1.html
(10月20日アクセス)
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[天照大神と八幡神]

 「748年(天平20)・・・、八幡神は<、自らの>出自に関して「古へ吾れは震旦国(<支那>)の霊神なりしが、今は日域(日本国)鎮守の大神なり」(『宇佐託宣集』巻二、巻六)と託宣し<た、とされてい>る。
 <他方>、「逸文」『豊前国風土記』に、「昔、新羅国の神、自ら度<(はか)>り到来して、此の河原〔香春〕に住むり」とある。

⇒663年の白村江の戦いで、唐・新羅連合軍に壊滅的敗北を喫しその後、日本が、一時、唐の占領下に置かれたという説を私は採用している(コラム#9510)わけだが、下で説明するように、八幡神は、弥生性(武)の象徴であるところ、それが、支那及び朝鮮から失われ、日本にのみ残った、と、(意外にも)ヤマト王権は見るに至っていた、ということだ。
 想像するに、同王権は、白村江での敗戦は、兵力量の圧倒的な差・・3(超)対1・・及び、唐のいわば傭兵たる靺鞨人が水軍等で活躍した
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E6%9D%91%E6%B1%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
せいであって、唐軍本体と(かねてから知っていたことだが)新羅軍は弱かった、という認識だったのではないか。
 以下は、日本における弥生性の重視についての説明になっているので参考までに引用しておく。(太田)

 <さて、辰韓人たる辛嶋氏は、>『辛嶋勝姓系図』によると素戔嗚尊(スサノオ)とその息子の五十猛神の子孫であり、天照大神とは親戚にあたる<とされている>。
 <これは、>素戔嗚尊(スサノオ)は日本で生まれてその後に<支那>や朝鮮に追放されて日本に帰ってきた<ことになっているし、>三韓征伐前から弁韓などは日本の領土だったこと<も>考えると矛盾はしない。
 <だから、八幡神と、>素戔嗚尊(スサノオ)の子孫である大国主命などが一緒に信仰されている事があるのはそういうわけである。
 <なお、>新羅は古くは辰韓もしくは秦韓と呼ばれ、辰韓人は<支那>大陸から朝鮮半島南東部に移住してきたとの史書の記述もある(「魏書辰韓伝」『三国志』(3世紀後半)、「辰韓伝」『後漢書』(432年)、「新羅伝」『北史』(659年))<ところ、支那>から朝鮮半島を経由してきた・・・彼らは秦氏の祖先の弓月君らとともに日本に難民受け入れを申請し、数多くの秦氏が応神天皇<(注5)>の時期に日本の保護のもとで日本に帰化している。・・・

 (注5)応神天皇は、三韓征伐を行ったとされる神功皇后の子とされるが、私は、「<彼>の実在性を否定する・・・岡田英弘」に説得力を覚える。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%9C%E7%A5%9E%E5%A4%A9%E7%9A%87
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E5%8A%9F%E7%9A%87%E5%90%8E

 八幡神は北九州の豪族国造宇佐氏の氏神として宇佐神宮に祀られていたが、・・・八幡神は応神天皇の神霊とされたことから皇祖神としても位置づけられ、『承久記』には「日本国の帝位は伊勢天照太神・八幡大菩薩の御計ひ」と記されており、天照皇大神に次ぐ皇室の守護神とされ・・・皇室も宇佐神宮(宇佐八幡宮)や石清水八幡宮を伊勢神宮に次ぐ第二の宗廟として崇敬した。・・・

⇒私の仮説はこうだ。
 「八幡神は、渡来した弥生人が、縄文人の原始神道に触発され、自分達の共通の氏神(祖先神)として「創出」したものであり、彼らの内の、ヤマト王権の大王家となった者達は、縄文人達の共通の氏神であった天照大神を自分達の主氏神・・アマテラス/縄文性の象徴・・として採用するとともに、八幡神を副氏神・・スサノオ/弥生性の象徴・・とした。」(太田)

 <この八幡神は、>清和源氏、桓武平氏を始めとする武家に広く信仰された。
 『吾妻鏡』「文治五年の条」には、源頼朝<による>9月21日に胆沢の鎮守府にある鎮守府八幡宮への参詣の様子が記されており、この八幡宮が坂上田村麻呂によって蝦夷征討の際に勧進され<たものであって>、弓箭や鞭などが納められ今も宝蔵にあるなど由来を記している。
 八幡神を崇敬していた鎌倉方<は>、平安京の南西に<石>清水八幡宮が勧進されるより以前に、田村麻呂によって陸奥に八幡神が勧進されていたことに驚いて<そのことを>『吾妻鏡』に記述した。
 清和源氏は八幡神を氏神として崇敬し、日本全国各地に勧請した。
 源頼義は、河内国壷井(大阪府羽曳野市壷井)に勧請して壺井八幡宮を河内源氏の氏神とした。また、その子の源義家は石清水八幡宮で元服し自らを「八幡太郎義家」を名乗った。
 <これに触発されたか、桓武平氏の>平将門<も、>『将門記』では天慶2年(939年)に上野(こうずけ)の国庁で八幡大菩薩によって「新皇」の地位を保証されたとされている。
 このように八幡神は武家を王朝的秩序から解放し、天照大神とは異なる世界を創る大きな役割があったとされ、そのことが、武家が守護神として八幡神を奉ずる理由であった。・・・
 天慶2年(939年)の藤原純友・平将門の乱(承平天慶の乱)では調伏が石清水八幡宮で祈願され、平定後に国家鎮護の神としての崇敬が高まった。
 そのため、石清水八幡宮への天皇・上皇の行幸・御幸は、円融天皇以来240回にも及んだ。・・・
 治承4年(1180年)、平家追討のため挙兵した源頼朝が富士川の戦いを前に現在の静岡県黄瀬川八幡付近に本営を造営した際、奥州からはるばる馳せ参じた源義経と感激の対面を果たす。
 静岡県駿東郡清水町にある黄瀬川八幡神社には、頼朝と義経が対面し平家追討を誓い合ったとされる対面石が置かれている。
 源頼朝の奥州合戦では「伊勢大神宮」「八幡大菩薩」の神号の意匠が入った錦の御旗<(注6)>が用いられた。

 (注6)「後醍醐天皇が笠置山に立て籠もった際には日輪と月輪の意匠が入ったもの(『太平記』)が、<また、>室町幕府初期には「伊勢大神宮」「八幡大菩薩」の神号と日輪の意匠が入ったもの
< http://cysaas004.cu-mo.jp/cgi-bin/x2182f12f534/db.cgi?page=DBRecord&did=148&qid=all&vid=20&rid=4&Head=&hid=&sid=n&rev=1&ssid=1-819-10075-g178 >
(『梅松論』)が用いられたと伝えられている。後に室町幕府では日輪と「天照皇太神」と入った錦の御旗<・・戊辰戦争の時も同様
http://www.archives.go.jp/ayumi/photo.html?m=2&pm=1
・・>と足利氏の家紋である二両引と「八幡大菩薩」と入った武家御旗(幕府の旗)の2種類が用いられた。・・・錦の御旗を掲げる事が出来る大将は足利氏を名乗れる将軍の一族、武家御旗を掲げる事が出来る大将は足利氏の一門に限定されていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8C%A6%E3%81%AE%E5%BE%A1%E6%97%97

⇒日本文明のメインは縄文性、サブは弥生性、的な観念が日本史を貫いて存在していた、ということ。
 他方、支那においては弥生性は欠落したまま、また、朝鮮では弥生性は失われたまま、それぞれ推移したわけだ。(太田)

 源頼朝が鎌倉幕府を開くと、八幡神を鎌倉へ迎えて鶴岡八幡宮とし、御家人たちも武家の守護神として自分の領内に勧請した。
 それ以降も、武神として多くの武将が崇敬した。
 また室町幕府が樹立されると、足利将軍家は足利公方家ともども源氏復興の主旨から、歴代の武家政権のなかでも最も熱心に八幡信仰を押し進めた。
 沖縄・・・の琉球国で<も>、第一尚氏王統の尚徳王が、喜界島の征服に当って八幡大菩薩の神威に頼ったことが知られ、「八幡按司」の称号がある。
 その後継の第二尚氏王統でも、八幡神由来の巴紋が尚氏の家紋として使用された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%B9%A1%E7%A5%9E

 ところで、私は、一種のジョークとして「カミムスヒを縄文人由来の女神、タカミムスヒを弥生人由来の男神」説を唱えたことがある(コラム#9953)。
 ちょっと面白いことに、タカミムスヒノカミを祀る神社155社中下掲の7社は八幡神を主神としていることを発見した。

・箱崎八幡神社 –
・高知八幡宮
・柴山八幡社 –
・若宮八幡宮社(京都市) – 源頼義の邸内に勧請
・高松八幡神社 <(東京都練馬区) -「平安時代の康平7年(1064年)、前九年の役で奥州を平定した源頼義が、当地に社殿を建て戦勝感謝と国家安泰、源氏の隆昌を祈願したことに始まる」
http://www.buccyake-kojiki.com/archives/1067118262.html >
・天野八幡宮
・當島八幡神社
http://www.buccyake-kojiki.com/archives/1003356385.html
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  ウ 民衆の過収奪・農民反乱の日常化

 唯一の接壌国が、李氏朝鮮になってからは宗主国であったことから、民衆が外敵側に逃散したり寝返ったりする事態を想定する必要がなかったので、当局は、民衆から、その生存限界までの収奪を行うことができました。
 むしろ、そうすることで、国内における、王朝転覆につながるような民衆叛乱を、(そのための余剰を奪うことで)防止できた、というこわけです。↓

 「李氏朝鮮時代には新しい農業技術が入り普及したが、中央集権化が極端に進んだ為に民衆からの収奪が激しくなり経済は疲弊し・・・た。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E6%B0%8F%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E3%81%AE%E7%B5%8C%E6%B8%88

 とはいえ、宗主国の支那も間歇的に生起する農民反乱に悩まされたところ、過収奪により、朝鮮ではそれが日常化することになったのです。↓

 「李氏朝鮮後期<には、>・・・民乱が・・・頻発し・・・小規模民乱はほとんど休む間もなく全国的に起きた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E6%B0%8F%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E5%BE%8C%E6%9C%9F%E3%81%AE%E8%BE%B2%E6%B0%91%E5%8F%8D%E4%B9%B1

  エ ガバナンスの喪失

 ガバナンスの喪失も、支那属国化・羈縻国化がもたらしたところの、王族達や両班達を中心とする朝鮮の選良達の著しい士気の低下の現れでした。
 これは、公的セクターと私的セクターに共通する問題であり、歴代韓国大統領達の腐敗や不慮の死、及び、韓国諸大財閥のネポティズムや不祥事、に代表される形で、現在の韓国にも引き継がれています。↓

 「韓国の大統領はなぜみな晩節を汚して終わるのか、悪循環から抜け出せぬ5つの理由…」
https://news.infoseek.co.jp/article/recordchina_RC_172401/

 ガバナンスの喪失の象徴がこれです。↓

 「粛宗の時代の1717年から1720年にかけて行われた調査を最後に作地の実態把握が行われなくなる。それ以降は、例え誰かが提案しても必ず儒臣達の反対により握り潰されてきた。何故なら量田が行われると自らの所有する「隠田(徴税の対象未登録の耕作地)」が発覚してしまうからである。
 こうしてこの国はこれ以降250年もの間、本当の歳入が幾らか不明のまま「丼勘定」で運用され続ける。その結果、「税金は踏み倒した方が勝ち」という考え方が一般化する一方で、国庫が空っぽになりか<か>る都度、抜き打ちの増税や種々の名目による加重課税で無理矢理辻褄を合わせるといった事が繰り返されてきた。」
http://yabuhebi.exblog.jp/4086555/

2 支那文明のタテマエ論継受–儒教「国教」化

 (1)宗教の弾圧

  ア 土俗信仰の弱体化

 朝鮮は、日本の神道の原初形態と恐らくほぼ同じであった可能性の高い、従って、人間主義教であった可能性の高い、土俗信仰が、下掲のような理由から弱体化してしまいます。↓

 「古代朝鮮では,<土俗信仰である>シャーマニズムやアニミズムが盛んであったが,三国時代に<支那>から儒教,仏教,道教が伝播し宗教生活に大きな変革が起った。
 統一新羅と高句麗では仏教が国家の保護を受け,大いに発展し,また道教も土俗信仰や仏教に混入され盛んになった。
 しかし,儒教をもって国是とした李氏朝鮮では,仏教,道教はともに排斥された<ため、土俗信仰も弱体化してしまった。>。
https://kotobank.jp/word/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E3%81%AE%E5%AE%97%E6%95%99-98038

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[小中華思想と小中華思想「改」]

 「朝鮮では<支那>王朝に従い、積極的に中華文明つまり儒教及びそれに伴う華夷観を受容し、中華に同化することで自国の格上げを図る道を選択した。朝鮮は本来の華夷秩序においては夷狄に相当するものであったが、自らを「<支那>王朝と共に中華を形成する一部(小中華)」と見なそうとしたのである。朝鮮の<支那>王朝に対するこうした姿勢は政治的には事大、文化的には慕華(中華を慕う思い)となり、政治的文化的に中華に従うものとして整合性の取れたものであった。・・・
 <ところが、>17世紀半ば<になると、>・・・崇拝の対象であった明が滅亡してしまい、一方、新たな中華帝国の支配者である清は李朝にとっては夷狄であり中華文明の後継者とは認め難く、小中華思想は文化の面でも見直しを迫られる。こうした中、「中原の中華文明は明と共に滅び中華文明の最優等生である朝鮮こそが正統な中華文明の継承者でなければならない」として、李朝は自身を残された唯一の中華文明の後継者と認識するようになる。・・・
 この17世紀の中華思想については、崇明の念を元にした小中華思想であると捉える説と、自身を唯一の華であるとした朝鮮中華思想であるとする説、<の>両論<が>存在する。
 この新たな小中華観では、李朝のみが唯一の華となり、当時李朝と国交をもっていた日本と清を文化的に強く差別化してしまい、両者からの文化、技術の流入を拒絶し、文化的鎖国状態に嵌り込むことになる。一方、同化すべき対象を失い外部からの文化の流入を拒絶したこの時期、独自文化の発展が見られるようになる。李朝後期に活発だった国学研究<(注7)>と風俗画、珍景山水画など<(注8)>はこの文化的鎖国の時期に発展したものである。・・・

 (注7)歴史学、地理学で、前者には、支那史も含まれており、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E6%B0%8F%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E3%81%AE%E5%AD%A6%E5%95%8F
必ずしも国学とは言えないように私は思う。
 (注8)「李朝時代は社会全般に儒教の道徳観をもって知識人の芸術活動を卑しむ風潮が支配的であったため,文人画は行われても鑑賞画としての芸術的価値の高い作品は少<かった。>」
https://kotobank.jp/word/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E7%B5%B5%E7%94%BB-97998
という状況下で、「滑稽な庶民生活を扱った・・・<り、>官能とエロチシズムに訴える・・・風俗画<や>・・・大胆な枕絵<が出現した。>」
https://japanese.joins.com/article/j_article.php?aid=106458&servcode=100&sectcode=100
 「<また、支那>の山水画の影響から脱して独創的画風の珍景山水画<も>始まった・・・。」
https://japanese.joins.com/article/j_article.php?aid=106458&servcode=100&sectcode=100

 しかし一方で、文化的鎖国により社会的停滞を迎え、技術の面でも日本や清に立ち後れることになる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E4%B8%AD%E8%8F%AF%E6%80%9D%E6%83%B3
 結局、朝鮮は、小中華思想下当時に比して、(どちらの解釈を取ろうと、)小中華思想「改」下において、一層劣化した、と言えそうだ。
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 李氏朝鮮が、明も清もやらなかったというのに、「仏教,道教<を>ともに排斥<し>た」のは、小中華思想は、中華思想の核心部分を「事大」しがちである上、小中華思想「改」下においては、清よりも、中華思想の核心部分をより尊重する、という観点から、それが更に助長された、というのが私の見解です。
 朝鮮における土俗信仰の弱体ぶりについては、下掲を参照。↓

 「朝鮮は、既に根を下ろしたキリスト教の存在と民衆の過半が土俗宗教(神道(Shindo))を実践していた、という状況で20世紀を迎えた。
 <但し、>後者は、支那のシステム<(道教?(太田))>、と、日本の神道(Shinto)に比して国民的宗教文化としての高い地位を獲得したことは一度もなかった。
 この、朝鮮神道の弱さが、<朝鮮が、>キリスト教諸宗派の早期かつ徹底的な移植を受けてしまった諸理由の一つだ。
 大衆は、また、儒教化諸儀式に参加し、私的な祖先崇拝を維持した。」
https://en.wikipedia.org/wiki/Religion_in_South_Korea

 朝鮮の土俗信仰の名称そのものが、多岐にわたっていることも、それが弱体化していることの反映なのであろうところ、誰も指摘していないようですが、その名称の一つが、神道(Shindo)であることが、それが、かつて日本の神道的なものであったことを示唆しているのではないでしょうか。↓

 Korean shamanism=Hangul/Hanja=神教(Singyo)=神道(Sindo)
https://en.wikipedia.org/wiki/Korean_shamanism 
  
  イ 普遍的倫理の否定

 日本の神道にしても朝鮮の土俗信仰にしても、それらは、人間主義は説いても、(それに比して、私に言わせれば、実は、「普遍」性が必ずしもないわけだが、)普遍的倫理を説くものではないのに対し、仏教は、そして、道教も曲りなりに、この普遍的倫理を説いています。
 ところが、朝鮮では、土俗信仰の弾圧によって人間主義が払拭されてしまった上、儒教の国教化により、仏教や道教が弱体化してしまった結果、儒教・・日本で「実践」された儒教は、支那では流行らなかった陽明学だったことに注意・・が、公(忠)に比しての私(孝)の重視
http://mlib.nit.ac.jp/webopac/46_4_35._?key=MGFQAS
、より根源的には、万物一体の仁(コラム#10233、10235、10237(未公開))の否定、を旨とするものであったことから、朝鮮の人々は、人間主義はもとより、普遍的倫理感覚とさえも、ほぼ無縁なまま現在に至っている、と言えそうです。
 その結果の端的な表れの一つが嘘の横行です。↓

 「2000年度<においては、>・・・
・韓国で偽証罪で起訴された人員は1,198人であり、日本は5人で、人口比を考慮すれば、可罰性のある偽証犯行の発生率は日本の671倍
・韓国で誣告で起訴された人員は2,965人であり、日本は2人で、人口比を考慮すれば、可罰性のある誣告犯行発生率は日本の4,151倍
・韓国で詐欺罪で起訴された人員は50,386人であり、日本は8,269人で、人口比を考慮すれば、可罰性のある詐欺犯行発生率は日本の17倍
※・・・最高検察庁発刊「検察年鑑」、「犯罪分析」、最高裁発刊「司法年鑑」、日本法務省発刊「検察統計年報」より・・・>」
https://ameblo.jp/chanu1/entry-12047999185.html

 もう一つが、普遍的論理(国際的ルール)無視の横行です。

 「国際法規を無視する中国・韓国」 ―「公」より「私」を優先する儒教国家・・・」
http://blogos.com/article/231483/
(2017年6月29日アクセス)

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[韓国の性犯罪率は高いか]

 韓国の性犯罪の認知件数の率は日本の約7.4倍だが、それは、OECD36ヶ国中13番目であり、アングロサクソン諸国こそ、性犯罪率がトップクラスなのだ。
https://www.jijitsu.net/entry/2018/02/23/060000
 従って、偽証、誣告、詐欺、についても、同様の国際比較をする必要が本来はあるが、日本との発生率の差が、性犯罪に比べてけた違いに高いことから、恐らく、国際比較においてもトップクラスの高さなのではなかろうか。
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 (2)工・商の発展阻害

 儒教は、「農者天下之大本」という、一種の農業フェチシズムをその属性としています。
https://reki.hatenablog.com/entry/2015/02/04/%E3%81%AA%E3%81%9C%E6%9D%8E%E6%B0%8F%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E3%81%AF%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E7%99%BA%E5%B1%95%E3%81%8C%E5%81%9C%E6%BB%9E%E3%81%97%E3%81%9F%E3%81%8B
 そのことが、工業や商業の発展を阻害しました。
 その「後遺症」が、工業について、「韓国には中堅企業がほぼな<い>」ことであり、
http://kankokukeizai.kill.jp/wordpress/category/kankokukeizai/%E9%9F%93%E5%9B%BD%E3%81%AE%E4%B8%AD%E5%B0%8F%E4%BC%81%E6%A5%AD/
形の上ではそれとは正反対ですが、韓国で、商業において、流通業が在来型小売が総売り上げ高の3分の2を占めていることです。(2009年のデータ)
https://ameblo.jp/shirocasi/entry-12174805831.html

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[日本の工・商]

 日本には、職人に呪力があるとされた(注9)こともあり、「<彼>らを尊ぶ伝統があり、大陸より帰化した陶芸工や鉄器鍛冶は士分として遇された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%B7%E4%BA%BA

 (注9)「職人歌合(しょくにんうたあわせ)は職人を題材とした日本中世の歌合<だが、>・・・作成の背景には、和歌を介して貴族層に従属する職人たちを結縁させ、後鳥羽院など災いをもたらしていたと考えられていた怨霊に対する鎮魂を目的としていたとする呪術的意図が考えられている」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%B7%E4%BA%BA%E6%AD%8C%E5%90%88
 但し、「当時「職人」という言葉は一般的でな<く、>・・・「道々の者」<という言葉が用いられていた」(上掲)のであり、「<それは、>鋳物師(いもじ)・鍛冶・番匠・医師・陰陽師(おんみょうじ)・巫・念仏者・猿楽・博打・海人(あま)・遊女・傀儡(くぐつ)師ほか,商人・職人・芸能民・宗教者・勝負師なども合わせたさまざまな技能者を含む言葉<だった>」
https://kotobank.jp/word/%E9%81%93%E3%80%85%E3%81%AE%E8%80%85-872132
ことに注意が必要。

 江戸時代には、石門心学の影響もあり、商人の地位も職人並みに高まった。↓

 「1685年(貞享2年)、現在の京都府亀岡市の山村に生まれた・・・[石田梅岩(1685~1744年)]・・・は京都の呉服商などに勤めながら神道、儒教、仏教を独学。禅僧に師事して悟りを開き、45才で私塾を開[き、石門心学の開祖となっ]た。
 彼の思想の特徴は、商人の道を説いたことだった。封建社会のもと商人を軽視した当時の風潮に対し、梅岩は「商人の売買するは天下の相(たすけ)なり、商人の買利は士の禄(ろく)に同じ」と唱えて職業の平等と経済活動の正当性を主張。併せて「先も立ち、我も立つ」ことを心がけ、信頼の基礎となる商道徳の重要性を説いた。」
https://www.nikkei.com/article/DGXKZO36915590V21C18A0BC8000/?n_cid=DSTPCS001
(10月26日アクセス)
 「1970年代頃からの環境問題への意識の高まりや、企業の不祥事が続く中、CSR(Corporate Social Responsibility=企業の社会的責任)ということが欧米を中心に盛んに言われるようになったが、そのような背景の中で「二重の利を取り、甘き毒を喰ひ、自死するやうなこと多かるべし」「実の商人は、先も立、我も立つことを思うなり」と、実にシンプルな言葉でCSRの本質的な精神を表現した石田梅岩の思想は、近江商人の「三方よし」の思想と並んで、「日本のCSRの原点」として脚光を浴びている。その思想もやはり営利活動を否定せず、倫理というよりむしろ「ビジネスの持続的発展」の観点から、本業の中で社会的責任を果たしていくことを説いており、寄付や援助など本業以外での「社会貢献」を活動の中心とする欧米のCSRにはない特徴がある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E7%94%B0%E6%A2%85%E5%B2%A9 ([]内も)

 日本では、貴族や武士や農民以外で、専門技能を生業とする者達に対する畏敬の念が昔からあり、その中で比較的専門技能を要さないように見えた商人について、石田梅岩がその生業としての意義を積極的に肯定した、といったところか。
 これらの根底にあるのは、人間主義だ。
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[支那の工・商]

 「康熙帝(在位1661-1722年)の統治の末年、一億人の大台に乗ったころから<、清で、>未曾有の人口増加がはじまった。乾隆帝(在位1735-1795年)の末年には約3億にまでふくれあがり、道光帝の道光13年(西暦1833年)の戸籍登録人口は398,942,063人となった。わずか百年あまりの間に、実に四倍にまで増加したのである。
 この清の人口爆発を説明できる決定的な学説はなく<(学説の一つに、同時期の日本類似の勤勉革命が清でも起ったというものがある。(コラム#10115))>、今でも<支那>史上の謎の一つとされている。
 ちなみに、19世紀以降、<支那>の近代化が遅れた原因の一つは、人口増加にともない一人あたりの生活水準が劇的に低下し、資本の原始的蓄積ができなかったからである。一方、日本は江戸時代中期以降、「間引き」などの荒っぽい人口抑制法により静止人口を維持したため、江戸時代後期の一人あたりの生活水準は急速に向上した。この江戸時代の蓄積なくして、明治以降の急速な近代化は不可能だったと言われる。」
http://www.geocities.jp/cato1963/jinkou996.html

 以上↑のような背景の下、清では、下掲のような分野でもって粗放的と目される(太田)工業(工)が発展した。↓

 「<清代は、>明代から引き続いて全国的に手工業が大いに盛んであり、絹織物・綿織物に加えて鉄の加工販売が盛んとなり、増大する人口と農地に必要な農具が大量に作られていた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85#商業

 しかし、粗放的工業であったことから、日本と違って、匠の伝統が形成されず、従ってまた、長命企業も少なかったと想像される(太田)。
 この「伝統」を現在の中共も引きずっているようだ。↓

 「<中共>では中小企業・小規模事業者は企業数全体の99%を占めており、特許件数でも70%以上を占めるほか、雇用全体の80%以上をも生み出している・・・税収全体の50%以上の税金を納め、国内総生産(GDP)全体の60%以上を生み出している」
http://japanese.china.org.cn/business/txt/2017-12/01/content_50080572.htm
 「<しかし、>中国企業の平均寿命は短く、統計によるとわずか2.5年となっている。グループ企業の平均寿命は7-8年で、欧米企業の40年の平均寿命と比べると、大きな開きがある。」
http://j.people.com.cn/94476/7935576.html

 以上に伴い、当然のことながら、商業(商)も発展した。↓

 「<清代には、>商業も非常に活発となり、それに伴い商業システムの発展が随所に見られる。典舗・当舗と呼ばれる質屋は貸付・預金業を行い、独自に銀と兌換が出来る銀票を発行した。また為替業務を行う票号という機関もあった。これらの中心となっていたのが山西商人(山西省出身)・新安商人(安徽省出身)と呼ばれる商人の集団で、山西商人などは豊富な資金を背景に皇族とも密接に関わり、政府資金の運用にも関わっていたと言われる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85#商業 前掲

 支那の場合は、日本と違って、人間主義的基盤がなかったので、専門技能への畏敬の念が見られず、また、商業の積極的肯定もなされなかった、と言えそうだ。
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[朝鮮の陶磁器]

 朝鮮でも、秀吉の朝鮮出兵の折、陶工を多数日本に連れ帰ったほど、優れた陶磁器が生産されていたのではないか、と思う人がいるかもしれない。
 それに対しては、私が書くまでもない。
 下掲の解説で十分だろう。↓

 「韓国人「なんで世界的な陶磁器がないのか?」・日本の伝統文化の育て方・・・」
http://yukashikisekai.com/?p=3481
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 (3)女性虐待

 女性差別は、日本文明等ごく少数の文明を除き、農業社会到来以降の世界の大部分の諸文明において、共通して見られるところです。(注10)

 (注10)女性差別諺集:
 女子と小人は養い難し(<支那>) <・・論語 陽貨第十七の二十五 唯女子と小人とは養い難しと為す
http://blog.mage8.com/rongo-17-25 >
 女は災い(イタリア)
 男同士は本来、互いに無関心なものだが、女は生まれつき敵同士である(ドイツ)
 女は髪は長いが脳は短い(イギリス)
 出産の苦しみは女に与えられた神の罰(旧約聖書)
 女には、九つの悪い属性がある(インド)
  お釈迦様は、長老に「女には、九つの悪い属性がある」とおっしゃった。
1、汚らわしくて臭く、2.悪口をたたき、3.浮気で、4.嫉妬深く、5.欲深く、6.遊び好きで、7.怒りっぽく、 8.おしゃべりで、9.軽口である[(増一阿含経)]
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10136833555
 増一阿含経は、初期仏教の経典である阿含経の一つ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A2%97%E4%B8%80%E9%98%BF%E5%90%AB%E7%B5%8C
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E5%90%AB%E7%B5%8C

 その中で、インド文明と支那文明の特徴は、女性を単に差別しただけではなく、虐待したところにあります。
 (但し、釈迦は、「女性を差別することはなかったが、女性原理を拒絶していた」
https://www.nagaitoshiya.com/ja/2004/buddhist-sexism/#heading_.E5.8F.82.E7.85.A7.E6.83.85.E5.A0.B1
にとどまる、ということにしておこう。)↓

 「マヌ法典 「女の生き方」 5-148
 「子供の時は父の、若いときは夫の、夫が死んだときは息子の支配下に入るべし。女は独立を享受してはならない。」(中公文庫「マヌ法典」渡瀬信行訳」」
http://hannyashingyo.web.fc2.com/jb/sanjyu.html
 「『大戴礼記(だたいらいき)』本命篇(へん)に「家に在(あ)りては父に従い、人に適(とつ)ぎては夫に従い、夫死しては子に従う」とある。
https://kotobank.jp/word/%E4%B8%89%E5%BE%93%E4%B8%83%E5%8E%BB-1540255
 「大戴礼記(だたいらいき)は、漢代の儒者戴徳が、古代の礼文献を取捨して整理した、儒教関連の論文集である。戴徳の甥である戴聖も『礼記』(小戴礼記)を著しており、区別し『大戴礼記』と呼ぶ。単に『大戴礼』(だたいらい)と呼ぶ場合もある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%88%B4%E7%A4%BC%E8%A8%98

 その病理形態が、支那文明における纏足です。
 纏足は、「北宋より流行しだし、元末明初に盛んになったようである。流行しだした頃は、漢民族にとっては異民族の侵入などで民族主義的な儒教が発達した時期でもあった。・・・
 纏足の流行の理由には、足の小さいのが女性の魅力、女性美、との考えがあったことは間違いない。足が小さければ走ることは困難となり、そこに女性の弱々しさが求められたこと、それにより貴族階級では女性を外に出られない状況を作り貞節を維持しやすくしたこと、足が小さいがために踏ん張らなければならず、そこに足の魅力を性的に感じさせやすくした、など多くのことが考えられる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BA%8F%E8%B6%B3

 で、朝鮮ですが、「朝鮮王朝(1392-1910)は、建国当時の社会的秩序の混乱を治め国を政治的に安定させるため、儒教を国是とし儒教の理念に基づいて家族中心体制を確立した。それは社会秩序を確立するのに先立ってまずは、「修身済家治国平天下」という儒教規範を基に家庭内の秩序を確立する必要があったからである・・・。
 したがってまず、儒教規範に基づく「男女分別」<(注11)>という「内外法」が強調され、「男は外、女は内」という厳格な役割規範が男女に与えられた・・・。

 (注11)「『礼記』では、夫婦の別、もしくは男女の別を失わないことが極めて重要なこととされている。子供が生まれてまもなく男女の別を教育するとされる・・・
 具体的な論述は主に内則篇に示されており、たとえば・・・「七年男女不同席、不共食」10)とある・・・
 また婦人が舅姑や夫に従順することが「婦順」とされ<る>」
https://kuir.jm.kansai-u.ac.jp/dspace/bitstream/10112/9934/1/KU-1100-20150228-06.pdf

 また、「内外」の強化により女子の外出が禁止されたり制限されることによって、女性の活動範囲は家庭内の生活に制限された。そして女性に対して行なわれた教育は、祖父母、父母、その他の家族員によって行なわれる非公式的教育、つまり家庭教育であり、現場教育であった。したがって、朝鮮王朝社会において女性に対して行なわれた教育は、教育機関を通じた公式的な教育ではなく、家庭のなかで行なわれた非公式的な教育であった。朝鮮王朝社会には、教育機関として、成均館、学堂、郷校、書院、書堂など数多くの教育機関が全国に散在していたが、これらのすべては男子のための教育機関であり、女性のためのものではなかった。・・・

⇒このように、朝鮮でも、(纏足こそ行われなかったけれど、)女性は虐待され続けたわけです。(太田)

 1991年に兵庫県家庭問題研究所が行なった日韓の家族関係に関する比較研究の報告のうち、韓国の性別役割分業観について<は、>・・・まず、「男は外、女は家庭」という項目に肯定的な回答をした<割>合は、夫81.7%、妻65.2%である(日本:夫38.3%、妻34.3%)。ついで、「女性は仕事をするなら、育児・家事の責任を果したうえですべき」という項目をみても、夫80.3%、妻59.2%が肯定的に答えている。一方、「女性の経済的自立」に関する項目を肯定する割合は、夫68.9%、妻86.7%にものぼる。このように、性別役割分業観を強く肯定しながら、一方、女性の経済的自立をも強く肯定するという、矛盾する意識によって、韓国の女性は、「家庭も仕事も」という二重負担に負われてい<る。>」
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjoffamilysociology1989/5/5/5_5_87/_pdf

⇒こういった具合に、現在の韓国においても、なお、女性は過去に受けた虐待を引きずっている、と言えそうです。(太田)

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[火病]

 現在の韓国に、依然として見られる、いわゆる火病は、朝鮮の女性虐待の程度が支那のそれよりも甚だしかった時代の名残である、と言えるのではなかろうか。↓ 

 「火病・・・もしくは鬱火病・・・は、文化依存症候群(文化結合症候群)のうち、朝鮮民族特有の精神疾患と指摘されている病気である。・・・
 火病という用語は、<支那>明時代の漢方医・張介賓が使用したもので、李氏朝鮮時代に朝鮮半島に伝わった。・・・
 2015年1月・・・の調査によると、韓国の会社員の90.18%が職場で火病の経験があると答えたとされている・・・
 かつては患者の80%が女性だったが、近年は男性の患者も増加傾向にある。・・・
 症候として、疲労、不眠、パニック、切迫した死への恐怖、不快感、食欲不振、消化不良、動悸、呼吸困難、全身の疼痛、心窩部に塊がある感覚などを呈する。・・・
 元来、封建的な韓国の家では、女子は生まれても、家族の一員とは数えられないことすらあり、男子を産まない母親は家を追い出される例もあった。このような社会背景から、女性は言葉や行動による怒りの表現を禁じられ、忍従を強要された。それらの結果潜在化した怒りが、「火病」の身体症状として表現される、と解釈されている。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%81%AB%E7%97%85
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[太極旗]

 「太極旗を初めて国旗として使用したのは朝鮮国(李氏朝鮮)である。・・・
 太極旗のデザイナーは<清人の>馬建忠<(注12)とされていることもあり、>・・・韓国が独立するまで<は>、太極旗は「<支那>(易)の思想・哲学に由来する」との考えが一般的だった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%9F%93%E6%B0%91%E5%9B%BD%E3%81%AE%E5%9B%BD%E6%97%97
が、現在、「韓国国内ではあくまでも「<支那>の陰陽とは無関係」という説が一般的のようだ。」
http://news.searchina.net/id/1651239?page=1
(1月10日アクセス)

 (注12)Ma Jianzhong(1845~1900年)。「清末の思想家・外交官・言語学者。・・・李鴻章を補佐した。・・・光緒8年(1882年)には李鴻章により朝鮮に派遣され、朝鮮と<英国><米国>・ドイツとの通商条約締結を推進した(米朝修好通商条約など)。壬午事変が発生すると興宣大院君の連行にかかわった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%AC%E5%BB%BA%E5%BF%A0

 「朝鮮語の語彙には固有語と漢字語があるが、現在の韓国では漢字語のみに漢字が使われる。ただしその使用頻度は高くなく、通常ハングルのみで表記される。これは1970年から始まった漢字廃止政策によるところが大きい」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E6%BC%A2%E5%AD%97
、と、文字に関しては支那離れが進行しているが、国旗がそのままでは、韓国が、依然、支那事大主義国であることを内外に宣明しているようなものだ。
 (ご承知の通り、北朝鮮は太極旗を用いていない。)
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 (4)想像力の貧困

  ア フィクション作品の貧困

 支那においては、「・・・小説<は、>・・・儒教そして国家から貶められて<き>た・・・」
http://www.kyuko.asia/book/b287551.html
 「・・・曹操は、・・・儒教に対抗する新たな文化的価値として「文学」を宣揚し、建安文学を興隆させた・・・」
http://www.kyuko.asia/book/b196250.html
 「・・・<しかし、>『文心雕龍』<(注13)>や『文選』<(注14)>のように、<ついに、>「文學」は儒教から自立できなかった・・・」
http://www.kyuko.asia/book/b287551.html 前掲

 (注13)「南朝梁の劉勰(りゅうきょう)が著した文学理論書。・・・5世紀の末、南斉の末期に成立したと推測される。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E5%BF%83%E9%9B%95%E9%BE%8D
 「内容の充実よりも形式美を追求する六朝期の創作状況を批判し・・・文章は現象世界同様に「道」が自ずと表れたものである<べきはずだ、とした。>」
http://www.sobunsha.co.jp/detail.html?id=4-423-19263-4
 (注14)「西暦でいえば五三〇年ころ、南朝・梁の昭明太子によって編まれた文学のアンソロジーである。収められた作品の時期は、紀元前三世紀から紀元後六世紀にわたるほぼ八〇〇年間。ジャンルは賦・詩をはじめとして各種の韻文と散文――当時文学とみなされたすべての文体を含む。」
https://dokushojin.com/article.html?i=3956
 「編纂当時はそんなに評価は高くなかったのですが、100年ほど経ってから、評価が高くなり、士大夫の間で非常に流行するようになりました。これは恐らく科挙試験に詩文の創作が課された後、『文選』がその指南書となっていったからだと推定されます。つまり『文選』は科挙受験者の答案を作る際に参考とすべき模範的詩文集であると認定されたことに主たる原因があるようです。」
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/cl/koten/simizu/mondai1.htm
 「太子の書いた『文選』の序文には、作品の収録基準を「事は沈思より出で、義は翰藻に帰す」とし、深い思考から出てきた内容を、すぐれた修辞で表現したと見なされた作品を収録したとある。・・・収録する主な作品<は、次の通りだ。>・・・
屈原「離騒」
宋玉「高唐賦」「神女賦」
漢の武帝「秋風辞」
司馬相如「子虚賦」「上林賦」
司馬遷「報任少卿書」
班固「両都賦」
無名氏「古詩十九首」
曹操「短歌行」
曹丕「燕歌行」「典論論文」
曹植「洛神賦」「贈白馬王彪」
王粲「登楼賦」「七哀詩」
諸葛亮「出師表」
阮籍「詠懐詩」
嵆康「与山巨源絶交書」
潘岳「秋興賦」「悼亡詩」
李密「陳情事表」
陸機「文賦」「赴洛詩」
左思「三都賦」「詠史詩」
陶淵明「帰去来兮辞」
謝霊運「登池上楼」「於南山往北山経湖中瞻眺」
鮑照「蕪城賦」「東武吟」
謝朓「遊東田」「晩登三山還望京邑」
沈約「宋書謝霊運伝論
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E9%81%B8_(%E6%9B%B8%E7%89%A9)

⇒列挙されている、文選収録の主な作品にフィクション文学は見当たりません。
 すなわち、「古くから<支那>文学は政治を含めて現実生活を主題にしたものが多く、また政治に携わるものによって多く文学作品が作られてきた歴史がある。三国時代の魏の曹丕の有名な言葉「文章は経国の大業、不朽の盛事」で表されるように、<支那>人は文学に国を左右するほどの非常に強い力があると考えており、文学は政治と密接な関係があった。<支那>文学の特異性として宋代以降、文学の担い手が多く官僚であったことが挙げられるが、それもこの傾向を受け継ぐものである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E6%96%87%E5%AD%A6
という次第です。(太田)

 さて、朝鮮についてです。
 「『三国史記』『三国遺事』は歴史書として読まれているが、文学としても読むことが可能である。・・・

⇒いかにも「文選」的な、無理筋の奇妙なコメントです。(太田)

 ハングルは漢字の読めない身分の低い(学識の低い)者の文字と蔑む傾向がハングル誕生時から近代に入るまで根強く残り、ハングルでの文学活動は知識人にとってその地位を危うくする危険性を孕んでいた。そのため、朝鮮ではハングル(国文)が誕生して以後も漢文による文学活動が主であ<った。>・・・
 ・・・また小説という読み物に対しての評価が著しく低かった・・・

⇒漢文はあくまでも朝鮮の人々にとっては外国語であり、習熟するのが容易ではないのと、両言語の感性が異なっているであろうことから、なおさら、フィクション文学の発展が阻害された、ということでしょう。
 これは、儒教云々以前に、支那属国化がもたらした弊害の一つ、と言えそうです。(太田)

 金時習の『金鰲新話』(1494年)は<支那>の『剪灯新話』<(注15)>の影響を受けた翻案小説として文学的価値が高い。・・・

 (注15)「『剪灯新話』(せんとうしんわ)は、・・・明代に著された怪異小説集である。・・・「牡丹灯記」に基づく三遊亭圓朝の「牡丹灯籠」は、本書の翻案として著名である。当の<支那>では、本書は士大夫の教養とは認められず禁書の措置を受け、清代には断片しか伝わらなくなっていた。日本には慶長年間(1596年 – 1615年)伝来の刊本が伝世していたため、1917年になって董康によって翻刻され、<支那>に逆輸入されることとなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%AA%E7%81%AF%E6%96%B0%E8%A9%B1

⇒13世紀末に「出現」した檀君神話(コラム#9885)こそ、朝鮮最初のフィクション文学とも言えそうですが、肝心の朝鮮の人々が、これを史書と見ている以上は、余計な差し出口は止めなければなりますまい。(太田)

 漢文での作品としては『洪吉童伝』(許筠)が挙げられる。水滸伝の翻案小説と言われ・・・
 また、朝鮮半島に伝<わ>る説話が書籍になった・・・最も有名なものとして、『春香伝』『沈清伝』が挙げられる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E6%96%87%E5%AD%A6 

⇒『春香伝(しゅんこうでん)』と『沈清伝(しんせいでん)』は、どちらも作者不詳、作品年月不明の民話であり、その内容は、前者は、唐以降の支那の才子佳人小説の影響を受け、また、後者は、儒教が説く孝道を奨励している、と支那の影響を強く受けており、しかも、どちらも、ハッピーエンド(すぐ後で出てくる話参照)である、といったことから、フィクション文学の範疇に入れることを躊躇せざるをえません。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%A5%E9%A6%99%E4%BC%9D ←春香伝
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%88%E6%B8%85%E4%BC%9D ←沈清伝

 以上のような背景が、韓国・・この場合、表現の自由がゼロに近い北朝鮮は捨象してよいでしょう・・のノーベル文学賞受賞者0人をもたらしている、と見ていいでしょう。
 (ノーベル文学賞は、歴史学者、哲学者、伝記作家、ノンフィクション作家、にも与えられており、フィクション作家だけを対象にしたものではない
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%99%E3%83%AB%E6%96%87%E5%AD%A6%E8%B3%9E
が・・。)
 同じことが、大中華たる支那においても、同文学賞受賞者1人のみ、という状況をもたらしている、と考えられるわけです。

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[朝鮮演劇における悲劇の不在]

 「文学」たる『春香伝』と『沈清伝』、と、基本的に同じことが朝鮮の演劇についても言えそうだ。↓

 「朝鮮の伝統演劇には悲劇が存在しない。劇中では悲劇を多用するが結末はハッピーエンドで、喜劇になってしまう。それは大きな特徴といってよい。」
https://kotobank.jp/word/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E6%BC%94%E5%8A%87-97994

 他方、例えば、古典ギリシャ文明における演劇・・戯曲と捉えればフィクション文学とも言える・・は悲劇から始まっており、喜劇が登場した頃から、この文明は衰亡へと向かう。↓

 「古代ギリシアにおいて、悲劇は三部作からなり、神ディオニュソスへの捧げものとされた。毎春の大ディオニュシア祭においては悲劇の競演が行われ、演劇の洗練と発展を促した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%82%B2%E5%8A%87
 「ディオニューシア祭・・・とは、神ディオニューソスを祝して古代アテナイで催された大祭である。主要な催しは悲劇の上演であるが、紀元前487年以降は喜劇も演じられた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%AA%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%82%A2%E7%A5%AD
 「アリストパネス・・・は、古代アテナイの喜劇詩人、風刺詩人である。・・・代表作はソクラテスに仮託する形でソフィストを風刺した『雲』、デマゴーグのクレオンを痛烈に面罵した『騎士』、アイスキュロスとエウリピデスの詩曲を材に採り、パロディーなどを織り交ぜて優れた文芸批評に仕上げた『蛙』など。・・・ペロポネソス戦争に対しては一貫して批判的であり、『女の平和』のような直接に戦争に反対する内容の作品もある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%91%E3%83%8D%E3%82%B9
http://www.bbc.com/culture/story/20170417-the-x-factor-of-ancient-athens
(4月25日アクセス)

 ニーチェの『悲劇の誕生』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%82%B2%E5%8A%87%E3%81%AE%E8%AA%95%E7%94%9F
については、小難しい解説
https://www.philosophyguides.org/decoding/decoding-of-nietzsche-tragodie/
はさておき、私自身の解釈は、人生の大団円は死である以上、人生をまともに描写しようとするのであれば、およそ、演劇にせよ、フィクション文学にせよ、それは、基本的に悲劇たらざるをえない、と、ニーチェは指摘した、というものだ。
 ところが、このように、支那の政治的文学に類したものに古典ギリシャの文学も堕してしまったところ、それは、ペロポネソス戦争におけるアテネの敗北(BC404年)、すなわち、古典ギリシャ文明の終焉の予兆であったわけだ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%AD%E3%83%9D%E3%83%8D%E3%82%BD%E3%82%B9%E6%88%A6%E4%BA%89

 日本の場合ですが、例えば、謡曲によく登場する人物はことごとく悲劇性を帯びているところだ。↓

源義経・弁慶
 鞍馬天狗・橋弁慶・烏帽子折・熊坂・八島・正尊・船弁慶・忠信・安宅・摂待・錦戸
曾我兄弟(注16)
 小袖曽我・夜討曽我・禅師曽我・調伏曽我・望月
小野小町
 草紙洗・通小町・卒塔婆小町・鸚鵡小町・関寺小町
在原業平
 井筒・杜若・小塩・雲林院・隅田川
西行法師
 西行桜・江口・雨月・遊行柳
菅原道真
 老松・来殿・右近
http://www.harusan1925.net/miryoku.html

 (注16)曾我兄弟の仇討ち(1193年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%BE%E6%88%91%E5%85%84%E5%BC%9F%E3%81%AE%E4%BB%87%E8%A8%8E%E3%81%A1

 人形浄瑠璃や歌舞伎についても、概ね、同じことが言える。↓

 「人形浄瑠璃<には、>・・・内容上2系統の作品がある。一つは極物(きわもの),一夜漬狂言などといわれ,巷(ちまた)に起きた心中事件や情痴の果ての殺人事件などを直ちに舞台化した。いま一つは《雁金五人男》《双蝶々》《夏祭》など,相撲取や俠客の義理人情を扱う作品である。
 「人形浄瑠璃では,元禄 16 (1703) 年に初演された近松門左衛門の作品『曾根崎心中』が,世話物の最初の秀作。以後近松により世話浄瑠璃の傑作が生み出されたが,世話物の本流は風俗の舞台化に有利な歌舞伎にあったといえる。歌舞伎の世話物のなかで,江戸時代末期の下層社会を描いた作品を生世話物 (きぜわもの) といい,代表作に4世鶴屋南北の『東海道四谷怪談』がある。」
https://kotobank.jp/word/%E4%B8%96%E8%A9%B1%E7%89%A9-186301
 「歌舞伎の古典演目は大きく分けて「時代物」と「世話物」に分類されます。
 「時代物」というのは、設定を江戸時代よりも古い時代にして、主に武家社会を描いたものです。扱う時代は、室町・鎌倉・平安時代、時にはそれ以前にまでさかのぼります。
 人物では、曾我兄弟、源義経が大変多くの作品に登場し、当時の人たちにとって格段の<悲劇的(太田)>ヒーローであったことがうかがえます。・・・
 一方、「世話物」というのは江戸時代の人たちにとっては”現代劇”で、町人社会・世相風俗を扱ったもの、町のどこにでもいる大工や魚屋、侠客や遊女、長屋の衆など様々な人たちが登場します。
 こちらもすべてフィクションということになっていますが、観客の要望も強かったのでしょう、世間を騒がせた<悲劇たる(太田)>心中事件などを巧みに劇化する事も次第に増えていきました。」
http://www.kabuki-bito.jp/special/kabuki_column/todaysword/post_200.html
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  イ 音楽における貴族と庶民の断絶

 「韓国人にとって音楽とは喜怒哀楽を表現する手段のひとつで、韓国の音楽には固有の叙情的な感性が込められています。韓国の伝統音楽は、王族が好んでいた音楽と庶民が好んでいた音楽とでスタイルがまったく異なります。王室の音楽の代表格である「宗廟祭礼楽<(注17)>(チョンミョジェレアク)」は国家で行う祭祀で演奏されていたもので、重厚で華麗な音が特徴です。一方、庶民が仕事の大変さを克服するために歌った民謡や韓国の昔話を歌で表現したパンソリ<(注18)>は楽しく軽快な音楽です。」
http://japanese.visitkorea.or.kr/jpn/AKR/AK_JPN_4_6.jsp 

 (注17)文廟祭礼楽(政大業) ←雅楽と似ている。
https://www.youtube.com/watch?v=dNLLHvFxW7E
 (注18)パンソリ(興父歌)
https://www.youtube.com/watch?v=MZX3z-MDBq0
 
(参考)朝鮮の伝統音楽
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E3%81%AE%E4%BC%9D%E7%B5%B1%E9%9F%B3%E6%A5%BD

 では、小中華ならぬ、大中華の音楽事情はどうだったのでしょうか。↓

 支那の伝統音楽は、大きくは、「・・・漢民族固有の音楽の時代,・・・唐を中心とする国際音楽の時代,・・・から清朝までの民族音楽時代,・・・に分けられる。固有音楽は,漢代 (紀元前後) に儒教の礼楽思想を中心にして雅楽となった。国際音楽は西域を通してイラン,インドの音楽を取入れた宮廷国家の音楽文化である (日本に伝わって舞楽となった) 。民族音楽は,漢民族の庶民の間に成育した劇楽 (清朝以後の京劇が代表) で,西アジアのイスラム音楽の影響 (たとえば,三弦や胡弓) は多少受けたものの,<支那>色が濃い。」
 「封建社会の確立とともに生まれ、儒家の礼楽思想に基づいて長い間支配者階級の音楽として重んじられた雅楽をはじめ、宮廷や貴族階級の間で行われた芸術・娯楽音楽である燕楽(えんがく)(宴饗(えんきょう)楽)、士大夫(したいふ)(知識階級)の琴(きん)楽、戯劇の前身である散(さん)楽、そして軍楽などがあり、一方、庶民の音楽としては説唱(語物(かたりもの))、民謡、戯劇などがあった。古代から、音律算定法によって十二律や七声(七音音階)が確立していたが、中世以後は単純化して現在のような五音音階に変化した。この音階による旋律と、二拍子系統の拍節的リズムとによって、<支那>音楽独特の雰囲気を醸し出している。」
https://kotobank.jp/word/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E9%9F%B3%E6%A5%BD-97176

 支那のハイブラウな音楽については、支那の思想同様、諸子百家の時代に音楽理論が頂点に達し、内容的にも唐時代に頂点に達し、その後はむしろ、停滞、退化過程を辿ったわけですが、朝鮮は、この支那のハイブラウな音楽は継受したものの、大衆音楽である劇楽は継受しなかったようであり、そのこともあって、朝鮮では、音楽における貴族と庶民との間の分断がもたらされた、ということのようです。

 これに対し、日本の雅楽は、「催馬楽、朗詠、今様など娯楽的性格の強い謡物<を>成立<させ>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%85%E6%A5%BD
たところ、「今様<は、>・・・平安時代中期に発生。平安時代末期には後白河法皇が愛好し、熱中し過ぎて喉を痛めた<とされ、この>・・・法皇が編纂した『梁塵秘抄』の一部が現代に伝わっている。・・・今様・・・中でも有名なのは、『越天楽』のメロディーに歌詞を付けた『越天楽今様』である・・・これが九州に伝わったものが筑前今様となり、後に黒田節と呼ばれるようになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E6%A7%98
といった具合に、音楽において、貴族と庶民との断絶は生じませんでした。
 但し、舞楽は、貴族の間にとどまった、と見てよさそうです。
https://kotobank.jp/word/%E8%88%9E%E6%A5%BD-123736

 結局、これは、人間主義を基盤とするところの、仁政概念や、統治者達の被治者達への敬意と感謝の念と統治者達と被治者達との交流、が日本にはあったけれど、支那では余りなく、朝鮮に至っては殆どなかった、ということに起因する違いでしょうね。
 こういった背景の下、現在でも、支那、朝鮮は、再生音楽家たる名演奏家達は生み出し得ていても、創造的音楽家たる一人の坂本龍一も久石譲も生み出し得ていないのです。

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[アリランとトラジ]
 朝鮮の李朝時代までの曲で、有名なものは、アリランとトラジの2曲だけと言ってもよさそうだ(典拠省略)。
 
 アリラン(Arilang)については、それが、「哀調を帯びた」曲であること、かつ、「近年では、歌詞に含まれる「アリラン」、「スーリ」は北方民族である[ツングース系民族である]エヴェンキ族の言葉でそれぞれ「迎える」、「感じ取る」という意があることが明らかになっており関連性が着目されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%83%A9%E3%83%B3 ※
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%82%AD ([]内)
https://www.youtube.com/watch?v=XXQgyvLzKPs
ところ、私は、この曲が、朝鮮にとって外来のもの、と考えている。

 トラジ(Doraji)については、それが、「明るいメロディー」の曲である(※)こと、かつ、「もともと、京畿道地方の民謡だったといわれて<おり、>亡き恋人を偲ぶ曲や仕事歌、などと説が分かれている」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%A9%E3%82%B8_(%E6%B0%91%E8%AC%A1)
https://www.youtube.com/watch?v=aXtyREb3XF4
ところ、こちらが、パンソリと同根の、朝鮮由来の曲である、と考えている。
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  ウ 科学的精神の貧困

 韓国と北朝鮮のノーベル科学賞受賞者が0人であることについても、支那(大中華)が1人であることと、背景は同じで、ノーベル文学賞受賞者の少なさと根本的な原因は同じであって、フィクション作品の貧困が想像力、創造力の醸成を阻害したからである、というのが私の見解です。
 下掲のコラムは韓国についてのものですが、基本的に、中共にもあてはまるでしょう。↓

 「大前研一氏指摘 韓国がいつまでも「先進国」になれぬ理由・・・ 模倣癖」
http://news.livedoor.com/article/detail/12947276/
(2017年4月18日アクセス)

3 恨の文化–日本文明からの離脱と支那文明のタテマエ論継受の化合物

 朝鮮亜文明の最大の特徴を一言で表せと言われたら、それは恨<(ハン)>の文化でしょう。↓

 「古田博司は朝鮮文化における恨を「伝統規範からみて責任を他者に押し付けられない状況のもとで、階層型秩序で下位に置かれた不満の累積とその解消願望」と説明している<ところ、それは、>・・・朝鮮における、文化、思想において全ての根幹となっている。・・・
 恨の文化は、代々の王権や両班による苛斂誅求を極めた階級的支配に対する民衆の抵抗意識と、漢代の昔より幾度となく半島を襲った中国からの異民族(漢族・モンゴル族・女真族ほか)による侵略・征服で永続的な服従を余儀なくされた国辱を引きずり、日本(大日本帝国)による併合が「長い抑圧と屈辱の歴史」であったという事実を省みない一方的な主張の元で行われる反日教育や、内外の圧倒的な力に依存性せざるを得なかった朝鮮半島独特の文化である。
 また恨の形成の裏には、儒教の教えや習慣が、本来の形を越えた形でエスカレートさせていったことが背景にあったと言われ、それは上位者の下位者に対する苛烈な扱いを正当化する解釈や、下位の者は過酷な立場を受容しなければならないとする解釈になった。
 朝鮮の独立が民族運動として失敗して弾圧され、<金日成の抗日パルチザン神話を創作した北朝鮮はともかくとして、>韓国について言えば、・・・自らの力でなく第二次世界大戦の講和交渉として、頭ごなしに連合軍の力によって達成された<と正しく受け止められた>ことは、後の世代の「恨」となった。また・・・、独立後の外圧によって成立した李承晩政権の腐敗した独裁政治、朴正煕の鉄拳統治、さらにそれ以後の軍事政権・光州事件など、内なる弾圧の歴史も「恨」となっている。それで今日得られなかった勝利の代替物として、あるいは抵抗精神の表れとして、例えばスポーツなどにおける日韓戦に必要以上に熱狂したり、与野党の争いや労働組合の労使紛争において憤りの余り過激な行動をとったりするのである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%81%A8
 「韓国では、恩を受けると、自分が道徳的下位になるので、恩に着るということはありません。むしろ、自分が下位に置かれたことで、恨(ハン)になります。それを解く(ハンプリ)ために、恩をくれた相手に復讐するのです・・・但馬オサム」
http://news.livedoor.com/article/detail/15571661/
(11月9日アクセス)

 恨の文化は、仁政概念の欠如、すなわち苛斂誅求政治が生み出したもの、と言ってよさそうですね。
 
4 終わりに代えて–朝鮮民族の超優秀性?

 IQ自体の問題点や、国別平均IQ算出や比較の問題点はさておき、概ね、いかなる資料源によっても、平均IQにおいて、韓国人が世界第一位で日本人が世界第二位という結果になるようです。(例えば、下掲。)
https://list25.com/25-countries-with-the-highest-average-iq/5/
 (北朝鮮についても、計測さえできれば、同様の結果が出ると思われます。)

 そんな韓国・・北朝鮮については別途論じたい・・が、李氏朝鮮時代、江戸時代をとっても、日本に比べて、遥かに「後進国」であって(注19)、未だに、経済、政治、学術、文化等全般にわたって、日本に比して「後進国」であり続けている、ということは、いかに、日本文明から支那文明への乗り換え、から始まったところの、朝鮮の選良達による国のかじ取りが拙劣であったかということであり、深刻なのは、歴史の進行とともにその拙劣度が高まり、低いガバナンスからガバナンスの喪失と重篤化して現在に至っていることです。

 (注19)但し、それは同時代の日本に比しての話であって、同時代の欧米に比すれば、それほど遜色のない分野、しかも、重要な分野、もあった。
 例えば、李朝時代の識字率、20%は、同時代の欧米並みだった。
https://books.google.co.jp/books?id=gWhz-bCUNdsC&pg=RA1-PA13&lpg=RA1-PA13&dq=%E6%9C%9D%E9%AE%AE%EF%BC%9B%E8%AD%98%E5%AD%97%E7%8E%87&source=bl&ots=QMkPPn6fxD&sig=Vfh01icOisWv52qMGfYnkwMblAY&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwiz25mRzqbTAhVGbrwKHWhmBy84HhDoAQgvMAI#v=onepage&q=%E6%9C%9D%E9%AE%AE%EF%BC%9B%E8%AD%98%E5%AD%97%E7%8E%87&f=false

 換言すれば、いかに、平均的知力の高い国民を擁しようと、また、いかに超絶的な知力の持ち主を多数擁しようと、その国に、彼らを使いこなす体制、すなわちガバナンス、が極めて不十分ないし失われておれば、いかんともしがたい、ということが、ここから分かるのです。
 米国の属国であり続けることを自ら選択した戦後の日本は、まさに、この朝鮮の轍を踏みつつある、と申し上げておきましょう。